とまらない米国の西進
引用ーー
モンロー主義シベリアへ─シベリア極東共和国と米国の西進
第一次世界大戦で疲弊したロシアに革命が起こり、共産主義政権が始めて誕生すると、当時の米国人、特にウィルソン大統領は民主主義の一形態と誤解したのではないだろうか。ウィルソン大統領は一九一八年一月十八日に、議会で「平和十四か条」を発表したがこの「平和十四か条」の条文には、レーニンが提案した項目がかなり流用されている。また議会演説では、「プレストリトウスクでの交渉はすでに決裂した。ロシア代表は真摯であり誠実である。ロシア代表が征服と覇権の提案を認めることはないだろう。……ロシア代表は大変賢明また公正にも、ドイツ・オーストリア人とトルコ人との会議をオープンにすることを主張した。その結果全世界はその観衆となることができた。それでは我々は誰の話しを聞くべきなのか。ロシア人は敗北し絶望的である。そしてドイツの恐怖の軍事力に直面しており、この軍事力は未だかつて寛容さとか慈悲を見せたことはない。それでもロシア人の魂は屈従的ではない。ロシア人は正義と受け入れることができる名誉と人道性を明確にしている。……ロシアの自由と秩序ある平和をとりもどすために、我々が光栄にもロシア人を助力できれば、それは我々の希望するところである。……平和の過程が開始の時から、公開され秘密交渉を排除することは我々の願いでもあるし目的である。征服と侵略の時は過ぎ去った。また、特定政府の利益となる秘密議定、そして発覚後の混乱の時も過ぎ去った」と、レーニンの「ロシアと東洋の全勤労
者と回教徒に告ぐ」との宣言を高く評価し、革命政権に深い同情を示していた。
このような米国の誤解と米国の「西へ西へ」の国策から、米国はシベリア大陸に覇権を確立しようと、日本軍を監視するために派兵した。そして、帝政時代の共産党国際部東洋部長で、米国に亡命していたアレク
サンダー・M・クラスノシチェホフ首相の率いるシベリア極東共和国を支持し、日本が支持していたグレゴリー・セミニョノフ政権を崩壊させた。しかし、極東共和国は日本軍が撤退した一ヵ月後の一九二二年十一月
には、ソ連への併合を決議しソ連邦に合併されてしまった。その後、首相のクラスノシチェホフはモスクワで商工業銀行の頭取になったが、一九二三年に投機に手を出した弟のヤコブとともにGPU(秘密警察)に逮捕
され、七年の禁固刑を受けたが(弟は三年)、一九三七年にスターリンの大粛清の際に銃殺されてしまった(三輪公忠 「隠されたペリーの白旗」)。
一九二〇年には、米国人のワシントン・B・ヴァンダー=リップとレーニン政権の間で、「東経一六〇度以西の北極海、ベーリング海などの石油、水産、石炭資源に対する利権を向こう六十年間与え、米国にソビエ
トの財務代行機構設立し、三年間に三十億ドルのソ連製品を買い付ける」という協約が調印された。しかしこのプロジェクトは、米国にレーニン政権を承認させるという契約時の条件を満たせずに破棄されたが(前
掲 「隠されたペリーの白旗」)、米国のシベリア出兵の詳細を検証すると、そこには「西へ西へ」のモンロー主義と門戸開放政策をシベリア大陸に拡大しようとした戦略が透けて見えてはしないか。
またトロツキーは、「太平洋における敵対関係は、日米のわれわれに対する関係によって決せられるであろう」と語り、日米で日米戦争論が高まっているとの話に、「いいともいいとも、米国を負かしてくれるが
いい、われわれは反対しませんよ」といったという(前掲 「隠されたペリーの白旗」)。
当時の革命政権は、国内の混乱から防備のために兵力を展開できなかったシベリアを米国の会社に資源開発を認めることで、日本の進出を牽制しようとしたのである。このように、ウィルソンや米国民が共産主義を民主主義の変形と誤解し、さらにシベリアに権益を拡大しようとした野望が、日本とソ連との間に緩衝国家をつくろうとした日本の思惑を崩してしまった。もし、米国が共産主義を誤解しなかったならば、中国と日本の北東に緩衝国家が存在し、歴史はかなり異なった展開を示したかもしれない。
米国のアジア政策は、門戸開放政策に発し、さらに、海軍力の増強は国家に威信と利益をもたらすというマハンの協議から生まれた海軍モンロー主義のユーラシア大陸への拡大であった。そして、市場を開拓し覇権を確立し、米国に繁栄をもたらそうという海軍モンロー主義が、「国家の政策と通商を支援し、本国ならびに海外領土の防衛に当たり、いかなる地域にも米国の意思を示し、米国の外交を支える力を示す」という第七艦隊のモットーとなり、今日の攻撃的な米国海軍を生んだのであった。
視点を変えれば、米国海軍のアジア進出は、モンロー・ドクトリンのアジアへの適用であり、それはヘイ・ドクトリンという錦の御旗を掲げ「西へ西へ」と海外市場を求めた海のフロンティアを征服してきた海上
開拓史でもあった。また、言葉を換えれば、インディアンを征服し西岸に到達した米国が、太平洋を西進し遭遇したのがアパッチ族ならぬ日本海軍であり、この「西へ西へ」の潮流が激突したのが海軍史的に見れば太平洋戦争ではなかったか。
そして、太平洋のアパッチが消えると、海軍モンロー主義は日本海、東シナ海にも拡大され、「米国および同盟国が、朝鮮戦争、金門、馬祖などの台湾海峡の緊迫、ベトナム戦争に派遣された(7th Fleet,"Welcome on board")。そして、冷戦でソ連を破ると、さらに第七艦隊は、アフガニスタン紛争ではインド洋へ、イラクのクェート侵攻やイラク戦争ではペルシャ湾へと西進を続け今日に至っている。
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(日露戦争が変えた世界史 平間洋一 P256)
おいおい一周しちゃうよアメリカ!
門戸開放ったって、当時日本は門戸閉鎖してないし。米国のほうがホーリー・スムート法だとかやって閉鎖
に近いことやってたわけで。アメリカはなんでこんなにがっつくんだろう。ものすごい鬱陶しい。中国も。