「映画は見るものではなく読むものである。」
1970年代に角川映画が人気を集めていた頃「読んでからみるか、みてから読むか」というキャッチコピーが流行した。読むにしても観るにしても映画化作品と原作小説では小説に軍配が上がると信じられている。
映画は原作に対する補助的な大衆娯楽の一つだと考えられがちだ。
何故、原作小説に映画化作品が勝てないかというと、原作小説は映画から作られたものだからだ。
小 説を書く者なら恐らく想像がつくだろうが、小説を書くという作業は予め作家の頭の中に理路整然と構築された映像と音声のイマジネーションを文字に書き記す るすということだ。本の読み手は作家が予め思い描いた映画を活字を通して読み手の中で映画を再構築する。読み手は無意識に映像を頭の中に想像力で組み立て ている。 映画と違う点は、本で観る映画は読み手の数だけ存在するという点である。
小説を読むという作業は映画を読むことであり小説を観ることである。
小説はそもそも映画であったと考えられる。その映画が活字化され、更に上映される映画にされる。
映画は小説の活字を通して更に映画へ回帰される。
映画を観る者は映画を今度は頭の中で活字化する作業に迫られる。それは小説で書き込まれた映像と音声以外の部分を補う作業だ。
原作を持たない映画の場合はシナリオ作家によって小説家の作業が代行する。ここで読まれなくてはならない映像と音声以外の書き込みはト書きとなる。
ト書きは映像には表れない。また小説の補足部分の様に内面の感情表現も書き込む事は出来ない。
映画は映像と音声のみによって表現されるのでシナリオもまた小説と同じく映像化されない部分は切り捨てられる。しかし、活字化される前に小説家同様すでに作家の中には映画がある。
どれだけおバカな映画であっても映画作家の主張は隠されている。それは時として社会的であり、政治的であり、歴史的であり、倫理的な主張である。ただし、それを見つけることは容易ではない。
書籍なら読み手の時間の範囲で吟味できるし、書籍は文字によって幾らでも作家の主張が書き加えることが可能だからだ。映画は画面の中に映し出されるものが、ただそこに存在しているだけで、その写っているものについて外部からの解説も補足説明もない。
映画は本と違って読み手の時間のペースで読ませてはくれない。1秒間24コマというスピードで映画が始まれば止めることが出来ない。その範囲で映画を全て読みきることはなかなか難しいことだ。
もちろん、ビデオやDVDの普及によって家庭で何回も同じ場面を観たり、何回も台詞を聴き直したりも出来るようになった。我々は本や漫画が理解できない場合、ページを開いたまま何度も同じ行を読み返したりコマの情報を注視したり出来る。
そういう習慣は私たちは生活の中で身につけている。しかし、私たちには映画のDVDを細かく静止させて読み解こうなどという作業は習慣として定着していない。恒常的にしている者はよっぽどの映画愛好家か、または評論家や研究家だろう。
そこで、観衆の代わりにその作業を手伝ってくれるのが映画評論家の仕事である。
映画評論家は映画を読んで、活字化されていない部分を解読して映像を活字に回帰させる。
映画を小説化するノベライスという作業は究極の映画評論であると私は考える。ノベライスする作家は映画では書かれない人物の内面の感情などを読み解き活字で再発信するからだ。
映画評論は映画の善し悪しを判定するものではないし、カメラワークや役者の演技、特殊撮影技術などに過度に囚われては映画の活字化という最も重要な作業が損なわれてしまう。
名 匠黒澤明が松竹時代に助監督たちへ残した言葉がある。それは映画を作るなら推理小説を読めという言葉だ。この言葉には映画のプロット造りなどの意味も含ま れるのだろうが、映画の謎の部分、活字でしか表現できない部分を「謎」として観客に送る作業だとも考えられる。映画を観る者は自然に探偵となり映画の言わ んとするところを読もうとするはずである。
映画を読むという大切な仕事を担った映画評論家が読み間違えるとその映画の評価は大衆に大きな影響を与えてしまう。例えばある映画を意味のないおバカな娯楽作品だと判定を下してしまえば、それはそのまま大衆の解釈に結びついてしまう。
映画は1秒間に24コマ流れるものであり、デートの暇つぶしのお供であり、そうした娯楽だと信じられているからだ。
映画を読む作業は映画の資質を問うものであり、映画評論という作業の責任は本来大きいはずだ。
リ ドリー・スコット監督の『プロメテウス』は彼の監督作品『エイリアン』の前日譚として造られた映画だった。このグロテスクで大掛かりなSFホラー映画は大 した評価も受けなかった。映画ファンのレヴューでも散々だった。この映画に社会性とか政治性を読まれた形跡は筆者が今まで読んだ日本での映画評論にはな かった。読み解くものは『エイリアン』や『ブレード・ランナー』などに目を奪われる。スコットの映画作家としての語りや技法について読み解こうとする。
筆者はこの映画を劇場で一回観ただけであるので詳細に読み解けたかというとそうではない。ただ映画の中盤で宇宙船乗組員が惑星探査する際に洞窟で見つけた無数に折り重なった宇宙人の死骸を見ながら「ホロコーストの写真の様だ」というセリフがある。
地球から遠く離れた宇宙の惑星で、しかも遥か未来の物語で「ホロコースト」という発想は如何にもSF的ではない。この言葉は恣意的である。
「ホロコースト」という何気ない一言を証拠物件に探偵となって『プロメテウス』を読めば、この映画は人種主義問題への一つの啓蒙作品だと読み取れる。
完 全無欠のギリシャ彫刻を思わせるような筋骨たくましい人類の祖先エンジニアが雑多な人類の種を滅ぼすため地球へ向けて悪のDNA兵器を地球へ打ち込もうと するラスト、宇宙船プロメテウスはエンジニアの宇宙船に体当たり攻撃をかける。 このプロメテウス号で体当たりする乗員はブラック、東洋人、アングロサク ソンという3人。 エンジニアの惑星はDNA兵器の実験場であった。無数に折り重なった宇宙人の死骸、「ホロコースト」という言葉から読み解けば、エンジ ニアはアーリア人種を、雑多な進化を遂げた地球人類を滅ぼそうとするDNA兵器はナチの優生学思想を示している。それに対抗するのはブラック、東洋人、ア ングロサクソンなのだ。
エンジニアが死滅した後、エンジニアによって頭をもぎ取られ、半死半生になりながらも生き残ったアンドロイドの名前 は「ディヴィッド」。ディヴィッドを演じた俳優はアイルランド人を母に持つドイツの俳優ミヒャエル・ファスビンダーである。(彼はタンランティーノの『イ ングロリアス・バスターズ』にも出演している)『プロメテウス』は他のハリウッドで制作され続けている反ユダヤ主義に抵抗する「反ナチ戦争映画」の変形な のだと理解できる。
これは一つの映画の読み方であり、もちろん状況証拠を積み重ねた結果の推理でしかない。余りにも単一的なレヴューを目にして、一つの例として考えたまでだ。 あるいは、この様な読み解きは「考えすぎだ」という答えが帰ってくるかもしれない。
まさにその通りだ。しかし、「考えすぎだ」という判断は既に娯楽映画は政治や社会を語らないという根拠のない観念から出発している。
凡そ映画というものは政治的であり社会的である。娯楽作品だからという烙印で最初からそのメッセージを読み解く努力が失われたら映画はさらに衰退するのではないだろうか。
どんなおバカ映画であろうと読むなら真剣に読破したいと私は思う。