アメリカの鏡・日本3
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私たちは、日本が二度と海軍を持たないよう指導しているが、欧米列強の援助で海軍を持つまでには、日本にはそういうものはなかった。十七世紀はじめからペリーの「門戸開放」まで、個人でも集団でも五十トン以上の船を建造ないし所有することは法律で禁じられていた。わずかにあった船も軍船ではなく、小規模な海運業者だけが沿岸貿易用につかっていたにすぎない。日本が最初に所有した蒸気機関の軍艦は、一八五四年にオランダから贈られた大砲五門搭載の外輪船である。その直後、イギリスも同じ程度の軍艦を贈っている。
一八六八年、日本はアメリカからストーンウォール号という大型軍艦を買い入れた。この軍艦の到着をもって、欧米列強の進出が引き金となった革命の戦局は、欧米勢力に優位に傾いたのだった。日本の造船所はオランダ、フランスの技術者によって作られた。そして最初の海軍伝習所はオランダ、イギリス、イタリア、アメリカの軍事専門家によって設立され、これら各国から派遣された教師が、日本人に海軍の編成と運営の方法を教えたのだった。
このように一八五四年にはゼロだった日本海軍は、一八九五年の日露戦争のころには、各種艦船四十五隻を要するところまで成長している。もちろん、大型戦艦一隻と二、三隻の小型艦を除いて全艦船は、外国から買い入れたものだ。
私たちは、日本に本土列島以外の海外領土を放棄させた。日本は一八九五年に、欧米先進国から新しく教えられた文明の恩恵を「後れた」地域の住民にも及ぼすという名目で、澎湖諸島台湾を併合したが、それまでは海外領をもったことはない。
私たちは、日本人に国家神道を放棄させた。しかし、国家神道は西洋型国家意識の日本版にすぎない。国家神道は、一八六八年、西洋の「指導」に応えて出てきたものだ。近代以前の日本では、神道は自然と祖先に対する信仰であり、習俗であった。軍事的なもの、国家的なものの対極にあるものだった。日本の外交は徹底して平和主義だった。日本列島は世界の常識から言えば、国家でさえなかった。仮に国家があったとしても、国家宗教といえるものは仏教だったのである。
私たちは「満州事変」、日本の汎アジア政策、共栄圏構想を非難してきた。しかし、日本は彼らの行動を、私たちのテキサスとパナマ運河地域の領有、モンロー主義、汎アメリカ連合と同じ言葉で説明した。私たちは「白人の帝国主義的支配から有色植民地住民を解放する」という日本人の「神聖なる使命」を偽善と決め付けた。しかし。西洋文明と西洋の政治をアジア、太平洋、南太平洋諸島、アフリカの原住民に及ぼすのが「白人の責務」ならば、日本の行動理念はそれに対する論理的かつ当然の応えである、と日本は主張していた。
日本人と政治意識を持つアジア人がよく知っているこうした事実は、私たちの占領を、歴史としては面白く、政策としては恐ろしいものにしている。私たちは、日本人の性格と文明を改革すると宣言した。しかし、私たちが改革しようとしている日本は、私たちが最初の教育と改革で作り出した日本なのだ。
近代日本は西洋文明を映す鏡を掲げて、アジアの国際関係に登場してきた。私たちは日本人の「本性に根ざす伝統的軍国主義」を告発した。しかし、告発はブーメランなのだ。日本の伝統的な発展パターンは、十九世紀半ば、アメリカを含む西洋列強の侵入とダイナミックな欧米文化の外圧的導入によって壊され、二つの異種文明が混合する日本が出現した。伝統的社会は庶民の日常に根強く残っていたが、その社会を支配するのは、西洋から学んだ生産、貿易、政治、外交、戦争の技術を使うまったく新しい社会階級だった。
一八五三年、ペリーが戦艦を引き連れてやってきた。二世紀半の間、平和な殻の中で独自の社会をつくってきた人々は、その異様な船に恐れおののき、国際関係の流れに引きずり込まれていった。ペリーからマッカーサーまで、一世紀足らずの間に、日本は農業、手工業を中心とする交換経済から、産業、貿易中心の資本主義経済に移行した。そして、半独立の藩からなる緩やかな連合体は高度に中央集権化された国家に変わり、孤立主義を守る小さな島は軍国主義的、帝国主義的大国に変貌した。
七隻の軍艦を率いて日本の門戸を開いたペリー提督は、ダイナミックな西洋文明を表していた。その物力と機械力は一八五三年の日本が及ぶところではなかったが、一九四五年も同じである。マッカーサー将軍が「未曾有の陸海空代兵団」を引き連れてきて、今度は日本の門戸を閉ざした。
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日本を黒船でこじあけておいて、都合が悪くなると「日本人は日本から出すな!」だもんなあ。欲望に歯止めのない連中。
原著が出版されたのが昭和二十三年。日本で出たのが昭和二十八年。
なぜ五年も差が出たのか。それは
占領が終わらなければ、日本人は、この本を日本語で読むことができない。
──ダグラス・マッカーサー(ラベル・トンプソン宛、1949年8月6日付書簡)──
「私はいかなる形の検閲や表現の自由の制限も憎んでいるから、自分でこの本を精読したが、本書はプロパガンダであり、公共の安全を脅かすものであって、占領国日本における同著の出版は、絶対に正当化し得ない」
ということです。出せなかったんです。
憎んでおるそうです。検閲。あたまおかしいねマッカーサーは。思いっきり情報統制しといて。「真相はかうだ」みたいなプロパガンダは流してるし。マッカーサーの二枚舌ぶりがムカついてしょうがない。
昭和天皇の、俗にいう「人間宣言」も著者が言うように別に日本人は「神」として崇め奉っていたわけではない。それにこの「昭和二十一年年頭の詔書」で昭和天皇が仰られたかったことは、この前に、最初に五箇条のご誓文を書いているわけです。日本には戦前から民主主義的なものは基からあったと、いいたかったのではないかと思うわけです。
白人の中での「皇帝」や「王」のイメージと、日本人のそれとは違います。しかし、日本の戦後どさくさにまぎれて「改革」をしたのはその白人たちなんですな。日本のことを何も知らずに「アメーリカじゃこうやるんだっわかったかい?ニヤニヤ」っツー感じですよ。いたたまれないよ我が国は。まあそれに協力した日本の共産主義者もたくさんいたと思います。日本人数人にしかあったことのないマッカーサーが日本人のことをわかった気になって、米国に帰ったら「日本は自衛のために戦った」って……。米人は先が見えてるようで見えてない。……またとりとめのない文章になってしまいました。メモですから。えぇ。
アメリカの鏡・日本2
アメリカも戦争の後ろ盾に国民を統合するため、伝統を利用したのだが、とかくそれが忘れられがちだ。私たちは民主主義とキリスト教の名のもとに戦った。「天皇制」と神道が本来、戦争を内包しているのに対して、民主主義とキリスト教は本来、平和であると私たちは主張する。日本の学童が天皇の肖像に最敬礼をしたのは、アメリカの学童が「国旗に忠誠を誓う」のと同じ国民的儀礼だが、私たちはそれを見ようとしない。
天皇は「われわれ天皇と国民……の結びつきは単に伝説と神話によるものではない」と宣言したが、日本人の立場からすれば、ごく当たり前のことを言ったにすぎない。日本人が天皇を尊敬するのは、天皇が超自然的、超人間的存在であるからではない。長い歴史と伝統文化の表象としての制度を崇拝しているからである。日本の天皇は、アメリカの星条旗、あるいはアンクル・サムのようなシンボルなのだ。
私たちの国旗は軍事的象徴ではない。それと同じように、戦争がなければ、日本人にとって天皇は軍事的象徴ではなかった。
「天皇制」と「国家神道」は、私たちが民主的と呼ぶ世界のどの国でも、国の特性に応じてさまざまに現れる現象である。神話は日本人にとって民族主義の象徴に過ぎないのだが、私たちはその事実に目を閉じてきた。心情的国家意識は戦争の大きな要因であると同時に、戦争遂行に必ずかかわってくるものである。それを問題にするなら、連合国も私たちも無罪とはいえない、私たちアメリカ人には統合の心情的象徴となる皇室はないが、私たちの民主主義同盟であるイギリスは王室を持っている。
第二次世界大戦前、イギリスの王族がイギリス外交への支持を求めて訪米した時、アメリカの新聞、雑誌、政府指導者は彼らのことを、日本の皇室に対して言ったように、「恐るべき病根」とはいわなかった。第二次世界大戦中、英王室が南アフリカを訪問し、戦略的に重要なこの地域に対する外交政策への国民感情の結束を図った時、私たちはそこに天皇崇拝や国家神道の示威をみなかったし、帝国の権威、あるいは帝国への連帯感を高めるために、英外務省が王室を利用しているとも思わなかった。
国家神道を考えるうえで、ここに注目すべき発言がある。これは日本人が日本の神道について語ったのではない。オーストラリアの出版界を代表する
キース・マードック卿が一九四四年、ロンドンで開かれた大英帝国首相会議の帰途、アメリカで語ったものである。
「五月、ロンドンで開かれた大英帝国首相会議は、帝国の象徴であり、イギリスの血、イギリスの文化、伝統を信奉するわれわれの最高聖職者である国王に対する国民の忠誠心を示すものとなった」
もちろん、イギリス人は、国王、帝国、イギリスと血と文化に対する忠誠心を「国家神道」といいはしない。しかし、神話を別にすれば、日本人にとって「国家神道」が神社、英雄、日本国と帝国を表すシンボルに対する国民的、心情的崇拝であるのと、現実には同じなのである。
日本とイギリスの「国家神道」の違いは、日本人が天皇の地位を神話に求めているところにあるのではない。もし天皇が英王室のように外国の政府や国民に自国政府の親書を運んでいくようなことをしたら、少なくとも占領以前の日本人には心底ショックだったろう。そこに、大きな違いがある。つまり、つい最近まで日本の神道はあくまで民族内部の信仰だったのだ。
国家神道とは組織化された民族主義であり、教会と国家が民族文化、理想、「国益」の栄光のために、たがいに補完し合う体制であると言い換えることができる。この体制を、社会的病根であるとか、日本特有のものであるとかいって否定する前に、民主主義国家イギリスが数多くの国家行事を荘厳に執り行う体制的教会をもっていることを考えてみる必要がある。
国民の九〇パーセントがカトリック信者であるイタリアが、ムッソリーニ主義を受け入れ、アビシニア爆撃を許したのは、いったいどういうことなのか、思い起こすのもいいだろう。アメリカでさえ、戦争中は多くの教会が祭壇の後ろに星条旗を掲げ、礼拝の中で国家を歌っていたのである。
私たちアメリカ人は、平時には、愛国心を当然のものとして表に出さない。アメリカの歴史や国家に命を捧げた人に対する尊敬の念を表す七月四日(独立記念日)とか戦没者追悼記念日以外は、愛国心を表に出して騒ぐ国民ではないが、戦争中は、私たちも国家神道を絶えず感情的に表現してきたのである。日本人を教育して心情的国家意識を捨てさせたいと思うなら、まず私たちの心情的国家意識を捨てるべきである。
すべての心情的国家シンボルは、英王室であれ、星条旗であれ、ソ連のハンマーと鎌であれ、日本の天皇であれ、本来反社会的であり、戦争の原因ともなるものである。私たちはそのすべてを告発することが出来る。しかし、そうしたシンボルのいっさいを同時に否定してこそ、特定のシンボルを否定する姿勢が公正に見えるのである。
2 誰のための改革か
日本人の「戦争願望を形成する経済・社会制度」改革するという私たちの計画は、今まで考えていたものより、ずっと広い意味を持っている。私たちは日本の制度、戦争を生み出さずにはおかない、この独特で伝統的な制度を、私たちの制度と同じものに変えようとしている。私たちの立場から見れば、私たちの制度は本来、戦争に反対するように出来ているのである。
しかし、アジアの視点で見ると、私たちの改革は、日本の伝統文明ではなく、西洋文明の告発なのだ。日本人が私たちの「改革」をみれば、私たちが日本文明の中で変えようとしているのは、ただ一つ婦人参政権でしかないことに気づくだろう。
改革はむしろ西洋化された日本、一八五三年以来発展してきた制度を対称にしているのだ。この制度は、今日、日本の伝統的侵略性を非難している欧米諸国が、初めて日本を「占領、改革」した結果として、できあがったものなのだ。
たとえば、私たちは「ザイバツ」を解体しようとしている。しかし、ザイバツは、この言葉のまがまがしい響きにもかかわらず、単に日本のモーガンであり、デュポンであり、フォードであり、ロックフェラーであるにすぎない。これらの銀行や企業は私たちの社会では、昔から尊敬されてきた社会のリーダーだが、日本でザイバツが敬われるようになったのは近代に入ってからのことである。近代以前の伝統的な日本社会では、この種の人たちは、経済の不安定要因として排除されていた。日本の財閥とアメリカの企業には、さまざまな違いがある。しかし、企業家の社会的地位、機能、意味を日本の近代以前と近代以後で比較した場合のほうが、違いは大きいのである。
私たちは日本の貿易を厳しく管理している。将来とも制限し統制する方針である。しかし近代以前の日本も貿易を徹底的に規制していた。そして、日本が私たちとの貿易を拒否したとき、私たちは砲艦を持って政策の変更を迫ったのだ。
私たちは日本が再び軍備をもたないように指導している。近代以前の日本は軍隊らしい軍隊を持っていなかった。対外関係がなかったから軍隊の必要もなかったのである。「国」と「藩」の政府が、各自の防衛に当たる「武士」という名ばかりの小軍事集団を持っていたにすぎない。
日本が国際社会に組み込まれる以前の二百五十年間、日本人は国内の平穏を享受しながら、外国から隔絶されて暮らしていた。したがって刀で武装した彼らの軍隊は、たまさかの農民反乱を鎮める以外に、する仕事はなかった。現代のアメリカで州兵と連邦軍がときおり、工場労働者のストライキや賃上げ要求デモ、その他の治安維持活動に出動しているのと同じである。
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アメリカの鏡・日本3につづく
アメリカの鏡・日本より
(アメリカの鏡・日本 ヘレンミアーズ 伊藤野延司訳)
引用ーー
日本民族は太平洋地域のほかの民族──中国人、マレー人、インド人、白人──と異なり、何世紀にもわたって戦争技術と武士階級の忠実なる信奉者であった。彼らは太平洋で武力を振るうべく生まれついた民族であった。彼らは日本の武は常に勝利すると言う自らの不敗性を確信し、武士階級の英知に対する神話的信仰は、日本民族の文明の基礎となった。この信仰は全政府機関のみならず、日本人の肉体、感情、精神にまで浸透し、支配しているのである。
──ダグラス・マッカーサー将軍、東京、1946年9月2日
(キリスト教は)われわれの国家が拠って立つ土台を作ったのです。そこには、倫理の偉大な力がありました。われわれの不敗の軍がオーストラリアから日本帝国の心臓部に向けて怒涛の攻撃をかけるとき、われわれの銃座を確固として支え、標準を的確にとらえさせてくれたのはこの力でした。
──同、1947年1月12日(宗教教育国際会議事務局長、R・G・レス博士に宛てた書簡、AF)
1 神道からの開放
日本占領は、日本の侵略的軍事機関の破壊に必要とされた期間を経過した後も、「戦争願望を形成する経済・社会制度」と日本人の性格を「改革」するという論理で、引きつづき正当化されていった。占領の正当化は一つの仮説に立っている。すなわち、日本人は異常に侵略的な修正をもっているという仮説である。そして、私たちはそのわけを知っていると信じている。だから、私たちは日本人の好戦的根性と制度を「再教育」し「改革」することができるというわけだ。
しかし、人はこの仮説を信じようにも、日本人を侵略的民族ときめつける私たちの理由があまりにも曖昧だから、はたと行き詰ってしまうのだ。私たちは、日華事変、パールハーバーに始まり第二次世界大戦中の全事件を説明する時は「日本人は生まれつき好戦的な民族だから侵略的なのだ」という。そして、この論理を日本人の歴史、伝統、文化全体に拡大してきた。
日本人は近代以前に「戦争美」を創出し、「武士階級」を崇拝し、常に「軍事独裁者」統治され、天皇を生きた「軍神」として崇めてきた。そして日本人の宗教である神道は日本人を優れた民族と信じさせ、神である天皇を世界に君臨させるため日本人に「世界征服」を命じている。私たちはそう教えられてきた。
こうした日本人感が熱っぽく語られ、広く喧伝されてきたから、かなりのアメリカ人は本当のことだと信じてしまった。一九四四年二月、米キリスト教会会議はルーズベルト大統領に宛てた電報で「神聖なる天皇と皇祖の加護の力」を信じる日本人の蒙昧を覚ますために国家神道の二つの神社を爆撃するよう要請した。一九四三年夏に行われたギャロップ調査では、三三パーセントが天皇の処刑に賛成意見だった。これに対して天皇の意見は問わないとする意見は四パーセントに過ぎなかった。
私たちの戦後対日政策には、神道と「天皇制」は本質的に戦争を作り出すものであるという考え方が組み込まれている。私たちの政策立案者がそのように考える一方で、天皇を戦争犯罪人にしなかったのは明らかに矛盾だが、日本人を占領軍に協力させるためには、この政策は政治的に正しかったことが明らかになっていく。しかし、天皇の戦争責任は問わなかったにもかかわらず、占領当初の指令には、日本人の生活様式からこうした邪悪な権力を排除するために日本を占領していると言う前提があった。
私たちは国家神道を廃止し、神社や神官に対する国費の支出を禁じた。私たちは、日本の歴史、道徳、地理から「軍国的」神話を「祓い清める」までは、学校で教えてはならないと命じた。私たちは、全国に若いアメリカ人チームを派遣して、学校の教室に飾られている天皇の肖像、写真、博物館などにある神道関係の遺物は見つけしだい押収させ、天皇の政治権力を否定する新憲法草案の検討を始めた。そして、ついに天皇は私たちの「指導」に従って、次のような声明を出した。
われわれ天皇と国民は常に相互の信頼と愛情を基に結ばれてきた。その結びつきは単に伝説と神話によるものではない。天皇は神であり、日本国民は他の民族より優れているがゆえに世界を支配すべく運命づけられているという誤った考えに基づくものでもない。
アメリカの新聞は、この宣言を「神格の放棄」であり、日本人固有の戦闘的性格を矯正する第一歩であるとして歓迎した。この奇妙で魅惑的な物語風やり取りは、派手で面白いが、日本国民を「平和愛好」民族にするという現実問題から、私たちに目をそらすものだ。日本人の戦争は神道の神々の命を受けて、天皇を世界の王座に就けようとするものだったという。まるでポール・バニヤン(訳注=アメリカの伝説的英雄)の「青い雄牛」みたいな荒唐無稽な話を信じるのと変わらない。
神道と天皇崇拝は日本人の民族感情にとって重要な文化と宗教の伝統を表すものだった。これは、他の民族が固有の文化、宗教の伝統を持っているのと同じ国民感情である。伝統の力が強ければ強いほど、国家存亡の時には、戦争計画の国民統合に利用される。しかし、伝統が戦争の大儀なのではない。ひとたび戦争が決定されると、伝統は防衛という名の戦争計画の背後に国民を統合するための手段となる。そうすることによって、為政者は複雑な戦争理由をわかりやすくするのである。
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アメリカの鏡・日本2につづく