2008 年、ドイツ・中国・フランスの合作映画である『ジョン・ラーベ』は日本未公開作品である。この映画は1937年12月、南京攻略に際して南京城内に居住す る南京市民25万人を守るため、国際安全区を作って難民保護へと努めたドイツ人、ジョン・ラーベの活躍を描いた作品で、2008年度のドイツ・アカデミー 賞の主要部門を独占受賞した作品でもあった。ドイツ、中国、フランス、イギリス、カナダ、アメリカなど日本以外の各国で公開された国際的映画でもある。


情報では、日本未公開の南京事件関係の映画の中でも最も日本へ輸入公開が難しい作品だとのことである。

もちろん、その理 由はこの映画の中で皇族軍人である朝香宮鳩彦王(南京攻略時陸軍中将、上海派遣軍総司令官)の戦争責任を告発し追求しているからである。

配給元は自粛 しているのか、それとも圧力がかかっているのか、市民団体が交渉に行ってもただただ門前払いだと言っていた。

 

映画では香川照之が朝香宮鳩彦王を演じているが、この人物が映画に登場した例はこれまではなかった。

朝香宮鳩彦王の戦犯追求の姿勢は何もこの映画が初めてではない。

1998 年に刊行された中国系アメリカ人作家、アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』で書かれていたし、そのチャンの書の情報源になったのはアメリカの歴 史家、ディヴィッド・バーガミニの『天皇の陰謀』である。一方の日本では南京事件を取り扱った書物の殆どが南京事件が発生した時点で、前線の指揮に当たっ ていた朝香宮鳩彦王の戦争責任については書いてはいない。

 

ところが、海外の歴史家による南京事件に関する書物に目を通すとかなりこの問題の記述が見られるのだ。

この問題は日本では「自粛」されていると考えられる。

しかも、このタブー自体の存在が日本では一般的に殆ど知られてはいない。

朝香宮殿下が指揮をしていた上海派遣軍の直属の師団が南京事件に深く関与している。指揮官は中島今朝吾陸軍少将であり、多くの記録を検討しても中島少将の戦 時国際法に抵触する戦争犯罪責任は逃れようもない。しかし、中島少将は終戦時までに死亡しており戦犯裁判に召喚されることはなかった。

 

投降した中国兵捕虜を全員、処刑にしてしまうという措置は朝香宮殿下の司令部より口頭で発令されたという説がある。

東京裁判で検察側証人になった田中隆吉少将の著作によると、当時、朝香宮司令部で情報参謀だった長勇少佐が捕虜の処遇を前線から問い合わされてと口頭で命令を伝達したというのだ。田中隆吉はこの話を長から直接聞いたとして、長の言葉を著書に次の様に書き残している。

 

「南 京攻略の時には自分は朝香宮の指揮する兵団の情報主任参謀であった。上海付近の戦闘で悪戦苦闘の末に漸く勝利を得て進撃に移り、鎮江付近に進出すると、杭 州湾に上陸した柳川兵団の神速な進出に依って、退路を絶たれた約三十万の中国兵が武器を捨てて我軍に投じた。この多数の捕虜を如何に取り扱うべきかは食糧 の関係で一番重大な問題となった。自分は事変当初通州に於いて行われた日本人虐殺に対する報復の時機が来たと喜んだ。直ちに何人にも無断で隷下の各部隊に 対し、これ等の捕虜をみな殺しにすべしとの命令を発した。自分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電話に依り伝達した。命令の原文は直ちに焼却した。 命令の結果、大量の虐殺が行われた。然し中には逃亡するものもあって、みな殺しという訳には行かなかった。自分は之に依って通州の残虐に報復し得たのみな らず、犠牲となった無辜の霊を慰め得たと信ずる。」

(田中隆吉『裁かれる歴史 敗戦秘話』、新風社、1948年、44頁-46頁)

 

長勇自身は1945年の終戦の年、牛島満中将と共に沖縄戦で自決している。

その為、この記述の真偽は歴史の闇の中に消えてしまっている。長は軍司令官の名を利用して命令を下達したとなっているが、これが朝香宮殿下を指しているのか、それとも全体を統括していた中支派遣軍司令官の松井石根大将を指していたのかどうかは明白ではない。

いずれにせよ、朝香宮殿下指揮下の師団で捕虜の大量虐殺が行われた可能性は高い。

しかし、命令が文書として残されていない限り、それを立証することは難しい。

田中隆吉証人は米軍の尋問調書の中で南京戦で最も悪名が高かったのは朝香宮師団であるとも証言している。

 

映画『ジョン・ラーベ』では朝香宮殿下が直接、捕虜虐殺を命じたということになっている。

 

以下、そのシーンのダイアローグである。

朝香宮殿下:香川照之 小瀬少佐:ARATA

 

朝香宮殿下「よくやったな、少佐」

小瀬少佐 「(お辞儀をする)」

朝香宮殿下「貴官は真に優秀な陸軍軍人になるだろう。しかし、私がはっきりと一人の捕虜を出すなと命じたのにもかかわらず、貴官は何千人と捕虜を連れ帰った、それだけが合点が行かないのだがな。」

小瀬少佐 「申し訳ありません」

将  校 「殿下・・・」

朝香宮殿下「(将校に)私は貴官に話せとは言っておらんぞ!それで、少佐、何か提案はあるのかね?」

小瀬少佐 「殿下、このような多くの捕虜の処刑は困難であります。」

朝香宮殿下「そうかね?」

小瀬少佐 「私の考えでありますがその実行は違法になるかと・・・」

朝香宮殿下「違法?この問題の解決については貴官に個人的な責任に任せる。明日の朝、生きた捕虜は見たくはないぞ、少佐。」

 

(以上はドイツ語版の吹き替えセリフを和訳したものである。よって国際版の日本語台詞とは多少の違いが見られるが、脚本はドイツ語であるため原版を重視するため敢えてドイツ語から和訳した。)

 

この台詞からも分かるように朝香宮殿下は正式な命令としては通達していないように表現されている。つまりは歴史的事実、命令書は残っていない事を踏まえての表現ではある。

脚 本と監督を担当したドイツの映画監督、フローリアン・ガレンベルガーはこの映画を構成するのに当たってアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』を参 考にしたと思われる部分が多々見受けられる。チャンの著書には田中隆吉の長勇が命じたことという証言が田中隆吉の著作から転載されて記載されている。捕虜を処刑せよという命令 は文書ではなく口頭で通達されたとするものである。しかし、チャンの著書では朝香宮殿下の命令であるという説を取るスタンスである。

この朝香宮鳩彦親王が虐殺を指 揮したとするのも、デヴィッド・バーガミニの『天皇の陰謀』と、それを参考にして書かれた『ザ・レイプ・オブ・南京』の言説そのままであるからだ。この二 つの書における朝香宮鳩彦親王の南京事件における役割は最初から南京を蹂躙する事を目途としていたとされている。

 

映画 『ジョン・ラーベ』もまた、この言説をそのままに映画に導入している。監督ガレンベルガーの意図はどこにあったのか不明だが、実際のジョン・ラーベの日記には朝香宮 鳩彦王に関する記載は一切見当たらない。史実では全く接点を持たないこの二人が映画では敵対関係で直接対決することになっている。

映画では朝香宮鳩彦王は完全な悪役であり、捕虜を処刑し、国際安全区の難民まで虐殺しようとする。

あたかもハリウッド映画の悪役の首領さながらの存在である。

 

こ れらは映画としてデフォルメが過ぎる感があるが、この元ネタは朝香宮鳩彦王が南京を蹂躙する事を目的としていたというアイリス・チャンとディヴィッド・ バーガミニの 言説が基本となっている。それらの言説も想像の域を出ないものであり、何ら証拠がある訳でもない。私はこの二人の著者が参考にした文献や資料をつぶさに検 討してみたが決定的と言える根拠は何も得ることはできなかったというのが実際である。だから、この映画における朝香宮殿下の行動が史実かといえば、そうで はない と現時点では答えるしかない。


すべては推理と想像の産物であるのだ。しかし、バーガミニの著書もチャンの著書も海外ではベストセラーとなっ た話題の書で、その為に朝香宮鳩彦王が南京事件の首謀者であるという印象は海外においては定着している感がある。映画はその状態をより補強したことに なったとも言える。


太平洋戦争に従軍した高松宮殿下は戦後の手記で、最前線へ派遣されても「宮様」として一室に軟禁状態にされ、実務には殆ど参加できな かったことが不満であったと記している。

天皇の兄弟である皇室の高松宮殿下と天皇の叔父である皇族の朝香宮殿下とでは多少の立場の違いはあったかもしれないが、同じようなものではなかったかと私は考えている。

 

南京大虐殺の一因とされている説に、陥落入場式で朝香宮殿下が参加するので、その際に敗残兵のテロがあって「宮様」にもしものことがあれば大変だと考えた参 謀たちが、敗残兵と疑わしき男性を片っ端から逮捕、処刑する措置をとったというものがある。これは日本の著作の中にも見られるし、ドイツにおける南京事件 研究の書物にも記載がある。

また、東京裁判で南京事件の責任を問われて死刑になった松井石根大将が刑が確定した後に教誨師に伝えたところに よると、当時、南京陥落後の軍の暴走行為で陸軍の名誉に傷をつけたと泣きながら怒ったが、参謀たちは彼を嘲って笑ったと語っている。その嘲った参謀とは朝 香宮殿下の上海派遣軍下の第16師団長の中島今朝吾少将ではないかと思われる。松井と中島はウマが合わなかったこともよく知られている事実である。

少なくとも中島今朝吾少将は南京で彼自身、試し斬りや略奪行為を行ったという記録や評伝が残されている位だから南京陥落後の暴虐には深く関与していたと考えられる。

 

映画『ジョン・ラーベ』では虐殺に中心事物として積極的に関与しているかの様に描かれている朝香宮殿下だが、残された資料だけではこれを是とは出来ない。

 

戦後、GHQの戦犯追求で南京事件関連の尋問を受けたが、追求が進むと「知らない」など曖昧な供述を繰り返している。

朝香宮鳩彦王の孫娘の手記によ ると、親王は太平洋戦争末期に息子を戦死で失い(これは大戦中最初の皇族戦死者であった)皇籍離脱後、民間人となったが騙されて商売に失敗するなど辛酸を 舐めたようである。人物としては出生の事情のために幼年期を親から引き離されて京都の岩倉に預けられ、皇族となった後、フランスで滞在し、そこで自動車事 故に巻き込まれ重傷を受けている。
軍事参事官時代に226事件に遭遇。この際、皇道派に対して賛意を示すスタンスではなかったと思わせる部分が有 り、このことからバーガミニは昭和天皇にとって反対側の意見を持っていたために南京攻略で忠誠を試されたのではないかと推理したのである。これがバーガミ ニやチャンの南京大虐殺が軍事的に事前に計画されたものだとされる論拠ともなっているのである。

孫娘の手記によると酒を飲むと言動が乱暴で激しくなる傾向があり、こうしたことは暗い幼年期に何か原因があるのかもしれない。

 

私の考察では朝香宮鳩彦王は前線においては映画『ジョン・ラーベ』の様な強権的で独裁的な指揮権を持っていたとは思えない。先に述べと通り、捕虜の処遇に困った前線 からの問い合わせに高級参謀の一少佐が独断で虐殺を命令できるくらいに師団レベルでのスタッフがやりたい放題であったことが伺えるからである。こうした点 を考えると朝香宮鳩彦親王は司令官として、中将として遇されていたかもしれないが、反面、スタッフからは無視されていた・・・言い換えれば軍を動かす実務からは員数外に 置かれていたのではないかと思えるからである。

 

かと言って、彼の戦争責任の有無についての問題がなくなるわけでもない。さ らにこの問題が日本国内では一切議論されないのはやはりオカシイことではある。この問題は一種の祟り神であるらしい。

 

南京事件研究者では最左派である笠原十九司教授でさえ、自身の著書では、この問題を殆ど取り上げてはいない様だ。その笠原氏もドイツZDF放送のテレビドキュメンタリー"John Rabe, Die Dokumentation" (2011年放映、日本未放映)でのインタビューでは朝香宮鳩彦王の戦争責任については命令書は残っていないが、ある程度それを認めざるを得ないという印 象の回答をしている。しかし、これでも日本では公開されない番組、海外のテレビ番組であるから答えられたことであるのかもしれないと私は思う。
日本でこの問題についてテレビで放送で取り上げるなどおよそ有り得ないことだろう。

 

朝香宮鳩彦王と南京事件の戦争責任問題はこの様に日本と海外では大きなズレが起こっている。

映画『ジョン・ラーベ』はその海外言説を大きく広く伝える媒体としての役割を果たした結果となった。

 

この問題が日本では永遠のタブーである限り、映画『ジョン・ラーベ』は日本人の誰ひとりとして観る機会には恵まれないだろうと私は思う。

 

そして、南京事件の一つの大きな問題が議論されずに闇の中で宙吊りになったままであることを残念に思うのである。


筆者:永田喜嗣



 

アメリカの日本文化研究家、ピーター・ミュソッフの「ゴジラ論」はユニークな視点を持っている。

ミュ ソッフはゴジラを政治的、社会的な視点からも考察しているが、ポップカルチャーとしてのゴジラという存在についても興味深い考えを示している。ミュソッフ はアメリカと日本のゴジラ・ファンを比較している。彼の論述によればアメリカのゴジラ・ファンは対抗文化主義者であり、日本のゴジラ・ファンは主流や体制 に順応した反対抗文化主義者だとしている。

 

日本のファンたちは主流に乗って、自らがゴジラ・ファンであることを隠すかのよ うに内へ内へと引きこもり「オタク化」していく。それに対するアメリカのゴジラ・ファンは日本のゴジラ・ファンの様な態度を軽蔑し、自分たちが特異な存在 であることを誇示したがっているという。ミュソッフはアメリカのゴジラ・ファンはアウトサイダーであり、日本のゴジラ・ファンはインサイダーであると述べ ている。


さらにミュソッフはアメリカではゴジラそのものが対抗文化として機能していると述べている。

雑誌『モンスタータイム ス』の表紙を大統領候補として星条旗を握ったゴジラが飾ったり、タイム誌では日米経済摩擦における日本批判にゴジラを利用したりする。

対抗文化主義的で あったインテリジェンスに溢れたアメリカのヘヴィロック・グループ「ブルー・オイスター・カルト」の楽曲『ゴジラ』の歌詞にもそれが伺える。

ミュソッフは 自身が所属したプリンストン大学の大学院にあった、地下バーのエピソードを紹介している。大学や親に反抗しつつ自由を謳歌する大学院生の溜まり場であるこ の地下バーに置かれたステレオセットがGradzilla(院ゴジラ)と呼ばれていたというのである。

前回紹介したウィリアム・A・ツツイの『ゴジラとア メリカの半世紀』には、Bridezilla(婚ゴジラ)という俗語が紹介されており、その意味は婚約したら突如変貌して権利を主張してくる女性を表してい るものであるという。このようにゴジラはアメリカでは反権力、あるいは権力に対するアイロニーとしてのアイコンとして使用されるのである。

 

アメリカでは反権力としてゴジラが存在している。確かに日本ではゴジラが対抗文化主義的な側面を持っているとは殆どの者が意識していないし、実際そうではないだろう。

1954年の初作『ゴジラ』は政治的にも完全に対抗文化的であったが、その事が多く語られることもない。

怪獣映画に政治性を見出すことなど取るに足りないという日本の「主流」の思考が対抗文化としてのゴジラをインサイダーへと追いやっている。1954年当時、映画評論家たちはこぞってゴジラを矮小化したこともまた事実である。

 

例 えば、ワイドショーにおける政局の報道でこんな事があった。かつて国民から絶大な人気があった田中真紀子議員が画面に登場すると同時に伊福部昭作曲のゴジ ラのテーマが流れたということだ。ゴジラのテーマ、「ドシラ、ドシラ」とオスティナート奏法で演奏されるこの曲が流れれば人々はゴジラを連想する。田中真 紀子議員とゴジラのイメージがゴジラと重なり合わさっていく。この様なゴジラの使用は政治権力を補強するアイテム以外の何ものでもなく、1954年の『ゴ ジラ』という映画が持っていた対抗文化的特徴が主流文化に還元されてしまった一例であるとも言えるだろう。

ゴジラにおける政治性はアメリカと日本とでは著 しく違っている。

 

ミュソッフの指摘は重要である。

日米ゴジラ・ファンの違いはインサイダー、アウトサイダーに分類され、 ファンの在り方そのものが、ゴジラの日米社会における政治的取り扱いにまで投影されているという視点である。

私はこのミュソップの考察はかなり真っ当なも のだと考えている。ゴジラという存在が反権力で有り続けたのはアメリカであって、それを生産し続けた日本ではない。

27作品も制作されたゴジラ・シリーズ を眺めてみても、明確に対抗文化主義という柱を持っていたものは僅かに二本しかない。1954年の初作『ゴジラ』と1971年の『ゴジラ対ヘドラ』であ る。この二本の作品はそれぞれ、「第五福竜丸事件」と「水俣病事件」の渦中にリアルタイムで制作された作品であるという側面を持つ。二つの作品は社会問題 が現実に進行している状態の中で制作され、それ故に反権力的な力を持っていたのだ。27作品中、僅か二本しか対抗文化的要素が見つからないという事は如何 にゴジラが日本では保守的で主流文化であったかという事を物語っている。

 

ミュソッフはアメリカでゴジラが対抗文化になった のは、ゴジラが日本で生まれた日本の怪獣であるからだと述べている。つまり、アメリカ人にとっては遠い東アジアのニッポンという未知の国の得体の知れない 怖い奴。ゴジラがそういう存在であったからこそ、アメリカで反権力のシンボルとなり得たというのだ。つまりは、ゴジラ・ファンだけでなく、ゴジラそのもの もアメリカにおいてはアウトサイダーであるということである。

 

ゴジラが何であるかという点について、ウィリアム・A・ツツイはゴジラは何ものでもなく、何も表象していない、あらゆるメタファーになり得る存在であると説いたが、ミュソッフのゴジラ論ではどうだろうか。

 

ミュ ソッフはツツイの様にゴジラ映画全てを見渡したり、様々なゴジラ論に目を通したりというスタンスは取ってはないない。

ミュソップは主に1954年の初作 『ゴジラ』とそれをアメリカで再編集してアメリカ化して公開された海外版『怪獣王ゴジラ』(1956年・テリー・モース監督)へ考察の力点を多く置いてい る。この点においてはミュソッフのゴジラ論は川本三郎(ゴジラ戦没者説)を始めとする初作『ゴジラ』のみを観察した日本のゴジラ論者により近いとも言え る。

しかし、ミュソッフのアプローチは日本のゴジラ論者とはまた異質なものである。ミュソッフはオリジナルの『ゴジラ』を分析し、さらにアメリカで改編さ れた『怪獣王ゴジラ』の脱政治化について詳細に述べている。ここでミュソッフはゴジラを戦争と地震のメタファーとしている。

 

  戦争と地震というモチーフは、この映画の中でからみあっていて、重ね書きの写本のように、戦争の文章の  下に地震の絵が、常に透けて見える。

(ピーター・ミュソッフ、小野耕世訳『ゴジラとは何か』講談社.1998年.227ページ)

 

こ れだけなら全く面白くもなんともない見解なのだが、ミュソッフは『ゴジラ』のポスターのキャッチコピー、「ゴジラか化学兵器か」に注目する。このキャッチ コピーには二つの解釈が可能である。一つはゴジラが科学兵器(水爆)がもたらした結果であるというもの、もう一つは科学兵器がゴジラを食い止められるか? というもの。

 

   これは朝鮮戦争後のこの時期、日本がまさに直面していた問題だ。科学兵器、つまり、かつて日本に言葉 に尽く せないほどの苦痛を味あわせたにもかかわらず、いま日本人自身が同盟国を通じてその傘に入った核 兵器は、悪なのか?それとも、科学兵器は善で、ソ連や中 国に対して、貴重このうえない防衛手段なのか?こ の問 題を解く難しさは、この映画の最も重要なサブテーマの一つだ。

(前掲書229ページ)

 

さらにミュソッフは『ゴジラ』における4名の主要人物の立場に注目する。興味深いのはゴジラを殺さず研究すべきであると主張する山根博士と、その娘の恋人である尾形のゴジラを抹殺すべきであるという対立構造である。ミュソッフはこの二人の関係を次の様に述べている。

 

  ゴ ジラを研究したいという山根の願望は、戦争について考え続け、調べたいという意欲を反映している。尾  形はこれと反対の立場にある。やっかいなことはでき るだけ早く忘れ、ゴジラを死に追いやることで、それに  取り組むのを避け、彼と恵美子の世代が、日本の再建へと早く進んでいけるようになることを望んでい る。実  際、当時の指導者たちは、尾形や恵美子の年齢の子供たちの教科書のある部分を塗りつぶし、彼らが近代日 本史の疑問点について多くを知らず、議論 をしないようにしたのだ。

(前掲書233ページ)

 

尾形や恵美子の年齢の子供たちの教科書とは、恐らく戦時中 の教科書を指している。しかし、近代日本史の塗りつぶしは実のところ、尾形や恵美子の世代によって後年行われることになる。ミュソッフが『ゴジラとは何 か』を書いた1998年は「新しい歴史教科書」を巡る議論が活発化し、国内での「つくる会」の活動が活発化するのに対してアメリカや中国から抵抗を受けて いた、日本の総保守化の年でもあった。

 

1954年の『ゴジラ』の脚本決定稿を見ると尾形は32歳、山根博士は55歳と設定 されている。終戦時にはこの二人はそれぞれ23歳、46歳となる。日中戦争が始まった時点でそれぞれ15歳、38歳である。山根博士の世代はアジア・太平 洋戦争を主導してきた世代である。対する尾形の世代はそれに責任を持つことができない世代なのだ。

 

ミュソッフの指摘には興味深いものがある。

日 本の戦後史の担い手になるのは山根博士の世代ではなく、戦争を忘れてアメリカを受け入れ新しい時代へ進みたいという願望を持つ尾形と恵美子の世代なのであ る。笠井潔が『8・15と3・15 戦後史の死角』で指摘したゴジラによって終焉した「第一の戦後」に続く「第二の戦後」の担い手が『ゴジラ』における ヒーローとヒロインであるという事になる。ミュソッフのゴジラ論はゴジラを戦争と地震のメタファーとして捉え、それに対処する人々の世代を観察して日本の 戦後史の一端を考察しているのである。

 

ウィリアム・A・ツツイとピーター・ミュソッフのゴジラ論を重ね合わされば、ゴジラ とは何ものでもない何も表彰しないまらゆるメタファーとして機能する存在で、反権力的である対抗文化で、その立場は常にアウトサイダーであるということに なる。加えてゴジラは日本の戦後史とナショナリズムに深く関わりを持っている。

 

この二人のゴジラ論はカリフォルニア大学の チョン・A・ノリエガの論文『ゴジラと日本の悪夢―転移が投射に変わる時』の様に哲学的で高次元で高密度であるとは言い難い。しかし、この二人によるゴジ ラ論は日本のゴジラ論者の日本という範囲と環境に押し留めた狭義のゴジラ論に対して、アメリカ文化、日本文化、その歴史観、双方から観察したものであり、 その点においてはゴジラというものの本質にかなり接近したものであると私は考えている。


無数に存在するであろうゴジラ論からごく僅かの一部を切り取って検 討してみたのだが、日本型、アメリカ型双方のゴジラ論を比較して私はより複眼的な(あるいは外部からの視点)視点によるアメリカ型ゴジラ論に私は深く関心を抱い た。


これらを踏まえて、私は自身のゴジラ論を書く段階へと進みたいと思う。



 

評 論家、川本三郎のエッセイから始まった「ゴジラ論」は「ゴジラ戦没者説」を採っていることは前回述べた。この説は赤坂憲雄、加藤典洋らによって更に強化さ れ詳細化された。これらの説は笠井潔の『8・15と3・15 戦後史の死角』(2012年NHK出版新書)で取り上げられ1955年から始まったとされる 「第二の戦後」という概念を説くのための例として挙げられた。笠井潔は3.11で「第二の戦後」体制が終焉したとし、「第一の戦後」(敗戦から10年)の 終焉時に戦没者の霊としてのゴジラが出現し日本を破壊したことから、3.11をゴジラの再来であるとしている。


川本三郎の「ゴジラ戦没者説」は前回でも述 べた通り、2001年の映画『ゴジラ・モスラ・ギドラ大怪獣総攻撃』(金子修介監督)でそのまま「ゴジラは太平洋戦争で死んだ人々の怨念の集合体」として 設定し、1954年の『ゴジラ』を巡る「ゴジラ戦没者説」は正式にゴジラ映画で認められた格好となった。ところが、川本三郎の「ゴジラ戦没者説」には少々 問題が存在する。


笠井潔は「第一の戦後」を終焉させた存在としてゴジラを取り上げ、そこに「ゴジラ戦没者説」を組み込んでいるので、ゴジラ という存在は1954年の映画『ゴジラ』におけるゴジラ一体に限定している。加藤典洋はその後のゴジラ映画について、それを含んで論じているが笠井潔の視 点はそうではない。

「ゴジラ戦没者説」が成立するのはあくまでも1954年の初作『ゴジラ』(本多猪四郎監督)の時代と世界観だけに限定されなければならない。その後のゴジラ映画を含めると少々ややこしい事態になるからだ。

『ゴジラ』から僅か半年後に公開された続編、『ゴジラの逆襲』(小田基義監督)では再び出現したゴジラに対しての大阪で開かれる対策会議のシーンで次の様な台詞が登場する。

 

「そ れを、我々が一番恐れておったことなのですが・・・しかも、今回は第二のゴジラとともに、新たに出現したアンギラスの脅威・・・我々はいまや、原水爆以上 の脅威のもとにあると申さねばなりません」(香山滋『小説ゴジラ』奇想天外社.1979年.168ページ)台詞の主は『ゴジラ』にも登場した山根博士(志 村喬)である。この映画『ゴジラの逆襲』は前作『ゴジラ』の世界観をそのまま引き継いだ正当な続編であり姉妹編ではない。

ここではゴジラは核そのものとなった。前作『ゴジラ』で尾形(宝田明)が山根博士に対する台詞、「ゴジラこそ我々日本人の上に今なお覆いかぶさっている水爆そのものではありませんか。」からも分かるようにゴジラは核としても劇中で例えられていたのである。

『ゴジラの逆襲』ではゴジラの対戦相手として新怪獣アンギラスが登場する。アンギラスというゴジラの同類である、この新怪獣はシベリア生まれと設定されている。

ゴジラがビキニ環礁の水爆実験で目覚めた怪獣であるから、ゴジラはアメリカの水爆を、アンギラスはソビエトの水爆を表彰していると考えられる。この二大怪獣(米ソの核)が日本本土で争い、壊滅的な打撃を与えるのだ。

 

『ゴジラの逆襲』でアンギラスという新たな怪獣が付け加えられたことで、川本三郎の「ゴジラ戦没者説」は『ゴジラの逆襲』を含めると成り立たなくなるのである。

し かし、『ゴジラの逆襲』の世界観は奇しくも笠井潔が『8・15と3・15 戦後史の死角』で指摘した、ゴジラによって終焉させられた「第一の戦後」から 「第二の戦後」時代の始まりとする戦後史観と一致する。笠井が指摘する冷戦下、米従属のままの体制による日本の「第二の戦後」は1955年から起点として いるからだ。米ソの対立に脅威を感じ、日本人がその不安を抱えつつ高度成長期へと突き進んで行く「第二の戦後」の起点の年は『ゴジラの逆襲』が公開された 1955年なのである。ゴジラとアンギラスは米国とソ連の核の表象として新たな脅威と恐怖を観客に与えたから、「第一の戦後」と「第二の戦後」を分かつ 1954年と1955年のゴジラがこのよ様にがらりと変化することは何ら不思議ではない。

 

ゴジラだけに視点を絞れば『ゴジ ラの逆襲』は「ゴジラ戦没者説」を成立させないものとなるが、偶然にも笠井潔の戦後史観をより鮮やかに証明する形となるのである。いずれにせよ、「ゴジラ 戦没者説」を有効にするには27作も続いたゴジラ映画の26本を切り離して考えなければならない。ゴジラは水爆実験によって目覚めた怪獣である。


その水爆実験を行った当のアメリカでのゴジラ論はどのように展開されているのだろうか。

アメリカの「ゴジラ論」では川本三郎の様な「ゴジラ戦没者説」を採らない。なぜなら、それは極めて日本から日本人の歴史観でもって観察したものであるからだ。

ア メリカの歴史学者、ウイリアム・M・ツツイは『ゴジラとアメリカの半世紀』(2005年.中央公論新社)で川本三郎らの「ゴジラ戦没者説」を取り上げてい る。ツツイは川本の説を取り入れた先述の『ゴジラ・モスラ・ギドラ大怪獣総攻撃』を例に出し、川本三郎(評論家)、赤坂憲雄(歴史学者)、伊福部昭(作曲 家)らが説く「ゴジラ戦没者説」を挙げて、この映画が日本のナショナリズム復興の議論の渦中にゴジラを据えたものであると評している。また、ゴジラがこの 解釈によって日本の抑圧された記憶や愛国心を象徴する存在となったとも述べている。(1)

 

ツツイは「ゴジラ戦没者説」を批判している訳でも否定している訳でもない。日本的な「ゴジラ論」の一例として紹介しているに過ぎない。ツツイはアメリカにおける様々な「ゴジラ論」を紹介しており、それはフロイト主義による精神分析的解釈にまで及んでいる。

ツ ツイは日本の代表的な「ゴジラ論」である「ゴジラ戦没者説」の様に1954年の『ゴジラ』の作品世界にだけ視点を定めることをしなかった。彼はゴジラ映画 のシリーズが無軌道に変質して行ったことを容認した上で、しかも、そこからは筋の通った思想的体系が得られないことを予測しながらもゴジラ映画の全てを視 点に収めてゴジラをどう解釈するかを模索した。

 

ツツイの関心はゴジラを巡る憲法第9条によって抑制されている日本人の国防 意識とナショナリズム、また60年安保のジレンマと反米感情にも向けられている。米軍抜きで自衛隊のみで持ってゴジラに対抗する「国防のための立派な自衛 隊」という存在を際立たせるためにゴジラは存在する。時には反米的な顔を見せるゴジラは日本人の抑えられたナショナリズムの発露であるとも説く。

『キングコング対ゴジラ』を巡っての日本人の60年安保へのジレンマと反米感情についてはツツイだけでなく、次回に紹介するアメリカの日本文化研究者、ピーター・ミュソップの「ゴジラ論」にも共通しているポイントである。

 

ツツイの「ゴジラ論」の結論とは何か。ゴジラが何であるか、ゴジラが何を表象しているのか。その問いにツツイはゴジラは何ものでもなく、何も表象していないという。つまり、ゴジラは様々な局面であやゆるもののメタファーになりうる存在であるとしている。

こ の結論から考えれば、ツツイは日本の代表的な「ゴジラ論」である「ゴジラ戦没者説」も、もちろん容認する形になる。ツツイは自論の中で他のゴジラ論のいず れも否定していない。それはツツイがこの結論を前提にしているからである。

「ゴジラ戦没者説」が1954年の『ゴジラ』の世界観の中でのみ成立するが他の ゴジラ映画を視点に入れればたちまち、その説が成り立たなくなるのはこうしたゴジラのメタファーとしてのカメレオン性にほかならない。ツツイは全てのゴジ ラ映画をその範疇に捉えたため、そういう結論へと至ったのである。


人によってはツツイの結論は少々曖昧でいい加減に思えるかもしれない。しかし、この「ゴ ジラ論」は重要なポイントを指摘している。笠井潔は前掲書『8・15と3・15 戦後史の死角』の中で川本三郎らの「ゴジラ戦没者説」と映画製作者サイド のゴジラが核の落し子であるとする本流との間に齟齬があることを指摘している。

笠井潔はこの齟齬を当時の日本人の状況や心情、社会の情勢などから「ゴジラ 戦没者説」が信憑性があるものとし、これに依ることによって「第一の戦後」「第二の戦後」という戦後史観にゴジラを導入する事に成功している。

 

ツツイが説いたゴジラは何ものでもなく、何も表象していないという指摘はこの様に学問上でゴジラを取り扱う上の原則的な前提であるのだ。

ツツイがゴジラをこの様にといたのに対し、ある程度ゴジラが何ものであるかを特定したピーター・ミュソップの「ゴジラ論」を続く次回に考えたいと思う。

ミュソップの「ゴジラ論」は偶然にも笠井潔の戦後史観と共通性を見せる興味深いものである。

 

(1) ウィリアム・M・ツツイ、神山京子訳『ゴジラとアメリカの半世紀』2005年.中央公論新社.138ページ

 

「ゴ ジラ論」は映画評論、思想史、歴史学、社会学、カルチャラルスタディースとボーダーなく各研究者から論じられている。日本の研究者はもちろん、海外ではア メリカでポップカルチャー論として繁盛に論じられてきた。欧州においては「ゴジラ論」の展開は私の知る限りでは殆どなく、目立ったものではドイツの映画監 督で日本怪獣フリークのJoeg Buttgereutの"Monster aus Japan"(1998年)位しか思いつかない。

 

日 本におけるゴジラ論は思想史や社会学の立場から論じられたものがいくつもあるが、研究者による論で最も代表的なものが「ゴジラ戦没者説」である。今回、師 から勧められた一冊、笠井潔の『8・15と3・15 戦後史の死角』の序章と第一章に「ゴジラ論」を引いて戦後史の論証が展開されているのだが、著者が用 いた「ゴジラ論」が「ゴジラ戦没者説」であり、それに沿って論が展開して行く構成になっていた。

 

「ゴジラ戦没者説」に私が最初に触れたのは1992年のことである。

宝 島社が刊行した『映画宝島 怪獣学・入門!』(宝島社1992年)で、その中に掲載された赤坂憲雄の評論『ゴジラはなぜ皇居を踏めないか』であった。赤坂は評論家、川本三郎の「ゴジ ラ戦死者説」を引用して、ゴジラと三島由紀夫の『英霊の聲』とパラレルに置き、川本三郎がエッセイ『ゴジラはなぜ『暗い』のか』による「ゴジラ戦死者説」 と同じ思想を三島由紀夫が有していたことを指摘した。私はこの「ゴジラ論」に当時は納得が行かず、川本三郎の「ゴジラ英霊説」にも興味は抱かなかったので ある。

 

川本三郎はゴジラは太平洋戦争で死んだ、とりわけ海で死んだ兵士の魂ではないかと考えた。太平洋戦争で死没した兵士 の霊は怨念となって海から日本へ上陸し、日本を蹂躙する。しかし、兵士の魂は天皇制に支配されていて皇居を踏むことは出来ない。皇居に背を向けたゴジラは やがて海へ沈めさられる。

川本の説では兵士だけとは特定しておらず戦没者としている。

 

2010年に加藤典洋 によって、この説はさらに進められて『さようなら、ゴジラたち──戦後から遠く離れて 』(2001年岩波書店)では「ゴジラ英霊説」へと発展する。

2001年には金子修介監督による東宝映画『ゴ ジラ・モスラ・ギドラ 大怪獣総攻撃』が公開され、この映画の設定ではゴジラは太平洋戦争で戦死した英霊の怨念の集合体で、日本に復讐するために上陸してくるという川本三郎の 「ゴジラ戦没者説」をそのまま取り入れたものだった。川本説はついにゴジラ映画そのものも認めた格好となったのである。

 

私自身は『ゴジラ・モスラ・ギドラ 大怪獣総攻撃』を鑑賞したとき、それが川本三郎の説を引いたものであったことを感じたが、1992年に赤坂憲雄の評論『ゴジラはなぜ皇居を踏めないか』を読んだ時の違和感と同じものを感じてこの映画を評価しなかった。

私の違和感とは何か。それについては未だに回答を得られていない。しかし、川本三郎や加藤典洋のゴジラを戦没者(英霊とは限らず)の魂だという考えを冷静に考察してみると、これに対しては整合性がうまく取られていると思わずにはいられない。

ゴジラは戦死して海に沈んだが、日本への郷愁と憎悪を持って再び故郷へ帰ってくるが、戦時を生き残った日本人によって再び日本から排除され、また海に沈没してゆくのである。人々はゴジラに同情の念を禁じえない。なるほど、これは実に説得力がある考えである。

 

笠 井潔が2011年の時点でゴジラを戦争犠牲者の呪縛として捉えているところから考えても川本三郎から端を発した「ゴジラ戦没者説」は「ゴジラ論」としては 最も中心的な柱となるものなのかもしれない。ゴジラが皇居を踏むことができない事を戦没者が天皇制の呪縛から解き放たれないままでいるという考え方もなる ほどと思わされる。

実のところは映画会社でもとりわけ保守傾向の強い東宝という会社が皇居を襲うなどという不敬行為を許さないというのが実 情ではある。『独立機関銃隊未だ射撃中』(谷口千吉監督)の脚本を担当した猪俣勝人は満州の日本軍トーチカ陣地が完全に破壊され、日本兵の主人公たちが全 員戦死した後、ソ連軍が一斉に行軍してゆくところでエンドマークとなるシナリオを書いたが、東宝はこの映像化を許さなかった。その東宝がまさかゴジラに皇 居を襲わせるなんてことは考えられないことである。

 

しかし、こうした東宝の天皇制によって呪縛されている姿をゴジラが象徴 しているのだとすれば川本三郎の説は荒唐無稽だとは思えない。そもそも東宝はゴジラで用いた特殊技術課でもって、戦時中『ハワイ・マレー沖海戦』を始めと する国策戦争映画をずっと制作し続けてきたある意味、戦時から天皇制の呪縛を受けた映画会社であるからだ。

 

川本三郎の「ゴジラ戦没者説」は実のところは川本三郎が最初に唱えたものではないようだ。

1995年に刊行された『戦後史開封』(産経新聞社)の中で映画『ゴジラ』(1954年)の音楽を担当した伊福部明はインタビューで次の様に述べている。

 

  ゴ ジラは海で死んだ英霊のような存在ではないか。そんなことも考えるような時代だったのです。徴兵検査で はギリギリ合格の第二乙種だった僕も、召集令状が今 日来るか明日来るかという不安の中で何年も過ごした ものです。ところが戦争に負けると、民衆はアメリカから持ち込まれた自由を謳歌するのに懸命でした。あ のこ ろ熱海や箱根に傷病兵の療養所があり、その横を人々が楽しそうに歩いていく。それを見て、われわれは苦し んでいるのに、という気持ちもあったでしょ う。ゴジラが国会議事堂などをつぶすのは、その象徴のような気も します。(『戦後史開封』173ページ)

 

 

川本三郎の「ゴジラ戦没者説」は川本自身の独自のものであったであろうが、1954年のゴジラ出現の時点で、誰とは知れず「ゴジラ戦没者説」は語られていたことになる。伊福部昭もその一人なのだ。

一方、「ゴジラ論」に中にはゴジラを核被害者とするものがある。これはもっぱら一般的なものであり、それは映画『ゴジラ』(1954年)と『ゴジラの逆襲』(1955年)の中で水爆実験のために呼び起こされた悲劇の怪獣として描かれているのである。

 

映 画『ゴジラ』に出演した宝田明は著書やインタビューで水爆実験の被害者であるゴジラがなにゆえに虐められ殺されなくてはならないのかと試写会では涙を止め ることができなかったと語っている。それ故に我々はゴジラに深い同情の念を抱き、感情移入するのである。このことはアメリカの歴史学者ウイリアム・ツツイ も著書『ゴジラとアメリカの半世紀』に著している。

 

形は違えど我々がゴジラに哀れみを感じるのは戦没者であるか核被害者で あるかの違いはあってもゴジラが「抑圧された被害者」であることでは一致している。研究者による核被害者としての「ゴジラ論」は社会学者の好井火裕明が 『特撮映画の社会学・ゴジラ・モスラ・原水爆』(2007年せりか書房)で詳しく説いている。私の考えも好井のものとほぼ同じではあるが、好井裕明はその 著書で核被害者であるゴジラがなぜ核そのものとなって日本を襲うのかについては十全に説明することができなかった。

私が先日書いた「ゴジラ 論」ではゴジラを映画『ゴジラ』が制作され、公開された年にリアルタイムで進行中だった「第五福竜丸事件」の被爆者とパラレルな被爆者として捉えたもの だった。ゴジラと第五福竜丸の被爆者と同様に捉えるのは少々乱暴な気もするが、好井裕明が説明しきれなかった核被害者が核加害者になぜなるのかという問題 はこの考え方なら成立させることが出来るからだ。

 

しかしながら、川本三郎から加藤典洋を経て、笠井潔によってより深く戦後史として考察された「ゴジラ戦没説」は先に述べた様に1954年の『ゴジラ』公開当初から存在した解釈であるだけに、これを日本における代表的な「ゴジラ論」として捉えてまず間違いないだろう。

この解釈を凌ぐ解釈を展開することは現時点はなかなか困難であると思われる。

 

もっとも、この「ゴジラ戦没者説」は日本独自の定着した考え方であって、アメリカの「ゴジラ論」には見られないものだ。

次回はアメリカの歴史学者ウイリアム・ツツイと同じくアメリカの日本文化研究者ピーター・ミュソップの「ゴジラ論」を検証してみたいと思う。


ソニーのウォークマン(WALKMAN)が発売されたのは1979年である。

今から34年前のことだ。


ウォークマンが発売された時、新しい時代に敏感な若者たちはこぞってこの夢の箱を競う合うように買ったものだ。腰にウォークマンをぶら下げて頭にはヘッドフォン。ブルージーンズの若者ならまだしも、ビジネススーツのサラリーマンまで着用していた。

ウォークマンを着用している人は周囲の人間とは別世界にいるかのようだ。

ヘッドフォンから漏れ聞こえる僅かなシャカシャカという音楽の残響のみが周囲になんとか理解できるくらいで、ウォークマンを着用している人物の頭の中にはどの様な世界が展開しているのかは伺い知ることは出来ない。

ウォークマンは奇妙な環境の一部分となった。

何かを自らに取り込んで一つの世界を作っている外界とは遮断されている個体が街の至る所にボツボツと現れたのである。

当時はまだ高校生だった私にはこの様な風景は奇異に思われた。街の風景が様変わりした。

これは一大事である。

ウォークマンは確実に何かを変えてしまった。

それは何か?

ウォークマンという名の革命・・・・。

ちょっと考えたくなった訳である。

 

単純に綺麗な言葉を用いいればウォークマンは音楽を戸外へ持ち出したと言える。

こういう風に形容されてきたのも度々だ。

でも、そうだろうか。

ウォークマンは音楽を戸外へ持ち出したのか。

そうではないだろう。

ウォークマンが登場する以前には若者たちはラジカセを片手に街に音楽を持ち出していたし、1960年代のイタリアでは電気蓄音機が若者の戸外アイテムだったから音楽は既に戸外へ持ち出されていて、そんなことはちっとも珍しくもないことなのだ。

 

ウォークマンが恐ろしくすごかったのは、その大きさである。

腰に吊るせる大きさなのだ。

今から考えれば随分大きいかもしれない。しかし、当時としてはこれはコンパクトだった。

ウォークマンは音楽を持ち出したのではない。

その小さなウォークマンという容器に音楽を押し込めたのだ。

押し込められたのは音楽だけではない。

応 接間にでーんと腰を下ろしていたJBLのボックス型スピーカーやマランツのアンプ、ティアックのテープデッキ、デンオンのターンテーブル、トリオのFM チューナー・・・。古式ゆかしい四脚足に支えられて布張りのスピーカーと木目調で家具然としていたステレオ装置からセパレートスタイルのコンポーネントに なったとはいえ、これらのステレオセットは家の中でも特別な場所であった応接室に幾分か保守的な風貌を見せながら悠々と鎮座していた。

そのステレオセットが瞬時にウォークマンという腰に吊るせる小さな箱に吸収されてしまったのだ。

ステレオセットの本分はコンサートホールの感動を応接間に再現することだった。

コンサートホールの音楽を応接間に取り込むための装置だった。

と ころが、スレレオ装置は音楽とともに、いや、応接間もろとも腰に釣るせる小さな箱へ取り込まれてしまったのである。しかもこの箱は鎮座しやしない。ウォー クマンという名の通り歩き回るのである。考えればスゴイ事である。応接間がステレオセットごと腰に吊るせる小さな箱に吸収されて、しかも場所に固定される ことがないのだ。

ウォークマンの革命性はこの辺にありそうだ。

 

応接間を吸収してしまったウォークマンは更にステレオセットの本分だったコンサートホールの音楽を持ってくるという機能まで取り込んでしまった。

応接間だけでなく、1000人収容できるコンサートホールまでこの小さな箱は吸収してしまったのである。

しかも、この小さな箱は着用するたった一人にコンサートホールを提供する。

電 車の一両の車両にウォークマンを着用する人が仮に10人乗っていたとすると、電車一両に10個のコンサートホールが存在していることになる。ウォークマン の革命とは時間や空間を限りなく吸収して閉じ込めてしまうことなのかもしれない。吸収された本来の姿は全く違うものになるが、再現されるそのものは本来の ものと変わりはない。初代ウォークマンが登場して34年。

現在ではそのウォークマンもスマートフォンに吸収されてしまった。スマートフォン はウォークマンのみならず、カメラ、電話機、パソコン、テレビまで吸収してしまった。写真を現像する暗室やテレビが鎮座していた茶の間、電話機が置かれて いた電話台もろとも時間も空間も吸収してしまった。スマートフォンはこの巨大な空間を呑み込んでもなお歩き回るのである。しかし、ちょっと待てよ・・・。

スマートフォンがしていることはウォークマンと同じである。

た だ、スマートフォンがウォークマンを吸収してしまったというだけに過ぎない。時間と空間を小さな箱の中に吸収して使用者のみ限定して再現するという思想は スマートフォン独自のものではない。それはウォークマンの思想だ。そうすると、機能的には恐ろしく発展したスマートフォンもウォークマンの革命を超えては いないということになる。34年を経ても革命は革命をもって破られてはいないということか。

 

考えれば革命とはすごいものである。

それは誰も考えもつかなかった思想に基づいて打ち立てられて、あっという間に浸透し、普遍に近い力を持ち神話のように神秘的である。

 

スマートフォンを知っている、我々が34年前の初代ウォークマンをあれやこれやと批評することは容易いかもしれない。しかし、ウォークマンの革命をああだ、こうだと言いつつ、その鼻を摘んで揺すぶってみてもウォークマンの革命はビクともしないだろう。

ウォー クマンという革命・・・。革命としてのウォークマン。新しい時代を作るにはウォークマンの革命を打ち破る位の思想と方法が必要になってくる訳だが、スマー トフォンがウォークマンの思想を踏襲している現在ではとても新しい革命は起きやしない。34年間、我々は進歩したと思い込んでいるだけで実はウォークマン の革命以来、何も変わっていないということか。

その現段階からウォークマンの革命をツネったり引っ掻いたりしてみたところでウォークマンの革命を超える革命が登場するのかどうか・・・これは怪しいものである。

ウォークマンが様変わりさせた街の風景は今も変わらない。いや、それ以上に普遍化してしまった。

 

はてさて、私たちはウォークマンの革命を乗り越えて新しい時代を迎えられるのだろうか。

ウォークマンの思想や理想を超える何かがなければ私たちはウォークマン革命を乗り越えて新しい街の風景を作る事なんて出来やしないのだ・・・。






『特撮ニッポン』2013年12月の新刊である。

日本の特撮映画が全く低迷しているこの時期に、どこも出さないのにポンと出してくるあたりが宝島社らしい視点で面白いと思った。

 

ど ういう本かというと、ざっと読んで残る印象は、ゴジラやガメラ、ウルトラマンは日本固有の文化である。特に怪獣というものは日本のものである。ところがア メリカ映画『パシフィック・リム』で怪獣はKaijuという英語になって取り込まれてしまった。本家本元のニッポンにもっと頑張って欲しいというものだ。 怪獣という言葉がMonsterではなくKaijuと欧米で呼ばれだしたのは別に『パシフィック・リム』からではない。

欧米の日本怪獣ファ ンたちはKaijuという言葉をファンの間では普通に使っていた。逆に怪獣という日本語よりもMonsterとかcreatureという言葉を使ってポッ プ的に欧米化しようと試みていたのは「特撮ニッポン」の復権を願っている当の日本人のファンの方であった。

 

早稲田大学教授 の高橋敏夫は1998年に『ゴジラの謎―怪獣神話と日本人』(講談社刊)を著し、その中でアメリカ版ゴジラを「あれはゴジラではない」という現象を「偏狭 なナショナリズム」であると書いている。この見方は非常に興味深い。ゴジラだけでなく怪獣文化とナショナリズムは密接な関係がある。

 

1998年と言えば「新しい歴史教科書」の「つくる会」が歴史問題に大きな波紋を投げかけ、また南京大虐殺事件を巡ってアイリス・チャン著の『ザ・レイプ・オブ・南京』が世界的ベストセラーになる中、日本では紆余曲折あって刊行が頓挫した年でもあった。

高橋氏は怪獣ゴジラを巡る日本人の動向の中に1998年の保守化の波の一端をそこに見ていたのかもしれない。

 

先日、骨董玩具専門店に行って店主と話していたが、1960年代から1970年代の骨董品の怪獣玩具が国内に品薄になり困っていると嘆いていた。原因を聞く と中国における経済発展と富裕層の出現、特撮やアニメを愛好するオタクの出現で日本のアンティーク怪獣玩具が外国、特に中国へ向かってどんどん流出してい るのだそうだ。

店主の口ぶりには「日本の怪獣が海外に持って行かれる」という調子が含まれていた。中国のオタク出現を私は10年くらい前から予言していた。

10 年前、中国のデパートで中国製のウルトラマン人形を「自分用」に買うというだけで店員から笑われたものだが、今は時代が変わってきたのだ。オタクの成熟度 は経済の発展と文化の浸透と比例している。日本でも1980年代になるまでは成人が怪獣玩具を買うことは嘲笑の的であったのだから。

中国に怪獣玩具が流出し始めたという現象は日本の1980年代に起こった現象とさして変わりはない。この様なことが近い将来起こりうることは中国の経済発展の流れを見ていれば想像できたことではある。

 

怪 獣という文化がKaijuという文化として日本から海外へ流出することを危惧する動きはやはりナショナリズムと無関係ではない。イタリアからオペラが世界 に流出し広く伝わったからといってイタリアの固有の文化だったオペラという文化の地位が脅かされるものではない。モーツァルトがドイツ語でオペラを作ろう とした時に受けた抵抗もオーストリア国内での文化の取り扱いの問題であってイタリアを脅かすものでもない。團伊玖磨が日本語でオペラを作曲したといっても イタリアのオペラ文化が危ぶまれることはない。

 

怪獣文化がKaiju文化となって世界に流布されることで、日本の怪獣文化が負けていると考えて「がんばれニッポン!」となる心理はやはり高橋敏夫が説いたようにそれは「偏狭なナショナリズム」以外の何物でもない。

怪獣文化が衰退して海外でKaiju文化が華を開くことは、実のところ日本人自身の文化の取り扱いに関する問題であると考える。

文楽を不要な文化として一蹴してしまえる文化への無関心度、経済的価値でしか文化を測れない尺度。そうしたものが怪獣文化をKaiju文化へ押し上げる土台となったと考えられるのである。

その意味からも日本国内のみに押し込められた「偏狭なナショナリズム」と呼べるかもしれない。

文化が流出して、発祥地に根付かないのはその地の文化の取り扱いの問題であるに過ぎない。

 

『特撮ニッポン』というこのムック本は「世界が認めた日本の特撮。だから日本もがんばれ」と叫んでいるのである。先に挙げたオペラの例を考えれば叫ぶ必要などどこにも認められないはずだ。

 

この本で悲しくも残念なのは日本の特撮映画と怪獣文化が衰退しつつある中、Kaiju文化が海外で花を咲かせる現状で、東アジアの一国家の国名を本来外来語を表記するべきカタカナで表した「ニッポン」と言う言葉でしか対抗しえないという日本国内の文化の偏狭さなのだ。

 

日 本の怪獣の固有性は怪獣の中に人間が入って演じるという「ぬいぐるみ」(最近は着ぐるみまたはスーツと呼ばれる)という点にあった。「ぬいぐるみ」で演じ るのは歌舞伎の流れである。ならば怪獣の文化は過去も現在も我々をオリジンにしているのである。ならば今更「ニッポン」という言葉で対抗する必要もなけれ ば、その行為自体が我々を自ら「偏狭なナショナリズム」の中へと押し込めてしまうのだ。

 

戦後68年、いつの間にか文化を使っては捨てて来た我々自身の姿をまずはよく観察する必要があるのではないか。

 

『特撮ニッポン』はそんな気持ちを抱かせるKaijuナショナリズムの一端であり、一例であると私は思う。




 

日本公開版ではカットされたシーン

 

1964年の東宝映画『モスラ対ゴジラ』ではあるシーンがカットされている。

そのシーンはアメリカで公開された『モスラ対ゴジラ』の海外版、"Godzilla vs the Thing"には収録されている。

海外版はタイトルを英字にして全て英語に吹き替えたものだ。

と ころが、ドイツで近年発売されたDVDは日本版の『モスラ対ゴジラ』をドイツ語に吹き替えただけのものであり、画面に出てくる言語はタイトルも含めて英語 でもドイツ語でもなく、日本語のままであった。にもかかわらず、問題の「あるシーン」はカットされずに収録されていた。

これは面白い発見である。

日本公開版は「あるシーン」がカットされていたのだが、カットされていない編集の版も存在して、それはヨーロッパに直接、輸出されていたという訳だ。

 

カットされた問題のシーンとはなにか。

『モスラ対ゴジラ』で、愛知県の倉田浜干拓地から突然、地を割って出現したゴジラが海岸沿いの工業地帯を襲い、名古屋を破壊した後、海岸線へと進出する。自衛隊は防衛のための作戦会議を召集する。

問題のシーンはこのあとに続く。

作 戦会議は藤田進演じる司令官(自衛隊の陸将補)を長に行われるが、会議はすべて日本人の自衛隊幹部である。ところが、この会議シーンの前に同じ会議室のも う一つ会議シーンがある。このシーンが日本公開版ではカットされている。そのシーンには数人の外国人が参加している。この外国人は、一人が背広姿、二人が 軍服姿である。

実は駐日アメリカ大使と駐日米軍の司令官と副官なのだ。米軍司令官は「問題はどこでゴジラを攻撃するかです。ミサイルは強力 ですから人口密度の希薄な地点を選ばねばなりません。」と発言し、米国大使は「攻撃に住民の生命に配慮しなければなりません。」続いて藤田進の陸将補は 「防衛線をここに敷き、米国の艦隊の派遣を待とう」と言っている。この会議のシーンの直後にゴジラが闊歩する海岸線のシーンがあり、海上に星条旗を掲げた ロケットミサイルを搭載した米軍の艦艇が登場し、海岸にいるゴジラをミサイルで攻撃する。艦艇の艦橋には米軍司令官と一緒に藤田進が演じる陸将補も乗り込 んでいる。米艦艇の猛撃にもゴジラを葬ることは出来なかった。これが『モスラ対ゴジラ』における最初の人間側からのゴジラ攻撃となる。

この 後は、日本公開版にも収録されている日本人の自衛隊幹部たちによる会議シーンがあり、自衛隊の対ゴジラ攻撃になる。つまり、『モスラ対ゴジラ』の海外版に おける対ゴジラ攻撃は自衛隊ではなく米軍によって戦端が開かれるのである。ところが、日本公開版では米軍の存在は一切カットされている。海外版に登場した アメリカ大使を演じていたのは昭和30年代の日本映画に繁盛に出演していた外国人俳優、ハロルド・コンウェイである。コンウェイはこの『モスラ対ゴジラ』 の前作に当たる1960年公開の『モスラ』でも米国大使を演じている。(劇中ではアメリカ合衆国ではなくロリシカ共和国となっている)このコンウェイ演じ る米国大使が、ザ・ピーナッツ演じる妖精小美人と並んで『モスラ』と『モスラ対ゴジラ』の世界観を結んでいる存在である。ただし、それは『モスラ対ゴジ ラ』の海外版にだけ適用されることではある。日本公開版では米国大使はカットされているからである。

 

反米主義的作品『モスラ』

 

『モスラ対ゴジラ』の前作に当たる1960年公開の『モスラ』ではアメリカは大きく画面に登場している。ただし、アメリカとはされず、ロリシカという架空の国家となっている。『モスラ』は極めて反米的な内容が色濃い作品だった。

ロ リシカ国は南太平洋のインファント島(モスラの島)における水爆実験で、島を荒廃させ、ロリシカ国民のクラーク・ネルソン(ジェリー・伊藤)によって、島 の妖精小美人(ザ・ピーナッツ)が捉えられ日本で見世物にされる。小美人を連れ戻すためにモスラは日本へ来襲する。ロリシカ国へ小美人を持って逃げたネル ソンを追って東京からモスラはその首都、ニューカークシティを襲う。お分かりのことと思うがロリシカはアメリカ、ニューカークシティはニューヨークだ。劇 中、ロリシカ大使はインファント島に先住民がいるにもかかわらず調査不足のまま水爆実験を行った事を認めようとはしないなど、『モスラ』は大国のエゴイズ ムを批判してやまない。こうした反米的、社会的作風は映画『モスラ』の原作である中村真一郎、福永武彦、堀田善衛の『発光妖精とモスラ』に拠るところが大 きい。『発光妖精とモスラ』は国会議事堂を包囲する安保反対デモの群衆が登場するなど、安保に対し批判的で反米的な政治性の強い作品だった。東宝から依頼 を受けて原作を書いたこの三人の文学者の『発光妖精とモスラ』は田中友幸プロデューサーをして「独立映画だなあ」と苦笑させた程に政治色が強く、そのまま 脚本化することが出来なかった。関沢新一による脚色である程度、政治色は排除されたものの、やはり反米的な視線は残されるに至ったのだ。

 

安保が機能する『モスラ対ゴジラ』

 

極 めて反米的な『モスラ』に対し、4年後の『モスラ対ゴジラ』は海外版においては親米的作品となった。日本国内に突然現れたゴジラに対し、米軍がまず戦闘行 動を開始し、しかも自衛隊と協調してその作戦は行われるのである。つまり、反安保的であった『モスラ』の4年後の『モスラ対ゴジラ』では安保は劇中におい て完全に完成され、機能していた事になる。日本公開版でこの米軍の対ゴジラ戦闘の場面をカットしたのは恐らく国内における安保闘争とその議論に対して刺激 しない様に配慮したためだろう。ならばなぜ、国内ではカットしなければならない日米同盟による対ゴジラ戦闘シーンを描いたのか。それはもちろん、東宝映画 のアメリカ市場に向けたサービスの意味合いが強かったと考えられる。

 

しかし、ここではそれだけに留まらぬ重要な問題があ る。1964年当時、我々観客は劇場で観る『モスラ対ゴジラ』に日米同盟による対ゴジラ攻撃シーンがあったなど知る由もなかった。しかし、世界中の人々 は"Godzilla vs The Thing"で日米同盟を当然のものとしてスクリーンの中に観ていたわけである。つまり、日本の国防について少なくとも『モスラ対ゴジラ』という映画を通 じて日本国内向けと海外向けの二つの視点が存在したことになるのだ。少なくとも我々日本人は『モスラ対ゴジラ』で日米安保が機能していたこと、それが世界 中のスクリーンで展開され日本人以外は観ていたことを未だに知らないという訳なのである。ここには映画における政治的ダブルスタンダードが存在する。国内 向けと海外向けである。海外には見せても良いが国内には見せたくないという政治的配慮が働いているがためである。

 

封印された日米安保

 

海 外版『モスラ対ゴジラ』は過去に一度だけ日本語字幕付きでレーザー・ディスクというコアなマニア向けのメディアとして発売されている。その後はDVD時代 になってもこのバージョンは公開されていない。現在鑑賞するには、過去に発売されたレーザー・ディスクを入手するかアメリカで発売されているDVDを取り 寄せるしか方法はない。日米安保による対ゴジラ攻撃というゴジラ映画の劇中における史実は未だ封印されていると言ってもよいだろう。我々には知らされない ものと、知らされるものがある。

知らされなければ一生知ることもあるまい。

 

こうしたメディアの供給方法は、 頑なに東アジアの抗日映画の上陸を水際で防いでいる日本の現状とも重なり合わさる部分が大きい。我々は民主主義の名の下に自由を保証されて生きている。少 なくともそう信じているわけである。しかしながら、1964年のゴジラ映画の中にでさえ政治的なメッセージや視点は伏せておかれる。

それが延々と50年間変わらず続いてきているわけである。1954年、反核という旗印に刺激的に反米的メッセージを送った『ゴジラ』から僅か10年。『モスラ対ゴジラ』ではその政治批判力は同じスタッフや出演者によっても全く弱められてしまった。

しかもダブルスタンダードの政治視点を持ちながら・・・。戦後68年、我々は知る権利を持ちながら、知ることが最初からできない状況に置かれつつある。

それは日本の政治と社会が長く積み重ねて努力を惜しまなかった我々「良民」たる「領民」を限りなく大量に生産する目途を成し遂げた成果でもあると言えるのかもしれない。取るに足りないと思われがちなゴジラ映画にもその歴史を見ることができる。

 

政治だけに留まらず映画というメディアの責任もまたこれはこれで大きいと筆者は思うのである。


執筆:永田喜嗣




青空帝国~ある地球人のつぶやき

大真面目に映画『ゴジラ』の分析による映画論を書いている。

なぜいまゴジラなのか?

3.11以降のゴジラ不在のまま我々はゴジラ生誕60周年の2014年を迎える。

ゴジラとは何か?

ゴジラのいない、現代社会と2014年とは何か?

今は論文の内容は詳しくは述べない。

発表出来るかどうかも宛のない論文だがとにかく書く!

また、ここでもゴジラについて少し書き綴ってゆきたいと思う。


ここに二体の怪獣人形がある。
いずれも筆者の蒐集品の一つである。
同じ型から作られた製品で1970年代にブルマァクという玩具メーカーから発売されていたものだ。怪獣は伝説の特撮の神様、円谷英二特技監督が監修したテレビ番組『ウルトラQ』に登場したパゴスという怪獣である。

青空帝国~ある地球人のつぶやき
ブルマァク「パゴス」前期型


青空帝国~ある地球人のつぶやき
ブルマァク「パゴス」後期型

画像のパゴス前期型はパゴス後期型よりも古い事がわかっている。
製造時期によって色の塗り方や材質が違ってくる事は古玩具愛好家の中では常識化している周知の事実である。
私の感覚から述べるならパゴス後期型よりもパゴス前期型の方がより雰囲気が良いと感じる。
それはあくまでも私の感覚に頼るところが大きい。
勿論、古玩具愛好家としての今まで目にしてきた数々のアイテムから経験的に学んだ優劣の判断基準も作用している事は事実だ。
パゴス前期型がパゴス後期型よりもより良い雰囲気を感じることが不思議でならない。人のによっては後期型を良しとする人がいるだろう。

私を魅了する醸し出される雰囲気の正体は経年の変化による劣化が生んだ付加価値であろうか。

私はこの二体のパゴスをもって、ソフビ怪獣や古玩具に何ら興味を持たない友人三人に質問をした。
この画像のパゴスとの前期型と後期型を並べて「どちらがいい?」という単純なものだ。

結果が三人が三人とも画像の前期型パゴスを支持した。
理由は「雰囲気がいい」あるいは「深みがある」「風格が感じられる」であった。
対するもう一体のパゴスに与えられた評価は「玩具っぽく軽い」であった。
保存状態は後期型が断然良くキレイに見える。
しかし、三人は前期型を選んだというわけだ。
更に私はブルマァクの復刻版のパゴスを付け加えて提示した。
三人は復刻版が最もインパクトがないと答えた。


青空帝国~ある地球人のつぶやき
ブルマァク 「パゴス」 復刻版

ここにおいては既に論理では説明のしようがない感覚が作用している。
同じ型から作られた同じ複製品であってもそこには個体の特有の雰囲気が宿る。
その雰囲気が何らかの基準によって優劣が決定される妙がある。
その基準とは何かと考えたところで答えを導き出すことは難しい。

ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンが提唱した観念「アウラ」がそこにあり、作用しているとしか説明のしようがない。前期型パゴスには固有のアウラが宿っており他の複製品を圧倒しているのではないかという仮説である。
しかし、ベンヤミンが説くアウラは「どんなに近くにあっても遠くにある一回きりの現象」としており、アウラは古来、一回きりあるいは一個体における芸術作品に対して人が抱く畏怖である。
この画像の前期パゴスにその様な概念が当てはまるとしても、ベンヤミンがアウラを用いた「複製技術時代の芸術作品」における概念と照らし合わせると複製芸術であるソフビ人形というプロダクト自身がアウラを消滅させるものであったはずである。
ところがこの前期型パゴスはそれをかたくなに拒みながらアウラを保持している。
それは微細な塗装の揺れや経年の変化の仕方で原型に対する複製品であったパゴス自身が自らオリジナル化した所以である。
三人が復刻版を支持しなかったのは何故か。
現代の複製技術の規格化と精密さの中にあって複製品が常に均整化されていることを本能的に計算したのかもしれない。
勿論、前期型パゴスの複製品が後期型と直結していないからベンヤミンが説くアウラはここに安易に適用することは出来ない。
ただ、ソフビ怪獣という古玩具がファン層を捉えて止まないのは、このアウラのパラドックス性にあるのではないかと筆者は考えるのである。
つまり、大量に生産された複製品が一個体としてオリジナル化し、アウラを保持するに至るという逆説的矛盾である。

これは解き明かされぬ呪術的な魅力であり、玩具愛好家や蒐集家の中に無意識のうちに植えつけられた一つの原則的な論理なのかもしれない。


執筆:永田喜嗣

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古書店から本が届いた。1976年刊のアメリカの作家ロバート・カッツの『カサンドラ・クロス』。同年の同名映画の小説版だ。
映画『カサンドラ・クロス』はジョルジョ・P・コスマトス監督作品だが、前作『裂けた鉤十字』も含めて社会批判性の強い重厚な良く出来た作品。なのに続く『オフサイド7』や『ランボー・怒りの脱出』ではその感覚が失われた。
『裂けた鉤十字』と『カサンドラ・クロス』はロバート・カッツの作品。
どうやらカッツにヒントがありそうだ。
アメリカの古書店に『カサンドラ・クロス』と『裂けた鉤十字』の原書のオーダーもかけた。到着すればすぐに原書にあたってみるつもりだ。このネタで何か書き残せそうだ。