「『ラ ンボー』は何も考えないで観られる面白い映画だわ。」と一人の男が言い出した。もう一人の男が「そうそう!暴れまくるし、理屈抜きでカッコイイ。」ともう 一人の男がグラスを傾けながら言った。飲んでいる同じグループの女性はその男性たちの「面白い」という感想に真っ向反対して、「ランボーは暴れ回るだけ で、あんな映画のどこが面白いのか私たちにはわかんないわ。」と言った。
ある飲み会の風景である。
私はこの 状況を傍で小耳に挟んだだけの第三者だが、『ランボー』の評価がその程度のものかとがっかりしたものだ。もちろん、彼らが言っている「ランボー」とはカナ ダ生まれの作家ディヴィッド・マレルの小説『一人だけの軍隊』を下敷きにして映画化されたカナダの映画監督テッド・コッチェフのアメリカ映画『ランボー』 (1982年)のみを指しているのではないだろう。その後続いた『ランボー・怒りの脱出』、『ランボー3・怒りのアフガン』、『ランボー最後の戦場』まで 入り混じっての「ランボー」だろう。だから、彼らが「面白い」或いは「面白くない」と言っている「ランボー」は『ランボー』ではないのかもしれないが。
私自身は『ランボー』は類希なき戦争映画だと信じて疑わない。
心底惚れている映画の一つだ。戦争をひょいと街へ出かける日常という空間へ引き込んだこと。
欠点をあげればないことはない。原作を大きく変えてラストの締めくくりでランボーを投降させてしまったこと。敵対者の警察署長を生かしてしまったこと。
しかし、そこに目を瞑っても『ランボー』は「何も考えないで観られる面白い映画」という評価とは別のとこで滔々と流れる深遠な主題は色あせていない。
『ランボー』の魅力とはなんだろうか?
それは「一人だけの軍隊」であるグリーン・ベレーの帰還兵、戦争ゆえ社会からのドロップアウトを強いられたランボーというひとりの男の悲劇という側面を超えて観察するなら、敵対する警察署長ティーズルの存在がランボーと同様、あるいはそれよりも大きい。
ランボーという放浪者としての「一人だけの軍隊」と冴えない街の警察権力代表者としてのティーズルという「一人だけの警官」の対決である。映画はこの二人だけの対峙に幕を開け、最後には二人だけの対決へと導かれてゆく。
すべての事件の発端は流れ者のランボーがケンタッキーの片田舎の小さな街へやって来たこと。
何 もしていないランボーを面倒の種だとばかりに追い払おうとした警察署長ティーズルの行為から「戦争」は起こる。追い払っても街へ戻ってくるランボーに頭に きたティーズルはランボーを警察署に拘留。取り調べで警官たちが行った暴力がランボーのベトナム戦争でベトコンから受けた拷問のトラウマを呼び覚まし、彼 のグリーン・ベレーとしての植えつけられた本能が動き出す。
単にランボーは身を守るために起こした行動なのだが、ティーズルには予想もしなかった展開へと発展する。山狩りで警官隊は被害続出、やがて州軍まで出動してランボーを狩ろうとするが尽く返り討ちに会う。
ランボーは山から降りてきてティーズルの「俺の街」を徹底的に破壊する。軍警察隊も膨大な武力も何の意味もなさない事がわかったとき、ティーズルはランボーと同じ「一人だけ」の「警察」になって「一人だけの軍隊」と対決することになる。
原作小説ではかなり明確だが、最後ではティーズルは無意識の中で憎い敵であったはずのランボーと同化してしまう。逆にランボーに親愛の情さえ感じる。
そもそも、ティーズル署長とはどういう男なのか。
類 型を見出すなら、シドニー・ポアチエ主演の『夜の大捜査線』でのロッド・スタイガーが演じたビル・ギレスピー署長と同類の人物。小さな片田舎の街で治安を 預かる存在。法と秩序の番人を自負するあまりに自分と法が同化してしまい、街全体が「俺の街」と思い込んでいる男。彼の存在自体が街の規範だと思っている 人間。『夜の大捜査線』のビル・ギレスピー署長は最初から人間的弱さが見え隠れするが、『ランボー』のティーズルはそうではない。一貫して「俺の街」を守 る「法」なのだ。
原作小説の最後の結びにある様にティーズルが守ろうとしたのはあくまでも「街の平和」であった。彼は死の間際、事件が終 わって街に平和がやってきたことを知る。そもそも彼が守ろうとしたものは警察署長としての自尊心や誇りであったはずだが、基本は街の秩序を守ること。自分 のテリトリーを守ることだ。
彼は自分が帝王の様に思っているが、実は彼とて州から雇われたただの忠実な番犬なのだ。それは殺人マシンとしてトラウトマン大佐に育て上げられたグリーン・ベレーの兵士、ランボーと大差がない。
ランボーは合衆国による世界秩序と自由を守る尖兵という立場を既に辞してるが、ティーズルは街の秩序と自由を守る警官として現役なのだ。退役した軍隊の番犬と現役の警察の番犬の対決。しかも、退役した方が現役よりもひと世代若い。
ティーズルはその事に気付いてはいないが、「一人だけの軍隊」であるランボーと対決する内に知らず知らずの内に番犬という枠からはみ出して、一人の警官としてランボーに向き合う。
もちろん、ティーズルがランボーに一人で向き合う状況、或いは番犬という枠をはみ出すためには彼のすべての権力をランボーによって破壊されなくてはならない。果たして全てを失ったティーズルは一人でランボーと対決する。
映画として『ランボー』は他のアクション映画や西部劇などと同じく単純な決闘ものに見える。
と ころがそうではない。ランボーとティーズルの勝敗は観客の関心事であっても、映画『ランボー』が訴えかけてくるものはこの二人の戦争の言い知れぬ虚無感な のだ。彼らの戦争は発端となったティーズルによるランボーの偏見に満ちた街からの追い払いという下らない事から、やがては血で血を洗う殺し合うことにまで 拡大する。
しかし、ランボーが勝ってもティーズルが勝っても、そこには第三の視点がある。
それは番犬たちの飼い主の視点だ。物言わぬ合衆国という視点だ。
ランボーはベトナムで番犬として忠実に大量殺戮を繰り返してきたが、結果は敗れてお払い箱になって元の社会へ掃き捨てられた。その負け犬の番犬に現役の番犬ティーズルが噛み付いたのである。
番犬同士の小競り合いの結果、守られるはずの街の秩序と自由は完全に破壊される。
何のために誰のために番犬は戦うのか。何を守ろうとしたのか。映画が終わる瞬間、恐らく観客は言い知れぬ虚無感に襲われるだろう。全ては無駄なのである。
朝鮮戦争、ベトナム戦争を経て、なおもそこから逃れ来てもケンタッキーの片田舎では相変わらず秩序と自由を守る番犬が配置されている。(原作ではティーズルは朝鮮戦争に従軍していた経験を持つ事が語られる)
幾らかの名誉と権力という餌を与えて番犬は忠実に秩序と自由を守ろうとする。その仕掛けがランボーとティーズルの悲壮な殺し合いを招く。結果は何も守ることはできないばかりか全てが破壊され尽くされるのである。
それでもなお、街は戦争の集結で平和になったこととされる。
原作では一個の人間としてランボーとティーズルは対決し、両者がサシで撃ち合って相撃ちとなって双方が死亡する。一個の人間となったティーズルは死の間際街が平和を取り戻した事を感じる。これが最後の一行だ。彼はまた番犬として死んでゆくのである。
平和は守られたのだろうか。
誰もが秩序が回復し、平和が戻ってきたと思うだろう。
しかし、それは偽善に満ちた見せかけ平和にほかならない。
番犬同士の噛み付き合いさえなければ平和の破壊はあり得なかったのだから。
映 画『ランボー』では原作を改編してラストではランボーもティーズルも生き残る。しかし、双方は敗北している。ランボーは投降し逮捕され、ティーズルは半死 半生の重傷を負って病院へと送られる。勝者はどこにもいない。残るのは見せかけの秩序の回復と欺瞞に満ちた平和の再来のみである。
二度の世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争・・・アメリカ合衆国の番犬政策は絶えずランボーとティーズルの悲劇を生み出してきた。誰も気がつかないままに守るべき必要のない秩序と自由を守り続けてきた。
更にこの映画の後に続く湾岸戦争、イラク戦争とアメリカ合衆国の番犬による欺瞞に満ちた正義と呼ばれるシステムは延々と生き延びている。
『ランボー』が我々に語るのはこうしたアメリカ合衆国の奇形的平和精神と平和認識が抱える矛盾である。
『ラ ンボー』は決して「理屈抜きに楽しめるアクション映画」でも「何も考えないで観られる面白い映画」でもない。全編に渡って映画が訴えるのは何が彼らを戦争 へと駆り立てかななのである。その点ではアメリカ人がアメリカを批判して止まないアメリカ社会批判を滔々と蓄えた戦争映画なのだ。
もし、あなたが『ランボー』をバーのカウンターで気心知れた仲間たちと語るとき、その前にもう一度この映画を見直して欲しい。
もちろん、上に述べた『ランボー』は私が考える『ランボー』である。
たった一人が権力に対して蜂起するレジスタンス映画とも捉えることが出来ようにし、或いは階級社会闘争的な表彰としても捉えうことも出来るだろう。
私が言いたいことはこれほどの深い力作を単なるアクション映画という烙印を容易く捺して欲しくはないということだ。このささやかな願いを少しだけ受け止めて欲しいということなのである。