閉ざされた言語空間より(2 | 忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史)

閉ざされた言語空間より(2

引用(P161)ーー
《突然のことなので驚いております。政府がいくら最悪の事態になったといっても、聖戦完遂を誓った以上は犬死はしたくありません。敵は人道主義、国際主義などと唱えていますが、日本人に対してしたあの所業はどうでしょうか。数知れぬ戦争犠牲者のことを思ってほしいと思います。憎しみを感じないわけにはいきません》(八月十六日付)
《昨日伊勢佐木町にに行って、初めて彼らを見ました。彼らは得意げに自動車を乗りまわしたり、散歩をしたりしていました。
 橋のほとりにいる歩哨は、欄干に腰を下ろして、肩に掛けた小銃をぶらぶらさせ、チュウインガムを噛んでいました。こんなだらしのない軍隊に敗けたのかと思うと、口惜しくてたまりません》(九月九日付)
《大東亜戦争が惨めな結末を迎えたのはご承知の通りです。通学の途中にも、ほかの場所でも、あのにくい米兵の姿を見なければならなくなりました。今日の午後には、米兵が何人か学校の近くの床屋に入っていました。
 米兵は学校にもやって来て、教室を見まわって行きました。何ていやな奴等でしょう! 僕たち子供ですら、怒りを感じます。戦死した兵隊さんがこの光景を見たら、どんな気持ちがするでしょうか。》(九月二十九日付)


 これらのうち、八月十六日付と九月二十九日付のものは、いずれも戦地に在る肉親に宛てられた国外通信と覚しいが、ここで注目すべきことは、当時の日本人が、戦争と敗戦の悲惨さを、自らの「邪悪」さがもたらしたものとは少しも考えていなかったという事実である。
 「数知れぬ戦争犠牲者」は、日本の「邪悪」さ故に生まれたのではなく、「敵」、つまり米軍の殺戮と破壊の結果生まれたのである。「憎しみ」を感じるべき相手は、日本政府や日本軍であるよりは、まずもって当の殺戮者、破壊者でなければならない。当時の日本人はごく順当にこう考えていた。そして、このような視点から世相を眺める時、日本人は学童といえども「戦死した兵隊さん」の視線を肩先に感じないわけにはいかなかった。
 つまり、ここでは、生者と死者がほぼ同一の光景を共有していた。
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