忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史) -229ページ目

斎藤隆夫衆議院議員の反軍演説

引用ーー

 現実に即せざるところの国策は真の国策にあらずして、一種の空想であります、まず第一に東洋永遠の平和、世界永遠の平和、これは望ましきことではありまするが、実際これが実現するものであるか否やということについては、お互いに考えねばならぬことである。古来いずれの時代におきましても平和論や平和運動の止むことはない。宗教家は申すに及ばず、各国の政治家らも口を開けば世界の平和を唱える。また平和論の前には何人といえども真正面からして反対は出来ないのであります。しかしながら世界の平和などが実際得られるものであるか、これはなかなか難しいことであります。  私どもは断じて得られないと思っている。十年や二十年の平和は得られるかも知れませぬが、五十年百年の平和すら得られない。歴史家の記述するところによりますると、過去三十五世紀、三千四百幾十年の間において、世界平和の時代はわずかに二百幾十年、残り三千二百幾十年は戦争の時代であると言うている。かくのごとく過去の歴史は戦争をもって覆われている。将来の歴甕は平和をもって満たさるべしと何人が断言することが出来るか。(拍手)  のみならずご承知の通りに近世文明科学の発達によりまして、空間的に世界の縮小したること実に驚くべきものである。これを千年前の世界に比較するまでもなく、百年前の世界に比較するまでもなく、五十年前の世界に比較しましても実に別世界の懸か起こらざるを得ないのである。この縮小せられたる世界において、数多の民族、数多の国家か対立している。そのうえ人口は増加する。生存競争はいよいよ激しくなって来る。民族と民族との間、国家と国家との間に競争が起こらざるを得ない。しかして国家間の争いの最後のものが戦争でありまする以上は、この世界において国家が対立しておりまする以上は、戦争の絶ゆる時はない。平和論や平和運動がいつしか雲散霧消するのはこれはやむを得ない次第であります。  もしこれを疑われるのでありますならば、最近五十年間における東洋の歴史を見ましょう。先ほど申し上げました通りに、我国はかつて支那と戦った。その戦いにおいても東洋永遠の平和が唱えられたのである。次にロシアと戦った。その時にも東洋永遠の平和が唱えられたのである。また平和を目的として戦後の条約も締結せられたのでありまするが、平和が得られましたか。得られないではないか、平和が得られないからして今回の日支事変も起こって来たのである。  即ち人間の慾望には限りがない、民族の慾望にも限りがない。国家の慾望にも限りがない。屈したるものは伸びんとする。伸びたるものはさらに伸びんとする。ここに国家競争が激化するのであります。なおこれを疑う者があるならば、さらに遡って過去数千年の歴史を見ましょう。世界の歴史は全く戦争の歴史である。現在世界の歴史から、(発言する者多し)戦争を取り除いたならば、残る何物があるか。そうして一たび戦争が起こりましたならば、もはや問題は正邪曲直の争いではない。是非善悪の争いではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。強者が弱者を征服する、これが戦争である。正義が不正義を贋懲する、これが戦争という意味でない。先ほど申しました第一次ヨーロッパ戦争に当りましても、ずいぶん正義争いが起こったのであります。ドイツを中心とするところの同盟側、イギリスを中心とするところの連合側、いずれも正義は我に在りと叫んだのでありますが、戦争の結果はどうなったか。正義が勝って不正義が敗けたのでありますか。そうではないのでありましょう。正義や不正義はどこかへ飛んで行って、つまり同盟側の力が尽き果てたからして投げ出したに過ぎないのであります。今回の戦争に当りましても相変らず正義論を闘わしておりますが、この正義論の価値は知るべきのみであります。つまり力の伴わざるところの正義は弾丸なき大砲と同じことである。(拍手)羊の正義論は狼の前には三文の値打もない。ヨーロッパの現状は幾多の実例を我々の前に示しているのであります。  かくのごとき事態でありますから、国家競争は道理の競争ではない。正邪曲直の競争でもない。徹頭徹尾力の競争である。(拍手)世にそうでないと言う者があるならばそれは偽りであります、偽善であります。我々は偽善を排斥する。あくまで偽善を排斥してもって国家競争の真髄を掴まねばならぬ。国家競争の真髄は何であるか。曰く生存競争である。優勝劣敗である。適者生存である。適者即ち強者の生存であります。強者が興って弱者が亡びる。過去数千年の歴史はそれである。未来永遠の歴史もまたそれでなくてはならないのであります。(拍手)  この歴史上の事実を基礎として、我々が国家競争に向うに当りまして、徹頭徹尾自国本位であらねばならぬ。自国の力を養成し、自国の力を強化する、これより他に国家の向うべき途はないのであります。(拍手)


斎藤隆夫衆議院議員の反軍演説(全文)

共産主義者が利用する「反戦・平和」、利用される子供たち

恐怖と無法の広島公教育界


広島県立世羅高校の石川敏浩校長が、卒業式での国歌斉唱問題で、教職員組合から強硬な反対に遭い、自殺に追い込まれた事件


閉ざされたクラスルーム

 ある小学校で起きたいじめ事件について、保護者懇談会の席上で、教師が「なぜいじめている子供に注意しなかったのか」との質問が相次いだ。答弁にたった教頭は「先生は警察官ではありません。
ルールを押しつけることは教育ではありません。子供同士が注意し合うのを待っているのです。」と答えたという。


閉ざされたクラスルーム-証言編



ちなみにこういう先生に教えられて育った生徒の言葉


●世羅高校卒業生のメッセージ(上から8つめの記事)

 だけど、式次第には、黒々と「国歌斉唱」の文字。ドキンとした。進行の先生の重々しい「国歌斉唱」の声は、まるで、何かの合図みたいに会場に響いた。誰が初めに座ったのかはわからない。私は私の意思で着席した。中には顔を見合わせて着席した人もいたようだったけれど、私は自分の12年間の学びを「間違いじゃないよ」と主張したかった。「強制しなければ掲げられない旗や歌えないような歌は、いくら法制化したってしょせん根無し草。」いつか読んだ本の一文が頭をよぎった。後ろから聞こえてくる小さな「君が代」を聞きながら、「ああ、きっとここの場面だけ切り取って報道されるんだろうなあ。」と思った。だけど、これも間違いなく私たちの精一杯の自己主張。

資料】全国における高校卒業式の状況


平成11年の話。2年くらい前に初めて知ったんですが、もう忘れそうでした。メモメモ。

歌いたいやつは黙ってろ!ということです。歌いたい人の内心の自由は捨て置く。

子供にはイデオロギーを押し付けてほしくないですな。

昭和天皇

昭和天皇の「メモ」というものが「発見」されたそうですな。昭和天皇がA級戦犯を合祀することに消極的だったというメモが。
しかし、このメモに書いてあることがあることが本当だと、仮にするならば、陛下の考えは終戦直後とは変わってしまったということだろうか。


ーー引用
「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼らに責任はない。私の一身は、どうなろうとかまわない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」(『侍従長の回想』)


~天皇の第一の目的が、戦犯裁判には自分ひとりが法廷に立てばそれで十分のはず、と言いに来たことは明らかである。というのは終戦後間もない八月二十九日の『木戸日記』に「戦争責任者を連合国に引き渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして収めるわけにはいかないだろうか」


~なおマッカーサーのリークの中で、ある程度信頼できるのは、半藤一利氏が記されているヴァイニング夫人の記述であろう。次に引用させていただく(『天皇とマッカーサー』/『オール讀物』昭和63年11月号所収)「ヴァイニングは十二月七日の項で、マッカーサーが語ったと言う会談の“一問一答”をこう記述した。(わかりやすく書くと)

元帥 戦争責任をお取になるか。
天皇 その質問に答える前に、私のほうから話をしたい。
元帥 どうぞ。お話なさい。
天皇 あなたが私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け入れる。私を絞首刑にしてかまわない。
 ──原文では“You may hang me”と記載されているという」


~昭和二十三年十二月二十四日の『朝日新聞』の記事である。このころ、すでに十一月の十二日に極東軍事裁判所はA級戦犯二十五人に有罪の判決を下し、十二月二十三日、東条英機ら七人の死刑が執行された。これと関連して天皇の責任問題が、いわゆる進歩的文化人の意見発表や世論調査の結果などで連日報道され、退位問題がピークに達した時である。朝日新聞は次のように報じている。

「ある著名な人から天皇制護持のためにも退位を可とするという内容の著書が差し出された時、陛下は『個人としてはそうも考えるが公人としての立場がそれを許さない』という意味のことを洩らされた。(中略)さらに『国民を今日の災難に追い込んだことは申し訳なく思っている。退くことも責任を果たす一つの方法と思うが、むしろ留位して国民と慰めあい、励ましあって日本再建のため尽くすことが先祖に対し、国民に対し、またポツダム宣言の趣旨に副う所以だと思う』と述べられたそうである」
ーー
(裕仁天皇の昭和史 山本七平より)

 
陛下御自身が「文武百官は私の任命する所だから、彼らに責任はない」と言い、「責任はすべて私にある」と言っているのに?
なかには気に食わない人もいたでしょう。しかし「ハンコを押したのは自分だ」という意識が上の発言のなかに見えます。
今回のメモは正に正反対、臣下のせいにしてしまっている。どうなんでしょこれ?



 あの戦争において、昭和天皇に責任はなかったとはいいきれない。
「なぜ退位しなかったのか」と言う人もいますが、しかし当時の昭和天皇には在位・退位する自由などあったでしょうか。とてもそうは思えない。


ーー引用
~マッカーサーにとっては、天皇は、「捕虜の長」にすぎない。したがってすべて彼の思うままであり、戦犯逮捕の際、天皇を退位させたほうが占領政策に優位だと考えれば、それは即座に出来たであろう。彼は天皇の言質を取っている。おそらくマッカーサーは、天皇という「捕虜の長」とその言質との両方を「人質」にして、占領政策を進めるのが有利と考えていたであろう。
ーー
(裕仁天皇の昭和史 山本七平より)


ーー引用
 一九四六年一月二十五日、マッカーサーは、陸軍省宛に三頁にびっしりと文が詰まっている極秘電報を打った。この電報が天皇の命を救う。
「天皇を告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるだろう。その結果もたらされる事態を鎮めるのは不可能である」「天皇を葬れば、日本国家は分解する」
 連合国が天皇を裁判にかければ、日本国民の「憎悪と憤激は、間違いなく未来永劫に続くであろう。復讐のための復讐は、天皇を裁判にかけることで誘発され、もしそのような事態になれば、その悪循環は何世紀にもわたって途切れることなく続く恐れがある」「政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地域や地方でゲリラ戦が発生する」「私の考えるところ、近代的な民主主義を導入すると言う希望は悉く消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるだろう」
 そのような事態が発生した場合、「最低百万人の軍隊が必要であり、軍隊は永久的に駐留し続けなければならない。さらに行政を遂行するためには、公務員を日本に送り込まなければならない。その人員だけでも数十万人にのぼることになろう」
 陸軍省をこれだけ脅かした後、「天皇が戦犯として裁かれるべきかどうかは、極めて高度の政策決定に属し、私が勧告することは適切ではないと思う」と外交辞令で長い電報を締めくくった。

~マッカーサーは、「天皇は退位を考えているだろう。あるいは、このA級戦犯裁判で出る判決が厳しすぎて、精神的緊張に耐えられず、心理的な冷静さを失い、自殺さえ考

えるかもしれない」と言った。しかし、退位のうわさはどれも「作り話でまったく実体はない」と自分を励ました。
 マッカーサーは、天皇退位の可能性は作り話ではないと知っていたのだ。マッカーサーには天皇が必要なのだ。マッカーサーも必死である。「天皇の退位は政治的な混乱を引き起こすだろう」とか、「私は天皇に思いとどまらせるため全力を挙げるつもりだ」とシーボルドに話した。

ーー
(国破れてマッカーサー 西鋭夫)



すべては占領軍の都合しだいだったと思う。
しかし言えることは、なぜ天皇が退位、もしくは天皇制度そのものが残ったかというと、当時の「国民の総意」が天皇を求めていたということじゃなかろーか。天皇が全国を回った時、大歓迎されていることが何よりの証だ。天皇を生かすことは、占領軍にとって占領を円滑に行うために有利と判断したからだ。マッカーサーも「混沌無秩序」「ゲリラ戦」や共産化はアメリカの国益に沿わないと思っていた。当時の日本国民の大多数が天皇制度を望んでいたし、許してもいたといえる。

このメモが嘘か本当かはわからないけれど、個人的にはどっちでもよし。終戦記念日があと少しというところで出してきたのは、天皇を政治利用していると、いえると思うなあ。



追記ーー

日経に電凸した人のブログ。とりあえず日経は胡散臭い。

http://plaza.rakuten.co.jp/clubshouko/diary/200607250000/