日本テレビのドラマ『明日、ママがいない』が「赤ちゃんポスト」を運営している熊本市の慈恵病院によって放送中止を求められている。私はこの抗議は 正当なものだと考えている。『明日、ママがいない』は封印されることが妥当だと思うのだ。映像制作者や映像作家は描かれる素材の実体についてよく知り、よ く理解した上で映像作品を制作せねばならない。もしも、それをなおざりにすれば社会へ影響を与えることになる。

 

『明日、ママがいない』では父母がいない子供たちというマイノリティへの蔑視や差別を増長させてしまう危険性がある。制作者たちはその事を意識したのだろうか。

アニメ・ドラマの『キャンディ・キャンディ』や『小公女セーラ』の作劇のノリでこの様な現代の社会性の高い主題のドラマを造ってもらっては困るのである。

 

映 像制作者や映像作家はフィクションを作り出す作家である前に社会へ影響を与える主体であるということへの自覚と決心が必要なのだ。『明日、ママがいない』 は「赤ちゃんポスト」出身の少女が「ポスト」とあだ名されているという設定や児童養護施設を「ペットショップ」などと比喩する台詞が登場するなどおよそ児 童保護施設に実際に存在する子供たちの人権を考慮したものとは考えられない。これは新たな人権侵害を生む要因としかならないのではないか。

 

そもそも、脚本家は児童保護施設や「赤ちゃんポスト」の実態を綿密に調査した上で執筆しているのであろうか。

もしも、事実、児童保護施設でその様な人権侵害が行われているという事実があり、それを告発しようとドラマ化するというのであれば筆者は何も言わない。こうした社会問題を取り扱うドラマの場合、作家はジャーナリストの如き活動と視点が必要となる。

 

熊 井啓監督の脚本・監督デビュー作『帝銀事件・死刑囚』においても熊井啓は死刑囚であった平沢にまで面会して脚本を書き上げた。しかし、フィクションである から「架空の物語」として創作することで何でも許されてしまうという事にはならないのである。こと社会性のテーマを持った作品にはこの点は重要である。テ レビを前に座っている数百万の大衆はそれをフィクションだから現実と同化してはいけないなどと絶えず意識してるものではない。

もしそうでないなら、プロパガンダとしての映画だって存在していないのだから。それだけにフィクションを制作する際には十全な調査や研究は不可欠なのだ。

 

主人公の立場を過酷にして視聴者の感情移入を取り込もうとする作劇なのだろうが、そのために人権が侵されることは決してあってはならない。もう一点付け加えるなら、映画やドラマが社会問題を描くとき、その手法はエキセントリックであっても構わないと筆者は考えている。

 

例 えば審理中の裁判を映画化した今井正監督の『真昼の暗黒』もあるいは手法としてはエキセントリックである。同じことは山本薩夫監督の『松川事件』や『証人 の椅子』にも言えることである。しかし、これらのエキセントリックさは全てが権力機構や権力そのものへ向いていた。その抵抗としての告発を行うためにエキ セントリックさを発揮するのである。

 

昨今の映画やテレビドラマにはこうした態度が伺えない。

研究なく思考なく、ドラマの主人公たちの実体への配慮のなさだ。自分たちがドラマを作った際にそれを観たマイノリティがどう受け取けとるのかという思考とその想像力のなさである。

 

私はこのドラマ『明日、ママがいない』が即刻放送中止されんがことを切に願う。


執筆:永田喜嗣