「『ラ ンボー』は何も考えないで観られる面白い映画だわ。」と一人の男が言い出した。もう一人の男が「そうそう!暴れまくるし、理屈抜きでカッコイイ。」ともう 一人の男がグラスを傾けながら言った。飲んでいる同じグループの女性はその男性たちの「面白い」という感想に真っ向反対して、「ランボーは暴れ回るだけ で、あんな映画のどこが面白いのか私たちにはわかんないわ。」と言った。

ある飲み会の風景である。

 

私はこの 状況を傍で小耳に挟んだだけの第三者だが、『ランボー』の評価がその程度のものかとがっかりしたものだ。もちろん、彼らが言っている「ランボー」とはカナ ダ生まれの作家ディヴィッド・マレルの小説『一人だけの軍隊』を下敷きにして映画化されたカナダの映画監督テッド・コッチェフのアメリカ映画『ランボー』 (1982年)のみを指しているのではないだろう。その後続いた『ランボー・怒りの脱出』、『ランボー3・怒りのアフガン』、『ランボー最後の戦場』まで 入り混じっての「ランボー」だろう。だから、彼らが「面白い」或いは「面白くない」と言っている「ランボー」は『ランボー』ではないのかもしれないが。

 

私自身は『ランボー』は類希なき戦争映画だと信じて疑わない。

心底惚れている映画の一つだ。戦争をひょいと街へ出かける日常という空間へ引き込んだこと。

欠点をあげればないことはない。原作を大きく変えてラストの締めくくりでランボーを投降させてしまったこと。敵対者の警察署長を生かしてしまったこと。

しかし、そこに目を瞑っても『ランボー』は「何も考えないで観られる面白い映画」という評価とは別のとこで滔々と流れる深遠な主題は色あせていない。

 

『ランボー』の魅力とはなんだろうか?

それは「一人だけの軍隊」であるグリーン・ベレーの帰還兵、戦争ゆえ社会からのドロップアウトを強いられたランボーというひとりの男の悲劇という側面を超えて観察するなら、敵対する警察署長ティーズルの存在がランボーと同様、あるいはそれよりも大きい。

ランボーという放浪者としての「一人だけの軍隊」と冴えない街の警察権力代表者としてのティーズルという「一人だけの警官」の対決である。映画はこの二人だけの対峙に幕を開け、最後には二人だけの対決へと導かれてゆく。

 

すべての事件の発端は流れ者のランボーがケンタッキーの片田舎の小さな街へやって来たこと。

何 もしていないランボーを面倒の種だとばかりに追い払おうとした警察署長ティーズルの行為から「戦争」は起こる。追い払っても街へ戻ってくるランボーに頭に きたティーズルはランボーを警察署に拘留。取り調べで警官たちが行った暴力がランボーのベトナム戦争でベトコンから受けた拷問のトラウマを呼び覚まし、彼 のグリーン・ベレーとしての植えつけられた本能が動き出す。

 

単にランボーは身を守るために起こした行動なのだが、ティーズルには予想もしなかった展開へと発展する。山狩りで警官隊は被害続出、やがて州軍まで出動してランボーを狩ろうとするが尽く返り討ちに会う。

ランボーは山から降りてきてティーズルの「俺の街」を徹底的に破壊する。軍警察隊も膨大な武力も何の意味もなさない事がわかったとき、ティーズルはランボーと同じ「一人だけ」の「警察」になって「一人だけの軍隊」と対決することになる。

原作小説ではかなり明確だが、最後ではティーズルは無意識の中で憎い敵であったはずのランボーと同化してしまう。逆にランボーに親愛の情さえ感じる。

 

そもそも、ティーズル署長とはどういう男なのか。

類 型を見出すなら、シドニー・ポアチエ主演の『夜の大捜査線』でのロッド・スタイガーが演じたビル・ギレスピー署長と同類の人物。小さな片田舎の街で治安を 預かる存在。法と秩序の番人を自負するあまりに自分と法が同化してしまい、街全体が「俺の街」と思い込んでいる男。彼の存在自体が街の規範だと思っている 人間。『夜の大捜査線』のビル・ギレスピー署長は最初から人間的弱さが見え隠れするが、『ランボー』のティーズルはそうではない。一貫して「俺の街」を守 る「法」なのだ。

原作小説の最後の結びにある様にティーズルが守ろうとしたのはあくまでも「街の平和」であった。彼は死の間際、事件が終 わって街に平和がやってきたことを知る。そもそも彼が守ろうとしたものは警察署長としての自尊心や誇りであったはずだが、基本は街の秩序を守ること。自分 のテリトリーを守ることだ。

彼は自分が帝王の様に思っているが、実は彼とて州から雇われたただの忠実な番犬なのだ。それは殺人マシンとしてトラウトマン大佐に育て上げられたグリーン・ベレーの兵士、ランボーと大差がない。

 

ランボーは合衆国による世界秩序と自由を守る尖兵という立場を既に辞してるが、ティーズルは街の秩序と自由を守る警官として現役なのだ。退役した軍隊の番犬と現役の警察の番犬の対決。しかも、退役した方が現役よりもひと世代若い。

ティーズルはその事に気付いてはいないが、「一人だけの軍隊」であるランボーと対決する内に知らず知らずの内に番犬という枠からはみ出して、一人の警官としてランボーに向き合う。

 

もちろん、ティーズルがランボーに一人で向き合う状況、或いは番犬という枠をはみ出すためには彼のすべての権力をランボーによって破壊されなくてはならない。果たして全てを失ったティーズルは一人でランボーと対決する。

映画として『ランボー』は他のアクション映画や西部劇などと同じく単純な決闘ものに見える。

と ころがそうではない。ランボーとティーズルの勝敗は観客の関心事であっても、映画『ランボー』が訴えかけてくるものはこの二人の戦争の言い知れぬ虚無感な のだ。彼らの戦争は発端となったティーズルによるランボーの偏見に満ちた街からの追い払いという下らない事から、やがては血で血を洗う殺し合うことにまで 拡大する。

しかし、ランボーが勝ってもティーズルが勝っても、そこには第三の視点がある。

それは番犬たちの飼い主の視点だ。物言わぬ合衆国という視点だ。

 

ランボーはベトナムで番犬として忠実に大量殺戮を繰り返してきたが、結果は敗れてお払い箱になって元の社会へ掃き捨てられた。その負け犬の番犬に現役の番犬ティーズルが噛み付いたのである。

番犬同士の小競り合いの結果、守られるはずの街の秩序と自由は完全に破壊される。

何のために誰のために番犬は戦うのか。何を守ろうとしたのか。映画が終わる瞬間、恐らく観客は言い知れぬ虚無感に襲われるだろう。全ては無駄なのである。

 

朝鮮戦争、ベトナム戦争を経て、なおもそこから逃れ来てもケンタッキーの片田舎では相変わらず秩序と自由を守る番犬が配置されている。(原作ではティーズルは朝鮮戦争に従軍していた経験を持つ事が語られる)

幾らかの名誉と権力という餌を与えて番犬は忠実に秩序と自由を守ろうとする。その仕掛けがランボーとティーズルの悲壮な殺し合いを招く。結果は何も守ることはできないばかりか全てが破壊され尽くされるのである。

 

それでもなお、街は戦争の集結で平和になったこととされる。

原作では一個の人間としてランボーとティーズルは対決し、両者がサシで撃ち合って相撃ちとなって双方が死亡する。一個の人間となったティーズルは死の間際街が平和を取り戻した事を感じる。これが最後の一行だ。彼はまた番犬として死んでゆくのである。

 

平和は守られたのだろうか。

誰もが秩序が回復し、平和が戻ってきたと思うだろう。

しかし、それは偽善に満ちた見せかけ平和にほかならない。

番犬同士の噛み付き合いさえなければ平和の破壊はあり得なかったのだから。

 

映 画『ランボー』では原作を改編してラストではランボーもティーズルも生き残る。しかし、双方は敗北している。ランボーは投降し逮捕され、ティーズルは半死 半生の重傷を負って病院へと送られる。勝者はどこにもいない。残るのは見せかけの秩序の回復と欺瞞に満ちた平和の再来のみである。

 

二度の世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争・・・アメリカ合衆国の番犬政策は絶えずランボーとティーズルの悲劇を生み出してきた。誰も気がつかないままに守るべき必要のない秩序と自由を守り続けてきた。

更にこの映画の後に続く湾岸戦争、イラク戦争とアメリカ合衆国の番犬による欺瞞に満ちた正義と呼ばれるシステムは延々と生き延びている。

 

『ランボー』が我々に語るのはこうしたアメリカ合衆国の奇形的平和精神と平和認識が抱える矛盾である。

 

『ラ ンボー』は決して「理屈抜きに楽しめるアクション映画」でも「何も考えないで観られる面白い映画」でもない。全編に渡って映画が訴えるのは何が彼らを戦争 へと駆り立てかななのである。その点ではアメリカ人がアメリカを批判して止まないアメリカ社会批判を滔々と蓄えた戦争映画なのだ。

 

もし、あなたが『ランボー』をバーのカウンターで気心知れた仲間たちと語るとき、その前にもう一度この映画を見直して欲しい。

もちろん、上に述べた『ランボー』は私が考える『ランボー』である。

たった一人が権力に対して蜂起するレジスタンス映画とも捉えることが出来ようにし、或いは階級社会闘争的な表彰としても捉えうことも出来るだろう。

 

私が言いたいことはこれほどの深い力作を単なるアクション映画という烙印を容易く捺して欲しくはないということだ。このささやかな願いを少しだけ受け止めて欲しいということなのである。



 

たまには研究とは全く関係のない話も良いだろう。

ここで話題にしたいのは「魔物」である。

それは悪魔や妖怪、神仏その他の「魔物」の意ではない。

「物」が持つ「魔」の話である。

 

僕はつい近年まで玩具コレクターとして少しだけ世に知られていた。

新聞やテレビでも紹介され、ラジオにも何回か出演もしたことがある。

玩具収集家としては遅咲きだったが、ゴジラ関連の玩具収集を30歳代からユルユルと続けていたものだった。

爆発的に収集が増加したのは30代後半からで、その頃インターネット時代が本格的に到来していた。

インターネットの自己のウェブサイトは、文学のパロディや当時の趣味だった「太平洋戦争」関連のゲームなどと併せて戦記なども綴っていた。その中に小さく玩具収集関連のページを作った。これが意外に人気で独立したサイトに進化した。

そこで、私は怪獣玩具(ソフトビニール人形)に焦点を絞ってさんと運営を始めた。SNSがまだ一般化していない時代だったのでBBS(掲示板)でコミュニティを作った。

 

サイトの活動はコレクションの展示に留まらず、中小の玩具メーカーの新製品情報を流す機能を付け加えた。

直接、メーカーにコネクションを作り、直に最新情報を取得し、それをサイトとメールマガジンで配信した。

ここには自分の理想があった。

メーカーとユーザーの距離が開いているからサイトを通じてその距離を縮め、お互いに刺激し合う事がこの趣味領域に発展を与えるのではないという理想である。

こ のアイデアは図に当たり、狭い範囲の趣味にもかかわらずメールマガジンは一時期500通以上の登録人数になった。メーカーとユーザーは広く親近感を持ち合 う段階に入り始めた。もちろん、それまでにメーカーとユーザーの交流はあったが、それはユーザーは選ばれた特権階級的な性格を持ったものだった。その状況 を打破して広くメーカーとユーザーが友人感覚で付き合える関係を作りたかった。それは狭い旧体制への再構築だった。その橋渡しのヴォランティアを私のウェ ブサイトで行おうというものだった。

 

語学がまあまあ出来た方なので、アメリカ、イギリス、ドイツの日本玩具ファンの掲示板 へ入り込んで交流を重ねた。外国語の障壁のためかそこには日本人はおらず私は外国のファンと楽しく交流できたのである。この楽しさを日本のファンにも共有 してもらおうとサイトに英語によるインターナショナルコーナーを設置、掲示板には書き込みを翻訳するヴォランティア・サービスを導入、日米、日独の玩具 ファンの交流や情報交換を促した。

これも運良く成功した。

 

次の段階は、怪獣玩具を大人のノスタルジックな趣 味に終わらせず次世代に繋ごうという企画である。ウルトラマンやゴジラといった怪獣文化を絶やさないことが玩具というホビーを大人の趣味として小さな世界 に押し込めておく事から開放し、子供たちの記憶に止め、その文化を十数年先にまで留めて更なる発展を継続させる。そうした理想から生まれた企画だった。

 

地 方都市ではあったが、定期的に市の施設を使って子供たちのための「怪獣玩具展」を開いた。小規模ながら1回、2回、3回と開催するうちに人気を集めるよう になり、最終的には1000体の怪獣玩具を市営の「こども館」のスペースに集め、全国の友人コレクターを参加協力を求め、またコネクションを持っていた メーカーからの賛同や協賛も得て『モーレツ・ソフビ大怪獣展』の開催に至った。市営子供館とのタイアップにより、会場施設と備品の無償提供を得た。予算が 付いていない企画だったから、それ以外の運営費は全て私個人のポケットマネーと実働力を投入する事となった。それでも私には「子供たちを喜ばせ、怪獣文化 に興味を持ってもらう」という純粋な理想から出発していた。40日間の開催期間中、毎日会場へ行き、紙工作によるジオラマを作り、子供たちに怪獣玩具の一 つの楽しさを伝える事を行った。

 

毎週末には怪獣クイス大会を開催し、素敵な商品がもらえるイベントも行った。僕は白衣に身を包み「怪獣博士」よろしく司会を務めた。

クイズ大会で子供たちにあげる賞品を調達する資金がなかった。メーカーから好意で少々提供して貰ったが、それでも追いつかない。そこでインターネットで収集家たちに呼びかけた。たちまち各地から続々と趣旨に賛同してくれた収集家から余剰玩具が届いた。

 

東京から怪獣人形の原型を作るアーティストを招いての子供たちの紙粘土による「かいじゅう造形教室」も同時開催した。造型師の方は「子供たちに夢を」という趣旨に賛同して下さり手弁当で来てくれた。

会場には画用紙とクレヨンを置いて子供たちが自由に絵を描くスペースも作り、その作品は毎週末、一斉に公開した。

 

テレビ、新聞、ラジオの取材が連日続いた。地方紙にとどまらず関東、関西の新聞でも紹介され、収集家の大家、北原照久氏から「ファンのヴォランティアで数百体を集め地方で行われた事は画期的」ともコメントも全国紙に載った。

その効果もあって、週末は会場は人で一杯。九州、中国、関西、遠いところでは関東からもやってくる親子連れもあった。来場者はのべ1万人を超えた。

会場は連日、親子の笑顔で一杯。

純粋に嬉しかった。

子供たちの笑顔が楽しかった。

 

いちばん嬉しかったことは、来場した家族のお母さんたちから寄せられる手紙だった。

仕 事で忙しく冷め切った父子関係が怪獣を通じて家庭に暖かさが帰ってきたとか、熱心に何かに打ち込むことがなかった息子が怪獣に夢中になったとか。毎日、読 んでは涙を流したものだった。奇跡のようにイベントは成功した。連動してサイトは恐ろしく訪問者が増えて連日、怪獣を通した子供たちとの交流に共感が寄せ られた。

その成功は「子供たちに喜んでもらいたい」という無垢で純粋な理想。怪獣玩具が延々と未来へ続いて欲しいという夢からだった。私自身にはまったく売名も名誉欲も野心もなかった。

仕事をしながら残りすべての時間すべてを活動に費やしたのも、持ち前の行動力と打ち込むと際限ない性格もあったが、やはり「夢と理想」がその原動力だった。

 

 

イベントが終わって、撤収日。数百体自分のコレクションを梱包しながら僕は心から成し遂げた充実感と心地よい疲労の中にいた。

 

地獄が始まったのはその後だった。

 

サイトの一連の活動とイベントの開催は僕が知らないところで野心と嫉妬という憎悪を燻らせていたのだ。

メー カーとファンの絆を結ぶという理想は主に関東方面の収集家の各サイトで模倣されて、そこではメーカー情報争奪戦となり、メーカーとの関係を独り占めしたが るサイト主も現れた。コミュニティとして成立していた仲間たちは内ゲバを始めた。その舞台は2ちゃんねる掲示板。仲間同士で汚い叩き合いが始まった。イベ ントも批判の対象となった。曰く「子供をダシに使った永田の売名行為」。

連日、嫌がらせのメールが届く。2ちゃんねる掲示板では僕のプライベートが晒され、憎悪にさらされた。

僕の名前を騙るものまで現れた。僕の名前で2ちゃんねる掲示板に書き込み他の収集家を罵倒し、その責任をすべて押し付けてきた。

イベントの続行も難しくなった。

会場を提供をした公社の管理職組が永田の名ばかりが新聞、テレビ、ラジオで流れて自分たちには取材が来ないという「嫉妬」が原因の一つだった。やがて僕はそこから排斥され、街の小さな児童館に活動の場所を移して細々と続けたがやがて、心身疲れきって休止に追い込まれた。

 

精神的に限界に達した僕はサイトを閉鎖した。

そして、独自のクローズドSNSを作って親しい仲間だけで怪獣玩具の世界を楽しむことになった。

しかし、それはまた攻撃対象になった。

隠れて何をしているのか?

野心と嫉妬を滾らせる人々はより激しく僕を叩き始めた。

結局、SNSも閉鎖に追い込まれた。

 

一連の活動は5年間に及んだが、全ては「夢と理想」から始まった熱意とそれが発想と行動に結びついただけだった。評価や賞賛は後からついてきたに過ぎなかった。

 

その後は文芸同人に参加して小説と詩の世界に没頭した。そこでも問題山積だった。僕がそこで書いた小説が新聞やラジオで紹介されて、文芸誌の方は報道されなかった事に対する「嫉妬」だった。やがて、そこからも居づらくなり身を引いた。

 

今も細々と怪獣玩具の趣味は続けているが、決して表には出ることはなくなった。今も交流する当時の怪獣玩具仲間の一人が言った。

 

全ては「魔物」のせいです。「物」が持つ「魔」にみんなおかしくなるんだと。

 

「夢と理想」はやがて他者の「野心と嫉妬」とぶつかり、「夢と理想」の終着点と思っていた方向とは真逆へ導いてしまった。内ゲバと罵り合い。残念だったが僕は「夢と理想」だけではこの「魔物」の世界では抗しきれないという現実を知った。

 

あれから、もう10年近くになるが、せめての救いはあの頃会場に来てくれた子供たちが今は大人になって時折、怪獣と戯れた思い出を懐かしく思い出してくれているだろうという密かな微笑みにも似た期待だけである。


 

朝、香港の街をジョギングするブルース・リー。第二作目の主演映画『ドラゴン怒りの鉄拳』が公開された直後である。道路工事の人夫たちがリーを見つける。その中にはリーの大ファンだというチャーリーという男がいる。

人夫たちは親しくリーを取り囲む。

和やかに談笑するリーと人夫たち。

チャーリーは「『ドラゴン怒りの鉄拳』はいい作品だったよ。」といい、リーは喜んで「悪くなかったかい?」、チャーリーは満面の笑顔で「完璧さ!」と答える。

リーはファンサービスで『ドラゴン怒りの鉄拳』のシーンから決め台詞を再現して見せる。

「中国人は、決して軟弱ではないぞ!」

人夫たちは大喜びだ。

1976年の香港映画『ブルース・リー物語』の1シーンだ。

 

『ブ ルース・リー物語』はリーの死後、1976年に香港で公開された伝記映画である。主演はブルース・リーのそっくりさんNo1と呼ばれた台湾の武闘家、何宗 道(ホー・チェンドー)で、彼のリーの形態模写と武闘技の模写は完璧だった。リーの死後、彼はリーのそっくりさんとして『一代猛龍』というパチものブルー ス・リー映画に出演し、その際に制作側から無断でブルース・リィという芸名を付けられてしまう。ホー・チェンドーはリーの偽物映画に出演したばかりでな く、リーの偽物にされてしまったのである。

 

しかし、本作が制作されるにあたってやはり、リーを演じるのはホー・チェンドー以外に考えられない。この映画ではブルース・リィではなく実名、何宗道(ホー・チェンドー)でクレジットされた。

 

物 語はリーが香港からアメリカへ渡るところから始まり、アメリカではガソリンスタンドで働きながら、カンフー道場で後進を育てる。悪辣な日本人の空手家一門 と対決し、やがてスタジアムでも活躍。ハリウッドでテレビや映画に端役で出演。中国人が主役のカンフー映画を企画するがハリウッドはその企画には投資しな い。中国人が主役の映画などヒットしないという訳だ。失意のうちに香港へ帰るリー。彼は香港映画界でカンフー映画制作のチャンスを掴む。その間、リーに挑 戦してくるタイのキックボクサー一問と対決。更には『ドラゴンへの道』のロケ地ローマではマフィアのボスがお抱えの武闘家を引き連れて挑戦してくる。これ らの挑戦者を次々に倒すリー。『燃えよドラゴン』を完成させ、『死亡遊戯』の撮影に専念しようとしていた矢先、彼は突如として倒れ死去する。映画はリーの 生涯と謎とされていた死因についての幾つかの説を再現している。

 

とても真面には評価されない完全なB級映画であるが、ホー・チェンドーのブルース・リーへの成りきり振りには思わず笑ってしまうほど完璧である。しかも、カンフーも本物の迫力でカンフー映画ファン、ブルース・リー・ファンには堪らなく楽しい作品であっただろう。

実 際に映画のようにリーが実生活でこの様な大きな挑戦勢力と闘っていたとは思えない。確かにただの映画俳優でカンフーの実力がないのではないかと疑った武闘 家たちががリーに挑戦してそれを打ち破ったという逸話は幾つか残されてはいる。この伝記映画はそうした伝説をかなり誇張して描いているのだろう。

 

さ て、道路工事の人夫たちに『ドラゴン怒りの鉄拳』のシーンを再現して「中国人は、決して軟弱ではないぞ!」とポーズを決めたリーにみんなは大喜びだ。カン フー好きのチャーリーにリーはその場でカンフーの型をを指導する。すると、毎朝やってくる白人の武闘家集団がジョギングにやってくる。彼らは毎朝、やって きては道路工事の標識が邪魔だと投げ飛ばすのだという。工事主任が人夫たちに「標識を早く片付けろ」と命じるがリーは人夫たちに標識をそのままに動かすな と言う。やって来た白人たちは案の定、標識を投げ飛ばそうとするが、チャーリーが標識を守り、白人のリーダーにのされてしまう。危や、チャーリーが最後の 一撃を喰らう瞬間、リーがこの白人リーダーを蹴り倒す。二人は手合わせをし、リーは白人リーダーを叩きのめしてこの一団はその場から駆け出して逃亡する。 「中国人は、決して軟弱ではないぞ!」この『ドラゴン怒りの鉄拳』の台詞の部分を演じてみせるシーンは重要だ。

リーの出演作品でも極めて政治色が強かった抗日映画『ドラゴン怒りの鉄拳』ではこの台詞は上海の日本人租界にある虹口道場の日本人に対して言い放たれた言葉だ。

し かし、考えれば不思議なことである。『ドラゴン怒りの鉄拳』はカンフーを通じて中国のナショナリズムを謳歌した作品だが、その抵抗の対象は香港を統治して いたイギリスではなく日本だということだ。『ドラゴン怒りの鉄拳』の中国ナショナリズムはあくまでも香港という歴史的文脈から外れて、政治的にも文化的に も精神的な位置からは遠く離れた中国大陸に視点を据えている。決して香港を支配するイギリスに向けられたものではない。『ドラゴン怒りの鉄拳』の抵抗思想 ははっきりしている。それは抗日である。しかし、その文脈と並行して外国勢力、とりわけイギリスへも向けられているという二重の構造がそこには見える。

その中国を抑圧し侵そうとする外国勢力を象徴的に日本に置き換えたのが『ドラゴン怒りの鉄拳』だった訳だ。

リー が作ったカンフー映画ブームは更に台湾で多くのカンフー映画制作を促す。大陸から離れた香港、台湾で中国ナショナリズムの抵抗がカンフーを通じて語られる という奇妙な状況がここにある。こうした現象を香港や台湾のような中国大陸から離れた「孤島」の中国大陸への一種の回帰願望の表れと評する人もある。しか し、それは違う。「中国人は、決して軟弱ではないぞ!」台詞は「中国」とは言ってはいない。あくまでもこのナショナリズムは国家的ナショナリズムを意識し たものではないのだ。あくまでも中国人としての尊厳を指しているのだ。

 

『ドラゴン怒りの鉄拳』では中国ナショナリズムのそ の抵抗の対象は日本だが、『ブルース・リー物語』では日本にとどまらずアメリカ、イギリス、イタリア(マフィア)、タイと多様な国を対象としている。中国 人を軽蔑して止まない中国人を除くその残り全てへのカンフーを通じた抵抗なのである。

 

劇中、リーのファンである道路工事の 人夫、チャーリーが『ドラゴン怒りの鉄拳』を観て、その主演俳優であるリーに標識を動かすなと言われ、単身、白人の武 闘家たちから標識を守ろうとする。これはリーの思想が映画『ドラゴン怒りの鉄拳』からリー本人へ、更にファンのチャーリー(大衆としての中国人)に伝播し てゆくプロセスを示している。

 

リーの生涯が思想的に実際に中国ナショナリズムへの抵抗、リー自身が中国ナショナリズムの 抵抗戦士であったのかどうか。それは容易に「是的」(そうだ)とは言えない。しかし、この映画『ブルース・リー物語』一本だけを対象にするならブルース・ リーはそうだった。この映画はリーを中国ナショナリズムの抵抗戦士として描いている。『ドラゴン怒りの鉄拳』の主人公、張真をそのまま実在のリーにトレー スしているのである。その政治的メッセージは日本という枠を超えて世界に向かった。それは空手こそ日本古来の最強の武道としてカンフーを侮蔑する日本人 へ、或いは名作とされる映画『北京の55日』を初めとして中国人に文化で侮蔑を与えてきたハリウッドへ、香港統治のイギリスへ、更にヨーロッパへと拡大し ている。鑑賞する人々、とりわけリーやカンフー映画に興味のない映画愛好家にとって『ブルース・リー物語』はどうしようもないB級映画で見向きもしないだ ろう。

実際、DVDも500円という価格で正規のDVDショップにも置かれていない。ホームセンターのワゴンにその他のB級、C級映画たちに混じって積まれている類の扱いだ。

 

だから、筆者の主張は少々強引と受け止められるかもしれない。しかし、中国ナショナリズムの抵抗という視点で見るなら、確かに『ブルース・リー物語』は『ドラゴン怒りの鉄拳』の直系作品として位置づけられる重要な作品なのだ。

ブルース・リーの伝記映画はその後、何本かある。その中でこの映画は忘れ去られている。

中国ナショナリズム抵抗戦士としての李小龍~ブルース・リー。没後40周年を迎える今、この映画を再評価することは全く無駄とは思えないのは筆者だけであろうか。



 

1960年代は東宝が戦争スペクタクル映画の名作を最も多く連作して世に送った時代だった。

その、トップバッターとなったのが本作、『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦・太平洋の嵐』(以下『太平洋の嵐』と記す。)だった。

橋本忍脚本、松林宗恵監督、円谷英二特技監督による戦争映画。恐らく我が国の戦争スペクタクル作品としてはこの作品『太平洋の嵐』の上をゆくものを挙げるのは難しい。

 

そのそもこうした戦争スペクタクルは戦時中、国策戦争スペクタクル映画で大きな牽引力となっていた円谷英二特技監督によるミニチュアを使った特殊撮影技術班を戦後活用するという発想から『ゴジラ』(1954年)の怪獣映画路線と並ぶラインとしてスタートしたものだった。

 

『ゴ ジラ』の前年、1953年に同じ東宝で製作された『太平洋の鷲』(橋本忍脚本、本多猪四郎監督)は主人公が山本五十六(大河内傳次郎)である点において 違っているが骨子は『太平洋の嵐』と同じだった。ハワイ奇襲攻撃の成功から太平洋戦争、翌年のミッドウェイ海戦での大敗。当時、海軍が国民に隠し通した ミッドウェイ敗北の真相を知らせることが『太平洋の鷲』に課せられた一つの使命だった。

 

『太平洋の嵐』が他の反戦戦争映画 と著しく違っていた点は『雲流るる果て』や『きけ、わだつみの声』の様に軍の上層部を最初から悪として描かなかった事だ。戦後、次々と造られた告発型の戦 争映画はその存在意義は大きかったが、かなり軍隊の上官と部下の間を完全に正邪で二極化しすぎた点で映画としてのリアリティやメッセージが必ずしも正確に 伝わるものではなかった。この点においては『太平洋の鷲』もさして大差を持つ作品ではなかった。

 

『雲流るる果て』の最後は 鶴田浩二や木村功の特攻隊が敵艦に突入したあと、戦果確認の方が司令部に届き、「思ったほど当たらんなあ」という同僚に岡田英次の将校が「なに、特攻隊は まだ幾らでもある。」というのが最後の台詞だった。こうした台詞は特攻隊を送り込む海軍という暴力組織を象徴しているのだろうが、映画を観る方にとっては 岡田英次の将校の不気味さと非現実さは想像を越えてしまう。

こうした台詞がなくとも充分、特攻隊員の悲惨さは描かれていて通じるはずである。

『きけ、わだつみの声』での最後で部下を見捨てて敵前逃亡悪辣な将校たちもやはり、映画的キャラクターであって決して反戦のリアリティを持たせる要素とはなり得なかった。

 

『太 平洋の嵐』でも橋本忍は空母飛龍が撃沈されたあと、洋上を浮かぶ救命ボートに群がる水兵たちに将校が抜刀してその手を斬るというシーンが準備されていた。 松林宗恵監督はそれを撮らなかった。監督は戦時中、海軍にいた経験が有ってそうしたエピソードを聞いたことも見たこともなかったからだと回想している。

このシーンのカットを含め当時松林監督は「反戦が甘い」と新聞で叩かれたことを述懐している。

 

もちろん、戦争映画にはそうした虚構は絶えず必要とされる。

それはどこの国の映画でもそうだ。そうした虚構は尊いメッセージでもある。

しかしながら、戦記映画とは好戦的に描こうとも反戦的に描こうとも「戦争」は悲惨で悪以外の何ものでもないのだから冷静に描いたほうがむしろ受け止められやすい事もある。

 

戦時中作られた戦意高揚映画『雷撃隊出動』(1944年)などは最後の体当たり攻撃は悲惨この上なく、戦意高揚映画として観ることさえ難しい不気味な作品だった。戦争を描くことは戦争を本能的に嫌う人間にとっては好戦、反戦を問わず結局は反戦に結びつく。

 

逆に反戦を最初から「これでもか」と盛り込んだ映画には逆に観客は拒否反応を起こしてしまう。

空前の大ヒットとなった『二百三高地』は名作ではあるけれど二度三度と大衆が鑑賞したくなる映画ではない。続く『大日本帝国』も『日本海海戦・海ゆかば』も『二百三高地』を超えるヒットには至らなかった。

悲惨で重苦しい印象しか残らない。

 

戦 争という巨大な暴力に中にも勇壮な部分と悲壮な部分は必ず混在する。松林宗恵監督の戦争映画『太平洋の嵐』はこうした勇壮と悲壮をバランスよく持たせた戦 争映画だった。前半の真珠湾攻撃、インド洋海戦までは勇猛果敢、主人公の北見中尉(夏木陽介)を初めとする若い海軍将校たちは意気揚々、祖国へその五尺の 命を捧げると言い放つ。ところが、後半のミッドウェイ海戦から事態は悲壮へと悲壮へと傾いてゆく。前半は完全に好戦的映画で爽快感を感じさせるが後半は 打って変わって反戦映画となる。赤城、加賀、蒼龍の三隻の航空母艦が米軍の急降下爆撃機に被弾して大火災を起こすところから、ドラマは突然反転し山口多聞 少将(三船敏郎)を司令官とする第二航空艦隊の空母、飛龍一隻が気を吐くも、その飛龍も被弾。沈没に至って前半の意気揚々とした雰囲気とは全く違って見え るのである。前半に全く反戦的ムードが無い分、後半の反戦が活きてくる。いや、際立ってくるのだ。

戦争を最初からネガティヴに描くことは簡単である。

しかし、戦争という巨大な暴力を批判するとき、その暴力を一つのカタルシスとして肯定的に描いて観客を酔わせ後半で暴力の恐怖と顛末を与えるという手法はなかなか難しいものであり、またそうした手法を使うことも勇気を必要とするものだ。

後年、松林監督がインタヴュー語った、『太平洋の嵐』を公開当時に「反戦が甘い」と批判した新聞は残念ながらこの映画の卓越した手法を全く理解できていなかったのだろう。

 

1960年代の松林宗恵監督の戦争映画における際立った特徴である。この手法は姉妹編にあたる第343海軍航空隊(戦闘機、紫電改を主力とした松山、鹿屋で昭和20年に防空戦で活躍した航空隊)を舞台にした『太平洋の翼』(1963年)でもそっくりそのまま使われている。

 

この様な効果的な方法は残念ながら継承されてゆくことはなかった。

や はり、好戦的に暴力のカタルシスを観客に与えるという部分は批判の対象となるものであろう。この構成をしっかり把握しておかなければ映画は好戦、反戦とも 付かない曖昧で弱い印象を残し、評価する際に見誤られる可能性もあるからだ。1981年、久々に戦争スペクタクルでメガフォンを取った松林宗恵監督の『連 合艦隊』は『太平洋の嵐』や『太平洋の翼』の手法が用いられている事に大いに期待したものだが、前年に公開されて空前のヒットとなった東映の『二百三高 地』の影響か、全編反戦色が強くかつての松林節はここにはなかったのが惜しまれた。1980年代以降、戦争スペクタクルは日本では殆ど制作されなくなっ た。制作されても1960年代に力を発揮した一連の東宝戦争スペクタクルの亜流もしくはそれに及びもつかない出来であり、ましてや松林宗恵の卓越した手法 など見出すこともできない。1980年代以降、日本の戦争映画文化は完全に衰退化した。

近年の作品を観る前に今一度、1960年代の東宝戦争スペクタクルを観ることは肝要である。

 

中でも『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦・太平洋の嵐』はエポックを作り上げた極めて重要な作品なのである。



 

1.抗日義賊英雄・廖添丁

 

 

 廖 添丁(Liao Tian-ding)は日本統治時代に実在した人物で、日本の統治警察を相手に暴れまわった所謂「義賊」である。台湾での民衆英雄として愛され、小説、映 画、テレビドラマ、演劇、漫画、果ては現代音楽の分野で管弦楽組曲にまでなっている。

 廖添丁の最大の敵は日本を統治する警察である。廖添丁は台湾民衆に とって日本を統治支配し市民に横暴な行為を働く日本人とその日本人に協力する裏切り者を叩き伏せる神出鬼没の伝奇抗日ヒーローなのだ。

 

 日本の「ねずみ小 僧」や「石川五右衛門」となると時代が離れ過ぎるが、こうした賊でありながら英雄という人物を我が国で探すなら「マライの虎・ハリマオ」こと谷豊が最も近 い。戦後も伝奇英雄としてテレビドラマや映画、漫画といったメディアで生き残ったという点でも共通している。

 実在の人物として、廖添丁27歳、谷豊が31歳と英雄として果 てた年齢も近い。

 た だ、相違点を探ればハリマオこと谷豊は大東亜共栄圏、アジア独立解放といった大日本帝国の国策宣伝のために準備された官製英雄だったの に対して、廖添丁は民衆によって作られた英雄という点だろう。両者とも義賊であり、国家権力を敵に回し神出鬼没の活躍した実在の人物という点では変わりは ない。(映画『マライの虎』については当時のシナリオなど面白い資料が手に入ったので別の機会に書いてみたいと思う。)

 

 

2.廖添丁の民衆像

 

 

 廖添丁の民衆像は映画、テレビ、舞台、小説によっては差異があるが、およそ次のようなものである。

 

 日本統治時代の台湾、廖添丁の家族は無法にも日本警察(あるいは軍隊)にとって殺害され孤児となる。その廖添丁を拾って育てたのが大陸から渡ってきた武人で正義の師。廖添丁は師匠から武術を習い、台湾を圧する日本への抵抗の心を教わる。

 

 青年になった廖添丁だが最愛の師匠を日本人との戦いで殺害され、彼の抗日への想いはますます強くなり、師匠を殺害した日本人を倒して仇を討つ。

再び天涯孤独になった廖添丁は侠客として武人として旅をする。

 

 その際に出会った仲間と共に彼は日本人から迫害と搾取を受ける台湾人を見て義憤から日本人とそれに協力する台湾人の富裕層専門の盗賊となる。せしめた大金は貧しい台湾人に分け与える。

 

 廖添丁の評判が上がるにつれ、日本警察は面子にかけて廖添丁を逮捕しようとするが、神出鬼没で宙を舞い、壁を駈けあがる超人廖添丁に翻弄されるばかりである。

 

 日本警察は彼の親友の家族(または無関係な貧民たち)を人質に取り、自首しなければ彼らを殺害すると公表、彼らの命を救うため廖添丁は官憲の手に落ち、処刑される。

 

 廖添丁は実在の人物だがこうした伝奇談はかなりのフィクションが入っている。

 

 

3.廖添丁の映画と舞台、そして音楽

 

 廖添丁の映画化、テレビドラマ化は台湾では何回も行われた。しかしながら、それらの作品をメディアなどの媒体で確認することは日本では難しい。現在でも入手が比較的容易な二作品をここに挙げておきたい。

 

 

★『怪侠正伝 廖添丁』1998年台湾映画

 

 

 恐らく日本では未公開の作品。百度百科などでは1996年作とする情報もあるが、インターネットの映画データーベース情報やDVDの記述によると1998年の作品であると確認できた。

 

 物語は民間伝承通りの内容だが、冒頭は日本軍による征台戦争から始まる。

時代考証が「甘い」のか、それとも「狙った」のかは不明だが、この場面に登場する日本陸軍は一八九五年の征台戦争では考えられない昭和期の日本軍の近代装備での登場する。

 

 廖 添丁の故郷を遅う日本軍は略奪、強姦、などの非道な行為を繰り広げる。廖添丁の母も日本兵に強姦され銃剣で刺殺される。その様子は「南京事件」の様相を思 わせるものだ。敢えて製作者がそれを狙ったのだったら時代とは外れる日本兵の装備の考証なども説明がつく。


 ちょうど1997年12月が南京大虐殺事件の 60周年記念だった。翌年、1998年と言えば、中国系アメリカ人作家アイリス・チャンによる『ザ・レイプ・オブ・南京』が世界でベストセラーになり、ド イツ、中国、アメリカ、日本、イギリスなどからジョン・ラーベ(南京国際安全区委員長だったドイツ人)の日記も、ほぼ同時に出版されるなど、欧米や中国か ら「つくる会」などの動きを牽制する反日攻勢が最も激しかった時期だ。非常に軽い娯楽映画だとしても、この時期の台湾からの抗日としての一つの姿勢の表れ だと見ることも出来るかもしれない。


 冒頭の「南京事件」並みの暴虐の後、廖添丁の敵は日本警察となる。警察の装備や表現は時代考証されているので、冒頭の 虐殺場面は「征台戦争」と「日中戦争」を同じ抗日戦争としてオーバーラップさせたものと見て間違いないだろうと思われる。(もちろん、制作に当てる予算な どの関係から他の映画の衣装や小道具を流用した事も十分考えられるのだが。)この映画における廖添丁は終始、正義の青年である。


 正義の抗日者である師匠か ら習ったカンフーの達人であり、女性に化けたり変装の名人であり、民衆のために日本人やその協力者から大金を盗んでは搾取に苦しむ台湾の民衆に分け与える 神出鬼没の義賊である。映画全体は歴史性を無視したものであることは認めざるを得ない。


 台湾総督の指名により廖添丁の逮捕に全権を与えられる警察部隊の隊 長がロングヘヤーでサディスティックな美女という何とも荒唐無稽な映画だ。印象に残るのは廖添丁の恋人役のタレント、ビビアン・スーの演技とその表現力で あり、この全体的に締りの無かったアクション映画に締りを持たせた一つの大きな柱となっている。


 台湾総督の妻となった彼女が、元恋人の廖添丁の敵側に回っ てしまう悲劇性。物語の終盤、廖添丁を逮捕するために、彼を匿う一帯の民衆に武力制圧を行うと台湾総督府が宣言。自首を勧告されて廖添丁はピンチに陥る。 ビビアン・スーは夫である日本人、台湾総督を心では愛しながらも武力制圧の指揮に向かおうとする彼を拳銃で射殺して、自らもその拳銃で自殺する。自らの頭 に拳銃を当てながら彼女は泣きながら言う。


「あなたを愛していました。でも、私も台湾人なんです・・・」


 彼女の行為は元恋人の廖添丁の命を救う目的ではな い。台湾人を代表した存在として、廖添丁と同じく台湾人の人びとを救うための犠牲的行為として物語を締めくくる。


 もちろん、これはフィクションである。し かし、この映画の主張する植民地支配の構造と抵抗は廖添丁と彼女の存在がよく表している。ビビアン・スーはこの映画の十数年後にウェイ・ダーション監督の 『セデック・バレ』で日本人と台湾山地先住民というアイデンティティの狭間で翻弄された高山初子役を演じるが、奇しくも彼女が演じたこの二つの役柄には植 民地支配下の台湾での民族としての揺れや葛藤が、共通項として結ばれている。『怪侠正伝 廖添丁』では廖添丁は元恋人の犠牲的行為によって生き長らえると いう物語として終わる。

 

★創新新劇『廖侠添丁』

 

 

 台湾の演劇文化については不勉強なため、こうした形式の舞台芸術作品が台湾ではどの位の人気を得て、大衆化されているのか私には想像が及ばないがつかない。日本で言えば「大衆演劇」や演歌歌手による「座長公演」に近

古いタイプの歌謡演劇といったところだが、主な主演陣が女性が男性を演じるなど宝塚歌劇にも通じる華やかさと雰囲気も持っている。文句なしに楽しめる作品だ。

 

 ここに登場する廖添丁を巡る物語は先に挙げた映画『怪侠正伝 廖添丁』とほぼ同様である。廖添丁を愛する女性が日本側に付いてしまって敵対関係にあるところなども同じだ。

 

 最も違っている点は『怪侠正伝 廖添丁』では抵抗者が勝利する楽観的顛末に対して、この作品に登場する廖添丁を含め抗日側の台湾人、日本側でない台湾人はすべて日本警察と日本兵によって終幕で殺害されるという点。

 廖 添丁を官憲が銃殺した後、日本軍司令官による「日本帝国万歳」の唱和の後、廖添丁は虫の息で「台湾呢・・・・」(最後の抵抗しての「台湾だ・・・」という ニュアンス)と言い残してこときれる。

そこで幕が降りる。最後の場で台湾人の抗日とその敗北の悲劇、死を持ってもなお失われない台湾人の民族としての誇り がこの演劇でも映画『怪侠正伝 廖添丁』とは違った形で表現されている。もちろん、映画『怪侠正伝 廖添丁』同様に荒唐無稽な娯楽作品でいることは言うま でもない。

美空ひばりの戦後のヒット曲が歌われたりと歴史や文化を反映していない。にもかかわらず、抗日文化作品に必須の「侵略者」「抵抗者」「同胞の叛 徒」という三つの要素がはっきりと揃っている。

 

 

★『廖添丁管弦楽組曲』馬水龍 作曲

 



 台湾の現代音楽作曲家、馬水龍が1991年に発表した序曲から第五楽章まで6つのスケッチからなる管弦楽組曲。


 馬水龍は1939年に台湾の基隆市に生まれ た。1959年国立台湾芸術専科学校に作曲専攻で学び、1972年に奨学金を得て西ドイツのレーゲンスブルク音楽大学に留学した。馬水龍の作品は民族音楽 の要素と民族楽器を西洋音楽の中に取り入れた、アジア民族的旋律を持った西洋クラッシック形式の音楽である。映画のような視覚で見せるものではないが、こ こでも廖添丁像は映画や舞台と同じ抗日英雄として描かれている。


 日本の官憲を相手に神出鬼没の活躍、大詰めでの追い詰められての危機はスリリングにしかも 壮大に表現される。この音楽作品においても廖添丁は義賊であり民衆の英雄である。

馬水龍は民族楽器と民族音楽を管弦楽に取り込む手法で台湾人の民族として の誇りを抗日英雄廖添丁に託した訳である。ところが、作風は東アジア的で日本の作曲家の戦前の交響曲や管弦楽曲と相通じるところが多く、例えば伊福部昭で あるとか、貴志康一であるとか、そういった作風に近く、恐らく日本人が聴いても違和感を感じないだろう。余程のクラッシック音楽の専門家でなければ台湾的 旋律や拍を日本の民族音楽的クラッシック音楽との相違を指摘するのは難しいだろう。


 しかしながら、『廖添丁管弦楽組曲』というタイトルが象徴するように廖 添丁を主人公にした時点で、既にこの作品が台湾民族の尊厳と抗日文化の一端であることが明確になる。廖添丁の名はこのように日治時代の台湾における「抵 抗」の民衆英雄としての象徴として根付いている一つの表れだろう。


4.廖添丁の実像


 では、実在した廖添丁とはいかなる人物であったのだろう か?

廖添丁は1883年、台中に生まれたとされる。幼い頃に父母を喪った彼は少年時代から生活のために盗みを恒常的に行なっていたようで、18歳の時に初 の投獄。出所後も度重なる窃盗罪で逮捕、入獄を繰り返し改心する様子もなかった。彼にとっては監獄があたかも住居であるかのようなこそ泥だったのだ。


 その 廖添丁が注目を浴びるようになったのは、彼が日本人や日本人に協力する富裕層を得意として狙っていたのことと、ある有力者の家に盗みに入った際、発見され 警察と銃撃戦になり、一名の「漢奸」(裏切り者、日本人に協力する台湾人)を殺害してしまったことに端を発する。日本協力者を殺害した廖添丁は警察にとっ て面子をかけても逮捕せねばならない存在となったのだ。


 廖添丁は警察の追求を逃れながら、逃亡生活を行う。彼を匿っていた友人、杨琳が廖添丁逮捕に躍起に なる警察にマークされ家族を人質に取れてしまう。杨琳は廖添丁の居所を警察には告げず、自らの手で洞窟に潜んでいた友、廖添丁を熊手で襲って殺害した。 1909年、享年27歳。廖添丁は映画や演劇のように支配者である日本人ではなく、同胞の台湾人によって殺害されてしまったのだ。しかし、この実話は民衆 の間に語り継がれるうちに廖添丁を抗日義賊英雄に書き替えてしまったのである。

その背景には台湾の抗日映画(大陸を舞台としていないもの) ではその敵が絶えず軍隊よりも警察であったように、民衆のあいだでは警察が横暴な存在として苦々しく映っており、民衆には警察への鬱憤がかなり集積されて いたのである。近年の台湾映画『セデック・バレ』でも描かれていたように、台湾統治に当たった警察は治安維持と共に民衆の教化の役割も持っていた。

 それは 日本的な倫理観に基づく教化であり、台湾民衆にはそうした日本人警察官の横暴で傲慢な態度に反抗心が宿っていたのだ。その不満や鬱憤が逃亡で散々、日本警 察を手こずらせた廖添丁を英雄にした。その英雄像は史実とは反して今も生き続けている。廖添丁が日本人や漢奸の金を狙ったのは抗日という明快な意思表示で はなく、そこにはより多くの金銭があったからであろう。


 しかし、そんな廖添丁を正義の抗日英雄に育てのは台湾の民衆であった。それほどに日本統治は 我々、現代の日本人が思っているよりも過酷な抑圧を被支配を受けた台湾民衆に与えていた何よりもの証であるだろう。現在も廖添丁は抗日英雄として愛されて いるのだから。廖添丁はこれからも日本では知られざる存在として語られることもないだろう。


歴史的大事件が関係しているわけでもないから、 日本の歴史修正主義者たちから「廖添丁の正体はコソ泥だ」とも言われなくても済む訳だ。


 廖添丁はこれからも、自由と平和と支配や抑圧を二度と受けない台湾 の民族英雄として、台湾民衆の伝説と夢であり続け、その胸の中で生き続けるだろう。


 それはあの忌まわしかった植民地侵略戦争を忘れない一つの標として台湾では残ってゆくのではないか。その点において、史実がどうであれ、廖添丁は間違いなく台湾人にとっては忘れられない抗日英雄なのだ。


「映画は見るものではなく読むものである。」

 

1970年代に角川映画が人気を集めていた頃「読んでからみるか、みてから読むか」というキャッチコピーが流行した。読むにしても観るにしても映画化作品と原作小説では小説に軍配が上がると信じられている。

映画は原作に対する補助的な大衆娯楽の一つだと考えられがちだ。

 

何故、原作小説に映画化作品が勝てないかというと、原作小説は映画から作られたものだからだ。

小 説を書く者なら恐らく想像がつくだろうが、小説を書くという作業は予め作家の頭の中に理路整然と構築された映像と音声のイマジネーションを文字に書き記す るすということだ。本の読み手は作家が予め思い描いた映画を活字を通して読み手の中で映画を再構築する。読み手は無意識に映像を頭の中に想像力で組み立て ている。 映画と違う点は、本で観る映画は読み手の数だけ存在するという点である。

小説を読むという作業は映画を読むことであり小説を観ることである。

小説はそもそも映画であったと考えられる。その映画が活字化され、更に上映される映画にされる。

映画は小説の活字を通して更に映画へ回帰される。

映画を観る者は映画を今度は頭の中で活字化する作業に迫られる。それは小説で書き込まれた映像と音声以外の部分を補う作業だ。

 

原作を持たない映画の場合はシナリオ作家によって小説家の作業が代行する。ここで読まれなくてはならない映像と音声以外の書き込みはト書きとなる。

ト書きは映像には表れない。また小説の補足部分の様に内面の感情表現も書き込む事は出来ない。

映画は映像と音声のみによって表現されるのでシナリオもまた小説と同じく映像化されない部分は切り捨てられる。しかし、活字化される前に小説家同様すでに作家の中には映画がある。

 

どれだけおバカな映画であっても映画作家の主張は隠されている。それは時として社会的であり、政治的であり、歴史的であり、倫理的な主張である。ただし、それを見つけることは容易ではない。

書籍なら読み手の時間の範囲で吟味できるし、書籍は文字によって幾らでも作家の主張が書き加えることが可能だからだ。映画は画面の中に映し出されるものが、ただそこに存在しているだけで、その写っているものについて外部からの解説も補足説明もない。

 

映画は本と違って読み手の時間のペースで読ませてはくれない。1秒間24コマというスピードで映画が始まれば止めることが出来ない。その範囲で映画を全て読みきることはなかなか難しいことだ。

もちろん、ビデオやDVDの普及によって家庭で何回も同じ場面を観たり、何回も台詞を聴き直したりも出来るようになった。我々は本や漫画が理解できない場合、ページを開いたまま何度も同じ行を読み返したりコマの情報を注視したり出来る。

そういう習慣は私たちは生活の中で身につけている。しかし、私たちには映画のDVDを細かく静止させて読み解こうなどという作業は習慣として定着していない。恒常的にしている者はよっぽどの映画愛好家か、または評論家や研究家だろう。

 

そこで、観衆の代わりにその作業を手伝ってくれるのが映画評論家の仕事である。

映画評論家は映画を読んで、活字化されていない部分を解読して映像を活字に回帰させる。

映画を小説化するノベライスという作業は究極の映画評論であると私は考える。ノベライスする作家は映画では書かれない人物の内面の感情などを読み解き活字で再発信するからだ。

映画評論は映画の善し悪しを判定するものではないし、カメラワークや役者の演技、特殊撮影技術などに過度に囚われては映画の活字化という最も重要な作業が損なわれてしまう。

 

名 匠黒澤明が松竹時代に助監督たちへ残した言葉がある。それは映画を作るなら推理小説を読めという言葉だ。この言葉には映画のプロット造りなどの意味も含ま れるのだろうが、映画の謎の部分、活字でしか表現できない部分を「謎」として観客に送る作業だとも考えられる。映画を観る者は自然に探偵となり映画の言わ んとするところを読もうとするはずである。

 

映画を読むという大切な仕事を担った映画評論家が読み間違えるとその映画の評価は大衆に大きな影響を与えてしまう。例えばある映画を意味のないおバカな娯楽作品だと判定を下してしまえば、それはそのまま大衆の解釈に結びついてしまう。

映画は1秒間に24コマ流れるものであり、デートの暇つぶしのお供であり、そうした娯楽だと信じられているからだ。

映画を読む作業は映画の資質を問うものであり、映画評論という作業の責任は本来大きいはずだ。

 

リ ドリー・スコット監督の『プロメテウス』は彼の監督作品『エイリアン』の前日譚として造られた映画だった。このグロテスクで大掛かりなSFホラー映画は大 した評価も受けなかった。映画ファンのレヴューでも散々だった。この映画に社会性とか政治性を読まれた形跡は筆者が今まで読んだ日本での映画評論にはな かった。読み解くものは『エイリアン』や『ブレード・ランナー』などに目を奪われる。スコットの映画作家としての語りや技法について読み解こうとする。

筆者はこの映画を劇場で一回観ただけであるので詳細に読み解けたかというとそうではない。ただ映画の中盤で宇宙船乗組員が惑星探査する際に洞窟で見つけた無数に折り重なった宇宙人の死骸を見ながら「ホロコーストの写真の様だ」というセリフがある。

地球から遠く離れた宇宙の惑星で、しかも遥か未来の物語で「ホロコースト」という発想は如何にもSF的ではない。この言葉は恣意的である。

「ホロコースト」という何気ない一言を証拠物件に探偵となって『プロメテウス』を読めば、この映画は人種主義問題への一つの啓蒙作品だと読み取れる。

完 全無欠のギリシャ彫刻を思わせるような筋骨たくましい人類の祖先エンジニアが雑多な人類の種を滅ぼすため地球へ向けて悪のDNA兵器を地球へ打ち込もうと するラスト、宇宙船プロメテウスはエンジニアの宇宙船に体当たり攻撃をかける。 このプロメテウス号で体当たりする乗員はブラック、東洋人、アングロサク ソンという3人。 エンジニアの惑星はDNA兵器の実験場であった。無数に折り重なった宇宙人の死骸、「ホロコースト」という言葉から読み解けば、エンジ ニアはアーリア人種を、雑多な進化を遂げた地球人類を滅ぼそうとするDNA兵器はナチの優生学思想を示している。それに対抗するのはブラック、東洋人、ア ングロサクソンなのだ。

エンジニアが死滅した後、エンジニアによって頭をもぎ取られ、半死半生になりながらも生き残ったアンドロイドの名前 は「ディヴィッド」。ディヴィッドを演じた俳優はアイルランド人を母に持つドイツの俳優ミヒャエル・ファスビンダーである。(彼はタンランティーノの『イ ングロリアス・バスターズ』にも出演している)『プロメテウス』は他のハリウッドで制作され続けている反ユダヤ主義に抵抗する「反ナチ戦争映画」の変形な のだと理解できる。

 

 

これは一つの映画の読み方であり、もちろん状況証拠を積み重ねた結果の推理でしかない。余りにも単一的なレヴューを目にして、一つの例として考えたまでだ。 あるいは、この様な読み解きは「考えすぎだ」という答えが帰ってくるかもしれない。

まさにその通りだ。しかし、「考えすぎだ」という判断は既に娯楽映画は政治や社会を語らないという根拠のない観念から出発している。

 

凡そ映画というものは政治的であり社会的である。娯楽作品だからという烙印で最初からそのメッセージを読み解く努力が失われたら映画はさらに衰退するのではないだろうか。

 

どんなおバカ映画であろうと読むなら真剣に読破したいと私は思う。



 

私 はこの数週間、もう書くのをやめようかと考えていた。本を読むことも書くことも、映画を観ることもやめようかと悩んでいた。物心付いた頃から書くことと描 くことを覚えた。しかし、書けば書くほど僕の世界は小さくなって行く。書けば書くほど僕はどんどん小さくなって行く。孤独の淵に沈むばかりである。幾人か の恋人も去り、郷里の家族からも遠の昔に愛想尽かされている。曰くダメな奴である。書くほどに人は去って行く。

 

そして世界は閉塞してその空間の空気でさえ私の心を圧迫する。もちろんそれを私は自覚している。だから、書くのをやめようと思った。

 

本を読むと書きたくなるので読むのもやめようと思った。

映画を観ると書きたくなるのでそれもやめようと思った。

音楽を聴くと書きたくなるのでそれもやめようと思った。

 

 

書くことをやめてしまえば、私にとってそれは肉体の死ではなく精神の死を意味する。

しかし、書くことに自虐的罪悪を感じさえする。まるで、自分の半壊した人生に自分の駄文で更に罰を与えているかの様だ。学ばず人生を疎かにして来た罰なのか。

 

自 分の無知蒙昧の故の罪なのか。どうすれば無知蒙昧から脱せるのか。小説や詩、エッセイや論文を書き綴ることは、私が私自身を慰める単なる自己満足にしか過 ぎない。それは以前から気付いていたことであり、無言のまま私を苦しめて来たことだ。書いても書いてもただ、孤独の淵に沈みゆく。

 

道理も真理もわきまえず駄文を綴る自分は阿Qそのものではないか?意味も分からず革命を振り回す阿Qの愚かしさはそのまま私の愚かしさに他ならない。

 

昨 日、ふと本屋でこの本が目に入った。漫画嫌いの僕は漫画は読まない。漫画を嫌うのは、漫画を読むことに慣れてはいないからだ。魯迅の『阿Q正伝』なら家の 書棚に立っている。でも、私はとても文字で自分の愚かしさを代弁しているかの様なこの偉大な小説を読見返すには辛く感じた。

今読んで自分を振り返るなら漫画が良いかもしれない。

 

そう思って、この本を買って喫茶店に入った。魯迅の短編アンソロジーの漫画化だった。巻頭の『藤野先生』に深い感動を覚えた。知らずと落涙した。自分のこの落涙の意味を理解するのには時間が必要だ。

 

漫画で感極まることなど、あまり経験がなかった。『阿Q正伝』ではやはり自分をそこに発見していた。ここにも深い感動があった。

絵の一つ一つが語りかけてくる意味に僕は何かを考えなくてはならない衝動に駆られた。

 

「精神勝利法」

 

思い返せば私の凡庸さと愚かしさはここに集約されるのかもしれない。

 

今は阿Qであり続けるしかない。

 

もう少し阿Qとして頑張ってみようと思った。



●蒋介石という人は孫文の後継者、中華民国の総統。だから歴史上、重要な人物だが評判はイマイチよろしくない。

「上海クーデター」では軍隊は勿論のこと暴力団まで動員して共産党員を虐殺するし、紅軍討伐に執念を燃やすし、国共内戦に敗れて台湾。白色テロ・・・・。いい印象がないのはこうした一般的な見方だろうな。ヒトラー、スターリンに次ぐ独裁者・・・ってイメージは拭えない。

し かし、蒋介石はかなり損をした人物だ。中国統一の途中で石原莞爾に満洲を分捕られる、共産党軍と苦戦する、張学良の裏切られて国共合作をしなくてはいけな いし、思う通りに行かないことばかり。台湾に移ってた「大陸反攻」を叫びつつも日米にあっさり見切りをつけられて国連脱退。その後は交通事故、療 養・・・・88歳で没。

 

●イメージが悪いのは歴史的事実だけでもなさそうだ。歴史漫画でも蒋介石はすごく「怖くて悪い」人 の様な印象だ。集英社は『日本の歴史』『世界の歴史』『中国の歴史』と3種の歴史漫画を出版しているが、最も安心して読める。『日本の歴史』に関して言え ば学研は右に曲がりすぎ、大月書店は左に曲がりすぎ。子供たちが読むには双方とも適切でないと思う。小学館がやや右寄りだがまあ許容範囲。最も優れている のは歴代、版を変えながらも時代に迎合せず歴史認識の姿勢を崩さない「真っ直ぐ派」が集英社版。コマ一つ一つに驚くべき隠された情報がチラっと書かれてい たりして面白い。広島原爆で、悲惨な被爆者の姿を書き入れているのは集英社版だけだ。

『中国の歴史』も同様に真っ直ぐ偏向がないと思うが、蒋介石の表象の仕方は如何にも恣意的に感じる。

なので、ちょっと蒋介石と毛沢東を比較してみよう。

 

この本、集英社の『中国の歴史9』から蒋介石と毛沢東を少しだけ抜き出してみるとしよう。

まず表紙からしてこの二人、差異がある。左が蒋介石、怖い顔をしている。右が毛沢東、なんとも明るい笑顔。よく見て欲しい。毛沢東の両手はあたかも人民に向けて手を差し伸べているかのようだ。対する蒋介石はそんな毛沢東を横目で睨んでいる。

すでに表紙から蒋介石は悪くて狡そうな奴、毛沢東は優しくていい人・・・という雰囲気が伝わってしまう。表紙開くまでに子供たちは恐らくこの二人のイメージを固定化してしまうだろう。

 

漫画では蒋介石の登場場面から最後まで一切笑顔はない。

いつも、仏頂面か怒っている顔しかない。

 

対する毛沢東は苦難の表情は多少あっても終始、明るく笑顔なのだ。

 

 

 

蒋介石が描かれる場面の背景の多くは軍隊と兵器で飾られる。相当な軍国主義者のイメージ。

 

重慶爆撃でも日本軍に怒りが爆発。

 

毛沢東たち共産党にはあくまでも鬼のような憎悪の表情。

 

国共内戦に近づくとすでに輪郭まで粗雑になる上、周囲の側近たちまで極端なデフォルメが施される。

 

敗れてもなお、怒りの表情の蒋介石。

 

そして、中華人民共和国が建国。毛沢東は歳を重ねても優しく柔和なイメージ。

 

● 確かに蒋介石は武力で押さえ込むことが常の国家主義者。苦難を乗り越え民衆の心を獲得した毛沢東とは差が出来ても不思議ではない。でも、僕が子供の頃に読 んだ歴史漫画ではまず、この様に人物を描き分けることはそうは無かったと思う。この本の監修者は余程、蒋介石が嫌いだったのかもしれない。

しかし、漫画という媒体を考えたとき、やはりこういう方法はあまり好ましくないと思う。

受 け手が子供なら尚更だ。歴史での事の善悪は「こうだ」と教えるのではなく子供たちが判断をすればいい。そのためには子供たちが公正な判断を下せる様に公平 に描かなくてはならないと思うのだ。漫画という媒体で、敵と定めた相手を醜く描き味方と定めた相手を格好よく描く。そんな手法は例の「ゴーマニズム宣言」 の小林よしのりがよく使っている。歴史を語るにこうゆう手法はあまり使って欲しくないと思うのだが・・・。

 

 

●台湾の歴史漫画はどうだろう?と見てみたが、殆ど蒋介石は出てこない。

 

 

●こちらは台湾の歴史漫画でも大人向けのもの。

 

 

「二二八事件」の件だが、蒋介石は銅像だけで登場する。微妙な状況下で実にうまい表現だと思う。

しかも銅像はニンマリと笑を浮かべているあたり、何とも不気味だ。蒋介石を批判している訳ではないが、この場面だけで事件の構造が言わずと知れる。

 

 

 

●怒った顔の蒋介石ばかり見てきたので、最後に蒋介石の笑顔の写真を貼っておこう。

誰しも人間。怒ってばかりの顔の人はいないのだから。

 

バー ゲンセールで売られて処分行だったウサギとデグーマウスが僕の家にいる。ウサギは深刻なうつ病と遺伝性疾患を患っている。獣医さんから2年で死ぬと言われ たが十数回の手術を乗り越え、盲目になりながらも6歳になってもなお元気だ。デグーマウスも右手に障害があったために半額売りだった。不自由ながらも今年 で三歳。元気で生きている。

 

以前も書いたが、三宮の駅前で「捨て犬捨て猫救済募金」をしている専門学校生の女の子はドッグトレーナーに憧れて専門学校に入ったが、殺処分の実態、「闇」を知って募金ヴォランティアに参加したと言っていた。

 

僕 はペットショップの子犬や子猫が入れられたショウケースの前を通るのに苦痛を感じる。それはまるで「奴隷市場」の様に思えるからだ。資本主義の消費や市場 経済の歪んだものを感じるからだ。買われていく犬、その影で生まれたことに意味ももたされず殺される動物たちがいる・・・・。

 

 

最 初、この本を読むかどうか、かなり書店で迷った。表紙を見るだけで胸が締め付けられる思いだった。去年の夏休みに太平洋戦争と動物園、動物と戦争について かなり本を読んだ。人間と戦争の物語より動物の方がキツイ。なんら戦争と関係のない無垢な動物たちが戦争という人間の勝手で殺される事には耐えられないも のがある。日本では年間、10万頭近くの犬たちが殺処分されている。飼えなくなった犬、捨てられた犬、全てはペット産業が元凶となっている。しかし、読ま ねばならない。そう思って読んだがあまりの日本人のペットに対する命の関心のなさ、文明国とはとても呼べない行いに恥じ入る思いだった。

 

こ の本では対照的なドイツのペット政策を紹介されている。ドイツでは犬が飼えなくなった場合、ティアハイムという施設に引き取られる。ここで犬は警察官に よって見聞され、犬が不当な虐待を受けていないかどうか?どうして飼えなくなったのかなどの事情が聴かれ、もしも犬が虐待された痕跡があれば刑事事件とし て扱われる。ティアハイムに入った犬たちは広い自然光の差し込む部屋で暮らし、ドッグトレーナーや獣医が常に常任しているそうだ。ティアハイムには市民が 自由に訪れることが出来て、飼いたい犬があれば飼育条件や環境が整っていることが確認されると譲渡される。ティアハイムの犬たちは引き取られ中くても収容 されてから命を全うするまで期限はない。つまり殺すという発想など最初からないのである。ティアハイムがあるベルリン・リヒテンブルク区の区長は著者の取 材にこう答えている。

 

 

「動物を守ることに対して、国や自治体からの資金援助はほとんど必要ありません。個 人や企業の意識が高いからです。日本では年間10万匹の犬が捨てられ、ほとんどが行政によって殺処分されているそうですが、先進国としては考えられない行 為です。日本人には動物を殺すのは悪いことだという、基本的な啓蒙が必要ですね。」(P125)

 

 

ドイツで は犬やペットの命の権利が保障されている。そのため、生まれて8週間を経ない犬の販売は禁止されていて、ブリーダーやペットショップは8週間、専門の資格 を持った飼育スタッフによって厳しく法の規定に従って飼育しなければならない。犬を所有する以上、「犬税」が義務ずけられている。そのため、自然と大量に ペット犬を量産することは利益が上がらず割に合わない。そのため日本の様な市場経済のための大量生産、売れ残り、殺処分という流れは生まれない。7週齢を 経ていない子犬を親から無理やり引き離す事は犬のストレスによる心的疾患や内科的疾患を起こすパーセンテージが非常に高いと欧米の獣医学者によって指摘さ れている。そのため、ドイツでは8週齢まで親から子犬を引き離すことは法で禁じられているのだそうだ。日本では生まれると可愛い子犬の方が売れるので、す ぐにペットショップへ出荷される。ドイツでは「8週齢法」があるため、必然的に「赤ちゃん」犬がペットショップに並ぶことはあり得ないのだ。ドイツのブ リーダーは自分の専門職に誇りを持って働いているので、犬の命には特別気を使う。犬を飼うものは一日3時間以上の散歩や運動を行う事が義務づけられ、もし も、命を尊重しなかったり虐待した場合は刑事事件として警察に逮捕されるのだそうだ。ドイツでは命を預かる以上、人は必ず責任を持たねばならない。人間と 同じで殺すことは許されない。日本のペット産業は大量生産、大量消費、余れば処分。市場経済の歪んだ姿がそこにある。

 

 

去 年の夏、『かわいそうなぞう』や『そしてトンキーはしんだ』『諏訪山動物園物語』などで知られた上野動物園を始めとする動物園における「空襲に備えての」 猛獣殺処分について色々と本を読んだが、中には猛獣でない「アメリカ・バイソン」も「アメリカ」と名が付いているというだけで殺された。「空襲に備えて」 というのは単なる名目で戦意高揚宣伝のために国家と行政が動物の命を犠牲にしたのだ。東京都知事の命令によって疎開先まで決まっていた動物たちを国民に戦 局の深刻さを実感させるために「死んでもらわないと困る」と強行された。よく言われる軍命令ではなく、この一連の命への冒涜は文官(東京都知事の信念)に よって断行された。上野の後、全国の動物園がそれに習わずにならなくなった。ドイツから取り寄せたベルリン動物園の象を記録した本も読んだが、ホロコース トを行ったナチ政権下のドイツでさえ動物の殺処分は行っていない。戦時下で象に踏み殺された人間はいたが、象を殺すなどという発想はなかったのだ。ソ連映 画『ヨーロッパの解放』でも、ポツダムのティアガルテンに進撃したソ連兵が動物園の動物たちが平和に暮らしているのに驚く場面がある。

 

 

日本人はこの本を読むべきである。

 

自分の欲望やエゴのために、利益追求のために多種の命を疎かにし、苦痛を耐えるなど文明人とは言えない。

 

戦後ドイツがすべて良いとは僕は言わない。しかし、彼らは確実にあの第三帝国の13年間から文明人として動物からも信頼にたる市民に再生した。

 

日本人は戦時下となんら意識がここでも変わってはいない。

 

そのことが悲しく情けないと思うのだ。ペットショップのウインドウに楽しむことなかれ。

 

そこには彼らの命の痛みがある事を決して我々は忘れてはいけない。



 

川内康範は僕が敬愛する人の一人である。そう言うと「異議あり!」って聞こえてきそうな気もするがまずは先入観なしに川内康範を見つめてみたい。

この本は最晩年の2007年に書かれた語録である。川内康範にとっては遺言の様な書だ。字も大きくて読みやすい。

読 んでいて、そうだ!と膝を打つところもあれば、ええっ?と首をかしげたくなるところもある。この人は右派なのか左派なのか読んでいるうちにさっぱり分から なくなる。僕が長年に渡って川内康範に共感を感ずるのはそうした混沌とした中に見えるロマンティックな信念だ。信念がなければこれだけの事は言えないし出 来ない。自ら「文化やくざ」だと称し、森永グリコ事件では一憶二千万の私費を投じて犯人にこれをやるから子供を脅かすなと公表したりする。自民党のフィク サーであったにも拘らず、平気で反米主義的な事を行ったり、小泉政権を痛烈に批判したりする。そうした行為の一つ一つが川内康範の言ってることが支離滅裂 に感じられるのが普通の受け止め方だと思う。僕は川内康範の気持ちが何となくわかる。

 

僕が修士論文で取り上げた南京市民を 日本軍の暴虐から守ったドイツ人、ジョン・ラーベと通ずるものを感じる。ラーベの思想も川内康範の思想も誰も「こうだ」とは語れない、その人の何かしらの ロマンティックで、エキセントリック、良い意味での自己陶酔型ヒューマニストの信念なのだ。どの枠にもしっくりとはハマらない。言い換えれば期待する規定 の枠にはハマらないので得体が知れない人物になる。ジョン・ラーベは日本でも海外でも彼がナチ党員だったという事だけで評価しないという紋切り型の批判が 多い。日本では特にその傾向が強い。川内康範も思想的にどの位置かを規定せずにその著作を読めば彼の心が分かってくる気がする。本書もそんな一冊だ。


川内康範は右や左と思想的に分類することが出来ない人物だと僕は捉えている。

彼が月光仮面の流れで創作した子供向けヒーロー番組『レインボーマン』はその典型的なものだと思う。

『レ インボーマン』での主人公レインボーマンの敵、「死ね死ね団」は大東亜戦争期に日本の侵略、植民地時代に迫害を受けた人たちが狂信的に日本に対して憎悪を 持って作られた秘密結社である。首領のミスターK(平田昭彦)は狂信的に日本人を憎んでおり、彼自身、家族を日本軍に殺害されたという過去を持っている。 「死ね死ね団」は1970年代になって日本が経済大国になり、今度は市場経済でアジア侵略と搾取を行おうとしていると考え、その対抗策が日本人を皆殺しに するという選択なのだ。『レインボーマン』にはそれまでにヒーロー活劇では描かれなかった敵の大義がある。川内康範のこの仕掛けは「死ね死ね団」の様な結 社が生まれるような、過去を顧みずに飽食に進む日本の社会への鋭い批判なのだ。『レインボーマン』の主題歌も川内康範が作詞している。

その三番の歌詞はこう歌われる。

 

人間だれでも みな同じ

肌や言葉の 違いを除きゃ

みんな仲間だ そうなのだ

そいつを 壊すものがある

だから 行くのさ レインボーマン

 

 

川 内康範にとっての敵は「そいつを壊すもの」であって人間ではない。レインボーマンがオウム真理教の幹部に影響を与えていたなんて報道に接した時、苦い想い で受け止めたものだ。アニメ版『月光仮面』の冒頭では必ず川内康範の言葉「殺すな、憎むな、赦しましょう」が毎回、掲げられた。子供番組の中でのみ、川内 康範の「らしい」イズムは自由に展開されたと僕は思う。

 

著者は森永グリコ事件の「かいじん二十面相」へ一億二千万円やるか ら子供から手を引けと訴えかけたことが売名行為だと言われたが、その資金繰りに借金までして生きるか死ぬかの覚悟だったと書いている。結果、その訴えかけ は何の役にも立たなかったが、この事件で一人の死者も出なかったことを良かったとも書いている。また、自民党の各首相のフィクサーを務めた日本を愛する 「助っ人」と言いながらも、憲法九条を改正して集団的自衛権だの国際貢献だのと言って不戦の誓いをなし崩しにする政治へ強い批判を行い、国民全体が「不 戦」を表明する事こそまず肝要であって権力にはものを言わせない事が大事だと説く。明らかに彼の政治的行動に矛盾していると思われるだろうが彼の中では整 合性がとれているのだ。

 

こういう人物はなかなか、評価しにくい。いや、評価する側の問題なのかもしれない。

ジョン・ラーベが反ユダヤ主義者であったかどうか?ヒトラーを本当に尊敬していたかどうか?そんな事は本来、その人物の評価にとってはどうでもよいことではないだろうか。期待した物語の枠組みに入れようと無理やり評価するか、それでハマらなければ切り捨てて行く。

そういう批評で良いのだろうか?

 

川内康範も得体のしれない人物としてこれからも評価は曖昧に宙に浮いたままになるだろうと思う。

 

本書で川内康範は最後にこう記している。

 

窮地に陥った水原弘や三橋美智也、小林旭のことを私が放っておけなかったのは、自らの経験から彼らが傷ついた人の悲しみや苦しみを知っているからにほかならない。書き手もそうだが、歌い手や演じ手にも、人の志を理解できる経験が求められるのである。

人に感動を与える作品は、世代や時代を超えていく。

歌は人の志を運ぶ船である。