予告編だけ観れば戦争アクション映画だと人は思うかもしれない。第二次世界大戦末期、東部戦線に出没するドイツの白いタイガー戦車。亡霊の様にホワイト・タイガーは現れ、ソ連戦車を次々に撃破して行く。
ホワイト・タイガーを仕留めるべくベテランの戦車兵が集められ、死闘が開始される。
こう説明すると娯楽作品に聞こえる。しかし、この映画、深遠で哲学的でニューシネマ的。ソクーロフやヴェンダースの様な作風。
傑作か?失敗作か?
判断が難しい。僕的には久しぶりにすごい映画を観たという気分だった。
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第二章 堀越二郎と『風立ちぬ』
宮崎駿の映画『風立ちぬ』の主人公は堀越二郎である。
堀越二郎は日本海軍の零式艦上戦闘機(通称零戦またはゼロ戦)を設計した事で知られる三菱重工の航空機開発部にで活躍した実在した人物だ。
宮崎駿が漫画『風立ちぬ』を連載した『モデルグラフィックス』の読者であれば恐らく堀越二郎の名を知らぬものはいないだろう。少なくとも軍事オタクで軍用機マニアなら奇跡の戦闘機零戦の設計者堀越二郎については熟知しているはずである。
1970 年代には堀越二郎自身が零戦開発を巡る回想録を書き記しているし、マニアならそれらの書に目を通していても不思議はない。だから、『モデルグラフィック ス』誌上で宮崎駿が堀越二郎を主人公にした夢のフィクションドラマを描いたとしても軍事オタクたちの中で実在の堀越二郎の実像は決して揺らぐこともない。 言うならば軍事オタクたちは宮崎駿と共に堀越二郎と日本海軍航空隊の航空機開発を史実に沿って荒唐無稽に変換された物語の中で自由に遊ぶことが出来たので ある。
堀越二郎は零戦開発者の一人である。彼は設計主任であった。
その最も重要な設計という部門で彼は大いに力を振るった。
彼 の功績は零戦開発ばかりが語られるが、日本海軍戦闘機で初の単葉全金属製の「九試単座戦闘機」を設計し、その実用型の「九六式艦上戦闘機」を世に送り出し た。「九六式艦上戦闘機」は日中戦争における初期の海軍航空作戦で主力戦闘機となった。その後継機が「零式艦上戦闘機」(零戦)であり、太平洋戦争突入後 は国内の防空戦戦闘のための短距離陸上発進型の防空戦闘機「局地戦闘機・雷電」を設計した。
最後の仕事は零戦の後継機「十七試艦上戦闘機・烈風」の設計開発である。
「十七試艦上戦闘機・烈風」は実用化に至らなかったが「九試単座戦闘機」と「九六式艦上戦闘機」、「局地戦闘機・雷電」といった零戦以外の堀越二郎の設計担当機は軍用機マニアの中では零戦と並んで有名であり重要な機体なのである。
しかし、世間一般では殆ど知られていないにもかかわらず堀越二郎は零戦設計者の冠が常に付き纏う。
堀越二郎が有名であるというよりも零戦が余りにも有名であるからだ。
『風立ちぬ』を待たずして堀越二郎は漫画や映画にすでに登場している。
1974 年に刊行された立風書房の少年向き画報『太平洋戦争 日本の飛行機』の中に収録されている『劇画・零戦一代記・ゼロのすべて』の中にも堀越二郎は設計開発者として登場している。31ページの零戦誕生から太平 洋戦争集結に至る物語の中で堀越二郎は7ページに渡って登場している。
(桜井英樹『太平洋戦争 日本の飛行機』.立川書房. 1974年. P63-69)
この劇画には名前だけだが零戦の試験飛行で殉職した名テストパイロット下川大尉も登場している。
零戦開発では堀越二郎と並んで有名な人物である。
零 戦誕生から太平洋戦争集結までを描いた1981年の東宝映画『零戦燃ゆ』(舛田利雄監督)では堀越二郎を北大路欣也が演じている。ここでは下川大尉を加山 雄三が演じ、日本海軍航空隊の戦闘機登場員としての立場から零戦開発に深く関与した小福田 租海軍大尉をあおい輝彦が演じた。またこの映画では東條英機の実子であり零戦開発チームに参加し、戦後国産旅客機YS11の開発に当たった東條輝雄(宅麻 伸)も登場している。
アニメやゲームといった文化が成熟していなかった1970年代の小中学生にとって太平洋戦争の航空機 や艦船はプラモデルと共にホビーの王道だった。それに関する書籍も数多く出版され、そこのには零戦が花形であり堀越二郎の名も必ずと言っていいほど記され ていた。将来の軍事オタク候補生たちは既に堀越二郎を知り、成人になってから『零戦燃ゆ』などの映画でもはっきりと認識することが出来たはずだ。
この様に零戦と堀越二郎は常にワンセットとしてパッケージになっていた。
零戦開発といえば堀越二郎であり、堀越二郎といえば零戦なのだ。
そして、『零戦燃ゆ』における登場人物を見ても分かるように堀越二郎を巡る零戦の開発メンバーの殆どが軍人であり、また登場する民間人技術者もも実父が陸軍大将(東條英樹)であったりと軍事的な彩が強いものだった。
実在した堀越二郎自身はどうであろうか。
彼 は戦後、航空機開発についての著作をいくつか残している。それを辿れば堀越自身もまた零戦 開発についての苦心談や成功に纏わるエピソードを淡々と書き綴っている。ここにあるのは理系の技術者としての堀越二郎である。彼は特攻隊や終戦時の感慨に ついても書き記しているが自身の零戦開発をそれによって否定する傾向は見られない。九試単座戦闘機の開発成功から発展型九六式艦上戦闘機、続く零式艦上戦 闘機の開発。堀越二郎自身も自分が「零戦開発者」であることを自認しているのである。
軍事オタクや宮崎駿が抱いている堀越二郎像もやはり、劇画、映画、自伝におけるそれと同じであったろう。
零戦は日中戦争で試験的に前線に投入され、やがて太平洋戦争では真珠湾攻撃から沖縄特攻まで一貫して海軍航空隊の主力戦闘機だったのである。
零戦は開発の途上で軍の機体性能への要求が大きすぎたため、運動性能と軽量化のため防弾設計を軽んじたために多くの将兵の命が失われた遠因となったことも戦後指摘されている。海軍の特攻機の主力はもちろん零戦でもあった。
零戦と設計者堀越二郎を巡っては栄光の戦闘機という賞賛の影にこうした忌まわしい事実も見え隠れしている。
そ の零戦の設計者堀越二郎を主人公にしたアニメ映画を制作するとなれば軍事オタクの反戦主義者を除く多くの反戦主義者は「あの宮崎駿が零戦の設計主任を主人 公に映画を作るんだって?」と眉をひそめたであろうことは容易に想像が付く。具体的にその反発を顕にしたのは韓国の大衆だった。
日本では殆ど誰も反発しなかったが、恐らく公に語らなかっただけで同じ疑問を感じたものは多かっただろう。
ドイツの新聞"Die Zeit"の評論でも反戦主義者宮崎駿が兵器を礼賛する作品を作ることに疑問を呈したのも同様の反応である。
引退宣言の記者会見で宮崎駿が韓国の記者に対して「映画を観てから議論して欲しい」と言った言葉はとりわけ重要である。
零戦=堀越二郎という観念が映画を観る前から人々にある一定の先入観念となって作用したことは否めない。
元はといえば軍事オタクに向けられた限定された趣味世界の漫画であった『風立ちぬ』。それを一般大衆向けに発信するには恐らくその間に何らかの調整は必要である。
何故なら軍事オタクほどに一般大衆は戦争について詳しくはないからだ。
宮崎駿は果たしてこの問題をどのようにして解決したのだろうか?
「映画を観てから議論して欲しい」の言葉にはおそらくは反戦主義者宮崎の「調整」にかける自信があったに違いない。
軍事オタクのために書かれた漫画を一般大衆に向けて今までの宮崎駿作品と思想的に何ら乖離のないものを作るということは宮崎駿にとって大きな試練だったに違いない。
零戦=堀越二郎という一般的認識に対して、映画『風立ちぬ』が、どう発信してゆくか。それは宮崎駿という映画作家の手腕にかかってくるのである。
(第三章につづく)
第一章 軍事オタクと宮崎駿
1.映画『風立ちぬ』への批判
「軍事オタクは平和主義者か?」
結論から言えば是である。
ミリタリー・マニア、ミリタリー・オタク、軍事マニア、軍事オタクなど色んな呼称があるが、これらに該当するいわゆる、「ミリオタ」と呼ばれる人の中には平和主義者や反戦主義者が何故か多い。
特に第二次世界大戦やベトナム戦争などを背景にしたマニアたちはその傾向が特に強い。
最近、宮崎駿のアニメ映画『風立ちぬ』が公開されその内容から韓国では「日帝時代」を謳歌するものではないかという見方も生まれ批判の対象ともなった。
これに対して宮崎駿は引退会見で韓国の記者に対して「映画を観てから議論して欲しい」と答えている。
そう、映画を判断するためにはまず、映画を見なければならない。もちろん、そこにイデオロギーやそれを後押しするものが隠れているかもしれない。しかし、それは映画を観ない限りは判断できない。
ド イツの新聞"Die Zeit”では「宮崎駿の様な反戦主義者が何故に武器を礼賛する作品を作ったのか理解に苦しむ。」という趣旨の論説も見られた。このドイツ人の反応は至極 真当なものだ。もしもドイツでロケット兵器V2号を設計開発したヴェルナー・フォン・ブラウン博士を主人公にして『風立ちぬ』の様なアニメ映画を制作した としたら、恐らくドイツ国中からあるいは諸外国から叩かれることは必至である。
現代史と常に緊密な関係にあるドイツ人たちには恐らく極東の 同じ敗戦国、「日本」の文化活動に大いに違和感を感じるだろう。『風立ちぬ』はたまたま海外でも評価の高い宮崎駿の作品だったために槍玉に上がったに過ぎ ない。『風立ちぬ』の様なドイツ人の常識では測れない戦争を主題にした映画作品は日本では幾らでも存在する。
現在までの宮崎アニメを見れば『風立ちぬ』は史実を下敷きにした兵器開発に当たった実在の人物を主人公にした異色作である。
しかし、このドイツの記者も宮崎駿が軍事オタクであることを指摘してはいない。或いは知らないのかもしれない。
軍事オタクで反戦主義者という宮崎駿の「矛盾」はドイツだけでなく、我が国の世間でも恐らく「矛盾」として捉えられることだろう。しかしながら少なくとも我が国においては「軍事オタクで反戦主義者」という現象に全く「矛盾」はないのだ。
『風立ちぬ』を考える時、この作品の原作がプラホビーの専門誌『モデルグラフィックス』に連載されていたことと、軍事オタクについて考えなくてはならない。
そこから始めない限り、宮崎駿が何故、『風立ちぬ』の映画化に当初難色を示したのか?何故、反戦主義者の宮崎が戦闘機を設計した技師を主人公にした作品を作ったのか?その謎を解き明かすことは困難だからである。
2.軍事オタクの世界
軍事オタクにも色んな人がいる。
戦史に興味がる人、武器に興味がある人、軍隊や装備品(軍服など)に興味がある人・・・様々だ。
戦 史に興味がある人は山のような文献を揃えて読みあさり、軍の作戦行動、とりわけ勝利や敗北に至る行動を分析したりして楽しむ。武器に興味がある人は所有で きない武器の数々を模造品で楽しむ。モデルガンやエアガンといった小火器。戦車や軍用機等大きなものは模型を制作したりあるいは完成品を買って集める。
装備品に興味のある人はアンティーク品として戦時中の実際の軍服や勲章徽章を集めたり、レプリカと呼ばれる模造品を集めたりする。軍服の場合は自ら着用して楽しむことももちろんある。また、1/6サイズのフィギュアで各国の兵士をコレクションする人もいる。
まずは軍装品マニアから見てみよう。
軍服で特に人気が高いのは第二次世界大戦中のドイツ軍、つまりナチス第三帝国の軍装だ。
小説家の安部公房はエッセイ『ミリタリィ・ルック』でドイツ軍の軍装の魅力について分析しているが、そのデザインが完全無欠であり、なお実用性を失わない点を指摘している。安部公房が指摘するに及ばぬ程にドイツ軍の軍服は大へん魅力的である。
それ故、ファンも多いのだ。
軍装オタクの多くの人々がドイツの軍服に魅せられる。
彼らは軍装について徹底的に調べ上げ、より史実に近いコンビネーションとコーディネイトを考える。
何よりも重要なのは「本物らしさ」なのである。
ところがナチスの軍服には常に忌まわしさが付きまとう。
ドイツでなくても日本でも「ホロコースト」の記憶は鮮明だ。
ド イツの軍服とひとくちに言っても色々と分類される。純然たる陸軍である国防軍、空軍、海軍、加えて陸軍の補足戦力ともなったヒトラー直属の戦闘部隊である 武装親衛隊(WaffenSS)。強制収容所を管轄していた一般親衛隊やゲシュタポ(国家秘密警察)。共通しているのはナチスの紋章鷲と鉤十字が必ず付い ていることである。
ドイツ本国ではこの様な軍服の着用は法律によって規制されているが日本では問題がない。
軍装マニアは軍服を着用したいという衝動に駆られつつも軍服を公衆の面前に晒すことはない。
彼らは軍装パーティーであるとか仲間が集まるイベントで自慢の軍装を披露するのである。
一定の閉塞した空間だけでそれは仲間内で公になる。
親衛隊の制服を着用する人々も多くが武装親衛隊を好む。
陸軍部隊と近い関係にある戦闘部隊としてのSS(親衛隊)である。
彼らの頭の中では強制収容所でユダヤ人らを虐殺した一般親衛隊員と武装親衛隊員は厳密に分類されて存在しているが、世間一般ではそんな分類は知識として普通はない。ナチはナチである。だから、そのような忌まわしいアイテムを公衆の面前に晒す事は彼らはしない。
彼らの中にはカジュアルにナチの軍服を街着として使用する人も希にいる。
しかし、その多くは武装親衛隊の迷彩上着やアノラック程度で、如何にも制服然としたM35型戦闘服や全身黒づくめに鉤十字の腕章を着用するアルゲマイネと呼ばれるナチの制服は着用しない。
彼らは公衆道徳を実に弁えているのである。
彼らの中でヒトラーやナチズムを信奉する人は殆どいないと言ってもいい。
何故なら彼らは軍装に親しむ上で歴史を学びナチズムとその歴史の悲劇を十分に知っているからである。
次は銃器マニアである。
日本では銃刀法が厳格であるため模造銃といえど規制は厳しい。
銃を好む軍事オタクが取り扱うアイテムも色々だ。リアルな作動を再現したモデルガン、外観が本物そっくりで6mmのプラスチック製のBB弾を射撃できるエアソフトガン、歴史的な実銃を加工して完全な無可動品にした無可動実銃、無可動実銃に近い装飾用のデコガンなどである。
近年、最も人気が高いのは実際に弾が出る玩具銃としてのエアソフトガンだ。
発射機構として空気圧縮、ガス圧、電動モーターを使用し、それぞれエアガン、ガスガン、電動ガンと呼ばれる。
これらの玩具銃は玩具といえど危険を伴う品物である。
飛距離が十数メートルとはいえ、至近距離からなら負傷を負わす可能性もある。
こうした玩具銃は威力によって18歳未満は所有できないものが殆どで、威力が更に小さいタイプでも10歳以上でないと所有できないことになっている。
エアソフトガンのマニアはこうした玩具銃を街中で晒したりは決してしない。
ましてや街中で発射したり、動物を撃ったりはしないものだ。
彼らは自宅の一室で安全を確保しつつ射撃を楽しむ。これは「お座敷撃ち」と呼ばれている。
屋外で撃つときはエアソフトガンの屋内ゲーム場やフィールドと呼ばれる許可された場所のみで戦争ゲームを楽しむ。もちろんゴーグルを着用し、規制内の威力を持った玩具銃を使用することを常とする。
ひとつの巨大な市場を形成しているエアソフトガンの世界で既に何万と生産され続けてきた玩具銃が日本の各地に所持登録不要のまま存在している。
そんなおびただしい数のエアソフトガンで乱射事件はごく希にしか起こらない。
発生してもよく注意してみると軍事オタクではなく中高生などの未成年や軍事オタクではない無軌道な成人男性によって引き起こされるケースが殆どである。
エアソフトガンのファンたちは決められたルールに則って限定された場所のみでそれを楽しんでいるのだ。
次にモデラーと呼ばれる大型兵器の軍事オタクたち。
軍 装や銃器と違って身体と直接関係を持たない小さな模型で楽しんでいる彼らは公衆に直接迷惑行為に及ぶことはない。しかし、彼らとて自分たちが取り扱って愛 好しているものが殺人のために開発された兵器であることを十分に理解している。モデラーはプラホビーというもので、戦車や軍用機を実物そっくりに再現す る。
拘りが強いモデラーは洗車の塗装やマーキングを架空のものを作ることを好まない。
例えばドイツの6号戦車(タイガー戦車)が実際には所属していなかった部隊のマーキングや塗装をする様な事を嫌がる。あくまでも史実通りに再現することを追求する。
知人のモデラーはモデルを作れないファンに有償でキットを組立て塗装することを生業にしているが、彼はクライアントからの「架空塗装」の依頼を断り続けている。
何故かと聞けば、兵器に纏わる塗装やマーキングはあくまでも歴史であるという。歴史を捏造して屈折させたモデルを作ることは出来ないという。
軍事オタクにとって軍装や銃、戦闘機や戦車に心奪われるのはそのデザインやそれに伴う機能美だ。
その反面で彼らはそこには戦争という背景があることも十分に認識しているのである。
彼らの多くは宮崎駿が持っている「矛盾」を抱えている。
それは軍事オタクでありながら反戦主義者であったり平和主義者であったりする矛盾である。
こうした「矛盾」はどうして生まれるのであろうか。
それは軍事オタクの殆どが軍事のアマチュア研究者であるからだ。
彼らは愛好する対象に伴って歴史を学ぶ。
それは対象に関しての豊富な知識を得るためには史学的な活動が必要とされるからだ。
歴史、戦史にアプローチすることは戦争をより深く知ることにつながる。
一般的な人々より軍事オタクは戦争というものに近いところで活動している。
戦争についての知識も深く、その本質も知り抜いている。
そうした知識が軍事や兵器を愛しながらも戦争そのものは悲惨で幸福を呼ばないことを自覚させるのだ。
一見矛盾に見えるこの現象は彼らの中では論理的に矛盾ではないのだ。
軍事オタクの多くの人が戦争を大量殺人であることを認めながら軍事がその暴力装置であることをよく理解している。
例えば、戦争の殺人性や軍事の暴力装置的性質を理解していない、あるいは認識が希薄な一般大衆に軍事オタクが好むアイテムを与えればどのような反応を示すだろうか。
仮に街中でエアソフトガンを無差別に一般大衆に無料で大量に配布したなら、たちまち秩序は崩壊するだろう。各地で乱射事件が起こったり、騒動の原因となる。
それは容易に想像できる事だ。
軍事オタクは軍事を愛好する上でイデオロギーを意識していない。
例えイデオロギーを持っていたとしても軍事オタクとしてのもう一人の自分とは直結していないケースが多い。
ただ、戦争と暴力を意識し、自分たちが愛好するものが危険極まりないことを知っているだけなのである。
彼らは限られた「暗黙の了解」を有する場所でそれを楽しむに過ぎない。
3.軍事オタクとしての宮崎駿と『風立ちぬ』
宮崎駿の『風立ちぬ』という作品は先に述べた軍事オタクの特有の世界観に存在しているという側面を持っていたと考えられる。
軍事オタクとして宮崎駿は大日本絵画の『モデルグラフィックス』という軍事オタクやミリタリーファンが集まる戦争というものの本質を弁えた暗黙の了解の範疇で『風立ちぬ』を連載していたのである。
彼とて『モデルグラフィックス』の中に一歩足を踏み入れれば、軍事オタクの一人にでしか過ぎない。
それは軍装マニアの軍装パーティーという集会であり、エアソフトガン愛好家のフィールドでの戦争ゲームでもある。
宮崎駿は安心しきってそこで堀越二郎についての物語を自由にのびのびと展開したことは容易に想像が付く。
そこでの戦争の取り扱いは十全に軍事マニアたちの間で了解されているからである。
つまり、軍事オタクは一般大衆よりずっと深く戦争に触れ親しんでいるのである。
兵器や軍事で戦争を意識する。それは歴史家あるいは思想家たちとはまた違った戦争へのアプローチであり世界でもある。
宮崎駿もその世界の住民の一人である。
宮崎駿は一人の趣味人として『モデルグラフィックス』の中で分かる仲間と『風立ちぬ』を楽しんだに違いない。
ところが、ジブリの鈴木プロデューサーから一般向けのアニメ映画化の企画がもたらされる。
宮崎駿は最初は難色を示したという。曰く『風立ちぬ』は子供向けではないから。噛み砕いて解釈すれば「軍事オタク向けであるから。」ということだろう。
軍事オタクだけに止めた閉塞的な良識を保った世界で展開された漫画を不特定多数の一般大衆に向けてアニメ映画化し公開するのである。
それは先に筆者が空想として例に挙げた「街中でエアソフトガンを無差別に一般大衆に無料で大量に配布したなら、たちまち秩序は崩壊する。」という危惧にも似た感情が宮崎駿の中にあったに違いない。
戦争に免疫のない大衆は簡単に戦争というロマンに感染してしまう。
『宇宙戦艦ヤマト』だ『機動戦士ガンダム』だと・・・。
宮崎駿は軍事オタクとして恐らく誰よりもそのことを知っているに違いない。
果たして、軍事オタクの世界で生まれた『風立ちぬ』は一般大衆向けアニメ映画として製作された。
後は宮崎駿がどうやってこの映画を大衆に与え渡すかにかかってくるのだ。
そのためには『風立ちぬ』をよく観察し分析しなければならない。
では引き続き本編を見てみたいと思う。
(つづく)
『華氏451』。本を読むことも所持することも法の名のもとに禁じられた世界の物語。
本を隠し読む、隠し持つものは逮捕され、本はfireman(消防士)によって捜索され集められて火炎放射器で焼き尽くされる世界。焚書が社会正義である世界の物語。
原作はアメリカのSF作家レイ・ブラッドベリ、映画化はフランスの映画監督フランソワ・トリフォー。
本が電子ブックに勝るのは何故なのか。
それは恐ろしく大きなその面積だ。
電子ブックのディスプレイはせいぜい5~9インチ程度。
紙の本は一冊が200ページとしてディスプレイ一枚分の実に200倍の面積を持っている。
ページをバラバラにして並べるとその面積は一体、何平方メートルになるだろうか。
その面積にびっしりと人間の知恵が文字として書き込まれているのである。
この面積と体積を考えれば人は自ずと本を畏れる。
本を踏むことも出来ないし、本を投げることもできない。
それは本が面積と体積を持った一つの生き物だからだ。
我々は古書店に入った時、異様な生命力に圧倒される。
本一冊一冊が染み込ませてきた人の生活の匂いをたっぷり吸い込んで呼吸をしている。
古びた紙にカビが生えて香しさをつのらせている。
同じことは映画にも言える。35mmのフィルム一コマの映像が1秒間に24コマ。
金属製のフィルム缶に収められた映画フィルム8~10巻の面積と体積は一枚のブルーレイやDVDでは考えられない畏れを感じさせる。
こうした点では本も映画も兄弟のような関係にある。
だから、『華氏451』においても原作と映画は密接な関係にある。
その内容が著しくかけ離れていようとも、本の面積と体積。その命について、あるいは焚書について語りかけてくるものには大差はないのだ。
本を焼く。
それは一つの命を奪いことだ。
焚書の経験があるかどうか。
それは殆どの人が経験しないことだろう。
子供の頃、私はその貴重な体験をした。
私は小学生の頃、焚書を嫌々ながら行ったのだ。
担任教師の命令によって数十冊の不要になった本を学校裏門の片隅にあった焼却炉で焼いたのだ。
ゴミ焼き用の焼却炉。丸めた新聞紙を燃やして火種にした。
本を放り込む。一冊、二冊、三冊。
しかし、驚く程に本の生命力は強い。
燃えないのである。放り込まれた本はオレンジ色の炎の中で幾分か煙を燻らせるだけで、その原型を必死に留めめようとしている。
燃えなくては困る。担任に平手打ちを食わされるから知恵を絞る。
本は開いて放り込めばいい。分厚いハードカバーが中身を守る事を許さない様にすればいい。
後は破ることである。
これにはかなりの抵抗がある。本が好きな人間にとって本を焼くことですら苦痛である。
その上、破るなど更に苦痛を味わう事になる。
しかも、布張りの頑丈な本は破ろうとしても思いの外手強い。
一頁一頁、破りながら燃やしたのでは日が暮れる。
とにかく本を開いて可燃面積を最大限になるようにぼんぼん焼却炉に放り込むしかない。
ようやく燃え始めた本を焼却炉の中に見た。
轟々と炎の渦の中で頁がメラメラと燃えて黒い灰になってゆく。
覗き込む顔が恐ろしい熱気に焼かれそうになる。
人の知恵が書き込まれた膨大な情報が瞬時にして灰になってゆく。
私はその光景を見ながら恐怖と興奮を感じた。
それは言い表せない感情だ。
恐ろしいことをしているという感情と、人間の知恵によって生まれた命がそこにメラメラと音を立てながら消えてゆく様に対するある種の快感である。
あたかも自分が畏れる本の力に簡単に勝利し、征服したかのような異様な感情である。
私はこの「汚れ仕事」を担任に命じられ、小学四年生の一年間で少なくとも3~4回は行った記憶がある。
時には焼くには惜しい本にぶつかる時がある。
そ んな時は焼却炉の裏側の藪に隠して、「汚れ仕事」が完了すると、煤だらけになった顔で担任に報告し、下校時にそっと焼却炉に取って返しランドセルに本を忍 ばせて帰るのだ。まるで『華氏451』のモンターグの様に。フランソワ・トリュフォー監督のイギリス映画『華氏451』の原作、レイ・ブラッドベリの『華 氏451度』の冒頭は本が焼かれる様に対する快楽が描かれる。
私は大人になってこの本のこの部分を読んだときは背筋が凍おる思いがしたものだ。
焚書という権力行使はある意味の快楽が伴う。
知という血を焼き尽くす。それは暴力である。畏れを抱く者に対する支配的暴力の快楽だ。
私が本を焼いた時の恐怖と快楽。
それは私自身が子供の時代に感じた矛盾した
近 代における焚書で最も悪名高いのは1933年5月、ドイツ第三帝国で行われた「非ドイツ的図書」の焼却というセレモニーだろう。学生や市民がレマルクをハ イネを、マルクスをフロイトを、ツヴァイクを・・・無数の非ドイツ的図書を広場の火にくべた。ゲッベルスが私はエーリッヒ・ケストナーを焼きたいと集まっ た市民に公然と言い放つ。
ケストナーが生きているドイツのベルリンで。
やがてその炎はアウシュヴィッツやビ ルケナウのクレマトリウム(火葬場)の炎となる。本を焼くことは人を焼くことではない。人の魂を焼くことである。同時に人の記憶を焼くことである。さらに 言えば民族や共同体の伝統や尊厳、記憶までも焼き尽くす暴力のひとつの形態である。ナチスの時代にはやがて人をも焼くに至った。
『華氏451』で本を焼く火炎放射器とはそもそも、人を焼くための兵器である。
中世初期のドイツではラテン語で書かれた書物が何よりも珍重され、ゲルマン語で書かれた書物は焚書された。
ゲルマンの古い記憶も神話も全て失われた。
ゲルマン語の記憶はアイスランドやノルウェイに引き継がれた。
ドイツ人は過去とその記憶を焚書で失った。
ゲルマンの神話は北欧にアイスランド古典文学として、あるいはノルウェイ古典文学としてのみ生き残った。
結局のところ焚書によりドイツ人は記憶は失われ、神話はアイスランドの『エッダ』、あるいはノルウェイの『サガ』となって余所者の手に渡り永遠に取り戻すことは出来なかった。
19世紀にリヒャルト・ワーグナーが『ニーベルングの指輪』として楽劇に仕立て上げたところで、それはもはやドイツ人のものではなくなっていた。原案はアイスランド古典文学だったからだ。
ラテン語を至上とした権威主義が生んだ焚書はドイツ人の神話と記憶を封じてしまった。焼き尽くしてしまったのだ。
残ったのは人間の記憶のみである。
狂っ た焚書の誤りにドイツ人たちが気がついた後、ゲルマンの伝説の記憶を引き継いだのは、それを暗唱した宮廷の吟遊詩人だった。その記憶は1200年頃、よう やく中世ドイツ語で『ニーベルンゲンの歌』として書き留められた。しかし、それはその時代に合わせて改編されアレンジされた物語であり、すでにゲルマン神 話はキリスト教文明化したドイツでは二度と復旧する可能性を失ってしまったのである。ドイツ人たちは中世に犯した過ちを再び近代で繰り返した。
ただし、複製技術が恐ろしく進歩した20世紀では完全に焚書によって本を焼き尽くす事は不可能だった。
この歴史がブラッドベリの『華氏451度』とトリュフォーの『華氏451』の基底となっている。
ブラッドベリは『華氏451度』の冒頭で本を焼くという権力的支配と、それに伴う暴力の快楽をまず書の冒頭で提示した。
トリュフォーの映画ではそれは直接的には描かられなかったものの、映像で本を焼くという光景を畏れる知という血を殺害する恐怖とそれを支配し滅亡させる暴力の快感を描いた。
それは消防隊長の本が焼ける様を形容した台詞「美しい」が象徴している。
文字であれ映像であれ、そもそも殺人のために開発された火炎放射器は本を殺すという暴力としての装置としてここでは機能している。
『華氏451』は1953年に書かれた古典SFを題材にしながらも、今も色あせない焚書としう魅惑的で崩壊的な矛盾を孕んだ暴力とそれに対する抵抗を描いている。
ドイツ人は本を二度と焼かないだろう。
その魅惑が全ての記憶を焼却することを知っているから。
日本人はどうなのか。本を焼かないまでも戦争を否定して原子爆弾の恐怖を描いた漫画の面積と体積を封じ込めようとしたことは記憶に新しいことだ。
それが、記憶を、知という血を殺す権力の暴力行使だとは気づかないままに。
この451によって焼かれる価値さえ持たない駄文の続く後半では映画『華氏451』の場面を挙げながら焚書という暴力について、トリュフォーの劇中のドイツ的表象について少し探ってみたいと思う。