中国の抗日プロパガンダ映画を観ていると一部を除いて殆どが失敗していると思う。
それは日本人の「敵」としての描き方。
日中の問題なら少し想像しにくい。
ドイツとアメリカで考えてみよう。
大量に作られた抗独プロパガンダ映画で考えてみればいいと思う。
僕たちは日本人だから特別にドイツ人に思い入れがある訳ではないから。冷静に見て取れる。
ドイツ人たちを極悪非道に描けば抵抗する側の陣営が正義であることは際立つ。
敵はあくまでも人間性の欠片さえない悪魔のように描けば観衆は主人公を正義だと認めるだろう。
インディージョーンズのシリーズではナチが二回敵として登場する。彼らはユダヤ人を根絶やしにする世界征服を狙う悪の集団。登場するリーダーは狡猾で野心家、血も涙もない。だからジョーンズがその部下を何人殺そうが観客はなんとも思わない。
ブ ライアン・G・ハットン監督の『荒鷲の要塞』でも血も涙もないドイツ人リーダーの下、ドイツ兵はイーストウッドによって西部劇のインディアンの様に虐殺さ れる。でも、同監督の『戦略大作戦』ではイーストウッドが金塊を膨大に隠した銀行を守備するナチ親衛隊の戦車部隊長と闇取引で銀行の金塊を山分けにすると いうオチで終わる。上記の二つの作品は娯楽作品であって純正なプロパガンダ映画ではない。
しかしながら、観る者から言えば後者の作品の方に好感を覚えるだろう。ドイツ人も金に目がくらむ人間だということに。
正邪の極端な二分化は結局、人の心にそれほど強烈な印象は与えないのではないだろうか?
一時的なインパクトや憎悪を呼び醒ませても観る者に深いものを与えることはできない。
すぐに軍刀で人を殺し、熱狂的に中国人を殺しまくる。
司令官はこれみよがしの悪人だ。
しかし、そういう映画で名作は殆ど存在しない。
ナチの宣伝相、ゲッベルスはそれを最も理解していた一人。
現 在もドイツでは絶対に視聴してはいけないと法的に指定された十数本の作品はゲッベルスのお墨付きの作品が多い。ゲッベルスはゲットーで撮影されたヒップ ラー監督のドキュメンタリー『永遠なるユダヤ人』を非常に嫌っていた。ユダヤ人を汚らわしい怪物と描いたことに不満だったのだ。
劇映画『ユ ダヤ人ジュース』で監督のファイト・ハーランと主演のフェルディナンド・マリアンが演技でもめたことがあった。マリオンは演劇人で人間の心理描写にこだ わったので、アーリア人からユダヤ人だと差別を受けるシーンに憂いの表情を見せた。ファーランはそこでジュースが狡猾に対応する表情がなければ反ユダヤ主 義宣伝に効果がないとぶつかったのだ。ゲッベルスはマリオンの演技を支持した。「ユダヤ人は人間で怪物ではない」。ファーランには渋々それを受けたのだ が、これは重要なポイントであると思う。有り得ない人物表彰に騙されるほど観客は馬鹿ではない。ジュースのユダヤ人として蔑まれる人間の苦しみがやがて彼 の悪行を際立たせる。人々にユダヤ人は同じ人間だ、しかし悪い奴らだという印象を与える。人はクリプトン星から来たスーパーマンを信じない。
ゲッベルスは映画作家ではないけど映画の意味を最もよく理解した心眼を持っていた。
チープな正邪対立のプロパガンダ映画はすぐに飽きられる。
実際、中国人だって「また鬼子」かという反応しかない。
本当に深い憎悪を植え付けるなら、敵側に同じ人間としての公平さをまず与えて徐々に差異を広げてゆくのがより効果的である。
2012 年公開の中国抗日映画『1984甲午大海戦』は日清戦争における明治天皇を理想的な強いリーダーとして、その部下である日本人を人格者として描いた。それ は清朝の西太后と官僚の腐敗を対比させる手法なのだが、これで内なる敵を告発する事を認識させるには十分な効果があった。もしも、日本人たちを従来スク リーンに登場した獰猛で陳腐で典型的な小悪党としてこの映画が描いていたなら、この映画は意味のないものになっただろう。
優れたプロパガンダ映画は紋切り型の正邪分離を持っていない。
そもそも映画そのものがすべてプロパガンダなのだから。