1.陳腐な悪は陳腐な英雄を作るという映画的法則
ア リステア・マクリーン原作の映画『ナバロンの要塞』で主人公のマロリー大尉(グレゴリー・ペック)らコマンド部隊がドイツ軍に捕らえられるシーンがある。 取り調べを行うドイツ陸軍の将校(ヴァルター・ゴッテル)は彼らにナバロン島への潜入の目的など尋問に正直に答えるならば平服を装ったスパイではなく正規 軍人として取り扱うことを条件に譲歩しようとする。将校は彼らの身柄をSS親衛隊が欲していることもマロリー達に告げる。その瞬間、尋問の部屋に現れるの がSS親衛隊のゼスラー大尉である。ゼスラーは残虐そのものの金髪碧眼のステレオタイプの親衛隊員で、コマンド部隊が白状しない限り足に重症を追っている コマンド部隊の隊長(アンソニー・クェール)の傷口を拳銃で強く殴打するという拷問と脅迫を行なうとする。ドイツ陸軍将校は抗議するがSSには立場では歯 が立たないらしい。このゼスラーSS大尉の登場によって『ナバロンの要塞』におけるこのシーンは見事にリアリティの色を褪せさせる。同じアリステア・マク リーン原作の映画化作品『荒鷲の要塞』における黒ずくめの一般親衛隊の制服に身を包んだ金髪碧眼のゲシュタポ、フォン・ハッペン少佐の存在も同様である。
実 際の戦時下にこういうエキセントリックで非人道的な人間の心の一片も持ち合わせないような軍人は存在したことは否定できない。そういう話は日中戦争でも太 平洋戦争でも実話として書物に記録され、証言として耳にしたことが誰でもあるだろう。ところが最初から創作物として造られた映画の場合はこうした人物は逆 に「違和感」を感じさせることの方が多い。私が今までの観続けて来た戦争映画で良質な作品にはこうした陳腐な残虐性や非人道性のみを有する人物は存在しな いものが多い。
戦争という究極の巨大な暴力が悪である以上、戦争映画はどう足掻こうが全ては平和への希求が主題と成らざる を得ない宿命を帯びている。戦意高揚の国策映画であっても、戦争を描けば必ず「反戦」とならざるを得ない。だから、ことさら悪人らしい悪人はここでは必要 とされず、それは主人公たち英雄の非道な行為(敵兵を殺す)といった行為を正当化させる道具でしか機能しない。
2・映画『南京!南京!』の外れた狙い
2009 年に公開された陸川監督の中国映画『南京!南京!』はそうした過去の戦争映画の手法を逆手に取ったものだった。意地悪くいえば実に巧妙に仕掛けられた抗日 映画だった。この映画はそれまでの中国における抗日映画と違い、日本軍側の軍人をかなり人間味溢れる人物像として配置した。特に南京事件の一部始終を目撃 する角川軍曹はキリスト教徒で稚拙な片言の英語が話せる普通の市民から徴兵された軍人である。彼は陸川監督の目となって、驚きを持って南京大虐殺を目撃す る狂言回し的な役割なのだが、その直属上官の伊田中尉は狡猾で自信家、捉えた捕虜を不法虐殺する指揮を取ったり、軍事的圧力で南京国際安全区から慰安婦を 供出させたり、自分が抱いた中国人慰安婦が発狂したために拳銃で頭を撃ち抜いて殺害したりと、日常では考えられない様な行為を行うが、必ずそうした行為の 一つ一つの後に憂いの片鱗を見せるのである。そこには過去の中国抗日映画の極悪非道の鬼畜のような悪役然とした姿はない。
従 来の抗日映画で繰り返して描かれてきた残虐非道で野獣の様な「日本鬼子」たちを銀幕で散々目にして来た中国の観客からはこうした人間的感情を持った日本軍 兵士の表現に対して憤激させ、たいへん不評だった。一時期は監督に批判だけでなく脅迫状が送付したり、殺人予告まであったという。この混乱の中で、中国政 府はこの映画の上映を一時、沈静化するまで中断させるという一幕もあった。 完成試写での舞台挨拶では観客席から日本人俳優への罵倒もあった。 そんな影 響もあって、この映画は中国映画としては興行成績の記録を書き換えた力作であったにも関わらず映画賞では無冠に終わった。恐らく中国人民の反日感情を考慮 してのものだろう。陸川監督は親日的(あるいは中立的)な描き方で南京大虐殺の映画を造った映画監督となった。人民からは「叛徒」扱いである部分は確かに あった。しかし、陸川監督は決して親日的あるいは中立公正な立場として南京事件を捉えた映画として『南京!南京!』を造った訳ではない。
陸 川監督の狙いはあくまでも「南京事件」における「中国人民」の勝利を描くことであったのだ。陳腐な悪人に勝利する正義はやはり崇高には見えないものだ。強 大な暴力を持って襲いかかってくる「野蛮人」を相手に「理性」で戦って勝利しても、それは強い勝利ではない。相手が同等の「理性」を持ちながらも「野蛮」 な行為を仕掛けてくる。それに対して勝利することの方がより英雄的で崇高な勝利である。しかし、監督のその狙いは中国国内では見事に外れてしまった感が強 い。
3.日本での反応
日本公開にはサトウ・ハチロー作 詞の『二人は若い』が挿入歌として使われていたことに関する著作権問題を使った「小技」など、あらゆる妨害が入り、この映画の日本上映は不可能かと思われ た。全国公開や単館上映という形での公開は実現しなかったものの、市民団体である「南京史実を守る会」主催で2012年8月に、東京は中野で、たった一日 で二回だけ上映が行われた。当日は筆者も会場整理などボランティア・スタッフとして参加したが、上映会場の周辺は警官や機動隊によってガッチリと警備され た物々しい中での上映会であった。陸川監督がゲストとして招かれ、舞台上でのインタビューや観客の質疑応答も行われた。
私 が見たところ、観客は純然たる映画ファンよりも社会運動系の人々が遥かに多かった。監督は舞台上で南京事件に関するあらゆる資料、例えば皇軍兵士の日記や 証言なども検証して南京の真実を明らかにするのに努めたと語った。それは事実であったろう。日本人を「鬼畜」として描かず理性も持ち合わせた「人間」とし て描いた点や日本人俳優を起用した点などで日本人からの反応もそう悪いものではなかった。被害者が30万人という中国側の絶対主張以外では保守派の中から も公正に描かれている映画だと思われた。 しかし、『南京!南京!』はあらゆる点で「南京大虐殺事件」の真実を全て語ったとは言い難い。1937年12 月、日本軍の南京入城から起こった大量の戦時捕虜の不法な処刑、南京国際安全区への不法な乱入や暴行、強姦、それに対する慰安所の設置などは史実通りであ る。しかし、監督はここで二つの手法で実は中国人民の勝利を謳おうと試みたのである。日本軍兵士の中に理性を持ち込むことは、実のところ。親日でも公正に 描く狙いでもなく中国人民の崇高な勝利を導き出す一つの手法であったのだ。
4.南京国際安全区の無力化
と ころが、陸川監督は人物の史実をかなり書き換えた。この映画に登場する人物は南京国際安全区委員長だったドイツ人ジョン・ラーベ唯ひとりが実名で登場する 歴史上の実在人物だ。同じ安全区のスタッフだった金凌女子大学の宣教師ミニー・ヴォートリンや金凌大学病院の外科医だったロバート・ウィルソン医師らしき 人物が登場するが名前は語られない。南京国際安全区のメンバーはドイツ、アメリカ、イギリスなど人道的な見地から危険な南京にとどまった20余名の欧米人 によって組織された。彼らは絶えず安全区の中国人市民を護り、日本大使館や軍を相手に交渉し、食料を供給し、区内をパトロールしては区内での日本軍兵士の 暴行などを書面にして日本政府機関に対し講義室続けた。日本軍による軍政が敷かれ治安が正常化するまであらゆる努力をした人々である。最も活躍したのはナ チス党員であったジーメンス南京支社の責任者だったジョン・ラーベであり、彼の紳士的でありながらもエキセントリックな行動力によって25万人の無辜の中 国市民を守った無名の英雄である。ラ
ラーベだけでなく、日中間で中立の立場にあったこれら欧米人の活躍と南京国際安全区が なかったら、恐らく日本軍による略奪暴行は更に大規模なものとなっていた事は明らかである。ところが、陸川監督はジョン・ラーベでさえ全く無力な老人とし て描き、ヒトラー総統の命令によりドイツへ帰国しなければならないため安全区を置き去りにして去るという物語に作りかえてしまったのだ。実際のラーベは南 京国際安全区がラーベの手から軍政と自治員会の手に渡るまで退かなかった。ラーベに限らず映画『南京!南京!』に登場する国際安全区の他の欧米人メンバー は絶えず無力である。代わって南京国際安全区のスタッフの一人という架空の中国人女性、姜淑雲という人物にその英雄的行動を担わせた。
こ の映画のハイライトの一つとして、日本軍が慰安所を作るために国際安全区から女性を供出せよとラーベが恐喝され、涙ながらに協会に集まった女性たちに 100人、慰安婦として日本軍の慰安所へ行って欲しいと訴えるシーンがある。中国人女性の中から安全区を守るため、慰安婦として志願する手が決然と上が る。中国の観客たちがが最も涙した崇高なシーンである。しかし、ラーベやヴォートリンが残した日記の記載では全く逆で欧米人たちは慰安所造りというとんで もない日本軍の実行と女性の供出の圧力に身を挺して対抗した事が記されているのである。恐らく陸川監督はエドガー・スノーが1941年に記した『アジアの 戦争』の中に数行書かれたカトリック教徒の女性たち数名が一般女性を守るため慰安婦として志願したという記述に着目したか、あるいは後にチャン・イーモウ 監督によって、映画化もされた中編小説『金陵十三钗』(厳歌苓著)からこのシーンを想起したのではないだろうか。
志願した女性たちは性奴隷として慰安所で酷使され死体となって全裸で荷車に積まれて、『二人は若い』をオルガン伴奏に合わせて合唱して興じる日本兵たちの横を通り過ぎて行く。角川軍曹はその光景を驚愕の眼差しで見送るのだ。
ラー ベが去ったあと、南京国際安全区の中国人スタッフ、姜淑雲は連行されようとする元中国軍兵士を救おうとして逮捕され、自ら角川軍曹に「撃ち殺してくれ」と 頼み命を落とす。 初めて愛した女性、日本人慰安婦の百合子の病死を知った角川軍曹は絶望と南京の地獄に耐え切れず、元中国軍兵士と子供を刑場に護送する 際に彼らを解放し、部下の一兵卒に「生きることは死ぬことよりも難しいことだな。」と言い残し、野辺で落涙しながら拳銃で自殺する。ここで日本人の暴力を 背後に背負った理性は敗北するのだ。
5.被侵略国の歴史修正とその神話創造
こ の映画に勝利者はいないかのように見える。いや勝利者は映画でははっきりしている。 単純に考えれば日本軍が南京を制圧し、それに抵抗したものは全てが死 をもって敗北する。しかし、陸川監督は中国人の自立性と抵抗が南京で精神的に勝利したと訴えたのだ。 角川軍曹の拳銃自殺は日本軍の敗北であり、ラーベの ヒトラーの圧力に屈して安全区を去ったのは欧米人の敗北である。 勝者は最後に解放された子供。小豆(彼は最後のクレジットで現在も存命とされる)であ る。欧米人の無力化と日本軍人への理性の付加という二つの手法で陸川監督は勝者が中国人であると謳うために歴史を修正することで一つの神話を創造してし まったのだ。
少数の映画評論家やカルチャラル・スタディーズの研究者、映画ファンたちがこの映画の評論や分析を行って高い 評価を与えているが、私にはどうもスッキリしない。小手先のテクニックで表層を舐めたに過ぎないように思えてならない。私が見た限りでは陸川監督が仕掛け た神話創造の仕組みを完全には見抜いてはいないように思えてならない。
『南京!南京!』は日中双方から正当な真意を読み取られないまま終わった、それまでの常套な抗日映画をより先鋭化した純然たる国粋主義的作品である。その点では不遇であり、歴史的事実から見れば同じ年、2009年に製作されたドイツ・中国・フランス合作の"JOHN RABE"のハリウッド式の正邪対決の方が余程、南京の真実を語っている。
『南京!南京!』は良くできた優れた抗日映画だと私は思う。私が愛する抗日映画の一つでもある。しかし、侵略者、被侵略者の立場は違えど私は『南京!南京!』に日本の保守による歴史修正派の映画作品と同じ闇を感じてならない。
しかしながら、残念だが、私には他者によるどのような優れた詳細な分析を見せられたところでこの映画には感情移入は出来ても、心から拍手を贈ることはどうしてもできないのだ。
付記:これは一つの映画に関する私の雑感である。よって念のため、私自身が暴力による中国への侵略行為を是とする意図はさらさらないことを付け加えてておきたい。