ヨハン・ゴットフリート・フィヒテの言葉、
「汝は、汝と汝の行いのみドイツの運命がかかっているが如く、その様に振る舞うべし、そしてその責任は汝にあり」
僕たちはこの言葉を重く受け止めなければならない。


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【戦争は起こらないと誰もが思っていた】
どこの国でも、どの時代でも、みんなそう思ってた。しかし、戦争は起こった。
そして、沢山の人が死んだ。
今が良ければいいとみんなが思っていた。
先のことを考えても仕方ない。
でも、起こってしまえば誰かが死ぬ。
それは自分の恋人かもしれないし、子供かもしれない。戦争は恐ろしく酷い理不尽な死の連続帯。毎日、戦争と向き合ってるからよく分かるんだ。戦争はね、立場の弱い人から犠牲になって行く。格好良くも勇ましくもない。レマルクも『西部戦線異状なし』で書いてるじゃないか。恐れていた戦争が将来、現実に起こるかもしれない。たった一日で僕らは大きく戦争へ踏み出したのさ。


 

ジャケットには「エドガー賞受賞」って書いてあるが、たぶん間違いだと思う。

この作品は日本でもNHKの海外テレビドラマシリーズで日本語吹き替えで放映されたことがある。ウォルター・マッソー主演の単発のテレビドラマ。推理もの、ミステリーだけど実際はもっと深い内容をはらんでいる。

 

ウォ ルター・マッソーは大好きな俳優の一人。アクが強い個性派俳優なのに、とにかくどんな役でもこなす人。コメディ、シリアス、ハードボイルド・・・ウォル ター・マッソーはあの個性のまま、何だってやってしまう。ジャック・レモンと共演したニール・サイモン原作、ヴィリー・ワイルダー監督の『おかしな二人』 もレモンのキャラクターとのコントラストが実に良かった。『アパートの鍵貸します』とか『あなただけ今晩は』『酒とバラの日々』といった代表作を持ったレ モンに対してマッソーには決定的な代表作が思い浮かばない。その辺がこの方、少々損をしている。

スウェーデンの推理小説シリーズ『刑事マルティン・ベック』をアメリカのサン・フランシスコに舞台を移して翻案された『マシンガンパニック・笑う警官』なんかは僕の中ではマッソーの演技力や個性が十全に発揮された傑作の一つだと思うのだが。

『インシデント・ブレーメンの出来事』はそんな傑作の一つに挙げられる、しかし忘れられがちな作品だと思う。

物 語は第二次世界大戦末期のアメリカの片田舎、「ブレーメン」というドイツの都市と同じ名を持つ小さな町。マッソーはそこで法律事務所を開いているうだつの 上がらない弁護士だ。この街には欧州戦線で捕えられたドイツ軍兵士の捕虜収容所がある。ある日、収容所内で町のアメリカ人医師が殺害される事件が起こる。 犯人として最も反抗的だったドイツ人捕虜の一人が逮捕され、裁判にかけられることになる。マッソーは選定弁護人に選ばれるが乗り気ではない。敵国のドイツ 人の弁護をすると知った周囲からの眼も冷たい。マッソー自身も息子が欧州戦線に駆り出されているので複雑な心境だ。渋々、仕事を始めたマッソーは裁判所か ら「何もしなくていい」と言われる。実は被告のドイツ人は裏で既に有罪が確定いてるのだと彼は知る。第一回目の公判でもマッソーは何もできない。しかし、 被告は無実を叫ぶ。状況証拠も証言も全て揃っているので覆すことも難しい。マッソーは被告に接見するうちに謎がある事に気が付く。そして、このうだつの上 がらない弁護士は本気で事件の真相を暴こうと立ち上がる。もちろん、圧力がかかるが屈さない。そんなマッソーのもとに電報が届く。息子の戦死通告だ。悲し みの中でマッソーはドイツ兵の冤罪を晴らすために闘うのだ。いつしか弁護士と被告人の間に親愛の情が通う様になる。

 

まだ観ていない方のために結末は書かないが、この映画はアメリカの偽善とその恥部を晒すことで、敵とは何か?という主題に向かっている。敵は内に潜んでいるのかもしれない。

マッソーの弁護士が無能だ決めつけて選定される事が、逆に米軍にとって仇となる辺りのアイロニーがいい。このDVDは何と500円で売られている。機会があればぜひご覧いただきたい。500円以上の価値は十分にある90分間だ。

 

ともあれ、

アメリカとは不思議な国だ。愛国心を煽る作品や自国の侵略的行為を是認する映画を造る一方で必ず、それに相反する娯楽映画が造られる。

 

この辺りは日本は全くダメとしか言いようがない。

 

アメリカ映画を含む文化の政治とのバランスの取り方は、裏があったとしても表面上はある意味での民主主義的現象なのだ。

日本映画にこの様な内なる敵を告発する作品はすでに1980年以降は稀になった。その点では日本映画はTVも含めて進歩どころか退化の一途を辿っているとしか思えない。




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【幻の映画『ヴァンゼー会議』】
1942年ナチスは欧州のユダヤ人問題の最終解決を起案し、ベルリン郊外のヴァンゼーで秘密会議を行いました。非公式に行っていたユダヤ人の虐殺をこの会議で公式な政策として決定するためです。会議後、アウシュヴィッツが現実のものとなりました。この会議の議事録は抹消されて一部しか残っていません。それを頼りに映像化されたのがこのドイツ映画『ヴァンゼー会議』です。全編、親衛隊と政府高官の会議だけという不思議な映画です。しかし、恐ろしい作品です。空疎なたった数時間の議論でユダヤ人数百万人の命が奪われることへ繋がる。この映画を元にアメリカ映画『謀議』が制作されました。


●なぜ『青い山脈』なのか

 

先日、軽く今井正監督の映画『青い山脈』を民衆蜂起の 映画として捉えた小文を書こうと思った。そのために原作である石坂洋次郎の小説『青い山脈』を確認したい部分が出てきたため、持っていた文庫を探そうと考 えた。膨大な蔵書の中から探し出す労苦を惜しんで総合書店へ買いに行ったが、文庫どころか全集の単行本もない。調べると版元の新潮社では石坂洋次郎の文庫 は全て廃刊になっている。

30年前なら石坂洋次郎の代表作はどんな小さな書店にでも置いていたものだ。

戦後民主主義の歴史に おいて民主主義大衆文学として金字塔であった『青い山脈』が廃刊になっているという事実は筆者にとって大きな驚きであった。『青い山脈』は原節子と吉永小 百合という戦前戦後の永遠の美貌と輝きを持った女優の人気にのみ後押しされて、DVDで初作の東宝版と日活版が映画が視聴できるのみ。主題歌『青い山脈』 は藤山一郎のCDアルバムや日本コロムビアの日本映画主題歌集などで聴けるのみである。(廃盤になってないものでは東宝の1979年のリメイク版主題歌 だった、石川さゆりと潮哲也歌唱のものが『石川さゆり・アーリーアルバム』で聴くことができる)

肝心の原作である石坂洋次郎の『青い山脈』はあれ程までに多くの人に読まれたのにも関わらず、現状では廃刊、古書で探してもなかなか入手が難しいのだ。この事には筆者にとって大きなショックだった。

 

戦後民主主義と大衆文化を見直すためにも『青い山脈』については、原作、映画、音楽と三つの角度から筆者が知る限りの事を何か書き残して置くべきではないかと思い立ったのでノートしておこうと思う。

 

第1回『西條八十と懺悔としての『青い山脈』其の1』

 

1.西條八十、最後の戦時歌謡『比島決戦の歌』

 

戦 時下で多くの職業詩人が戦時歌謡を作詞したという影を負っている。サトウハチロー、北原白秋、高村光太郎、など歌謡曲専門の作詞家ではない詩人たちが国策 にも深く関与していたことは否めない事実である。戦後、特に現在、それに対して厳しく指摘されることは殆どないと言ってもいい。西條八十もその一人で、彼 も相当数の戦時歌謡を書いている。有名なところでは「七つボタンの予科練の」で思い出される『若鷲の歌』、内地も前線と同じ戦場であるという意識を喧伝し た『そうだ、その意気』などは西条にとっては負の遺産であるかもしれない。

もちろん、西條八十が好き好んで率先して書いたわけではないだろ う。軍や情報局の委嘱(これは半ば命令であったのだろうが)によって書いていたのだと推測できる。筆者は大正デモクラシーの大衆文化を支えた一人の文学者 である西條八十が国粋主義者やファシストであったとは思えない。しかし、帝国主義的侵略や統制に文化という面から、協力した事(せざるを得なかった)はや はり動かせない事実なのだ。

 

すでに、国内は空襲を受け、各都市が灰燼に帰していた1945年には戦時歌謡による戦意高揚と いう国策は機能しなくなってきていた。マリアナを失い、硫黄島を失い、沖縄や台湾へ矛先が向いていたこの時期に新しい戦時国民歌謡曲を作る余裕など無かっ た。それまで大量に作られた曲が繰り返し流用されていた。

戦時歌謡に熱心に取り組んでいた大手レコード会社は日本コロムビア、日本ビクター などでテイチク(日本帝国蓄音機)などは殆ど音源が現存していない。特にコロムビアの音源の現存率はレコードの発行枚数も多かったせいか他社と比べれば比 較にならないほど大量に残されている。マスターの音源が発見されない場合も研究家たちの努力によって現存しているSPレコードからマスタリングしる作業が 1970年代くらいから行われ、現在ではほぼ、当時リリースされた軍国歌謡はCDなどで聴くことが可能になっている。

 

とこ ろが、絶対に出てこない曲がある。1944年に作詞作曲され吹き込みまで終わっていた戦時国民歌謡『比島決戦の歌』である。1944年10月の米軍による フィリッピン、レイテ上陸から始まった反攻に抗する日本人の戦意高揚のためのものだった。作詞は西条八十、作曲は古関裕而である。日本コロムビアにとって この曲が最後の戦時国民歌謡である。

 

その歌詞の内容は大東亜戦争の断末魔の叫びである。

作詞にあたっては必ず敵将の個人名を連呼することが条件として課せられていたと言われている。

西條八十はそれに抗して書かなかったが、軍が怒って書き加えてという説もあれば、西条を知る者の証言では「もうどうでもいい」とヤケになって書いたという説もある。

真 偽はともかくとして、西条八十作詞の『比島決戦の歌』は音源として吹き込まれ、繁盛にラジオで流されていた。レコードはプレスされて一般に販売されたのか は定かではない。ただ現在まで、ただの一枚もレコードは発見されいないのだ。NHK放送局も、日本コロムビアも終戦時にこの曲が戦犯追求対象になる事を恐 れて、全ての音源や音盤を廃棄処分にした。

 

作曲者の古関裕而も存命中、この曲の再演奏を絶対に許可しなかったという。

皆が恐れたのは、歌詞の中の憎悪の対象とされた敵将が日本占領軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥だったからである。当然、GHQからの報復や追求があると考えたのだろう。

 

『比島決戦の歌』 西条八十作詞 古関裕而作曲

 

1.

決戦かがやく アジアの曙

 

生命惜しまぬ若櫻

 

いま咲き競う フイリッピン

 

いざ来いニミッツ、マッカーサー

 

出てくりや地獄へさか落とし

 

2.

陸には猛虎の 山下将軍海に鉄血 大河内

 

見よ頼もしの 必殺陣

 

いざ来いニミッツ、マッカーサー

 

出てくりや地獄へさか落とし

 

3.

正義の雷 世界を震はせ

 

特攻隊の 行くところ

 

われら一億 ともに行く

 

いざ来いニミッツ、マッカーサー

 

出てくりや地獄へさか落とし

 

4.

御稜威に栄ゆる 同胞十億

 

興亡分かつ この一戦

 

あ〃血煙の フイリッピン

 

いざ来いニミッツ、マッカーサー

 

出てくりや地獄へさか落とし

 

 

古 関裕而の没後、1995年、この曲は終戦60周年の軍歌・戦時歌謡のCD発売企画の一環として、再編曲されコロムビア合唱団の歌唱、コロムビア吹奏楽団の 伴奏で再録音されCDに収録された。現在では古関裕而の歌曲を追い続けているソプラノ歌手、藍川由美の歌唱でも聴くことができる。もはや幻の戦時歌謡では なくなったのである。

 

次いでながら、付記すれば西條八十の研究家たちは八十が軍歌を書いた事を問題としている。そういう記述が随所に見られるが、筆者の認識では西条八十が作詞したのは「戦時歌謡」であって「軍歌」ではない。

「軍 歌」は軍が制定した歌なのであって「戦時歌謡」は国粋主義的な傾向があって戦意高揚を目的としたものであっても、例え軍から委嘱されたものであっても決し て「軍歌」ではない。この辺の混同は留意すべき点である。軍歌は軍隊という組織の中で囲い込まれて漏れ聞こえてくる音楽だ。しかし、「戦時歌謡」は最初か ら大衆に向けて放たれたものであり、「軍歌」よりも戦争を扇動した更に罪は深いと考えるべきである。

 

歌詞を見ればすでに米英軍が本土にヘ迫りつつあったこの時期に「大東亜共栄圏」の夢をあくまでも捨てず、そればかりか幻想の同胞十億と共に米軍に対抗しようと訴えるこの歌詞の不気味さには背筋が寒くなる。

これは現状や時局を全く無視した完全なフィクションであり夢想である。

 

ともあれ、西條八十が最後に戦時下で残した歌謡曲の歌詞はこの『比島決戦の歌』であったのである。

 

この曲、一曲で西條八十は戦後、戦犯追求の中で戦犯指名されるのではないかという危惧があった。

問 題とされているのは「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりや地獄へさか落とし」のフレーズ部分なのだが、西条八十の研究家である筒井清忠や吉川潮は インタビューや証言からこのフレーズが西條八十が書いたものではなく、軍が書き換えたものだと主張している。また軍歌評論家の第一人者であった八巻明彦も 1995年に再演奏収録版が収録されたCD『軍歌戦時歌謡大全集(六)戦時歌謡(四)』のブックレットでの解説で次のように書いている。

 

西條八十の詩に、大本営報道部の大佐が" いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりや地獄へさか落とし"と加筆した、とも伝えられる幻の曲でもありました。

 

また、吉川潮は『流行歌 西條八十物語』で八十が弟子たちに問題のフレーズ部分は「レイテは地獄の三丁目、出てくりゃ地獄へ逆落とし」と書いたが軍の将校たちが文句つけたので自由に書き直してくださいと任せて録音にも立ち会わなかったと語ったと記している。

『比島決戦の歌』の作詞者として西條八十が戦犯指名される可能性があると新聞報道もあり、八十自身もそれを覚悟して戦犯として逮捕されるまでに身辺の整理をしていたという。

 

筆 者は西條八十の『比島決戦の歌』でどうして「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりや地獄へさか落とし」の部分だけがそれ程大きな問題になるのか理解 できない。英米の対独プロパガンダではヒトラーや敵将を揶揄する歌は数多く作られて歌われもした。仮に大本営の海軍大佐が「いざ来いニミッツ、マッカー サー、出てくりや地獄へさか落とし」を付け加えたとしても、西條八十に戦意高揚のための国策へ協力した事は何も変わらない。むしろ西條八十が書き下ろした 部分、

 

「決戦かがやくアジアの曙、生命惜しまぬ若櫻、いま咲き競うフイリッピン」

「正義の雷 世界を震はせ、特攻隊の行くところ、われら一億ともに行く」

「御稜威に栄ゆる同胞十億、興亡分かつ この一戦、あ〃血煙の フイリッピン」

 

こうした表現の方が、むしろ問題視すべきではないかと思うのは著者だけではないだろう。

西 條八十を自由主義者、軍部にある程度抵抗した人と捉えたい、彼を愛する西條八十シンパ達はこぞって、「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりや地獄へ さか落とし」は西條の創作ではないと主張するのだがこれは何の免罪符にもならない「目くらまし」以外の何ものでもないと著者は感じる。

 

ド イツほどに日本では連合国側から文化面での戦犯追求は行われなかった。実際に西條八十は戦犯リストにその名が上がり、GHQから全ての作品と著作の提出を 命じられた。このあたりは東京裁判で裁かれた大川周明と同じ道程である。しかし、果たして西條八十は逮捕も尋問も受けることはなかった。GHQ側の日本人 が彼を自由主義者であると弁護したという説や高齢であったたため保留になったという諸説があるがこれもはっきりとはしていない。ただ、映画界における山本 嘉次郎の様なあからさまな戦意高揚映画を撮り続けていたその時代を代表する映画監督も逮捕も起訴もされていないので文化面での戦犯追求にGHQはそれ程、 乗り気ではなかったのかもしれない。

 

さて、長々と『比島決戦の歌』について書いてきたのだが、『青い山脈』と関係ないじゃないかと思われる向きもあるだろう。しかし、西條八十の最後の「戦時歌謡」は『青い山脈』の歌詞に微妙に影響を与えていると筆者は見えるのである。

 

2.永遠の青春歌謡としての『青い山脈』

 

い つだったか、NHKが歌謡オールタイムベストテンを募集したところ、『青い山脈』がベストワンであったという調査結果が出たという事を聞いたことがある。 残念ながらその際、記録しておかなかったので、いつの調査でどんな番組だったかは筆者は記憶していない。今世紀に入ってからだと思う。いずれにしても西條 八十作詞、服部良一作曲のこの映画主題歌は1949年に国内で大ヒットしてからというもの日本人の心の中に刻み込まれている名曲であることは確かだ。毎年 の夏に放映されているNHKの『思い出のメロディー』でも、1970年代後半頃、最後の取りは藤山一郎を中心に参加歌手全員が歌う『青い山脈』や『丘は花 ざかり』だった。最初にレコードが発売されたのは1949年。東宝が石坂洋次郎の新聞連載小説『青い山脈』を映画化した折、その主題歌として作られたもの で、映画では合唱のみだがレコードでは藤山一郎と奈良光枝のデュエット形式。映画は都合1988年まで初作も含めて5作品作られたが、全ての作品の主題歌 がこの服部良一作曲、西條八十作詞による『青い山脈』が使用された。現在では原作小説や映画がほとんど影を潜めてしまったのに対して、この歌は今も日本人 の心の中に青春歌謡の代表作として生き続けている。

 

歌詞の内容は映画の内容とは何ら関係していない。映画のドラマや主人公の名前も出てくるわけでもない。出てくるのは「青い山脈」という言葉だけである。

レ コードは映画封切りよりも3ヶ月前に先行発売されており、映画よりも早く全国でヒットしていた。この曲は服部良一お得意のジャズ調ブギウギものとは違い、 戦前から戦時下に流行した映画主題歌同様のマイナー音階で、例えば『愛染かつら』や『純情二重奏』などに近い、日本人にとって馴染みやすくヒットし易い要 素を持ったものだった。主題歌を先行発売して映画を盛り上げようと考えたのは東宝の名プロデューサー藤本澄一の商戦法だった。予想通りのこの歌のヒットは 主題歌が映画宣伝とその観客動員への役割も果たしたのである。

明るい青春歌謡、戦後民主主義を代表する永遠の青春歌謡としての『青い山脈』。

 

ただ、一見明るい内容の歌の歌詞と今井正監督による映画化作品とは多少の不協和音が響てくる。

歌詞の内容をよく見てみると決して、映画ほどには革新的ではないのだ。

長 年、それが著者には大きな疑問の一つだった。映画の内容に対してどうして主題歌の歌詞がこの様に暗いイメージなのか?その違和感は何とも説明し難いもの だ。筆者自身は西條八十の『青い山脈』は新しく始まる戦後民主主義文化の始まりを封切るものではなく、過去との決別を意味しているのではないかと思えてな らないのだ。

 

『青い山脈』 西条八十作詞 服部良一作曲

 

1.

若く明るい 歌声に

 

雪崩は消える 花も咲く

 

青い山脈 雪割桜

 

空のはて

 

今日もわれらの 夢を呼ぶ

 

2.

古い上衣よ さようなら

 

さみしい夢よ さようなら

 

青い山脈 バラ色雲へ

 

あこがれの旅の乙女に 鳥も啼く

 

3.

雨にぬれてる 焼けあとの

 

名も無い花も ふり仰ぐ

 

青い山脈 かがやく嶺の

 

なつかしさ見れば涙が またにじむ

 

4.

父も夢見た 母も見た

 

旅路のはての そのはての

 

青い山脈 みどりの谷へ

 

旅をゆく若いわれらに 鐘が鳴る

 

吉川潮は『流行歌 西條八十物語』で西條八十が『青い山脈』の作詞を依頼された折、八十は石坂洋次郎の原作を読み、近くの女学校の登下校する学生たちを観察 し、家に帰って民主主義の主題に相応しい歌詞のを書き上げて作曲担当の服部良一に渡したと記している。これは事実だろう。しかし、西條八十が書いた『青い 山脈』は上記の歌詞のまま最初から服部良一に渡されたのではない。筆者は高校生だったころ、NHKラジオAM放送の『懐かしのメロディー』という日曜日の 夕方に放送されていた番組の熱心なリスナーだった。1970年代の後半だ。この番組には時折、ゲストが登場してアナウンサーとのトークがあるのだが、服部 良一がゲストだった時、『青い山脈』に触れ、西條八十は最初「鈴がなりますキャラバンの・・・」という様な異国情緒の歌詞を持ってきたので、これでは曲が 付けられないので書き直してもらったと語っていたのを著者は記憶している。これが本当なら、西條八十は決定版となった『青い山脈』の様なその時代の現状を 見据えた、あるいは原作小説のような新しい民主主義的雰囲気を謳歌した歌詞を最初は避けていたとも考えられるのではないだろうか。

ここには戦争、戦犯容疑に曝された西條八十の過去と現在の間に立った葛藤があったのかもしれない。

 

しかしながら、「鈴が鳴りますキャラバンの」は論外でも、決定版の歌詞ですら意味が不明な点が多い。

西條八十の研究者によってこの歌詞の意味の解読や解釈は既に試みられている。

しかし、筆者が見聞した中では、それらの解釈には何故か1番に登場する「雪割り桜」には触れられてはいない。筆者はこの聞きなれない「雪割り桜」にこそ西條八十の『青い山脈』に託した懺悔があるように思えてならないのだ。

 

(次回:西條八十と懺悔としての『青い山脈』其の2に続きます)


筆者:永田喜嗣



『青い山脈』の原作本と映画『青い山脈88』のシナリオが届いた。
『青い山脈88』は駄作として一刀両断されて来た映画。僕も公開当時「先生はセックスを したことがありますか?」というポスターのキャッチコピーに嫌気がさして見に行かなかった。
先週、ビデオで見たがこの作品を駄作と決め込んで捨ててしまう ことが是であるのか疑問を持った。
映画評論家も観客も違和感を感じただろう。しかし、原作→東宝映画→日活映画→88へと連環して観ればこの作品が問いか ける戦後民主主義の在り方が分かることに気が付いた。88から今井正の映画へ再び蜂起が促されるループを観るかのようだ。下らない映画を下らない映画とし て片づけるのは容易いがなぜ1988年に『青い山脈』なのかを考えると途端に何かが見え始めた。
『青い山脈88』は『青い山脈』である必要はなかったはず。
僕は青い山脈を抗日や蜂起の文化として範疇に入れて考えていたが、それは遠からず当たっている かもしれない。
抗日研究ではないが戦後民主主義の旗手だった『青い山脈』とその過去、88に至る道のり、そして戦後民主主義蜂起への回帰のループをちょっ と考えてみたくなった。


どうしたのか気付いたら、16時間眠り続けた。
頭は疲れてないが身体が付いて来ない。精神と肉体のギャップを感じる。
メフィストフェレスよ来たれ
。天才学者ファウストには途方も無く及びも付かないが、こんなにも小さな研究者としての僕には残された時間がない。せいぜい後、20年。長くて30年。運が良くて40年。
メフィストフェレスがいるなら魂を売ってでも若さと時間が欲しい。
とりあえず、このまま考え、何かを書こう。一生かけての研究。
次の世代へ何かを残す。
僕が生きていたという証。
がんばるぞ。

 

1.手塚治虫監修の漫画版『世界の歴史』

 

1989 年に出版された中央公論社の歴史漫画シリーズは何と手塚治虫監修だった。歴史漫画はだいたい政治史に則って色々な歴史上の人物が登場する構成になっている ものが多い。集英社版の『世界の歴史』シリーズの様に一部の様に架空の人物を登場させて狂言回しとして語らされる場合もあるが、どこの出版社もこの手法は 出来るだけ避けようとしている。歴史ととしての現実性が乏しくなるのと、ドラマによって主人公周辺の地域や時間に限定されてしまうからだ。

と ころが手塚治虫監修のこの『世界の歴史』(全15巻)は、狂言回しが単なる狂言回しではなく、完全に主要登場人物となってドラマが展開し、実在の人物の登 場の部分が殆ど現れない特異な構成になっている。如何にも漫画家手塚治虫らしい手法だ。歴史的な出来事の紹介は漫画の間に挟まれるトピックのページで解説 されている。異色なのは第15巻は「未来」とされていて、現在まで振り返った後、今から起こるべき未来の歴史を描いている。

 

手 塚治虫が直接書いているわけではなく、あくまでも監修なので構成や編集で「手塚治虫」の名はクレジットされているものの、ほとんどの巻の絵や漫画の構成は 手塚治虫のタッチは感じられない。その中でも第13巻の『第三帝国の興亡~ヒットラーと第二次世界大戦』は例外で手塚治虫のタッチやキャラクターがかなり 色濃く出ていた。作画は手塚プロダクションの堀内元という人物である。シノプスもこの人物が関わっている。しかし、私の眼から見る限りどうもこの巻は手塚 治虫の力がかなり加わっているように思えて仕方ない。この巻が出版された1984年は手塚治虫は丁度この時期にヒトラーと第三帝国を扱った長編漫画『アド ルフに告ぐ』を文芸春秋に連載中だった。

 

 

2.第13巻『第三帝国の興亡~ヒットラーと第二次世界大戦』

 

 

第 13巻『第三帝国の興亡~ヒットラーと第二次世界大戦』は二人の少年と少女の物語を基軸にしている。その一人、ペーター・シュタイナーはドイツ人で父は第 一次世界大戦以来の名空軍パイロットだったシュタイナー空軍将軍の息子である。もう一人の少年、ヤン・ロボツキはポーランド人でウィーンに音楽の修行に来 ている。少女はペーターの妹、マリー・シュタイナーだ。ペーターはピアノの名手で、ヤンはバイオリンの名手。二人はドイツ併合後のオーストリアの首都、 ウィーンで音楽に励んでいた親友同士だ。ペーターのピアノの腕前がヒトラーの目に留まり、総統専属ピアニスト兼、親衛隊員(SSではなくSD)に抜擢され る。そして、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる。ペーターはマリーの手引きでポーランド人の親友、ヤンをフランスへ脱出させようとす る。ドイツ軍はフランスへ侵攻、ヤンはダンケルクまでたどり着いくが、ヤンを慕うマリーは彼に付従い二人は行方不明となる。フランスに留まったヤンはドイ ツ軍から救ってくれたジャンヌ、とジャンという二人の兄弟と共にドイツ軍へのレジスタンス活動に参加する。(この、ジャンヌとジャンはこの歴史漫画シリー ズの案内人である宇宙人ウィープとトリープの化身である。)

ペーターは総統のピアニストとして音楽をベルリンで奏でていたが、やがて総統命令でポーランドへ慰問演奏へ行かされることとなる。ヤンの家族を探すペーター、そこで彼が見たものはアウシュヴィッツで大量の「非アーリア人」が収容され抹殺されている現実だった。

ジャ ンヌやジャンと戦っていたヤンとマリーはやがて、ゲシュタポに追い詰められ、ジャンヌはみんなを逃がすために一命を落とす。ヤンは単身ヒトラーを倒そう と、ドイツ陸軍憲兵の軍服とオートバイを奪いベルリンを目指す。ベルリンでヤンは正体を見破られベルリンのゲシュタポ本部で拷問を受け投獄される。死に瀕 しているヤンの最後にバイオリンが弾きたいという願いを死んだはずのジャンヌ(宇宙人トリープ)の超能力によって傷を癒されバイオリンを独房で奏でる。親 衛隊少佐であるペーターはその音色を耳にし、ヤンだと気付く。従兵のシュッツ軍曹と共にヤンをペーターはゲシュタポ本部から逃がすことに成功する。

や がて、ソ連軍に包囲されたベルリンの総統地下壕でヒトラーは自殺し、ペーターは地上へ出でて戦場と化したベルリンを彷徨う、シュッツ軍曹の制止も聞かず、 ウィーンへ戻りたいという幻惑に中で、もう少しというところで赤軍に殺害されそうになるが、人道派の赤軍将校ツベターエフ大尉に間一髪で救われる。※

廃墟となったベルリンで、ヤンとペーター、マリーが再会し、1939年以来6年の大戦争を隔てて二人はベートーベンの『春』を奏でるのだった。

 

※ツベターエフ大尉はこの漫画で唐突に何の説明もなく3コマ主演しているが、彼は実在した人物で、ファシストと勇猛に戦ったがあくまでも罪のないドイツ市民を戦火から守ったというソ連の伝説的英雄である。

 

以 上が、第13巻『第三帝国の興亡~ヒットラーと第二次世界大戦』の物語だ。お気づきだと思うが濃厚さは違っても手塚治虫の『アドルフに告ぐ』とよく人物関 係は似ている。民族を隔てた親友が国家の元で敵対関係になる。主人公がヒトラーの寵愛を受けて親衛隊に入隊したりと当時、連載中だった『アドルフに告ぐ』 の影響がかなり強く影を落としている。その点においてはこの歴史漫画はもう一つの『アドルフに告ぐ』とも位置付けることも出来そうだ。当初、超自然的な視 点を盛り込みたいという手塚の『アドルフに告ぐ』の構想が文芸春秋の要望で行えなかった事は、この歴史漫画『第三帝国の興亡~ヒットラーと第二次世界大 戦』では宇宙人の兄妹、ウィープとトリープのドラマへの積極的な関与で実現もしている。

 

このもう一つの『アドルフに告ぐ』の最大の特徴はステレオタイプ的な悪人が一人も登場しない事だ。

ツベターエフ大尉の行為を宇宙船から見ていた宇宙人たちのセリフに次のようにある。

 

「罪を憎んで人を憎まずか・・・」

 

僕にとっては善悪ニ項対立で民族主義と人種主義を描き、少々奇怪な印象しか残らなかった大作『アドルフに告ぐ』よりも、甘いご都合主義で薄っぺらいこの「もう一つの『アドルフに告ぐ』」の方がこの頃の手塚治虫の理想や心境により近かったのではないかと思えてならない。

それはこの物語中ではほんの脇役であるペーターの従卒シュッツ軍曹に手塚治虫が託した小さな仕掛けにはっきり見て取れるのだ。

 

 

3.『鉄腕アトム』における「スカンク」と

『第三帝国の興亡~ヒットラーと第二次世界大戦』におけるシュッツ軍曹

 

手塚治虫の漫画に独特の手法がある。

それは「スターシステム」だ。

幾人かの作られて決まったキャラクターをあたかも漫画上の俳優であるかのように登場(出演)させる手法である。

例えば、悪役なら狡猾なアセチレン・ランプやハム・エッグ。お茶の水博士や天満博士もまた、彼が持っていた漫画上の俳優である。彼らは個々の漫画作品の枠を超えて映画俳優の様に出演する。違った漫画に違った役どころでキャラクターが登場する。それがスターシステムである。

ところが中央公論社の歴史漫画シリーズにはそのスターシステムは使われていない。使われているのはこの第13巻の『第三帝国の興亡~ヒットラーと第二次世界大戦』で、その中でもたった一人だけである。それはペーターの従卒シュッツ軍曹だ。

 

 

このシュッツ軍曹の顔を見れば、手塚ファンなら誰であるかすぐに分かるだろう。『鉄腕アトム』で常にアトムの「正義」に対する「悪」として立ちはだかった「スカンク」(スカンク・草井)である。

スカンクは狡猾で皮肉屋の悪党で、犯罪のために生きている様な冷酷なキャラである。デザインのモデルは米俳優リチャード・ウィドマークだったという。

悪 の世界を支配する闇のボスであり、ロボットを悪用し常に人間社会へ犯罪でももって挑戦してくるスカンク。彼は警察も権力も恐れない。すべては暴力と金と恐 喝で小ばかにした態度で生きている。何度逮捕されようとも裏社会の力で司法を脅迫し、無罪放免となって娑婆へ出てくる。そんなキャラクターなのだ。スカン クの存在はアトムの宿敵として、アトムの正義を際立たせるバイプレーヤーでもあり続けた。スカンクがその面構えや役歴から善人など演じるはずもない。

それはアセチレン・ランプやハム・エッグにも通じる手塚一家の悪役俳優の一人なのだ。

 

こ の歴史漫画シリーズでは基本的に手塚治虫のキャラ(スター)たちは出演していない。第13巻『第三帝国の興亡~ヒットラーと第二次世界大戦』でもシュッツ 軍曹をわざわざスカンクに演じさせる必然性もない。しかし、手塚治虫はここにたった一人、ここでスターシステムを使用して、馴染の悪役スターを出演させた のだ。

 

スカンクが演じるシュッツ軍曹はひねた皮肉屋で、ペーターからは嫌われている。シュッツ自身はそれを知りながらも、 ヒトラーのピアニストの従卒に配属されていることで前線に行かずにすんでいることを密かに喜んでいる。そういう性質は「スカンク」という本来の狡猾な性質 とズレはない。

 

 

ス カンクが演じるシュッツ軍曹には、世間知らずのお坊ちゃん上官であるペーター・シュタイナーSS少佐を心のどこかで呆れて見下しているようにも見える。し かし、その反面でシュッツはその立場を利用して「得」をしている立場であり皮肉を言いながらも、ペーターの事を絶えず心配しているのだ。何も知らずアウ シュヴィッツへ行きたいと言うペーターに「行かない方がいいですぜ」と忠告したり、軍法会議覚悟でペーターがヤンをゲシュタポ本部から脱獄させるのを手 伝ったりする。シュッツはペーターが「上官」とか「軍隊のシステム」の枠を超えて、人として好きなのだ。そこにもはやは正義や悪は介在しない。

シュッツは嫌な奴だが心底そうではない。アトムの宿敵として苦しめた姿はそこにはないのだ。

ベルリン攻防戦では親衛隊から国防軍へ転属になって最前線で戦闘している最中でも、SSの制服を着たまま彷徨う元上官、ペーターを命がけで救おうとして負傷する。

最後にペーターとヤンたちが廃墟のベルリンでベートーベンの『春』を協奏しているのを見て、負傷した肩を押さえながら安堵の笑顔で「少佐、御無事でしたか・・・」とつぶやく。

も ちろん、この歴史漫画を読む1984年当時の小学生たちは『鉄腕アトム』におけるスカンクや手塚漫画のスターシステムにを知らなかっただろう。しかし、ア トム世代の私にとって、スカンクのシュッツ軍曹は深い感動を覚えるポイントだ。実際に僕はこの漫画でシュッツ軍曹が最も印象深かった。いや、感動すら憶え た。

このスターシステムを使用していない歴史漫画で『第三帝国の興亡~ヒットラーと第二次世界大戦』に唯一人、馴染のスカンクを出演させたのは手塚の本来人間は「優しい心」を持っているのだという「人間愛」を込めた小さなメッセージを送るための「仕掛け」であったと僕は思う。

 

4.手塚治虫が伝えたかったこと

 

僕は手塚治虫晩年の傑作と呼ばれる『アドルフに告ぐ』は好きではない。

そ こに何か手塚が本来持ち合わせていた、あるいは目指していた理想を感じ取れないグロテスクな作品としてしか僕には映らないからだ。殺伐とした世界は大人が 読む文学誌、『文芸春秋』にはピタリとはまっただろうが、手塚作品の魅力を感じ取ることがどうしても出来ない。同じダークサイドを描いた作品でも『きりひ と賛歌』や『人間ども集まれ!』の方に強い共感と魅力を感じる。

かつて『ジャングル大帝』で人種主義的表現が揶揄されたこともあったし、新 しい漫画のジャンルとしても劇画との戦いもあった。手塚作品を読むと必ずしも人道的で非人種主義とは思えない表現も数々あったのもまた否めない。時間の流 れの中で彼の作品はゆっくりと進化していった。「科学と文明への妄信的期待」そして「自然の法則を無視した動物生存競争の共産化」「ロボットと人間の相互 理解への理想」「権力と個人」主題を次々変え、迷走しながらも手塚が最終的に捨てきれなかったのは「命」という最小単位とそれが有する「人間の心」への期 待だったのかもしれない。

 

この「もう一つの『アドルフに告ぐ』」であるこの作品はその一つの回答だ。手塚が直接筆を折らおしたものでなくとも、彼の名を冠したこの作品こそが、彼の理想に近い。彼がこの世を旅立つ4年前の事である。

 

『人間春秋』で連載した『アドルフに告ぐ』で手塚が描けなかった事がここにはある。そして、それを表現しているのは彼の悪役パイプレーヤー、スカンクが演じたシュッツ軍曹という存在だ。

 

それは、この本の出版後に手塚治虫が病に倒れてとうとう還らぬ人となった。

1989年の事である。折しも彼は21世紀のへ期待を込めて書きつづりながらも、絶筆となった青少年と真正面から向き合った、エッセイ『ガラスの地球を守れ』に取り組んでいた。

 

『手 塚治虫監修 世界の歴史』第13巻『第三帝国の興亡~ヒットラーと第二次世界大戦』は手塚関連作品としても滅多に取り上げられない作品である。『アドルフ に告ぐ』を読んだならばこの作品も是非とも併読していただきたい。確かに「世の中や歴史、現実はそんなに甘くかぁねえんだよ。」という声が聞こえてくるか もしれない。

 

しかし、僕は手塚治虫の甘い理想主義の旋律に耳を傾けてみるのも決して悪くはないと思うのだ。

 

 


【社会性溢れる大映時代劇】


市川雷蔵の人気シリーズ「眠狂四郎」。その8本目の作品が『無頼剣』。

僕自身はこの作品をシリーズの最高傑作に挙げたいといつも思う。

大 映の時代劇は豪華絢爛の娯楽作品が多かった東映に比べ泥臭く土臭い。それは時代劇にとどまらず大映映画のひとつの特徴でもあった。勝新太郎の『座頭市』シ リーズよりややシャープな『眠狂四郎』シリーズはいずれも三隈研二監督の十八番だったので基本的に作風は似ている。カラーは同じだ。
どちらのシ リーズも痛快であっても暗さと社会性を伴う。『座頭市』にしても『眠狂四郎』にしても勧善懲悪なのだが、主人公自身が社会的弱者であるという点で影を持っ ている。(座頭市は視覚障害者で狂四郎は転びバテレンの黒ミサで生まれたハーフである。)そこが陽性でパノラマ的な東映時代劇とは決定的に違っている。

社会的にハンディを追っているヒーローが社会的弱者を助けるという図式はこの二つの人気シリーズの共通点でもある。


しかし、そのヒーローが逆にヒーローとして存在出来ない悲しさを醸し出すこともしばしばあった。

敵方となる人物がまた弱者や抑圧されている立場の場合である。

『座 頭市物語』の市と平手造酒の対決、『眠狂四郎無頼剣』の狂四郎と愛染との対決。いずれも悲劇的でヒーローがまたヒーローで無くなる危うさを示す。ここで出 てきた二本の映画のヒーローの対決役、平手造酒、愛染を演じたのは共に天知茂だった。彼はこの二大時代劇ヒーローの敵役として悲劇的な運命を背負ってその 剣の前に倒れている。


【伊藤大輔の視点】


『無頼剣』が『眠狂四 郎』シリーズの最高傑作と私が感じるのは脚本を担当した伊藤大輔の筆の力によるところが大きいと思う。今回のレヴューのために蔵書の中から『伊藤大輔シナ リオ集』(伊東大輔の遺族が私家版として出版した全五巻本)を探し出そうとしたが残念ながらどこにあるやら発見にいたらなかった。脚本と映画の違いについ て語ることは今回は出来ないが、完成した映画は伊藤大輔の弱者への視点が他のシリーズ作品とは違った独自なものとしてここでも表れている。伊藤大輔の登場 人物への視点はついて今更、語る必要はないと思うが代表作である『王将』『反逆児』など、ピュアな子供のような純粋さと優しさを持った主人公への距離を置 いた眼差しである。
シリーズ中で伊藤大輔が脚本を担当したのは『眠狂四郎無頼剣』ただ一本である。

三隈研二監督の狂四郎カラーもこの作品ではかなり趣が変わる。シリーズ中の異色作と言ってもいいほど硬派で端正な造りになっている。これは明らかに伊藤大輔の脚本に演出が引っ張られた所以である。

そして、伊藤大輔はここでも人間の純粋性への悲劇の視線を忘れてはいない。


【テロリストとしての愛染】


『眠 狂四郎無頼剣』は大塩平八郎の乱を背景に描かれる。民衆と大塩平八郎の蜂起とそれに対する幕府の鎮圧とその後の暴圧。大塩中斎(平八郎)の儒学上の弟子で あった愛染(天知茂)が師である中斎先生を死へと追い込んだ幕府と油商人(映画では中斎が新潟の石油を精製して市場で売り、その売上た利潤で貧民救済の財 源とする策があったとされる。)に騙された中斎先生の仇を討とうと執拗に追い詰め目的を果たそうとする。
愛染はここでは反政府主義のテロリストなのだ。


愛 染は綿密な計画のもとに中斎先生謀殺の謎を解き、油商人の油蔵を発火点に江戸を大火を起し、江戸城と江戸屋敷を焼き払うというテロを仲間と実行する。そこ に立ちふさがるのが眠狂四郎である。狂四郎は愛染の心の内を知りながらも巻き添えを喰らう罪のない江戸町民の生命と財産を奪うことを許さない。油蔵が火を 噴いたその屋上で二人は対決する。江戸民衆のための正義の必殺の円月殺法は同時に中斎を死に追いやった政府側の剣ともなってしまう。対する愛染は狂四郎の その円月殺法を会得して対峙するのである。

円月殺法同士の闘い。このシリーズで有り得ない「禁じ手」を破った対決の図式は狂四郎と愛染に互角の正義、民衆のために立って大義ではお互いが思想的にいささかのズレがないという公正さを与えたのだ。立場の違いが彼らを二人を引き寄せた。

結局、愛染は狂四郎の剣の前に倒れる。

死の間際に愛染は懐から木札で作った玩具を取り出し、宿敵の油商人の幼娘に私て欲しいと狂四郎に言い残す。彼は油商人の邸宅に忍び込んだ際、この娘に今度来るときは、綺麗なお土産を持ってくると約束をしていたのだ。
木 札は劇中、江戸破壊の策謀を巡らせながら愛染が敵の愛娘のために丁寧に作ってゆくシーンが何度か挿入される。結局、狂四郎は木札を受け取らない。蔵の屋根 瓦から滑り落ちた木札の玩具を受け取るのは中斎先生を尊敬していたがために、愛染たちの行動に疑問を持ちながらも離反できないで苦しんでいた角兵衛獅子の 女(藤村志保)なのだ。

伊藤大輔の純粋な弱者への眼差しはこのラストシーンによく表れている。眠狂四郎は果たしてヒーローだったのか?負け犬同士の誇りをかけた戦いの悲劇。社会機構の中で「正義」を巡る対立。そこに弱者への眼差しは生きている。勝者も敗者もない。

家を失った油商人の幼子はあるいは将来女郎に落ちぶれるかもしれない。江戸八百夜町を焼き払うテロリスト愛染の政治闘争者の顔と、やがて弱者となる幼子への憐憫という顔。ここに伊藤大輔の対象から距離をとった社会システムに抑圧された者たちへの視線の細やかさがある。


見事なラストシーンだ。


この愛染の配役が天知茂であったことも意味が大きい。奇しくも彼は1960年に新東宝映画『大虐殺』で大杉栄の虐殺と国家の暴圧に復讐を誓い、執念で反逆したギロチン社のテロリスト古田大二郎(劇中では古川大二郎)を演じている。


僕にはどうしても愛染と古田大二郎が重なって見えてしまう。

これは全くの偶然であろうが。


しかし、社会へや国家への弱者の蜂起が勃発する前夜の1966年にその空気を先取りし蜂起と弾圧を時代劇で見せた伊藤大輔の社会に対する厳しい目と、暴力的抵抗と相反する人間的愛情と正義を分断して観測したその心眼に感服させられるのだ。


ヒーローもアンチヒーローも不在のヒーロー時代劇。紅蓮の炎の中に浮かび上がる江戸の町。

そこに観客が見出すべき答えが潜んでいる。


『眠狂四郎無頼剣』はシリーズ最高傑作だと僕が思う所以である。



付 記:書き終えた後に本作を再見したが愛染が籠で登城する水野越前を拳銃で暗殺しようと発泡するも失敗するあたりや、死に追いやられた思想上恩師への復讐の ための反政府爆破テロとを考えると「甘粕事件」と「ギロチン社事件」がモチーフになっていると考えて間違いなさそうだ。

『大虐殺』でギロチン社のテロリスト古田大二郎を演じた天知茂の配役は偶然ではないのかもしれないと考えるのは深読みであろうか?