日本テレビのドラマ『明日、ママがいない』が「赤ちゃんポスト」を運営している熊本市の慈恵病院によって放送中止を求められている。私はこの抗議は 正当なものだと考えている。『明日、ママがいない』は封印されることが妥当だと思うのだ。映像制作者や映像作家は描かれる素材の実体についてよく知り、よ く理解した上で映像作品を制作せねばならない。もしも、それをなおざりにすれば社会へ影響を与えることになる。

 

『明日、ママがいない』では父母がいない子供たちというマイノリティへの蔑視や差別を増長させてしまう危険性がある。制作者たちはその事を意識したのだろうか。

アニメ・ドラマの『キャンディ・キャンディ』や『小公女セーラ』の作劇のノリでこの様な現代の社会性の高い主題のドラマを造ってもらっては困るのである。

 

映 像制作者や映像作家はフィクションを作り出す作家である前に社会へ影響を与える主体であるということへの自覚と決心が必要なのだ。『明日、ママがいない』 は「赤ちゃんポスト」出身の少女が「ポスト」とあだ名されているという設定や児童養護施設を「ペットショップ」などと比喩する台詞が登場するなどおよそ児 童保護施設に実際に存在する子供たちの人権を考慮したものとは考えられない。これは新たな人権侵害を生む要因としかならないのではないか。

 

そもそも、脚本家は児童保護施設や「赤ちゃんポスト」の実態を綿密に調査した上で執筆しているのであろうか。

もしも、事実、児童保護施設でその様な人権侵害が行われているという事実があり、それを告発しようとドラマ化するというのであれば筆者は何も言わない。こうした社会問題を取り扱うドラマの場合、作家はジャーナリストの如き活動と視点が必要となる。

 

熊 井啓監督の脚本・監督デビュー作『帝銀事件・死刑囚』においても熊井啓は死刑囚であった平沢にまで面会して脚本を書き上げた。しかし、フィクションである から「架空の物語」として創作することで何でも許されてしまうという事にはならないのである。こと社会性のテーマを持った作品にはこの点は重要である。テ レビを前に座っている数百万の大衆はそれをフィクションだから現実と同化してはいけないなどと絶えず意識してるものではない。

もしそうでないなら、プロパガンダとしての映画だって存在していないのだから。それだけにフィクションを制作する際には十全な調査や研究は不可欠なのだ。

 

主人公の立場を過酷にして視聴者の感情移入を取り込もうとする作劇なのだろうが、そのために人権が侵されることは決してあってはならない。もう一点付け加えるなら、映画やドラマが社会問題を描くとき、その手法はエキセントリックであっても構わないと筆者は考えている。

 

例 えば審理中の裁判を映画化した今井正監督の『真昼の暗黒』もあるいは手法としてはエキセントリックである。同じことは山本薩夫監督の『松川事件』や『証人 の椅子』にも言えることである。しかし、これらのエキセントリックさは全てが権力機構や権力そのものへ向いていた。その抵抗としての告発を行うためにエキ セントリックさを発揮するのである。

 

昨今の映画やテレビドラマにはこうした態度が伺えない。

研究なく思考なく、ドラマの主人公たちの実体への配慮のなさだ。自分たちがドラマを作った際にそれを観たマイノリティがどう受け取けとるのかという思考とその想像力のなさである。

 

私はこのドラマ『明日、ママがいない』が即刻放送中止されんがことを切に願う。


執筆:永田喜嗣



 

野村靖 「今は清国家が混乱しておりますから清国の釣島を占領してしまう機会であります。」

陸奥宗光「世界中に向けて宣布しなくとも我々の閣議で決めてしまえば日本の領土になったも同然です。いっそうのこと名称も変え尖閣諸島と呼びましょう。」

 

この対話は中国の抗日映画『一八九四・甲午大海戦』(2013年)の1シーンである。日清戦争末期における日本側の御前会議で内務大臣と外務大臣がそれぞれ明治天皇に意見を具申している場面である。

 

『一 八九四・甲午大海戦』清国北洋艦隊の巡洋艦致遠の艦長だった提督、邓世昌を主人公とし、黄海海戦をクライマックスにした抗日戦争映画である。邓世昌は黄海 海戦において日本艦隊に自ら体当たり攻撃を行い壮烈な戦士を遂げた提督で、現在の中国の歴史教科書には必ず掲載される抗日英雄である。『一八九四・甲午大 海戦』は尖閣諸島の領有権を巡る中国側の主張を国民に向けて宣伝した映画作品だ。これ程の大作にも関わらず海外には輸出されている様子もなく、発売中の DVDにも香港バージョンでさえ英語字幕が付されていない。

 

上の陸奥宗光(三浦研一郎)のセリフは日本側が日清戦争の折に釣島を中心とした尖閣諸島を中国領有のものだと認識しながらそれを日本の領土に組み入れようと意識的にしたという描写である。この映画の最後の部分には第二次世界大戦で大敗した日本は台湾と澎湖列島を中国へ返還したの同時に尖閣諸島もその中に含まれていたというナレーションが流れる。

この映画は明らかにプロパガンダ映画であって史実に正しいとは言いにくい描写が多く登場する。

上の陸奥宗光のセリフも御前会議でこのような会話が出たという記録はもちろん存在しない。

また日清戦争以前に清国の北洋艦隊が長崎に寄港した際に起こった長崎事件についても史実とは喰い違っている。清の水兵が遊興の果てに酔って商店を略奪したことから起こった暴動を日本警察が鎮圧した。

その際に清の水兵、日本の警察官の中から死者まで出たとという事件である。この事件は清の水兵を監督する下士官や士官が随行していなかったことから起こった事件だった。日本政府は寄港中、士官が水兵を管理するように要請したが暴動は数日に渡って発生した。

 

こ れが長崎事件なのであるが、『一八九四・甲午大海戦』における長崎事件は無抵抗な水兵に浪人と警官が突然、所持品検査だと言って一方的に殴りつけて暴行を 加えるという描写になっている。清の水兵は全く無抵抗だった様子のまま重傷を負って次々と艦に運び込まれる。この事件を発端に北洋艦隊は急遽長崎を出港す る。しかし、これらの描写は史実ではない。映画を観る者にとっては眼前で展開するこのような事件は史実と映ってしまう恐れがある。

 

陸奥宗光の尖閣諸島を巡るセリフもまた同様である。尖閣諸島問題についてはここでは詳しく述べるつもりはないが、史料を見れば日清戦争終結における下関条約にも第二次世界大戦集結の折の台湾と澎湖列島放棄の文言にも尖閣諸島は記されていない。だから取るに足りないこの小さな島々は外交交渉の中では日中双方から問題にもされてなかったのではないかというのが本当のところだろう。

 

現在の国際的な認識では確かに尖閣諸島は日本の領土である。しかし、中国や台湾はそうは思わない。

 

我々 日本人は戦争といえばロシアを敵に回した日露戦争かアメリカと戦った太平洋戦争を過剰に意識する。そこには白人に対して日本人が果敢に挑んだのだという何 とも東洋の黄色い猿としての人種的劣等感を覆い隠す歪んだ優越意識が何処かで作用している。中国や台湾と戦ったという意識はあってもことさらにそれを思い 返そうとはしない。

 

ポツダム宣言受諾による連合軍に対する無条件降伏によって日本はアメリカ、イギリス、ソ連に敗北しただ けではなく中国に対しても無条件降伏したのであるが、その様な意識は現代の日本人には殆どないだろう。そこには明治維新以来、育ってきた中国や朝鮮に対す る侮蔑意識や差別的感情が働いていると考えられる。

 

『一八九四・甲午大海戦』では尖閣諸島問題の起点を日清戦争に置いている。日清戦争は一般大衆はおろか研究者の間でも不人気な対象である。日本人にとって日清戦争は明治期の昔話かおとぎ話である。歴史の線上からあたかも外れてしまったかのような印象さえ受ける。

し かし、日清戦争がその後の日露戦争を生み、更に満州事変を生み、日中戦争が起き、太平洋戦争が起こったのである。日清戦争中、旅順占領の際に起きた「旅順 虐殺事件」は日中戦争における「南京事件」と幾つもの共通点を持っているのにも関わらずこの事件については殆ど語られる事はない。それほどまでに日清戦争 はその後の日本の戦争からは遠く置き去りにされているのである。

 

欧米では日清戦争を「第一次日中戦争」と呼び日中戦争を 「第二次日中戦争」と呼んでいる。はっきりこの両戦争の関連性をはっきりと認識されているのだ。確かに敵対したのは清国、中華民国と対象は違ってはいると は言え、それは「第一次世界大戦」と「第二次世界大戦」においての敵対した対象が違っても歴史的関連性があることと同様なのである。

 

尖閣諸島の領有権の解釈や長崎事件の描き方については異論も多いだろうが、『一八九四・甲午大海戦』は我々に重大な問題を提起してきた作品である。

それは現代に至る日中の問題は少なくとも、日清戦争にまで遡った歴史観が絶対に必要であるということなのだ。

そして、この一本の筋道を繋ぐ歴史観は中国のそれであり、欧米においてのそれでもある。

 

この抗日映画もまた日本では今後、紹介も公開もされないだろう。

 

抗日映画や抗日文化が拒まれ続ける限り、我々に考えさせることもなければ、振り返ってみる機会さえ与えられないのだ。


執筆:永田喜嗣



 

講談社の零戦(零式艦上戦闘機)のプラモデル付きの分冊百科シリーズの広告である。このシリーズは刊行が開始された際には宮崎駿のアニメ映画『風立ちぬ』を利用していた。

曰く「『風立ちぬ』の零戦」云々である。『風立ちぬ』の公開が終わると今度は上映中の映画『永遠の0』とタイアップを始めたという訳だ。この様なタイアップは特に珍しいものではない。

漫画『はだしのゲン』が「少年ジャンプ」に連載されていた時にも戦車や軍艦のプラモデルの広告が同時に掲載されていたという事実もある。

作品の内容とは関係なく戦争を取り扱っているというだけで戦争文化、ホビー商品をそこに関連付け、商品の販売促進を行うという事は繰り返し行われてきたことである。

 

例 えばジャック・スマイト監督の『ミッドウェイ』が公開されたとき、米国のプラモデルメーカーであるモノグラムの日本代理店は「ミッドウェイ海戦参戦機を集 めよう!」という広告を早々と打っていた事が思い出される。スティーヴン・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』が公開されるとホビーメーカーの 東京マルイ社が電動式のエアソフトガンで劇中トム・ハンクスが使用してたトンプソン・サブマシンガンを発売する。

戦争映画ではないがドン・シーゲル監督の『ダーティ・ハリー』が人気を博せばモデルガンメーカーはハリーの愛銃、S&W44マグナム拳銃を関連付けて発売する。

 

映画作品におけるこれら武器や兵器の持つ意味と製品のベクトルは全く違う次元のものであっても商業的価値としてホビーメーカーや出版社は好機とばかり利用する。

 

私はこうしたことに目くじらを立てて問題視しようなどとは思わない。

なぜならこうした事象はごく限られたユーザー、つまりはマニアとかファンであるとかそうした好事家に向けられていたものであり、また映画製作者が望んだことでもないからだ。しかし、昨今はこうした事象を問題視することなく避けることが出来なくなってきた。

 

それは公開される反戦映画にコミットしてホビーメーカーや出版社が狭い範囲での好事家だけを対象にするのではなく、一般大衆に向けて商品の販売を行うようになってきたからである。

最 も顕著な例が、先に挙げた講談社の広告の如き分冊百科シリーズである。分冊百科はこれまで戦争文化に関するものはそうは多くはなかった。以前は自動車、バ イク、航空機などのミニチュアモデルの取り扱いが多く、軍用機、戦車、自衛隊の兵器などを繁盛に取り扱うようになってきたのはここ数年の出来事である。

 

最近ではミニチュアモデル付きの分冊百科の軍事色はかなり強くなってきている。

公式発売には至らずテスト販売だけに終わったようだがアシェット・コレクションズ・ジャパンの『日本陸海軍徽章コレクション』というものまで登場した位だ。

同時にマニア向け本ではなく、ビギナー向けのミリタリー本が書店に数多く並ぶようになったのもここ数年の現象である。

 

私は何度も書いてきたが分冊百科や一般雑誌で軍事ものを扱うことは大変危険であると考えている。

軍 事オタクは軍事に対して免疫がある。彼らは軍事に関する武器や兵器に魅せられているある種の変人として扱われてきている。その中で彼らは自らをアウトサイ ダーであることを認めている。その上、武器や兵器を取り巻く戦争というものの本質について、それに全く興味を持たない一般大衆よりもよりよく知っているの である。

 

しかし、戦争について何ら興味を持たない、あるいは深く知ろうとして来なかった一般大衆に零戦や大和をポンと手渡しすることは、武器や兵器が持つ潜在的なヒロイックな部分だけを無批判に引き出して与えてしまうことになりかねないのだ。

 

こうした分冊百科をはじめとする雑誌やホビーの映画とのタイアップは宮崎駿のアニメ映画『風立ちぬ』から非常に激しくなったように感じる。

『風立ちぬ』公開前から零戦関係の本が数多く書店に立ち並ぶようになった。

実際には零戦など殆ど本編に登場しないにも関わらず『風立ちぬ』と言えば零戦となる。

この現象はジブリの映画の売り込み方とその周辺に起きた便乗出版がかなり影響している。

 

私 は映画『風立ちぬ』を検証して、非常に緻密に計算された反戦映画であり反ファシズム映画であると結論づけているが、こうした映画周辺の現状を見ればそれが 正当であるとは誰にも思えないのではないかとさえ感じる。実際、映画評論など見てみると評論家たちでさえもが「零戦を礼賛するとはけしからん」と批判して いる始末である。

映画を取り巻く世界が評論家の目までも曇らせてしまうのだ。

『風立ちぬ』関連で出版された雑誌や本の中には 宮崎駿を含め映画製作側もこれにコミットしている例も見受けられる。それどころかジブリ自体も自社製品として映画に登場する九試単座戦闘機(零戦の前身と なる九六式艦上戦闘機の試作型)のマスコットやキーホルダーを発売している始末なのだ。

 

映画のベクトルとは全く違っているこうした商業戦略は映画自体の価値も下げかねない。

いや、それどころではない。映画自身も映画の主題とは別のベクトルへ導く起爆剤となって爆発し続けるのだ。

 

少し考えてみよう。

山本薩夫監督の『真空地帯』や『戦争と人間』が公開された時点で映画に関連付けて日本陸軍の兵器を紹介した雑誌や本が出版されるだろうか。山本監督が自らその出版に参加するだろうか。三八式歩兵銃のキーホルダーやマスコットが一般大衆向けに発売されるだろうか。

 

軍 事オタクではなく、一般大衆向けに武器や兵器の抽出された情報を与えようとする出版社、それに加担してしまう反戦映画の映画製作者や映画産業。利益を上げ るためには映画の本質は無視しても良い。主題を踏みにじっても良いというあからさまな暴挙が眼前で展開しているのである。

 

これでは日本映画の心は完全に死滅してしまうだろう。

 

私たちはこの場に及んでも何ら気にはしていない様だが、既に常軌を逸した状態が映画とその取り巻く周辺では起こっているということを我々は今一度立ち止まって認識しなければならないのだ。


執筆:永田喜嗣


 

チェコのプラハに放置された旧ソ連軍のT34戦車をピンク色に塗装した芸術家がいたという。戦車をピンク色に染め上げるという突飛な行為は単に奇をてらったものではないはずだ。

チェコの戦後の歴史を考え合わせれば、プラハの春に怒涛の如く進撃してきたソ連のT34戦車の記憶はチェコ人にとって心に刻み込まれているだろう。

カーキ色のソ連のT34戦車をピンクに塗装するという作業は膨大な労力と材料費を必要とするだろうが、それを乗り越えてでもさ成さねばならなかった何かがあるはずである。

武力による支配と抑圧の象徴であるプラハを蹂躙し、蜂起した市民軍をなぎ倒していったカーキ色のT34をピンクに塗装することは抵抗の何ものでもない。戦車をピンクに塗装することで暴力と支配と抑圧に否と叫んでいるのだ。

そこにはピンクという暖色が生む性のイメージもない。

あるのはピンクという膨張しきった暖色が戦場に潜んで人びとを狙うカーキ色への抵抗でしかない。

 

最近、模型店へ足を運べばやたらと目に入るモデルがある。

旧日本軍の戦車を萌えキャラ仕様にしたプラモデルである。『ガールズ&パンツァー』というアニメにあやかった製品だ。

搭乗しているのは軍服に身を包んだ10代そこそこの萌えキャラの美少女だ。

発売元のファインモールド社はミリタリー・マニアをうならせる緻密なモデリングで名を馳せた硬派なプラモデルメーカーだった。そのファインモールド社が自社の金型を流用して萌えキャラ戦車を販売しているのだ。

 

『ガールズ&パンツァー』というアニメのイントロダクションには次のようにある。

 

「戦車を使った武道「戦車道」が華道や茶道と並んで大和撫子のたしなみとされている世界。県立大洗女子学園に転校生・西住みほがやってきた。」

 

西住みほという主人公の姓名のモデルは日中戦争時の戦車隊の英雄として喧伝された西住戦車隊長であることは間違いない。

戦車で戦うことが茶道や華道と同じ女子のたしなみとする設定。

登場する萌えキャラたちの各戦車部隊の名前も「カメさんチーム」「うさぎさんチーム」といった具合だ。

 

 

ド イツの幽霊戦車ホワイトタイガーを狩り取ろうと血みどろの戦いを繰り広げるソ連の戦車兵を通じてヒトラーのナチズムと戦争を痛烈に批判したロシア映画『ホ ワイト・タイガー』が昨年、アカデミー賞外国語映画賞のノミネート候補作品となり、世界から注目を浴びた現時点で、日本の戦車戦を扱った映画がこの『ガー ルズ&パンツァー』なのだ。哲学的で芸術的な戦争映画『ホワイト・タイガー』に至っては欧米諸国では公開されメディア化されているにもかかわらず、日本で は未公開のままである。

 

書店のミリタリー・コーナーを覗いてもそこら中に萌キャラが肌を晒しながら銃を構えている。屈託のないあどけない笑顔で、しかも性的な挑発をプンプンさせながら一分間に数十人殺すことができる自動小銃を手にしている。

 

萌える軍隊。

少 女の非現実的な柔肌と肢体を仮面に戦争とファシズムのメカニズムを隠しながら、SEXと女性には現実的には降伏している青年の心を惑わせ続ける。二次元の 実体のない肢体に触りたいという欲求、その孤高の肢体がメカニックな兵器によって破壊してゆくという倒錯した性のエクスタシー。

ナチスの宣伝省ですら思いもつかなかった完璧な洗脳システムである。

 

い くらか健全な軍事オタクやミリタリー・マニアは自分たちが取り扱っている兵器や武器が使用された場合、どれほどの悲惨な状況を作り出すかを知っている。戦 争の悲惨さを認識している。引き金を引けば人が死に、戦車砲が火を吹けば人の四肢が無残に四散し肉片が飛び散り、そこらじゅうにこびり付く様を想像するこ とが出来る。

真に軍事オタクと呼ばれるべき人々はそうした戦争の取扱いを精神的に慎重に行っているものだ。

 

ところが萌える軍隊に魅せられる人々は魅せられる瞬間、その様な現実は意識はしてはいない。

興味の対象は銃を撃ち、戦闘を行う性そのものであるからだ。

 

SEXに覆い隠された戦争はSEXそのものとして何の罪悪感も後ろめたさも残すことはない。

戦争の殺戮や破壊は二次元の少女の肢体が正当化し適度なオルガスムスと同一化される世界。

 

これが世界に誇れる日本独自の文化と言えるだろうか。

楽しければそれでよい。面白ければそれでよい。

萌えキャラによってインポテンツに陥った男性たちに性的な強姦が繰り返して行われ、殺戮の男根としての銃が、戦車が手渡される。

 

美しい肢体の美人女性モデルが自衛隊の制服に身を包み、敬礼をしてみせた時。戦争の担い手である男性の視線はどこへと注がれるのだろうか。

 

萌える軍隊を次々と編成し、延々と前線へ送り込む出版界や映画界の罪は余りにも大きすぎる。

 

このあどけないファシズムの文化装置の原罪を如何に払拭するのか。

 

私はもう止めようもないこの愚かさをただ、ただ傍観する他ないのだ。



昭和39年頃書かれた映画シナリオに『フランケンシュタイン対ゴジラ』というものがあった。脚本の作者は木村武(馬淵薫)である。木村武は脚本家の 前身が日本共産党の活動家だったため、映画脚本、とりわけ怪獣映画においては反権力あるいはマイノリティへの視点が色濃かった。

その木村武が書いた『フランケンシュタイン対ゴジラ』は没となったのだが、この脚本のゴジラを他の怪獣(地底怪獣バラゴン)に置き換えて再構成され昭和40年に『フランケンシュタイン対地底怪獣』という作品となって公開されている。

 

『フランケンシュタイン対ゴジラ』に登場するフランケンシュタインの怪物は第二次世界大戦末期、ドイツからUボートで日本へ運ばれる心臓としてまず登場する。

フランケンシュタインの怪物の心臓は広島の衛戍病院に運ばれるがそこで原爆によって被爆、行方不明となる。戦後、心臓から怪人に成長して広島市内に出没する。

広島の怪人フランケンシュタインはヒバクシャなのである。対するゴジラは水爆大怪獣の異名の通りビキニの水爆実験によって目覚めた怪獣だ。ゴジラもフランケンシュタインも同様に1945年にこの世に出現した核兵器の洗礼を受けたヒバクシャなのだ。

『フランケンシュタイン対ゴジラ』がもし実現していたならば、ゴジラ映画の時間軸にヒロシマの四文字が付け加えられたことになる。つまり、ゴジラの作品世界にヒロシマとビキニが同時に存在し対峙したはずなのだ。

 

1954年、ゴジラが誕生したこの年の3月にビキニ環礁でアメリカによる水爆実験が行われ、日本のマグロ漁船、第五福竜丸が被爆した。この第五福竜丸事件の勃発は日本においての原水爆反対運動の契機ともなった。反原水爆の旗の下、社会運動が急速に展開していったのである。

第五福竜丸が焼津港に戻って5日目の1954年3月19日に当時の外務大臣、岡崎勝男が米国大使に宛てた至急電には次の通りにある。

 

「本 件は格好のトピックとして昨十六日以来新聞は勿論国会に於ける質問の中心になりたる観あり。且左翼分子の扇動もあり、之を放置することは、日米友好関係上 面白からざるのみならず、米国の必要とするsecurity保護に対する我が方の協力に遺憾の点を生ぜむる如き空気を誘発するおそれ無しとせず」(1)

 

この電文からも推察できるように、当時の政府与党や米国政府の一部を震撼せしめるような社会的運動が第五福竜丸帰港から後、起こり始めていたことが伺える。

やがてこの波は反核平和運動としての署名運動という形で展開し、その力は翌年の1955年には広島で第一回原水爆禁止世界大会を開催するまでに至った。

この署名運動の母体が原水爆禁止日本協議会(原水協)を結成した。

 

戦 後の日本における反核平和運動は1954年の映画『ゴジラ』が公開された年、第五福竜丸事件を起点に始まったのである。第五福竜丸事件をモデルにした映画 『ゴジラ』もまた、原作者香山滋が「核へのレジスタンスを行うつもりで書いた」と述べるように、こうした反核平和運動の中で生まれた映画でもあった。

 

第 五福竜丸事件によって始まった反核平和運動に対して広島のヒバクシャたちはどういう反応であったのか。静岡新聞社の2004年における取材では当時の広島 のヒバクシャたちはこの問題に接点を持ってはいなかったという。当時だけでなく、その後の20年間も市議会でも第五福竜丸事件について広島原爆との接点を 考えるような議論も質問もなかったのだという。(2)

 

つまり、ヒロシマとビキニは分断されていたのである。本来なら足並み を揃えてもおかしくはない、これらの二つが何の接点も持ち得なかったということは驚くべきことである。ヒロシマとビキニ分断の背景には被害の大きさを考え れば比較にならないという広島のヒバクシャの意識が潜在的にあったのではないかと広島私立大広島平和研究所の水本和実助教授は推察している。(3)

ヒロシマとビキニの分断にはその様な背景があったとしても、1945年の原爆投下による被災と1954年の第五福竜丸の被災は共にアメリカによる核兵器による被害として決して無縁ではない。

しかし、両者は分断されていたのである。

 

1963年には日本共産党と社会党の党派的衝突によって社会党系は原水協を脱退して原水爆禁止日本国民会議(原水禁)を結成し、反核平和運動を主導する団体は分裂に至った。第五福竜丸事件を起点とした反核平和団体がここに来て分断されてしまうという事態に至ったのである。

もしも、第五福竜丸事件を起点とする反核平和運動の波に広島のヒバクシャが接点を持ってコミットしていれば、米ソ核実験の在り方を問うことに終始した原水協の論戦と衝突はまた別の形を取っていったかもしれない。

 

2003 年の8月に広島で開催された「原水爆禁止世界大会」は原水協、原水禁が別々に二つの大会を開催するという分断ぶりを今世紀に至っても健在であるということ を示すこととなった。ヒロシマとの分断はおろか運動そのものが分裂し、反核平和運動に邁進しようとするものに混乱と動揺を与え続けているのである。

反核平和運動は冷戦終結後の今日でもこのように分断されたままなのである。

 

2004 年に焼津市の平和団体が第五福竜丸事件を記念するためにゴジラをシンボル・キャラクターとし、1954年の第1作目の映画『ゴジラ』を上映して市民に第五 福竜丸事件との接点を考えるというイベントを開催した。同団体は焼津港にゴジラのモニュメントを建立する計画まで持っていたという。(4)

ここでも、やはりヒロシマとビキニは分断され続けている。ゴジラ(第五福竜丸事件)を起点とした反核平和運動はヒロシマから直結はしてはいないのだ。

ビキニの水爆実験とともに生まれたゴジラという水爆大怪獣の誕生をその起点としているのである。こうした分断と分裂の歴史は我が国における平和運動活動の最も深刻な弱点でもある。

内紛と分裂によって推進する力は分散されてしまう。

これは平和運動のみならず社会運動における暗い一面の一つではないだろうか。

伝え聞くところによるとフクシマを起点とする反原発運動の中にも同様の分断と分裂は繰り返して行われているという。

 

ヒロシマ・ビキニ・フクシマ。この1945年から2014年に至る三つのヒバクが分断されずに一直線の力として集結していれば今日の反核運動の流れもまた別なものとなっていたと思えてならない。

 

ゴジラ映画の世界に引きこもって考えれば、もしも先に挙げた『フランケンシュタイン対ゴジラ』という企画が実現して映画作品として結実していたならば、ゴジラ映画の世界ではヒロシマとビキニは分断されずに接点を持つことになったはずである。

 

1971 年の映画『ゴジラ対ヘドラ』が今日もなお、核の象徴としてのゴジラと公害の象徴としてのヘドラが対峙するという文脈で語られる様に『フランケンシュタイン 対ゴジラ』が実現していたならば、ヒロシマとビキニという文脈であるいは多くの論説が出現していたかもしれない。少なくともゴジラ映画という文化装置の分 析という過程でゴジラは第五福竜丸事件を起点とする反核平和のメッセージとしてだけでなくヒロシマまで網羅されることになったであろう。

それだけに『フランケンシュタイン対ゴジラ』が没になったことは残念な事である。

 

政治的党派、思想主義の対立が原因でなく、単に商業的な意味にせよ、『フランケンシュタイン対ゴジラ』の企画が没したことは今なお分裂し続ける反核平和運動の姿と象徴的に遺憾の念を伴いながらオーヴァーラップしてならないのである。

 

 

(1) 静岡新聞社『第五福竜丸 心の航跡』静岡新聞社、2004年、30頁

(2) 同掲書46頁

(3) 同掲書46頁

(4) 加藤一夫『やいづ平和学入門』論創社、2012年、64頁-94頁




「わが祖国を侵略しようとするとき彼らは日本に非戦闘員がいないということを思い知るだろう。全ての男女、子供が死ぬまで戦い、木々や小川、山や谷 までが味方するからだ。わが国では一粒の土地、一本の木でさえ先祖の霊に守られているのだ。敵には数千、数十万の犠牲者が出ることだろう。敵は何の痛手も なしに勝てると思っているからだ。名誉よりも命が大切だと考えているからだ!敵は最後には倒れ、崩れ落ち、敗北の傷跡を舐め、戦争を終わらせてくれと懇願 しながら這いつくばって逃げてゆくのだ!」


(映画『HIROSHIMA』より阿南陸軍大臣(高橋幸治)のセリフ)


あくまでも連合軍には降伏せず徹底抗戦を貫き、本土決戦で勝敗を決すると主張する阿南陸軍大臣のセリフである。


映 画『HIROSHIMA』は1995年公開のカナダ・日本の合作映画である。アメリカ側をカナダ人映画監督のロジャー・スポティスウッドが、日本側を蔵原 惟繕がそれぞれ担当した。日本部分の脚本は石堂 淑朗である。映画はルーズベルト死去からトルーマンの新大統領就任、原爆投下と日本の敗戦までをアメリカ側と日本側の政府と軍の動きを並行して描くもの で、日米それぞれを別々に撮影し、総合的に編集して組み合わせるといった1970年の日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』と同じ制作方式の映画である。

ア メリカ側がノンスターキャスト、日本側がオールスターキャストとキャスティングまで『トラ・トラ・トラ!』と似ているため、『HIROSHIMA』と『ト ラ・トラ・トラ!』は全体的な雰囲気が似通っている。真珠湾攻撃による日米開戦を克明に描いた『トラ・トラ・トラ!』に対して『HIROSHIMA』は原 爆による終戦を克明に描いている。『HIROSHIMA』はもう一つの『トラ・トラ・トラ!』であると言える。『トラ・トラ・トラ!』に出演したウェズ リー・アディが『HIROSHIMA』ではヘンリー・スチムソンを演じている他、日本でこの映画がVHSで発売された際に邦題が『ジ・エンド・オブ・パー ルハーバー』となっていたことなど、両作は直接の結びつきはないものの関連事項は多い。


終戦前後の阿南陸軍大臣を描 いた映画は日本にも幾つかある。最も代表的なのは岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』(阿南役は三船敏郎)と阿部豊監督の『日本破れず』(阿南役は早 川雪洲)だろう。終戦のギリギリまで内閣で陸軍の立場から本土決戦を主張し続けた阿南陸軍大臣は終戦への何とか持ってゆきたい鈴木貫太郎首相や米内光政海 軍大臣ら和平派にあくまでも立ちふさがるいわば敵役となる。映画『HIROSHIMA』の日本側脚本を担当した石堂淑朗は左派的作品が多いがこの映画にお いては彼の本来の思想的底流である保守的な立場が色濃く出たため、『日本のいちばん長い日』の様に終戦推進派を是とし徹底抗戦派を非とする二項対立的な物 とは偶然にもならなかった。上記の阿南陸軍大臣のセリフの様な本土決戦思想を的確に言い表したのも阿南陸軍大臣が登場する映画の中でもこの 『HIROSHIMA』だけである。


さて、

本土決戦を推進する思想は阿南陸軍大臣のセリフの通りである。

全国民が全員兵士となって上陸してくる100万の連合軍に徹底的に抵抗するのである。

その抵抗によって敵を疲れさせて撃退してしまおうというものだ。

そ のためには味方が何人殺されても問題ではない。この過激な抵抗思想は同じく過激な非暴力主義であるマハトマ・ガンジーの思想とは真逆をゆくものである。最 終的な目標は幾多の犠牲を払っても抵抗し続けて相手を完全に疲弊させてしまおうというものだ。実際に本土決戦など行うことは不可能であった事は自明の通り だ。


中国大陸を初めてとして伸びきった前線から本土防衛のために友軍部隊を呼び戻そうにも海上輸送能力もなく、連合 軍は日本を取り囲んで制空権と制海権を手中に収めていたからである。実際にはもう戦える余力さえ残ってはいなかった日本には本土決戦など行うことは「夢」 にしか過ぎなかった。


しかし、日本国内には員数だけ合わせた相当数の兵士や航空兵器や陸上兵器が温存されていた。もし、本土決戦を行っていたら連合軍に相当な痛手を与えられたかもしれない。そんな幻想は幾ばくかは残ってはいるだろう。原爆投下がなければ勝てたかもしれない。

あるいは戦争を継続できたかもしれない


。原爆によって終戦が加速度的に決定的になった・・・という幻想と共に本土決戦の幻想は存在する。

原爆がなかったとしても日本は既に焦土と化しており、食料弾薬とも欠乏状態にあった。とても本土決戦など行う余力などなかったである。


しかし、陸軍と海軍の軍国主義者たちは本土決戦を本気で行うつもりでいたし、その準備を着々と進めていた。徹底抗戦をして最後には勝利を掴もうと大真面目でいたのだ。

「敵は最後には倒れ、崩れ落ち、敗北の傷跡を舐め、戦争を終わらせてくれと懇願しながら這いつくばって逃げてゆくのだ!」と信じていたのである。しかし、終戦と決まると軍国主義者たちはあっさりと本土決戦思想を捨てた。

終 戦後も抵抗し、米軍機を攻撃し続けたのは本土決戦思想を固持しようとした小園大佐が率いいる厚木基地の海軍航空隊位のものである。マッカーサーが厚木に降 り立って後は軍国主義者たちは一切の抵抗をやめ、抗米活動もゲリラ活動も行わなかった。軍国主義者たちは総転向してアメリカの自由主義に付き添ったのであ る。このものの見事の「転向」には呆れるばかりだが、この転向の主役たちが戦後日本の愛国主義を支え続けた事を我々は見過ごしがちである。


そして、原爆二個によって日本は敗北したという根拠のない伝説が生まれた。

原爆による終戦というトラウマが日本人を支配した。

特に政治指導者たちには強烈なトラウマとなった。原発を撤廃できない事情も十分に原爆を製造できる核物質であるプルトニウムを保有しておきたいという原爆終戦トラウマを政治指導者たちが抱えているからであるとも考えられる。


現在の日本の保守化はまさに原爆と終戦への反動である。

軍国主義者をいとも簡単に転向させたアメリカと原爆に対する反動である。

もはやアメリカの言う通りにする必要はない。

靖国参拝で中国や韓国は無論のことだが、あのアメリカまでもさえ苦言を呈しても再参拝は行う意思は曲げない。どう考えても国際政治の良識から外れた、この常軌を逸した行動は本土決戦思想にも似た幻想だ。


「わが国では一粒の土地、一本の木でさえ先祖の霊に守られているのだ。」


日本は原爆で本土決戦を阻まれた。

そ の原爆を数十発製造できる材料をくわえ込んだまま、精神的にも物質的にも本土決戦を行おうとしている。終戦に対する恨みを晴らそうとしている。私にはその 様に見えてならないのである。映画『HIROSHIMA』は原爆を中心に日米両国の終戦を巡る映画である。この映画を観る事によって我々はこの敗戦と現代 を結び付けることができる。


現代の状況を的確に把握するにはやはり過去の歴史を振り返るしかない。歴史を振り返ることを良しとしない弱点を絶えず抱えたまま日本人はどこへ行くのであろうか。


せめて、我々は過去を描いた映画という娯楽からでも何かを得ることをしなければならない。

今日の文化の低迷と劣悪化の中でそれすら期待できないことを私は心から憂い、この国を憂うのだ。






つげ作品に出会ったのは中学生のころだった。『ねじ式』が最初に読んだ作品だ。不条理劇としての『ねじ式』に私はそれほどの衝撃は受けなかった。も ちろん、それは安部公房などの不条理劇の洗礼を受けていたからで、逆に何の思想も論理もないつげ義春の『ねじ式』には空疎な感覚さえ抱いたものである。

 

つ げ作品の不気味や不条理さは『ねじ式』よりも数多く書かれた短編作品から受けた。そもそも、漫画文化には全く興味のなかった私は小中高と全くと言っていい ほど漫画というものを読まなかった。漫画というものを読む習慣がなかったのである。小説や戯曲は読めても、漫画の読み方を知らない。だから、つげ義春の作 品も読むには少々エネルギーを要する作業となった。大学に上がった頃、同輩につげ義春の信奉者がいて、頻りにつげ作品を読むことを勧められた。勧められる ままに私はページを開いたが、『ねじ式』とは打って変わって現実的な短編集に引き込まれた。現実的なと書いたが、それは『ねじ式』と同じくらい不条理な現 実さであった。

読むうちに私は何か言い知れぬ恐怖にかられた。その恐怖の原因が私にはわからなかった。

 

特に 零細町工場の職工少年を主人公にした『大場電気鍍金工業所』は衝撃であった。メッキ工だった肺病(公害病)によって肉体が死滅しようとしている老人が半裸 であばら家の床の割れ目から川へ向かって大便をする画などは私に深い嫌悪感と恐怖を与えた。また、工場のおかみさんと職工の三好さんが暗がりで肉体関係を 結ぶさまも同様に恐怖だった。

 

つげ義春の作品は私の中で人間というものをブスリ、ブスリと切り裂いてゆくような恐ろしい刃物となった。一作一作を読んでゆくうちに私は早く読み進みたいという気持ちと同時に早く読み終えて本を閉じたいという衝動に駆られたものだった。

 

『夏 の思いで』や『やなぎ屋主人』にも同様に恐怖を感じた。その恐怖はリアリスティックな人間の情景とアンモラルな人間の行動によるものであることは意識でき たが、それ以上に伺い知ることは出来なかった。無垢で現実を知らない19歳の芸大生であった私にはつげ義春の世界は全くもって未知であり、私は全くもって 無知なのであった。その後、私は同輩に借りていたつげ義春の漫画の数々を返し、二度とつげ義春の世界の扉を叩くことはなかった。心の中でそれを拒否したの である。

それは恐怖が先立っていたからに違いない。

 

今になってあの恐怖を何であったか再考すること、どうやらつげ義春の世界の住人が極めて普通の人間であって、それは弱い人間であって、それでいて無数に巣食う昆虫の群れのような態をなしていることなのである

。何よりも恐怖したのはそうした虫のような人間たちが実のところは戦後日本の民主主義社会と資本主義社会を無意識に支えてきた担い手であるという現実であったのだろう。

 

認めがたい現象だった。

当時の私にとって現在というものが形作られるのは神が奇跡を杖の先から生み出す様なものだと信じて疑わなかったようである。

 

つげ義春の世界の踏み潰してしまいそうな虫の様な住人たちが実はこの世の現実を創っていたのである。私はその事実を認めたくはなかったのだろう。

 

つげ義春の恐怖は今もどこかで私を悩ましている。

今更ながらにその本の扉を開くことさえ難しくさせながら、私は30年前の恐怖を未だに抱き続けているのだ。

 

それほどに紡がれる時というものは美化され続けてきたのだろう。

 

つげ義春の作品はそれを徹底的に破壊し続けているのかも知れない。



執筆:永田喜嗣



You might as well question why we breathe.
If we stop breathing, we'll die.
If we stop fighting our enemies the world will die.
「呼吸をするのと同じことです。呼吸をやめれば人は死ぬ。抵抗をやめれば世界もまた死ぬのです。」

映画『カサブランカ』でリック(ハンフリー・ボガード)の「何のために抵抗運動を続けるんだ」という問いに対するチェコ人反ナチ活動家のヴィクター・ラズロ(ポール・ヘンリード)のセリフだ。

抵抗することは呼吸と同じという、ラズロの抵抗に対する信念と情熱がひしひしと伝わってくる名セリフだ。
呼吸をやめれば人は死ぬ。世界もまた呼吸をやめれば死んでしまう。
しかし、反ナチ抵抗活動をしているのはラズロを始めごく少数の人々である。
殆どの人々が呼吸をやめている。
呼吸をやめている死んだ世界とは自由を失ってファシズムに支配された世界なのである。
呼吸をやめても生きているように見える世界。
リックは映画の最後でイルザ(イングリット・バーグマン)に言う。

「三人の問題など取るに足りないほどに世界は狂ってしまっているんだ。」
映画の中で政治嫌いを気取るリックが世界情勢に対して初めて口にする見解がこれだった。
狂った世界の中で呼吸をする人間がどれほどいるのだろうか。
世界は瀕死の状態で狂ってしまっている。
抵抗をする者がいなくなると完全に世界は死んでしまう。

レジスタンスの世界が全てであるラズロにとって「呼吸をやめれば人は死ぬ。」という考えは至極当然だったろう。ラズロはリックの酒場でドイツ兵たちが軍歌 「ラインの守り」を歌っているのに「ラ・マルセイエーズ(La Marseillaise)」で対抗する。酒場の客全員が「ラ・マルセイエーズ(La Marseillaise)」を歌った様にラズロは全ての人々が呼吸することを 望みそれが理想だと信じている。
その思いが「呼吸をやめれば人は死ぬ」という言葉へと繋がったのだろう。

世界が死に瀕した狂った現代に「取るに足りない」個人の問題を優先させ「呼吸」をやめようとする人々が増え続ける中で、どれほどの人がラズロのように未だに呼吸をしようとしているのだろうか。

ラズロのセリフは現代の我々に向けて警告を発している様に思えてならない。



先日、台湾映画『セデック・バレ』を巡る台湾学会の学術シンポジウムに参加して気がついたことがあった。ここにそれを記しておきたいと思う。


1930年に台湾山岳地帯で起こった台湾の先住民族セデックによる日本への武装蜂起事件「霧社事件」を壮大なスケールで描いたウェイ・ダーション監督の台湾映画『セデック・バレ』を史実に基づく歴史映画として真面に扱うことを私は如何なものかと考えている。

 

もちろん、それは史実を描いていないとか、細かい描写の部分で実際の歴史と違っているかとかそういった瑣末な部分での考察のことを言っているのではない。

『セデック・バレ』は「霧社事件」を描いた映画であると誰もが信じているために我々はこの映画の存在に翻弄されているのではないかという疑問である。

この映画を詳しく観てゆけばウェイ・ダーション監督が「霧社事件」を撮りたかったわけではないのではないかという思いに駆られる。

 

私自身はこの映画を初めて鑑賞した時に黒澤明の映画を連想した。

それは単にその時受けた印象にしか過ぎず、何ら根拠があった訳ではない。

ただ単に黒澤っぽい映画だなと感じただけである。

実はこの感覚は間違ってはいなかった。

ウェイ監督は黒澤明をしっかり意識していたのだ。

 

台 湾映画『セデック・バレ』の監督、ウェイ・ダーションの処女作『海角七号』が「7」という数字に拘っていることは映画評論家によって指摘されていることで ある。『海角七号』ではタイトルが示す、日本植民地時代の住所の番地が「7」。主人公たちのポンコツバンドのメンバーの数が「7」。劇中象徴的に現れる虹 の色が「7」。こうした「7」の拘りは、やはり評論家たちから『海角七号』が制作される以前に既に脚本が完成していた『セデック・バレ』で劇中語られる 「虹の橋」と関連付けれている。両作に虹が登場することを含めて「7」へのウェイ・ダーションのこだわりが指摘されているのである。

『海角 七号』の「7」へのこだわりが『セデック・バレ』の虹から来ていると考える事は可能でも、少々説得力にかける。ウェイ監督はキネマ旬報でのインタビューで この関連を認めてはいるが、私はこの「7」がどこから来たのかについて考えていた。その答えは映画『セデック・バレ』の中にあった。映画『セデック・バ レ』の中には実のところ黒澤明監督の1954年の映画、日本映画史上不朽の名作とされる『七人の侍』のオマージュや影響が随所に見られる。

 

マ ヘボ社(主人公モーナ・ルダオらの集落)のセットを組んだ美術監督の種田陽平は雑誌でのインタビューに次の様に語っている。


「マヘボ社の村は『七人の侍』の村を、霧社街は『用心棒』に出てくる宿場町のメインストリートをイメージして作りました。黒澤(明)組に参加する チャンスはなかったけれど、『用心棒』と『七人の侍』の二本を撮るような意気込みでやってみようと。美術部も、『用心棒班』と『七人の侍班』に分けまし た。」

(『台湾映画『セデック・バレ』種田陽平美術監督インタビュー』, 東京人june2013, 都市出版 2013, p102)


このインタビューからも分かる様にセット自体も黒澤明監督の映画『七人の侍』と『用心棒』を意識していたことが分かる。しかし、これは単に美術 監督だった種田陽平の設計思想だけであって、ウェイ・ダーションが黒澤明の映画セットのイメージを欲したのかどうかかは判断がつかない。ところが、ウェ イ・ダーション監督がはっきりと『七人の侍』を意識したことが分かるオマージュが幾つか本編の中に見つけることができる。

 

以下、『七人の侍』のシーンを挙げて、『セデック・バレ』での酷似したシーンを箇条書きにしてみよう。

 

1.菊千代(三船敏郎)が暗闇の中へ薪の木を放り投げてその光で潜伏する野武士を発見し百姓と共に撃退する。

(蜂起したセデック人に対して警戒し野営する軍警察部隊。その中の後藤警部が焚き火の火を闇に投じて、で夜に隠れたセデック人を発見し一斉射撃する。)


2.侍の最年少者岡本勝四郎(木村功)が伝令として各陣地から陣地へ駆け回る。

(霧社蜂起軍の少年、パワン・ナウイが各蜂起部隊の陣地の伝令となって駆け回る。)


3.島田勘兵衛が分裂しそうな百姓の戦闘部隊へ戒めの力強い演説を行う。

(蜂 起軍が制圧した霧社の街で、日本の飛行機の飛来に驚いて各々、空に向かって射撃を始める戦士たちに、モーナ・ルダオが戒めのための演説を行う。)


4.村の裏山の原生林でのゲリラ戦 。野武士から火縄銃を奪う侍たち。(山岳ゲリラ戦に加えて日本軍の重機関銃を奪うセデック人たち。その重機関銃をパワン少年が陣地から陣地へと運ぶ)


5. 最終決戦は百姓の村へ野武士を騎馬を全て引き入れての入れての白兵戦と殲滅戦。(モーナたちの蜂起軍が最終決戦で日本軍に占領されたマヘボ社に一斉に突撃 し白兵戦で日本軍を殲滅撃退する。ここでは『七人の侍』の野武士と侍のの立場は逆転している。)


6. 映画最後の島田勘兵衛(志村喬)の「勝ったのはあの百姓たちだ。我々ではない。」という台詞。

(映画最後の鎌田弥彦少将の最後の台 詞、「三百人の戦士が数千人 の大軍に抵抗して戦死しない者は自決したとは。私は100年前に失った、日本から遥かに遠いこの台湾の山岳で我々大和民族が100年前に失った武士道の精 神を見たのだろうか。」:映画以前に出版されていた『セデック・バレ』の小説版では「我々はこの戦争に敗北したのだ。」と言っている。)


ざっと挙げてみてたがウェイ・ダーション監督が黒澤明の『七人の侍』を意識していたことは明白だ。特に5は重要なポイントで、実際には山岳部の山深く潜伏 してゲリラ戦を展開したセデック人なのだが、映画のようにマヘボ社で派手な白兵戦の大決戦を描き出さねばならなかったのは、単に『七人の侍』の野武士対侍 の決戦を描きたかったのに違いない。

『七人の侍』のクライマックスを『セデック・バレ』のそれに取り入れんがためであったと考えられるのである。

 

『セデック・バレ』における日本軍兵士や警官たちは『七人の侍』における侍たちに次々と倒されていく野武士以外の何ものでもない。

 

ウェイ・ダーション監督は相当に『七人の侍』をリスペクトしていたに違いない。

そのこだわりが『海角七号』の「7」へのこだわりヘまで発展したのではないだろうか。七人の侍が結集する、強者の集まりは『海角七号』のポンコツバンドの七人のメンバーの集結と呼応している。

 

ウェイ監督は『七人の侍』を撮りたかったのである。『セデック・バレ』の虹の七色と『海角七号』の虹が対応しているのは確かである。

しかし、それ以前に基底にあったのは『七人の侍』なのだ。

 

ウェイ監督が『セデック・バレ』で『七人の侍』を意識していたのだとすれば、人間ドラマを重厚に描きつつも過剰なアクションと暴力描写をダイナミックに取り入れた事は至極当然であったと考えられのである。

また、指摘を受けている『セデック・バレ』で女性に関する描写が少ないといったジェンダー的な問題も『七人の侍』があくまでも典型的な男性映画であったことを考え合わせれば容易に理解される点である。

 

前半が重厚な人間ドラマ、後半がアクションドラマとなる構成もやはり『七人の侍』の構成と酷似している。

 

来 日の折にも各映画雑誌のインタビューでもウェイ監督は『七人の侍』や黒澤明の映画については一切語っていない。これほどまでにも黒澤作品に対してリスペク トしているウェイ監督が日本に来て、黒澤映画について語っていないのが不思議であるが、これは黒澤作品のオマージュに過剰に反応する黒澤プロダクションの 存在が影響しているのではないかと思う。


HNK大河ドラマ『宮本武蔵』で『七人の侍』に酷似した描写が出てきた件で黒澤プロダクションが HNKに対して盗作問題として抗議したことは我々の記憶にも新しい。それにディープな映画ファンなら気がつくであろう、こうした『七人の侍』への過剰なオ マージュを気がつかない一般観衆に対してわざわざ手の内を見せるはずもないではないか。


私が考えるには、『セデック・バレ』に対する『七人の侍』の影響は 「オマージュ」の域を超えていると考えずにいられない。極端に言えばウェイ監督は自分の『七人の侍』を撮りたかったのである。

 

歴 史家がこの映画に対して違和感や齟齬を感ずるとすれば、それはウェイ監督が単純に「霧社事件」をアクション映画化したために起こったものではなく、『七人 の侍』を作ろうとしたことによる齟齬なのである。我々は歴史映画として『セデック・バレ』を取り扱おうとすればするほど、戸惑いを感じるだろう。それは実 のところはウェイ監督が「霧社事件」を映画化したかったのと同時に、何よりも『七人の侍』を撮りたかったという単純な事情が存在していると思えたならな い。

 

映画『セデック・バレ』を解き明かすための最初の鍵は『七人の侍』であり、まずは『七人の侍』の作品世界を観察しなけ ればならない。それによって、『セデック・バレ』が何であるかが明白になり、「霧社事件」との関係との違和感を生んでいる原因を特定できるのではないだろ うか。



執筆:永田喜嗣



 

映画『ジョン・ラーベ』はドイツ映画だが中国とフランスによる国際合作映画である。資本は別としてアメリカ人俳優や日本人俳優も出演しているので5カ国の人がこの映画に携わっている。

中国ではドイツよりも数ヶ月早く『拉贝日记』(ラーベ日記)のタイトルで公開された。中国版は日本人の会話部分以外は全て中国語に吹き替えられている。オリジナルのドイツ版との違いは二箇所カットされていることで他には変わりはない。

 

カッ トされているシーンは映画の最初の方でラーベがジーメンスの中国人労働者を怒鳴って叱責し、「中国人は子供のようなものだ。時には手荒く扱うのがいい。頭 のいい中国人とそうでない中国人を見分けることが肝要なんだ。」と後任の支社長に語るシーンと、ラーベの受勲式で日本大使館の福田領事が日中の歴史観を語 る際に中国人には哲学を理解する能力がない云々と発言する部分である。これらのカットはドイツ側スタッフにとっては不満だったようで(DVDのオーディオ コメンターで脚本家が発言している)あるが、福田領事の件はともかくも

最初のラーベが中国人を侮蔑的に扱うシーンはカットされたのは正解で ある。脚本家は如何にラーベが中国人を統率しているかを示す重要なシーンだと語っているが、日記を読めばラーベがその様な人物ではないことが分かる。ラー ベは時には理不尽な従業員には厳しい態度をとることもあったが、常に従業員を大切にした人物で、彼の中ではドイツ人、中国人という区別も格差もなかった。 先のシーンはスティーヴン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』の作劇を単に意識したものだろう。

 

さて、中国でも公開された『ジョン・ラーベ』だが、ある程度の成功を収めたが同年公開された陸川監督の『南京!南京!』のヒットと評判には遠く及ばなかった。もちろんそれは『拉贝日记』が外国映画であったこともある。『南京!南京!』は中国の国産映画だ。

『南京!南京!』にもジョン・ラーベは登場する。

 

こ の映画におけるラーベは『拉贝日记』におけるラーベとは全く描き方は違う。『南京!南京!』におけるラーベは全く物静かで弱腰である。ベルリンからの召喚 命令に逆らえず国際安全区の中国人難民を仕方なく残してドイツへ帰らなくてはならない。彼は日本軍との交渉にも絶えず敗北する。決して日本軍にも強硬な態 度をとったりしない。ラーベは『南京!南京!』においては全く無力に見える。それは他の国際安全区委員会の外国人たちにも言えることで、宣教師で金陵女子 大学のミニー・ヴォートリン女史と思われる人物や金陵病院の外科医師ロバート・ウィルソン医師と思われる人物についても同様である。

 

『拉 贝日记』におけるラーベは正反対にエキセントリックで行動力があり、日本軍との交渉でも皇族である朝香宮鳩彦王(Prinz Asaka)を相手にしても全く物怖じせず堂々と向き合う。それどころか同席したドイツの外交官、ローゼン博士を狼狽するほどにPrinz Asakaに反駁を加えるといった調子である。『拉贝日记』におけるラーベは完全な英雄として描かれている。ラーベの実相がどちらに近いかといえば、『拉 贝日记』の方ということになる。ラーベは常に物怖じしない行動力を持った博愛の人であったからだ。映画ではかなりその点がオーバーに描かれている。『南 京!南京!』と『拉贝日记』の間のラーベ像に何故こうした差異が生まれたのだろうか。それは『南京!南京!』を監督した陸川の、この映画を撮るきっかけに なった際の思惑を語ったインタヴューによく表れている。

 

「当時、米国の投資側が『ラーベ日記』をもとに書いた脚本をもって きた。ところが資料を調べていると、だんだんこの作品を撮りたくなくなった。中国人監督が南京大虐殺を撮るのに、ドイツ人が中国人難民を救うストーリーに 濃縮することはできない。南京大虐殺の被害者は中国人なのだから。この傷跡は今でもわれわれ民族の体に残り、痛みもある。単に外国人が中国人を救ったとい う結末にすれば、このテーマを簡単にしてしまう。だから私は日本の兵士や中国の民衆、特に被害者の角度からこの殺戮と戦争がもたらした傷をじっくり見つめ る必要があると思った。それこそが我々の責任だと」南京事件は中国にとって抗日の最も分かりやすい素材である。「南京大虐殺」とも呼ばれるこの事件は日中 戦争の最もホットなトピックであって、中国にとってはシンボライズされたアイコンでもある。

ところが、これを映画にしようとすると問題が出てくる。

 

実は南京事件には史実として中国にとって闇の部分がある。

1937 年の12月に首都南京が日本軍の攻略部隊に包囲されたときには既に蒋介石を始めとして国民党政府は脱出したあとだった。行政機関もその担当者も全ては逃亡 してしまったのだ。国民党は南京に市民を置き去りにして奥地へと逃げて行ってしまったのだ。残されたのは南京防衛に当たった国民党軍の守備隊。しかもそれ は第二次上海事変での「四行倉庫の戦い」同様に苦戦する中国を国際世論にPRするため位の意味しか持ってはいなかった。国民党政府は南京を放棄したのだ。

 

南 京陥落を巡る中で中国人の英雄は不在なのである。英雄を見つけるならば、蒋介石ら国民党政府が逃亡したあとも人道的立場に立ってなおも南京に残る決意をし た二十数名の外国の民間人なのだ。その中でも代表的な人物が南京国際安全区委員会の委員長だったジョン・ラーベであった。陸川監督は南京事件を映画にする 際に中国人を英雄に据えるために、どうしても、これら史実に残る外国人の英雄の立場を映画上、弱める必要があったのである。実際、『拉贝日记』では中国人 で英雄的活躍を行うものは皆無である。中国人たちはラーベたち外国人にすがって助けを求める。概ねこの図式がラーベの日記を読んだ限りでは史実により近い と思われる。南京事件を中国側で映画化する際にこの辺りは中国の大きなジレンマとなる。映画を発信する中国(中華人民共和国)にとって国民党政府の南京放 棄を批判することが出来ても、それではこの抗日戦の英雄を描くことができない。何故なら毛沢東の共産党軍は当時、南京にはいなかったからである。共産軍の 活躍を描けないとなると、仕方なく国民党軍の兵士を英雄として描かねばならないが、史実では最後まで日本軍とゲリラ戦で戦った英雄となるべき兵士の伝説も 記録も伝わってはいないのだ。南京城内に日本軍が迫ると、国民党政府軍の兵士は戦線を離脱し、城外へ逃れようとパニック状態になった。日本軍が市街を占領 したあとも、軍服を脱ぎ捨てて民間人に混ざって潜伏した元兵士たちも抵抗運動やゲリラ戦を展開することもなかった。

 

南京で の日本軍による捕虜などの処刑や、市街での略奪、強姦は言い逃れのできない戦争犯罪ではあるものの、映画として表彰した際には被害ぶりは描くことが可能で あっても、抵抗を描くことが出来ないのだ。南京陥落後、抗日を続けていたのは南京国際安全区の外国人だけだったからである。

中国のジレンマ は更に続く。中国共産党とは何ら関係のない国民党の南京市民への無責任な態度をどう扱うかは別にしても、当時南京にいた人々が国民党であれ、なんであれ、 中国人という一つの民族で括るならば国民党も含めて中国人の非英雄的行為を映画の中に晒すことは出来ない。ならば、映画用に英雄美談を創作して挿入すれば 良いが、これは日本に対しての歴史修正主義に対する批判を発信している中国側としてはしてはならない禁じ手となる。

 

陸川監 督は『南京!南京!』を撮るにあたってラーベの日記などから中国人に関する負のエピソードを幾つか抽出してそれを美化して中国人の英雄的行為として書き換 えた嫌いがある。例えばラーベが日記に書いている、金陵女子大学に収容されていた女性難民から慰安婦を供出せよと日本軍がせめよった際に、難民の中から娼 婦たちが自ら志願してきたことに、彼女たちを守ろうとしていたミニー・ヴォートリン女史を唖然とさせたといったエピソードを『南京!南京!』ではラーベが 国際安全区を守るために女性百人の慰安婦への志願を涙ながらに嘆願し、一般女性たちが安全区の人々を守るために次々と志願してゆくという風に書き換えられ ているのである。これは明らかに史実ではない。ラーベがその様な非人道的な提案や嘆願をするはずはないからである。

しかし、ラーベたちが英雄であり、中国人を救うのが中国人以外の民族であるということは中国人が作った抗日映画としての映画的な効果を弱める結果となってしまうからである。

 

こ うした事は南京事件を映画にする際に外国人以外に英雄が不在であったために起こったことだ。『南京!南京!』に続くチャン・イーモウ監督の南京事件を舞台 にした映画『金陵十三钗』ではすでにラーベたちは描かれず、国民党軍の狙撃兵と12人の中国人娼婦たちの日本軍への抵抗が描かれている。もっとも『金陵十 三钗』では飲んだくれのアメリカ人偽牧師がその抵抗に中心的人物として携わっているのでラーベたち外国人の存在を完全に抹消して中国人の問題だけに囲い込 んだものではない。しかし、こうした創作を加えなければ中国人としてのナショナリズムの面目を保つことは南京事件の映画表象では極めて難しいのである。

 

南京事件に関しての映画表象の中国側のジレンマをよそにドイツが中心となって制作された映画『ジョン・ラーベ』はその事を全く意識せずに作劇する事が出来たのである。その為に中国人側は無抵抗で非力な犠牲者として終始描かれることになった。

そんな映画『拉贝日记』が中国人にとって喜ばしいものではなかったことは容易に想像が付く。人々は中国人の南京における英雄行為を描いた、西洋人たちが非力に描かれた『南京!南京!』により大きな拍手を贈ったのだ。

 

『拉 贝日记』は決してラーベと南京事件の真実や実相を描いた映画ではない。しかし、中国が抱える南京事件の映画表象における抗日へのジレンマを考慮に入れな かった分だけ南京事件の実相にはある程度迫った作品となったことだけは確かなのである。『拉贝日记』はすでに中国ではDVDも廃盤となり、早くも忘れ去ら れた作品となった。

 

監督のフローリアン・ガレンベルガーがドイツへの帰国後、中国を批判したことなどもあってこの映画は既に過去のものとなっている。

 

日本では未公開、中国でも忘れ去られた『拉贝日记』の意義をもう一度考えてみることは、南京事件というアイコンを知る上で大切な鍵となるのではないかと筆者は考えている。


筆者:永田喜嗣