先日、ゼミの飲み会があってその時、僕 の母方の祖父の話が出た。ここに少し祖父から得たものを書き記しておきたいと思う。僕が9歳か10歳の頃、祖父の家でテレビの洋画劇場放映された黒澤章の 『椿三十郎』を見ていた時の事だ。ビデオもDVDもない当時、僕にとっては滅多に観る機会がない黒澤の名作一本。夢中になって観ていた。三十郎が室戸半兵 衛の配下の侍を数十人斬りに斬る場面を見ていて「サムライはすごいなあ」と言った途端、滅多に口を挟まない祖父は「テレビを消し。おじいちゃんがその映画 よりもっと面白い話をしてあげるから。」と言った。本当は『椿三十郎』を観たかったが、僕はTVを切った。祖父が亡くなってかれこれ9年になる。家庭の事 情で僕が19歳の時から祖父には会うことはなかった。99歳の大往生だった。母方の家系は奈良の橿原を源としている。千年以上も一族はこの地を拠点として きた。母方の家は藤原家から分家し、江戸時代には紀州德川家に仕えていた武士だった。仕事熱心だった様で登城の折にはよる遅くまで藩政の為に働いていたそ うで、感服した城主が深夜邸宅に帰る際に賊に襲われぬよう、城主の提灯を拝領したという逸話が残っており、家宝としてその提灯は代々受け継がれてきたそう である。成る程、母方の家の者たちが揃って「宮使い」的な人間であることは千年の歴史の結果なのだろう。その家宝の提灯を母は子ども時代に見たことがある そうだが、祖父は躊躇する事なく破棄したという。その訳は分からない。祖父の祖父は山に篭り山伏のような生活を送った人物で神官を務め、刀鍛冶を営みとし ていた。祖父の父もまたその後を継いだ刀鍛冶であった。明治時代になると刀の需要が減少したためか、祖父の父は刀鍛冶の技術を使って自動車の開発を私財を 投げ打って行った。完成した国産乗用車はハンドルが桜の木で作られ、シートは西陣織だったというから相当な高級車両だったのだろう。この自動車が宮内庁の 目に止まり、御用車としての試験が行われた。しかし、結果は不合格となり、祖父の父はすべてを失って世を去った。家族の危機に中学を退学した祖父は新聞社 に務め、夜は「英語学校」で学ぶ毎日だったという。祖父は英語がその後の日本で重要な言語になるとその時、思っていたと僕にも語っていた思い出がある。

 

 英 語力を身につけた祖父は貿易会社に転職して営業で働いた。取引先はドイツの機械会社だったそうだ。その間、残された弟二人、妹一人をそれぞれ陸軍士官学 校、大学、女学校まで進ませた。曽祖父の弔い合戦か、祖父は起業し、大阪の生野区で自転車工場を創業した。当時は松下幸之助が祖父の家によく来ていたとい う。彼は自転車に車載する電灯の開発を行っていて、自転車技術に関する祖父の知識と助言を求めて来ていたのだ。戦時に至って祖父の会社は軍需工場に指定さ れた。祖母から聞いた話だが、祖父は「日本が英米と戦争をすれば世界中を敵にした戦争になって確実に負ける。牛の尾っぽに蝿が止まるようなものだ。」とよ く家族に言っていたそうだ。自転車工場は成功を収め、邸宅も洋室和室を含めて20もある屋敷だったという。政治が嫌いだったのだろうか、幾度も市会議員へ の出馬を勧められたが固辞し続けたという。大阪生野区という場所柄もあって、祖父の工場には「朝鮮人」労働者が多くいた。祖父は彼らに他の日本人労働者と 同じ賃金と待遇を与えた。そのことで他の同業者や商工会からかなり風当たりが強かったというが、祖父はその方針を頑として曲げなかったという。大阪が空襲 に曝さられる様になると空襲警報発令と共に祖父は防空鉄帽を被り、夜中でも飛び出して行って従業員の家を回ったという。焼け出された従業員一家を「朝鮮 人」「日本人」を問わず、邸宅に住まわせて保護した。運良く、祖父の邸宅は焼けなかったが、焼け出された人が押しかけて来ても祖母の制止を聞かず祖父は門 を開かせて空襲難民の人々を邸宅や庭に入れて避難させていたと母から聞いたことがある。空襲で工場は焼け、祖父には邸宅だけが残った。戦後は食糧難に苦し められるはずだったが、元従業員だった、また空襲下で救われた生野の「朝鮮人」の人たちが連日、祖父の家に白米や野菜を届け続けてくれたために母たちは食 べる事には不自由しなかったという。呆れたことに「朝鮮人」の人たちが届けてくれたありがたい食料を自分たちは最低限食べるのみで、食糧難に苦しむ近所の 日本人達にも祖父は分け与えたという。母に話によるとある日、進駐軍のジープが家に来たそうだ。母は祖父が何か悪いことをして捕まえに来たと思ったそうだ が、祖父は米兵と英語で玄関先で何やら話していたという。僕はよく知らないのだが、米軍が来たのは曽祖父から伝わる日本刀の件だったらしい。殆ど戦時下で 軍にほとんど全ての刀を供出したが、名刀は床下に保管してあったそうだ。祖父と米兵は仲良くなったそうで、度々、米兵達が祖父の家に訪れては酒宴が行われ たと母が言っていた。

 

  戦後はプリンス自動車の大阪販売店を経営し、自動車修理工場も持っていた。こんな逸話もある。近所で も札付きの不良青年がいた。彼の父は大阪の大きな高級中華料理店を経営していたが、息子のチンピラ振りにはお手上げだったそうだ。この店の常連だった祖父 は彼を自分の会社に雇い、彼に付きっきりで機械と接する愉しみを教えたそうだ。彼は自動車整備に夢中になり、自動車整備士の資格を取得、会社でもいちばん の腕自慢になり、やがて自分の自動車整備工場を持ったという。祖父は僕が生まれた頃、事業に失敗し、他者の反対を押し切って社屋や邸宅を手放してその土地 の借地収入で東大阪の小さな借家に移った。邸宅跡は現在の大阪日産自動車だ。「女中」さんが5人もいたという生活から小さな借家住まいにショックを受けた のは祖母だったが、祖父は動揺もしなかったそうだ。そんな境遇からも祖父は奈良に再び小さないながらも家を建てた。法事の際には例のチンピラだった息子の 中国人父君が店を臨時休業にして料理人を従えて食材や酒を満載した車で駆けつけ、祖父の家の台所を占領し、料理を振舞った。子供の僕には不思議で仕方ない 光景だった。

 

  祖父はまた財を成したが、潰れかけの中小企業主の相談に乗り、祖母の反対を聞かずに金銭で応援したりしてい た。蟻が群がるように集まってくる苦境に喘ぐ人びとを助ける祖父を僕は理解出来なかった。祖母や母が言っていたように「おじいちゃんは、ええように騙され たはるんや。」僕もそう思っていた。最終的な祖父の余生に打撃を与えたのは悲しくも母の再婚相手だった義父その人である。無責任ににも一家夜逃げという方 法で散々投資させた祖父に更に負債を押し付けた。僕はその一族の皮肉なことに今も一員であるのだ。観世流の謡をこよなく愛し、名取りとなっても、お弟子か らこれまた全く対価を求めない祖父。お弟子は8歳の僕も含まれていたが、雰囲気しか覚えていない。思えば僕が内股なのは絶えず正座を教え込まれていたから だ。さて、話が長くなったが、『椿三十郎』を途中で観るのをやめて聞かされた祖父の話は代々明治維新まで続いた武家としての家風の話。そして、刀の話だっ た。印象的だったのは三十郎の様な侍はいけないという。武士は刀を抜いてはいけないし、人を斬ってもいけないという。刀を持っていれば、簡単に人を殺せ る。相手が無力ならば余計に簡単なことだ。その様な危険な武器を持っていて、なお、怒ったり、ムカついた時、刀を抜かない。自分の精神を制御するために侍 は刀を持つのだという。刀を抜くのは弱いものが強いものに殺されそうになっている様な状況を見た時、見て見ぬ振りをせず、敢然と武士は黙って刀を抜いて強 者から弱者を守るのだ。その結果の責任はまた自分の刀で自分の命をもって責任を果たす。だから、明治維新以来の軍隊の刀の使われ方は間違いであり、あんな ものは武士でも武士道ではない。そういう話だった。「喜嗣よ、おじいちゃんは今でも武士の子供や。侍なんやで。」子供だった僕は祖父に言った。「そやけ ど、おじいちゃんは、もう刀なんか持ってへんやん。」祖父はニコニコと笑って、胸を指した。「おじいちゃんはなあ、ここに刀を持ってるんや。」それで話は 終わった。祖父は缶ピースの一本をくわえてまた煙草の煙を燻らせた。急いでテレビを付けたら『椿三十郎』は終わっていた。思い返せば、祖父が怒鳴ったり暴 力を振るうところを僕は見たことがなかった。いつも黙して煙草の煙を燻らせるか、謡の古文書みたいな書や碁盤に向かっていた。武士道と言えば直ぐに帝国主 義に直結してしまう危うさはあるし、嫌う人も多い。しかし、僕は祖父の武士道の心得が今も忘れられない。祖父の思想とはなんだったのだろうか?それは僕に も分からない。


 それが武士道だったのかも・・・。心に刀を持つと言った祖父、全てを暴力で支配し抑圧をする義父。この両極端な二人の男を見た僕はやはり、心に刀を持った祖父の孫としての侍でありたい。

義 父が「被害一族への戦争責任」をとっていない現在、僕は祖父の墓に参る事は出来ない。東大阪の小さな町の小さな神社に祖父の名が刻まれた献納碑がある。近 く、修士号の学位記を持ってそこへ行き、祖父に会って来ようと思う。研究内容を含め、祖父はきっと喜んでくれるだろう。そして、非暴力を知らず知らずに教 えてくれた祖父にお礼を捧げたいと思う。