●なぜ『青い山脈』なのか
先日、軽く今井正監督の映画『青い山脈』を民衆蜂起の 映画として捉えた小文を書こうと思った。そのために原作である石坂洋次郎の小説『青い山脈』を確認したい部分が出てきたため、持っていた文庫を探そうと考 えた。膨大な蔵書の中から探し出す労苦を惜しんで総合書店へ買いに行ったが、文庫どころか全集の単行本もない。調べると版元の新潮社では石坂洋次郎の文庫 は全て廃刊になっている。
30年前なら石坂洋次郎の代表作はどんな小さな書店にでも置いていたものだ。
戦後民主主義の歴史に おいて民主主義大衆文学として金字塔であった『青い山脈』が廃刊になっているという事実は筆者にとって大きな驚きであった。『青い山脈』は原節子と吉永小 百合という戦前戦後の永遠の美貌と輝きを持った女優の人気にのみ後押しされて、DVDで初作の東宝版と日活版が映画が視聴できるのみ。主題歌『青い山脈』 は藤山一郎のCDアルバムや日本コロムビアの日本映画主題歌集などで聴けるのみである。(廃盤になってないものでは東宝の1979年のリメイク版主題歌 だった、石川さゆりと潮哲也歌唱のものが『石川さゆり・アーリーアルバム』で聴くことができる)
肝心の原作である石坂洋次郎の『青い山脈』はあれ程までに多くの人に読まれたのにも関わらず、現状では廃刊、古書で探してもなかなか入手が難しいのだ。この事には筆者にとって大きなショックだった。
戦後民主主義と大衆文化を見直すためにも『青い山脈』については、原作、映画、音楽と三つの角度から筆者が知る限りの事を何か書き残して置くべきではないかと思い立ったのでノートしておこうと思う。
第1回『西條八十と懺悔としての『青い山脈』其の1』
1.西條八十、最後の戦時歌謡『比島決戦の歌』
戦 時下で多くの職業詩人が戦時歌謡を作詞したという影を負っている。サトウハチロー、北原白秋、高村光太郎、など歌謡曲専門の作詞家ではない詩人たちが国策 にも深く関与していたことは否めない事実である。戦後、特に現在、それに対して厳しく指摘されることは殆どないと言ってもいい。西條八十もその一人で、彼 も相当数の戦時歌謡を書いている。有名なところでは「七つボタンの予科練の」で思い出される『若鷲の歌』、内地も前線と同じ戦場であるという意識を喧伝し た『そうだ、その意気』などは西条にとっては負の遺産であるかもしれない。
もちろん、西條八十が好き好んで率先して書いたわけではないだろ う。軍や情報局の委嘱(これは半ば命令であったのだろうが)によって書いていたのだと推測できる。筆者は大正デモクラシーの大衆文化を支えた一人の文学者 である西條八十が国粋主義者やファシストであったとは思えない。しかし、帝国主義的侵略や統制に文化という面から、協力した事(せざるを得なかった)はや はり動かせない事実なのだ。
すでに、国内は空襲を受け、各都市が灰燼に帰していた1945年には戦時歌謡による戦意高揚と いう国策は機能しなくなってきていた。マリアナを失い、硫黄島を失い、沖縄や台湾へ矛先が向いていたこの時期に新しい戦時国民歌謡曲を作る余裕など無かっ た。それまで大量に作られた曲が繰り返し流用されていた。
戦時歌謡に熱心に取り組んでいた大手レコード会社は日本コロムビア、日本ビクター などでテイチク(日本帝国蓄音機)などは殆ど音源が現存していない。特にコロムビアの音源の現存率はレコードの発行枚数も多かったせいか他社と比べれば比 較にならないほど大量に残されている。マスターの音源が発見されない場合も研究家たちの努力によって現存しているSPレコードからマスタリングしる作業が 1970年代くらいから行われ、現在ではほぼ、当時リリースされた軍国歌謡はCDなどで聴くことが可能になっている。
とこ ろが、絶対に出てこない曲がある。1944年に作詞作曲され吹き込みまで終わっていた戦時国民歌謡『比島決戦の歌』である。1944年10月の米軍による フィリッピン、レイテ上陸から始まった反攻に抗する日本人の戦意高揚のためのものだった。作詞は西条八十、作曲は古関裕而である。日本コロムビアにとって この曲が最後の戦時国民歌謡である。
その歌詞の内容は大東亜戦争の断末魔の叫びである。
作詞にあたっては必ず敵将の個人名を連呼することが条件として課せられていたと言われている。
西條八十はそれに抗して書かなかったが、軍が怒って書き加えてという説もあれば、西条を知る者の証言では「もうどうでもいい」とヤケになって書いたという説もある。
真 偽はともかくとして、西条八十作詞の『比島決戦の歌』は音源として吹き込まれ、繁盛にラジオで流されていた。レコードはプレスされて一般に販売されたのか は定かではない。ただ現在まで、ただの一枚もレコードは発見されいないのだ。NHK放送局も、日本コロムビアも終戦時にこの曲が戦犯追求対象になる事を恐 れて、全ての音源や音盤を廃棄処分にした。
作曲者の古関裕而も存命中、この曲の再演奏を絶対に許可しなかったという。
皆が恐れたのは、歌詞の中の憎悪の対象とされた敵将が日本占領軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥だったからである。当然、GHQからの報復や追求があると考えたのだろう。
『比島決戦の歌』 西条八十作詞 古関裕而作曲
1.
決戦かがやく アジアの曙
生命惜しまぬ若櫻
いま咲き競う フイリッピン
いざ来いニミッツ、マッカーサー
出てくりや地獄へさか落とし
2.
陸には猛虎の 山下将軍海に鉄血 大河内
見よ頼もしの 必殺陣
いざ来いニミッツ、マッカーサー
出てくりや地獄へさか落とし
3.
正義の雷 世界を震はせ
特攻隊の 行くところ
われら一億 ともに行く
いざ来いニミッツ、マッカーサー
出てくりや地獄へさか落とし
4.
御稜威に栄ゆる 同胞十億
興亡分かつ この一戦
あ〃血煙の フイリッピン
いざ来いニミッツ、マッカーサー
出てくりや地獄へさか落とし
古 関裕而の没後、1995年、この曲は終戦60周年の軍歌・戦時歌謡のCD発売企画の一環として、再編曲されコロムビア合唱団の歌唱、コロムビア吹奏楽団の 伴奏で再録音されCDに収録された。現在では古関裕而の歌曲を追い続けているソプラノ歌手、藍川由美の歌唱でも聴くことができる。もはや幻の戦時歌謡では なくなったのである。
次いでながら、付記すれば西條八十の研究家たちは八十が軍歌を書いた事を問題としている。そういう記述が随所に見られるが、筆者の認識では西条八十が作詞したのは「戦時歌謡」であって「軍歌」ではない。
「軍 歌」は軍が制定した歌なのであって「戦時歌謡」は国粋主義的な傾向があって戦意高揚を目的としたものであっても、例え軍から委嘱されたものであっても決し て「軍歌」ではない。この辺の混同は留意すべき点である。軍歌は軍隊という組織の中で囲い込まれて漏れ聞こえてくる音楽だ。しかし、「戦時歌謡」は最初か ら大衆に向けて放たれたものであり、「軍歌」よりも戦争を扇動した更に罪は深いと考えるべきである。
歌詞を見ればすでに米英軍が本土にヘ迫りつつあったこの時期に「大東亜共栄圏」の夢をあくまでも捨てず、そればかりか幻想の同胞十億と共に米軍に対抗しようと訴えるこの歌詞の不気味さには背筋が寒くなる。
これは現状や時局を全く無視した完全なフィクションであり夢想である。
ともあれ、西條八十が最後に戦時下で残した歌謡曲の歌詞はこの『比島決戦の歌』であったのである。
この曲、一曲で西條八十は戦後、戦犯追求の中で戦犯指名されるのではないかという危惧があった。
問 題とされているのは「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりや地獄へさか落とし」のフレーズ部分なのだが、西条八十の研究家である筒井清忠や吉川潮は インタビューや証言からこのフレーズが西條八十が書いたものではなく、軍が書き換えたものだと主張している。また軍歌評論家の第一人者であった八巻明彦も 1995年に再演奏収録版が収録されたCD『軍歌戦時歌謡大全集(六)戦時歌謡(四)』のブックレットでの解説で次のように書いている。
西條八十の詩に、大本営報道部の大佐が" いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりや地獄へさか落とし"と加筆した、とも伝えられる幻の曲でもありました。
また、吉川潮は『流行歌 西條八十物語』で八十が弟子たちに問題のフレーズ部分は「レイテは地獄の三丁目、出てくりゃ地獄へ逆落とし」と書いたが軍の将校たちが文句つけたので自由に書き直してくださいと任せて録音にも立ち会わなかったと語ったと記している。
『比島決戦の歌』の作詞者として西條八十が戦犯指名される可能性があると新聞報道もあり、八十自身もそれを覚悟して戦犯として逮捕されるまでに身辺の整理をしていたという。
筆 者は西條八十の『比島決戦の歌』でどうして「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりや地獄へさか落とし」の部分だけがそれ程大きな問題になるのか理解 できない。英米の対独プロパガンダではヒトラーや敵将を揶揄する歌は数多く作られて歌われもした。仮に大本営の海軍大佐が「いざ来いニミッツ、マッカー サー、出てくりや地獄へさか落とし」を付け加えたとしても、西條八十に戦意高揚のための国策へ協力した事は何も変わらない。むしろ西條八十が書き下ろした 部分、
「決戦かがやくアジアの曙、生命惜しまぬ若櫻、いま咲き競うフイリッピン」
「正義の雷 世界を震はせ、特攻隊の行くところ、われら一億ともに行く」
「御稜威に栄ゆる同胞十億、興亡分かつ この一戦、あ〃血煙の フイリッピン」
こうした表現の方が、むしろ問題視すべきではないかと思うのは著者だけではないだろう。
西 條八十を自由主義者、軍部にある程度抵抗した人と捉えたい、彼を愛する西條八十シンパ達はこぞって、「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりや地獄へ さか落とし」は西條の創作ではないと主張するのだがこれは何の免罪符にもならない「目くらまし」以外の何ものでもないと著者は感じる。
ド イツほどに日本では連合国側から文化面での戦犯追求は行われなかった。実際に西條八十は戦犯リストにその名が上がり、GHQから全ての作品と著作の提出を 命じられた。このあたりは東京裁判で裁かれた大川周明と同じ道程である。しかし、果たして西條八十は逮捕も尋問も受けることはなかった。GHQ側の日本人 が彼を自由主義者であると弁護したという説や高齢であったたため保留になったという諸説があるがこれもはっきりとはしていない。ただ、映画界における山本 嘉次郎の様なあからさまな戦意高揚映画を撮り続けていたその時代を代表する映画監督も逮捕も起訴もされていないので文化面での戦犯追求にGHQはそれ程、 乗り気ではなかったのかもしれない。
さて、長々と『比島決戦の歌』について書いてきたのだが、『青い山脈』と関係ないじゃないかと思われる向きもあるだろう。しかし、西條八十の最後の「戦時歌謡」は『青い山脈』の歌詞に微妙に影響を与えていると筆者は見えるのである。
2.永遠の青春歌謡としての『青い山脈』
い つだったか、NHKが歌謡オールタイムベストテンを募集したところ、『青い山脈』がベストワンであったという調査結果が出たという事を聞いたことがある。 残念ながらその際、記録しておかなかったので、いつの調査でどんな番組だったかは筆者は記憶していない。今世紀に入ってからだと思う。いずれにしても西條 八十作詞、服部良一作曲のこの映画主題歌は1949年に国内で大ヒットしてからというもの日本人の心の中に刻み込まれている名曲であることは確かだ。毎年 の夏に放映されているNHKの『思い出のメロディー』でも、1970年代後半頃、最後の取りは藤山一郎を中心に参加歌手全員が歌う『青い山脈』や『丘は花 ざかり』だった。最初にレコードが発売されたのは1949年。東宝が石坂洋次郎の新聞連載小説『青い山脈』を映画化した折、その主題歌として作られたもの で、映画では合唱のみだがレコードでは藤山一郎と奈良光枝のデュエット形式。映画は都合1988年まで初作も含めて5作品作られたが、全ての作品の主題歌 がこの服部良一作曲、西條八十作詞による『青い山脈』が使用された。現在では原作小説や映画がほとんど影を潜めてしまったのに対して、この歌は今も日本人 の心の中に青春歌謡の代表作として生き続けている。
歌詞の内容は映画の内容とは何ら関係していない。映画のドラマや主人公の名前も出てくるわけでもない。出てくるのは「青い山脈」という言葉だけである。
レ コードは映画封切りよりも3ヶ月前に先行発売されており、映画よりも早く全国でヒットしていた。この曲は服部良一お得意のジャズ調ブギウギものとは違い、 戦前から戦時下に流行した映画主題歌同様のマイナー音階で、例えば『愛染かつら』や『純情二重奏』などに近い、日本人にとって馴染みやすくヒットし易い要 素を持ったものだった。主題歌を先行発売して映画を盛り上げようと考えたのは東宝の名プロデューサー藤本澄一の商戦法だった。予想通りのこの歌のヒットは 主題歌が映画宣伝とその観客動員への役割も果たしたのである。
明るい青春歌謡、戦後民主主義を代表する永遠の青春歌謡としての『青い山脈』。
ただ、一見明るい内容の歌の歌詞と今井正監督による映画化作品とは多少の不協和音が響てくる。
歌詞の内容をよく見てみると決して、映画ほどには革新的ではないのだ。
長 年、それが著者には大きな疑問の一つだった。映画の内容に対してどうして主題歌の歌詞がこの様に暗いイメージなのか?その違和感は何とも説明し難いもの だ。筆者自身は西條八十の『青い山脈』は新しく始まる戦後民主主義文化の始まりを封切るものではなく、過去との決別を意味しているのではないかと思えてな らないのだ。
『青い山脈』 西条八十作詞 服部良一作曲
1.
若く明るい 歌声に
雪崩は消える 花も咲く
青い山脈 雪割桜
空のはて
今日もわれらの 夢を呼ぶ
2.
古い上衣よ さようなら
さみしい夢よ さようなら
青い山脈 バラ色雲へ
あこがれの旅の乙女に 鳥も啼く
3.
雨にぬれてる 焼けあとの
名も無い花も ふり仰ぐ
青い山脈 かがやく嶺の
なつかしさ見れば涙が またにじむ
4.
父も夢見た 母も見た
旅路のはての そのはての
青い山脈 みどりの谷へ
旅をゆく若いわれらに 鐘が鳴る
吉川潮は『流行歌 西條八十物語』で西條八十が『青い山脈』の作詞を依頼された折、八十は石坂洋次郎の原作を読み、近くの女学校の登下校する学生たちを観察 し、家に帰って民主主義の主題に相応しい歌詞のを書き上げて作曲担当の服部良一に渡したと記している。これは事実だろう。しかし、西條八十が書いた『青い 山脈』は上記の歌詞のまま最初から服部良一に渡されたのではない。筆者は高校生だったころ、NHKラジオAM放送の『懐かしのメロディー』という日曜日の 夕方に放送されていた番組の熱心なリスナーだった。1970年代の後半だ。この番組には時折、ゲストが登場してアナウンサーとのトークがあるのだが、服部 良一がゲストだった時、『青い山脈』に触れ、西條八十は最初「鈴がなりますキャラバンの・・・」という様な異国情緒の歌詞を持ってきたので、これでは曲が 付けられないので書き直してもらったと語っていたのを著者は記憶している。これが本当なら、西條八十は決定版となった『青い山脈』の様なその時代の現状を 見据えた、あるいは原作小説のような新しい民主主義的雰囲気を謳歌した歌詞を最初は避けていたとも考えられるのではないだろうか。
ここには戦争、戦犯容疑に曝された西條八十の過去と現在の間に立った葛藤があったのかもしれない。
しかしながら、「鈴が鳴りますキャラバンの」は論外でも、決定版の歌詞ですら意味が不明な点が多い。
西條八十の研究者によってこの歌詞の意味の解読や解釈は既に試みられている。
しかし、筆者が見聞した中では、それらの解釈には何故か1番に登場する「雪割り桜」には触れられてはいない。筆者はこの聞きなれない「雪割り桜」にこそ西條八十の『青い山脈』に託した懺悔があるように思えてならないのだ。
(次回:西條八十と懺悔としての『青い山脈』其の2に続きます)
筆者:永田喜嗣