今も日本に息づく「誠心誠意」と「親孝行」
引用ーー
僕が以前に大学で教えていたとき、ゼミの学生たちが、卒業式の日に「先生、こっちへ来て一緒にお茶を飲んでください」と言った。行ってみると、学生たちの親が来ていた。「先生はゼミのときに『親の顔が見たい』とおっしゃっていましたね。これが私たちの親です」と学生たちは言うのだ。冗談のような話だが、彼らは本当に親の顔を見せてくれた。
「まったく、日本語を知らん子どもたちだな」と思ったが、そこで僕はこう言った。「私は、君達は親子の話し合いがないと痛感している。いい機会だから、大学を卒業するにあたって、親に挨拶をしなさい」。すると彼らは立派な挨拶をしたのだ。
普段はおちゃらけばかり言っている学生たちが、「お父さん、お母さんありがとう」と言っている。ある学生は一人息子で、「老後の面倒は断じて私が見ます」と言ったのだ。それを聞いて、親は泣き出した。僕ももらい泣きした。
こうした意識は日本の底力になっていて、今もまだ消えてはいない。中国からやってきた多くの留学生が、そんな日本人を見て「日本はすごい国だ。孔子や孟子の思想が生きている国だ」と感心しているほどなのだ。
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第27回:今も日本に息づく「誠心誠意」と「親孝行」 http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/p/27/
いい話じゃないですか。
実際、よくある話ですけど、電車で若者が席を譲るところをよく見ます。
しかし家での会話というのはどんなもんなんでしょう。やっぱり減っているんでしょうね。
思うに核家族化ってのがよくないんじゃないでしょうか。というのは、核家族化で個人主義になることはあっても、共同体精神は育ちにくいですな。やっぱりおじいちゃんおばあちゃんがいる家のほうが思いやりの心が育まれやすいと思う。核家族化は苦労も多いけど、その苦労を皆で共有すると、親も子供も、ともに成長できると思うんですけど、どうでしょう?
一家に1セット「北斗の拳」を置くとか。
閉ざされた言語空間より(2
引用(P161)ーー
《突然のことなので驚いております。政府がいくら最悪の事態になったといっても、聖戦完遂を誓った以上は犬死はしたくありません。敵は人道主義、国際主義などと唱えていますが、日本人に対してしたあの所業はどうでしょうか。数知れぬ戦争犠牲者のことを思ってほしいと思います。憎しみを感じないわけにはいきません》(八月十六日付)
《昨日伊勢佐木町にに行って、初めて彼らを見ました。彼らは得意げに自動車を乗りまわしたり、散歩をしたりしていました。
橋のほとりにいる歩哨は、欄干に腰を下ろして、肩に掛けた小銃をぶらぶらさせ、チュウインガムを噛んでいました。こんなだらしのない軍隊に敗けたのかと思うと、口惜しくてたまりません》(九月九日付)
《大東亜戦争が惨めな結末を迎えたのはご承知の通りです。通学の途中にも、ほかの場所でも、あのにくい米兵の姿を見なければならなくなりました。今日の午後には、米兵が何人か学校の近くの床屋に入っていました。
米兵は学校にもやって来て、教室を見まわって行きました。何ていやな奴等でしょう! 僕たち子供ですら、怒りを感じます。戦死した兵隊さんがこの光景を見たら、どんな気持ちがするでしょうか。》(九月二十九日付)
これらのうち、八月十六日付と九月二十九日付のものは、いずれも戦地に在る肉親に宛てられた国外通信と覚しいが、ここで注目すべきことは、当時の日本人が、戦争と敗戦の悲惨さを、自らの「邪悪」さがもたらしたものとは少しも考えていなかったという事実である。
「数知れぬ戦争犠牲者」は、日本の「邪悪」さ故に生まれたのではなく、「敵」、つまり米軍の殺戮と破壊の結果生まれたのである。「憎しみ」を感じるべき相手は、日本政府や日本軍であるよりは、まずもって当の殺戮者、破壊者でなければならない。当時の日本人はごく順当にこう考えていた。そして、このような視点から世相を眺める時、日本人は学童といえども「戦死した兵隊さん」の視線を肩先に感じないわけにはいかなかった。
つまり、ここでは、生者と死者がほぼ同一の光景を共有していた。
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閉ざされた言語空間より(1
日本占領下のGHQが行った検閲
日本がアメリカに負けた後、約七年間、日本はGHQ占領下にありました。そして日本中の新聞、雑誌、書籍、ラジオ、個人の手紙等を検閲したのです。
プランゲ文庫というものがあるそうです。占領中に検閲を受けた資料が収められていて、その数は、書籍と小冊子四万五千点、雑誌一万三千種、新聞一万一千種。
アメリカが日本で行った検閲の目的は、日本が今後アメリカに楯突くことができないようにすること。武力的にも、精神的にも。ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)の大枠はそういうことだ。日本人に贖罪意識を植え付け、精神的に屈服させ、武力を持つことを躊躇させる。アメリカ、戦勝国側に有利になるように嘘も混ぜ込んで。
引用(閉ざされた言語空間 江藤淳 P237)ーー
~昭和二十一年十一月末には、すでに次のような検閲指針がまとめられていたことが、米国立公文書館分室所在の資料によってあきらかである。
削除または掲載発行禁止の対象となるもの
(一)SCAP──連合国最高司令官(司令部)に対する批判
連合国最高司令官に対するいかなる一般的批判、および以下に特定されていない連合国最高司令官(司令部)指揮下のいかなる部署に対する批判もこの範疇に属する
(二)極東軍事裁判に対する一切の一般的批判、または軍事裁判に関係のある人物もしくは事項に関する特定の批判がこれに相当する。
(三)SCAPが憲法を起草したことに対する批判
日本の新憲法起草に当たってSCAPがが果たした役割についての一切の言及、あるいは憲法起草に当たってSCAPが果たした役割に対する一切の批判。
(四)検閲制度への批判
出版、映画、新聞、雑誌の検閲が行われていることに関する直接間接の言及がこれに相当する。
(五)合衆国に対する批判
合衆国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(六)ロシアに対する批判
ソ連邦に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(七)英国に対する批判
英国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(八)朝鮮人に対する批判
朝鮮人に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(九)中国に対する批判
中国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(一〇)他の連合国に対する批判
他の連合国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(一一)連合国一般に対する批判
国を特定せず、連合国一般に対して行われた批判がこれに相当する。
(一二)満州における日本人取り扱いについての批判
満州における日本人取り扱いについて特に言及したものがこれに相当する。これらはソ連および中国に対する批判の項には含めない
(一三)連合国の戦前の政策に対する批判
一国あるいは複数の連合国の戦前の政策に対して行われた一切の批判がこれに相当する。これに相当する批判は、特定の国に対する批判の項目には含まれない。
(一四)第三次世界大戦への言及
第三次世界大戦の問題に関する文章について行われた削除は、特定の国に対する批判の項目ではなく、この項目で扱う。
(一五)ソ連対西側諸国の「冷戦」に対する言及
西側諸国とソ連との間に存在する状況についての論評がこれに相当する。ソ連および特定の西側諸国に対する批判の項目には含めない。
(一六)戦争擁護の宣伝
日本の戦争遂行および戦争中における行為を擁護する直接間接の一切の宣伝がこれに相当する。
(一七)神国日本の宣伝
日本国を神聖視し、天皇の神格性を主張する直接間接の宣伝がこれに相当する。
(一八)軍国主義の宣伝
「戦争擁護」宣伝に含まれない、厳密な意味での軍国主義の一切の宣伝をいう。
(一九)ナショナリズムの宣伝
厳密な意味での国家主義の一切の宣伝がこれに相当する。ただし、戦争擁護、神国日本その他の宣伝はこれに含めない。
(二〇)大東亜共栄圏の宣伝
大東亜共栄圏に関する宣伝のみこれに相当し、軍国主義、国家主義、神国日本、その他の宣伝はこれに含めない。
(二一)その他の宣伝
以上特記した以外のあらゆる宣伝がこれに相当する。
(二二)戦争犯罪人の正当化および擁護
戦争犯罪人の一切の正当化および擁護がこれに相当する。ただし軍国主義の批判はこれに含めない。
(二三)占領軍兵士と日本女性との交渉
厳密な意味で日本女性との交渉を取扱うストーリーがこれに相当する。合衆国批判には含めない。
(二四)闇市の状況
闇市の状況についての言及がこれに相当する。したがって特定の国に対する。
(二五)占領軍軍隊に対する批判
占領軍軍隊に対する批判がこれに相当する。したがって特定の国に対する批判には含めない。
(二六)飢餓の誇張
日本における飢餓を誇張した記事がこれに相当する。
(二七)暴力と不穏の行動の扇動
この種の記事がこれに相当する。
(二八)虚偽の報道
明白な虚偽の報道がこれに相当する。
(二九)SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
(三〇)解禁されていない報道の公表
一見して明らかなように、ここで意図されているのが、古来日本人の心にはぐくまれてきた伝統的な価値の体系の、徹底的な組み替えであることはいうまでもない。
こうして日本人の周囲に張り巡らされた新しいタブーの網の目のうちで、非検閲者と検閲者が接触する場所はただ一箇所、第四項に定められた検閲とその秘匿を通じてである。検閲を受け、それを秘匿するという行為を重ねているうちに、非検閲者は次第にこの網の目にからみとられ、自ら新しいタブーを受容し、「邪悪」な日本の「共同体」を成立させてきた伝統的な価値体系を破壊すべき「新たな危険の源泉」に変質させられていく。
この自己破壊による新しいタブーの自己増殖という相互作用は、戦後日本の言語空間のなかで、おそらく依然として現在もなおつづけられているのである。
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