忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史) -232ページ目

とまらない米国の西進

引用ーー

モンロー主義シベリアへ─シベリア極東共和国と米国の西進
 第一次世界大戦で疲弊したロシアに革命が起こり、共産主義政権が始めて誕生すると、当時の米国人、特にウィルソン大統領は民主主義の一形態と誤解したのではないだろうか。ウィルソン大統領は一九一八年一月十八日に、議会で「平和十四か条」を発表したがこの「平和十四か条」の条文には、レーニンが提案した項目がかなり流用されている。また議会演説では、「プレストリトウスクでの交渉はすでに決裂した。ロシア代表は真摯であり誠実である。ロシア代表が征服と覇権の提案を認めることはないだろう。……ロシア代表は大変賢明また公正にも、ドイツ・オーストリア人とトルコ人との会議をオープンにすることを主張した。その結果全世界はその観衆となることができた。それでは我々は誰の話しを聞くべきなのか。ロシア人は敗北し絶望的である。そしてドイツの恐怖の軍事力に直面しており、この軍事力は未だかつて寛容さとか慈悲を見せたことはない。それでもロシア人の魂は屈従的ではない。ロシア人は正義と受け入れることができる名誉と人道性を明確にしている。……ロシアの自由と秩序ある平和をとりもどすために、我々が光栄にもロシア人を助力できれば、それは我々の希望するところである。……平和の過程が開始の時から、公開され秘密交渉を排除することは我々の願いでもあるし目的である。征服と侵略の時は過ぎ去った。また、特定政府の利益となる秘密議定、そして発覚後の混乱の時も過ぎ去った」と、レーニンの「ロシアと東洋の全勤労

者と回教徒に告ぐ」との宣言を高く評価し、革命政権に深い同情を示していた。
 このような米国の誤解と米国の「西へ西へ」の国策から、米国はシベリア大陸に覇権を確立しようと、日本軍を監視するために派兵した。そして、帝政時代の共産党国際部東洋部長で、米国に亡命していたアレク

サンダー・M・クラスノシチェホフ首相の率いるシベリア極東共和国を支持し、日本が支持していたグレゴリー・セミニョノフ政権を崩壊させた。しかし、極東共和国は日本軍が撤退した一ヵ月後の一九二二年十一月

には、ソ連への併合を決議しソ連邦に合併されてしまった。その後、首相のクラスノシチェホフはモスクワで商工業銀行の頭取になったが、一九二三年に投機に手を出した弟のヤコブとともにGPU(秘密警察)に逮捕

され、七年の禁固刑を受けたが(弟は三年)、一九三七年にスターリンの大粛清の際に銃殺されてしまった(三輪公忠 「隠されたペリーの白旗」)。
 一九二〇年には、米国人のワシントン・B・ヴァンダー=リップとレーニン政権の間で、「東経一六〇度以西の北極海、ベーリング海などの石油、水産、石炭資源に対する利権を向こう六十年間与え、米国にソビエ

トの財務代行機構設立し、三年間に三十億ドルのソ連製品を買い付ける」という協約が調印された。しかしこのプロジェクトは、米国にレーニン政権を承認させるという契約時の条件を満たせずに破棄されたが(前

掲 「隠されたペリーの白旗」)、米国のシベリア出兵の詳細を検証すると、そこには「西へ西へ」のモンロー主義と門戸開放政策をシベリア大陸に拡大しようとした戦略が透けて見えてはしないか。
 またトロツキーは、「太平洋における敵対関係は、日米のわれわれに対する関係によって決せられるであろう」と語り、日米で日米戦争論が高まっているとの話に、「いいともいいとも、米国を負かしてくれるが

いい、われわれは反対しませんよ」といったという(前掲 「隠されたペリーの白旗」)。
 当時の革命政権は、国内の混乱から防備のために兵力を展開できなかったシベリアを米国の会社に資源開発を認めることで、日本の進出を牽制しようとしたのである。このように、ウィルソンや米国民が共産主義を民主主義の変形と誤解し、さらにシベリアに権益を拡大しようとした野望が、日本とソ連との間に緩衝国家をつくろうとした日本の思惑を崩してしまった。もし、米国が共産主義を誤解しなかったならば、中国と日本の北東に緩衝国家が存在し、歴史はかなり異なった展開を示したかもしれない。
 米国のアジア政策は、門戸開放政策に発し、さらに、海軍力の増強は国家に威信と利益をもたらすというマハンの協議から生まれた海軍モンロー主義のユーラシア大陸への拡大であった。そして、市場を開拓し覇権を確立し、米国に繁栄をもたらそうという海軍モンロー主義が、「国家の政策と通商を支援し、本国ならびに海外領土の防衛に当たり、いかなる地域にも米国の意思を示し、米国の外交を支える力を示す」という第七艦隊のモットーとなり、今日の攻撃的な米国海軍を生んだのであった。
 視点を変えれば、米国海軍のアジア進出は、モンロー・ドクトリンのアジアへの適用であり、それはヘイ・ドクトリンという錦の御旗を掲げ「西へ西へ」と海外市場を求めた海のフロンティアを征服してきた海上

開拓史でもあった。また、言葉を換えれば、インディアンを征服し西岸に到達した米国が、太平洋を西進し遭遇したのがアパッチ族ならぬ日本海軍であり、この「西へ西へ」の潮流が激突したのが海軍史的に見れば太平洋戦争ではなかったか。
 そして、太平洋のアパッチが消えると、海軍モンロー主義は日本海、東シナ海にも拡大され、「米国および同盟国が、朝鮮戦争、金門、馬祖などの台湾海峡の緊迫、ベトナム戦争に派遣された(7th Fleet,"Welcome on board")。そして、冷戦でソ連を破ると、さらに第七艦隊は、アフガニスタン紛争ではインド洋へ、イラクのクェート侵攻やイラク戦争ではペルシャ湾へと西進を続け今日に至っている。

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(日露戦争が変えた世界史 平間洋一 P256)


おいおい一周しちゃうよアメリカ!
門戸開放ったって、当時日本は門戸閉鎖してないし。米国のほうがホーリー・スムート法だとかやって閉鎖

に近いことやってたわけで。アメリカはなんでこんなにがっつくんだろう。ものすごい鬱陶しい。中国も。

戦前戦中の話

今回はネットから。


あんた何様?日記に載っていた「生きた戦前、戦中の話。」

http://www.enpitu.ne.jp/usr4/bin/day?id=45126&pg=20060604



生きた戦前、戦中の話。

http://homepage2.nifty.com/doik/log/


昭和20年に中学一年生だった方の話です。

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++ imajou [Home]
 今回私が書き込みましたのは、「戦時中に英語教育禁止」と言う言葉を見て、「俺、戦争最後の年に中学に入り、ちゃんと英語の授業を受けたよ。あの中学では禁止されていた英語教育を潜ってやっていたとでも言うのだろうか。でも教科書は文部省発行だったよ。これは禁令など無かった証拠じゃないか。」と思ったのが切っ掛けでした。
 そこで軽い気持ちで書いたのですが、予想もしなかった反響を頂戴しびっくりしております。「戦時中に英語教育が禁止された」などと言うデマを誰が言い出したのか知りませんが、こんな直ぐにもばれるデマが飛び交うのは、実際に体験した私らには当たり前過ぎて話題にすることもない事柄が、もう歴史のベールに包まれ始め、実態が判らなくなりかけていることを物語るものと痛感しました。
 振り返ってみますと、戦後GHQが日本人に施したマインドコントロールが未だに凍けず、自虐史観が横行していますが、私自身も一時期完全に引っ掛かっていました。抜け出せたのは2つの疑問が心に残っていたからでした。その疑問を解くことがマインドコントロールから抜け出す道となりました。
 この2つを考え合わせ、私のささやかな体験が往時の真実を理解し頂くのにお役に立つなら、いつでもお話いたします。私からもお伝えしたいこと、皆さんと語り合いたいことが沢山あります。それらは機会を見ていずれまた。今回は私の話を受け入れて頂き、暖かいお言葉を沢山頂戴いたしまして有難う御座いました。
.. 5/13(Sat) 22:27[23826]

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このほかにも「隣組」や当時の日常の話があっておもしろい。戦前の悪かったことについての証言というのは死ぬほどあるけど、こういう証言は少ないので増えてほしい。祖父母がいらっしゃる方は是非とも聞いてあげてほしい。


そして「敵性語」の意味ですが、

http://www.mars.dti.ne.jp/~matsumu/tozea006.html

ここの00/06/12 から00/06/19 の記事にあるように、英語を指すのではなく、

厭戦気分を起こさせたり戦闘意欲を失わせたりするのが「敵となる性質を持った言葉」=「敵性語」」ということのようです。


http://eigo.be/cultures/usa-5thweekend1.htm

このページの真ん中あたりに「語学は当時でも1週5時間で、3人の教官に教わったといったら、信じない人もいるのではないかと思う。当時英語は敵性外国語として禁じられたと言われているが、我々陸軍幼年学校ではそのようなことはなかった。むしろ外人教師(同盟国のドイツ人ではあるが)夫妻が、ドイツ語と英語の会話を担当していたくらい語学には力が入れられていたのである。」というのもありました。う~む。ほんとに日本の近代史は複雑。困る。何が本当で何が嘘か、確かめないと。

したたかさ

引用ーー

「したたかな」アジアの国家指導者ー日本人は安月給で深夜まで働く

 アジアの国家指導者は「したたか」であった。ビルマのアウンサンなどは。日本軍が優勢な時には協力したが、戦局が不利になるとクーデターを行って日本軍を攻撃し、連合軍への「反日の証」をつくり独立を達成した。フィリピンのホセ・P・ラウレル大統領、ベニグノ・アキノ国会議長(コラソン・アキノ元大統領の父)や、クロレラ・M・レクト外務長官などは日本軍に協力し、ラウレル大統領などは大東亜会議の出席者の仲で、最も感激していたと、バー・モウ首相に書かれている。(バー・モウ「ビルマの夜明け」)。また、マヌエル・ロハスは、ラウレル政権下で企画院総裁や食料営団総裁などを兼務し協力していた。しかし、米国に内通していたのであろうか、日本軍がマニラを撤退する時には浜本正勝の護衛で脱出したが、米CIA(対情報部)に逮捕されると、米軍から将官用の軍装一式が届けられ、米軍差し回しの将官旗を掲げた車両で隠れ家を立ち去り、その後に政界に復帰し大統領になっている。

 タイも、開戦前年の一九四〇年六月には英米と相互不可侵条約、日本とは友好不可侵条約を締結し、日英米との等距離外交を展開した。しかし、戦争が始まり日本軍が優勢を示すと、一九四一年十二月二十二日には、「東亜新秩序の建設が東亜興隆と世界平和への途であると認め、その障害や禍根を除くために協力する」と書かれた日タイ軍事条約を締結した。そして、日本の圧力を利用して弱体化したヴィシー政権につけこみ、フランスに奪われていたカンボジアとラオス領の旧タイ領土を回復し、一九四二年初期には米英に宣戦を布告した。しかし戦局が不利となると、大東亜会議には、病気を理由にサンクラン・ピブン首相は欠席し、代理人のワンワイタヤコーン殿下で日本との距離を開き、さらに戦局が不利となると、首相を親日的であったピブンから抗日自由タイ運動派のクアング・アパイウォンに代え、親日派の大蔵大臣代理を逮捕し獄死させた。また、摂政プリディ・パノムヨンを中心に、重慶の米国戦略事務局(OSS)などと緊密な連絡をとってもいた。このため、日本の敗戦後には、米国からタイを敵国とみなさないとされ、英国がタイに課した講和条約も米国の斡旋で軽減されている。

 インドネシアのスカルノ大統領は日本軍に全面的に協力したが、スカルノは、「私は日本の過去の行為を見極めてきた。彼らはファシストだよ。……私は彼らの残忍さをよく知っている。占領地域における日本人のやり方を知っている。それでもいいさ。……私は彼らが、我が人民のために何が出来るかを理性的に考えなければならない。われわれは日本人に感謝しなけりゃならんよ。われわれは彼らを利用できるんだから」と自伝に書いている(スカルノ述「スカルノ自伝」)。

 一方、傀儡政権の代表といわれた満州国の張景恵総理は、部下が「日本人が実験を握っていて何も出来ない」とこぼすと「日本人ほど便利な民族はいないではないか。権利さえ与えておけば、安月給で夜中まで働く」と戒めたというが、確かに満州国は日本人によって大きく変わった。張景恵総理の大東亜会議時の演説によれば、建国当初の国家予算は二億七千万円余であったが、十年後には十六倍の四十四億五千万円、鉄道は六千キロから一万二千キロ、就学児童は五十万から二百五十万人に増えていたのである。(深田祐介「黎明の世紀」)

 またチャンドラ・ボースも英国の「敵の敵は味方」と日本に協力したが、日本が敗北すると再び英国の敵のソ連の援助を得て独立を達成しようと動いた。しかし、これらアジアの指導者の中で、もっとも「したたか」な動きを示したのが、アジアの独立運動の先頭を切って中華民国を建国した孫文であろう。孫文は革命初期には日本に頼ったが、日本を追われると米国、次いで英国、フランスと流れ、再び来日し日本とともにアジア主義を提唱し、現在では台湾からも中国からも「国父」と尊敬されている。また、中華人民共和国を建国した毛沢東は、力のないときにはソ連に頼りコミンテルンの指導を受けたが、実力をつけるに従いコミンテルンから距離をとり、コミンテルンから派遣された軍事顧問のドイツ人オットー・ブラウン(通称、リトロフ、中国名、李徳)を無視し、最後には追放してしまった(姫田光義「中国革命に生きるコミンテルン軍事顧問の運命」)。

 このように、アジアの国家指導者は、めまぐるしく変わる国際関係の中で、国際環境のパワーバランスの変化を巧みに利用し、独立を達成したのであった。日本人が学ぶべきことは、このようなアジアの指導者の「したたかさ」ではないか。ビルマのバー・モウ首相は、「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまた、その開放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸民族そのものから、日本ほど誤解を受けている国はない」と述べているが(バー・モウ「ビルマの夜明け」)、もっとも日本を誤解しているのは日本人自身ではないか。

ーー「日露戦争が変えた世界史」平間洋一


日本人は「卑怯」だと思ってしまうんだなきっと。しかし幕末勝ち残った薩長は十分に「したたか」さはあったと思う。長州は微妙だけど。

でもなあ~、どうやったら大東亜戦争が避けられたかっていうのは、正直わからない。それにまた避けていたとしたら日本がどうなっていたか、アジアがどうなっていたか。やっぱり戦うしかなかったんじゃなかろうかとか。堂々巡り。