虫
放置してるなー(しみじみ)
放置していることに特に理由はなく、相変わらずの毎日が続いているだけなのだった。
#ちょびっと忙しくなってるのかも(悩)
ゾウリムシを飼っている(らしい)同僚は、今年ウチのクラスを担当してくれている。
で、どうも、そのゾウリムシを生徒に見せてくれるようなのだった!(踊)
理科室へ移動する生徒達は、ちょっとうきうきしていた。
が、もちろん、そうではない生徒もいる。
「なんだー、ゾウリムシが苦手なの?」
と私が聞くと、彼は大きくうなずいた。
すかさず、仲間がツッコミを入れる。
「苦手とかいうほどの大きさじゃないじゃないかー!」
それはそうかも(悩)
が、彼は断固として首を振り、言うのだった。
「僕はとにかく虫が嫌いなんだっ!」
その言葉に、これって聞いてはいけないことなのかも、と、なんとなく思いながらも(?)私はつい聞いてしまった。
「ゾウリムシって…虫なわけ?(悩)」
…………。
なんとなく沈黙がおちる。
そもそも虫というのはなんなのか。
理科の授業を前に、私も生徒たちもそういう感じのぼんやりとした心許ない気分に包まれたのだった。
が。
やがて、彼は断固とした調子で沈黙を破った。
「虫ですよ!だって、僕が嫌いなんだから!」
なるほどっ!<待て(涙)
クラスレク
クラスでレクリエーションをやる、ということになったのだった。
急遽レクリエーション係となった生徒達は何をしたらいいか…と、あれこれ考えるのだけど、なかなかいい案が出ない。
なんといっても、障害になるのは男女の間にある壁、のようなのだった(倒)
生徒達の出す案は、結構古典的で。
ハンカチ落としとか。
だるまさんがころんだとか。(汗)
そして、ハンカチ落としの場合、女子が男子に、男子が女子にハンカチを落とすことが難しいのではないか、とか、あるいは落とされたことに気づいても、相手が異性だとしらんふりをしてしまう子がいるのではないか、とか。
だるまさんの場合は、もちろん、最後に鬼が誰に向かって歩き出すか、ということがネックになる(倒)
聞いていると、馬鹿だなー(倒)と思うのだけど、係の生徒達は大真面目なのだった。
話し合いがまとまってくると、今度は
「でも、このやり方だと、めんどうがって参加しない人が出てくるよー」
が始まった。
そして、彼らは、どーやったらクラス全員が積極的に参加できるだろうか!ということについて延々議論を始めたのだった(嘆)
当然だが、結論など出ない。
困り果てた彼らはぼーっと眺めていた担任に尋ねるのだった。
「先生…どうしたらいいでしょうか?(涙)」
うーん。(悩)としばし考え、オトナの意見を述べることにした。
「これだけの人数が、一人残らず同じゲームに真剣に取り組んだら、ちょっとそれはそれで不自然かもしれないと思いますが」
…………。
「それは、マジメにやらない人が出てもいいってことですか?」
「よくはないですが、出ちゃうでしょう。」
「だったらどうすれば……」
「そのときに考えましょう」
「でも、どーしても駄目だったらどうするんですか?」
「私が授業するから大丈夫です。百人一首の暗唱大会でもしましょう」
…………。
ちなみに、隣のクラスの同僚(数学科)も、私と同じことを言い、もちろん「暗算大会」を提案したのだという♪
がんばれー。
自慢じゃないが、私は「レク潰しの担任」の名をほしいままにしている教員なのだ!(いばり!)<いばるな!(汗)
服装~(倒)
ぼーっと放置している間に、管理ページがリニューアルされていてなんだかよくわからないことに(汗)<殴
春なので相変わらず制服指導なのだった(しみじみ)<春なので?(悩)
いつも思うのだけど、制服指導というのは、他の指導とは根本的にナニカが違う。
それをわかっていないと、教員はなかなかツライと思う。
一番違うトコロは、制服指導というのは本質的に演技であり、その場しのぎである…ということなのだ!(踊)
フツウに考えて、制服をキチンと着たからといって、その生徒が何を得るか…というと、それ自体からはほとんど何も得ないだろう。
制服指導=服装指導ではない。
当たり前なのだった。
教員は服飾の専門家ではない。
誰が、ひとさまに服装というものを指導できるだけのスキルを持っているというのか!(しみじみ)
制服指導というのは、学校の広報活動みたいなモノなのだった。
だから、生徒個人とは対立する。
当たり前なのだ。
それを、「生徒のために!」なんて考えてしまうとワヤになる。
私たちは、生徒に不利益を強いている。
学校という集団の利益のために。
その自覚が必要なのだった。
以前は、たまに「待て(涙)」と言いたくなるような、尻丸見えのスカートをはいている生徒を見ると、指導しながら、
「自分の娘の尻がこーやって曝されていることに、どーして親は平気でいられるのだろうか?」
などと思ったものだ。
でも、その考えは間違っている。
親にしてみれば、曝されているのは娘の尻ではない。
「○○学校の女生徒の尻」なのだった。
恥ずべき指導者がいるとするなら、それは○○学校の女生徒を指導している教員たちなのであって、決して親ではない。
もちろん、本人にとっても同じコト。
曝されているのは自分の尻ではなく、○○学校の女生徒の尻♪なのだった。
つべこべ屁理屈言うんじゃねえ、その尻はてめーの尻だろうが!
と非難することはできる。
ってか、非難するまでもなく、妊娠してみればそれが誰の尻なのかは明確になる(しみじみ)
でも、そもそも「制服」というのは、その辺りのコトを強烈にごまかす屁理屈的装置なのだった。
その装置は、かつて教員が「学校」の論理で稼働させていたのだけど、最近では生徒達が別の論理で動かそうとしているのだと思う。
実はただの装置なので、制服はそういう利用もできるのだった。
#教員が気づいていなかっただけで(しみじみじみ)
別の論理…というのは、決して生徒達の個性尊重、とかではない。
むしろそれとは逆に進む。
生徒たちは、体型や顔立ちに関係なく、とにかく「みんなと同じように♪」と念じてスカートを短くしてはくのだった。
それが似合うから、カワイイから…と思っているのはごく一部の、本当にそれなりにミニスカートが似合うような体型をしている女生徒だけで。
多くの生徒達は、
短いスカートは、私には似合わない。
でも、長くしてしまうと、もっとみっともない&恥ずかしい!(涙)
と思い詰めてミニスカートを頑なにはくのだった。
よーく考えてみると、わけがわからないのだった(しみじみ)
だから、別の論理を動かしているのも、実は生徒達自身ではないのだろう、と私は思っている。
ナニカ、もっと得体の知れないものだ。
それは、「学校」が生徒を縛ってある利益を得ようとしたように、生徒を縛ってなにかを得ようとしているに違いない。
その正体が、私には見えない。
見えないのが、すごーくイヤなのだった。
だから、制服指導をしなければならない、と思っているのだ。
生徒個人にとって、制服を着せる「学校」は圧制者であり、横暴なのだ。
それでいい。
そう正しく認識することが大切なのだった!
社会に出ると、ナニカがナニカの利益のために自分を縛ろうとする。
その経験を持つべきなのだ。
実際はそのナニカはとっても巧妙なテクニックをもっていて、味方のような顔で近づくときもある。
学校は、そこだけはごまかさない。
私たちはオマエたちの敵だ!
制服を着るのは私たちの利益のためだ!
オマエたちの意志だの希望だのなんか、くそくらえだ!
学校では、そこがハッキリしている。
どんなトロい生徒でも、少し考えれば、その思いに至ることができる。
だから、訓練になる。
ウチの生徒たちは、本当に「そうしなければならない」と思っているから尻が見えそうなスカートをはくのだった(倒)
はきたくてはいているのではない。本当にそうなのだ。
そこからナントカ抜け出してほしいなーと思う。
無理だという気はするのだけど(悩)
毒をもって毒を制する、みたいな感じなのだった。
自由を謳歌しているつもりで、実ははきたくもないミニスカートをはいているよりは、いつか自由になってやると悔しがりながらダサダサのスカートをはく方がマシなんじゃないかなーと(しみじみ)
そう思いながら、指導しているのだった。
表裏♪
新学年新学期なのだった!(踊)
学校全体を見ると、さすがに異動があったりもするのだけど、私の身の回りは無風状態…なのだった。
ダレるかもー(だれだれ)<やめれ(汗)
ダレてはいても、新学年新学期なので、いろいろセレモニー系の行事があるのだった。
そうすると、盛り上がる(?)のが服装指導!
ウチは、のんきなので、普段はあまり服装についてウルサク言わない。
#ちょっとはウルサクした方がいいんじゃないかと思ったりするわけですが(しみじみ)
でも、セレモニーともなれば別!
空気読みやがれてめーら(怒)という指導になるのだった!<???
もちろん、服装指導、生活指導の究極の目的は、品格のある豊かな人間…なのだった。
普段は平気で違反をしているくせに、セレモニーの時だけ服装を整える…なんて「裏表のある生徒」は、決して品格のある豊かな人間とは言えない(しみじみ)
…が!
ウチの生徒は、裏表とかいう以前の問題として、そもそも
どっちが表でどっちが裏か?
…がわかってなかったりするのが結構いるのだった!(倒)
#そういうことは家庭で指導してほしいなーと思うのですが(しみじみ)
そんなわけで。
物事には表と裏がある。
こっちが表でこっちが裏だ!
そして、今は表の場面か、裏の場面か、どっちだと思う???
…ってことから教えなければならない。
もちろん、これは決して品格のある豊かな指導ではないのだった(涙)
#だからこそこそやるのだった(しみじみじみ)
お別れの準備
もうすぐお別れなのだった(しみじみ)
ウチでは来年度の担任やらクラスやらは始業式までひみつ!
黒板に、終業式まであと○日!なんてカウントダウンらくがきがしてあったりしたのも、いよいよせっぱつまってくると(?)いつのまにか消されているのだった(しみじみ)
掃除をしながら、なんとなく、二年生になったら…という話になる。
私が生徒の顔をすぐ忘れてしまうことをしっている彼らは、
「せんせいは別のクラスになったら、自分たちをいつまでおぼえていてくれるか?」
ということを聞きだそうとするのだった(倒)
たしかに、2週間で忘れるような気がする生徒もいれば、10年は忘れないだろうという生徒もいる。
#いい子は忘れられやすいです(しみじみ)
そうかと思えば、放課後、教室のかたすみでひとかたまりになって、代わる代わるじーっと両手を握り合っている少年たちがいたりする(倒)
フザけているのかと思ったら、彼らは真剣で、残り少ない時間を惜しんでいるというのだった(悩)
涙ぐんでいるのまでいる(驚)
最後までよくわからないいちねんせいたちなのだった(しみじみじみ)
卒業式の国歌!
ウチではぼーっといつものように卒業式が済んでいるのだけど。
やっぱり(というかなんというか)東京都辺りを始めとして、国歌・国旗がいろいろとやかましいようなのだった(しみじみ)
こんなことを言ってもナンの意味もない…というか、この問題の「議論」からはズレまくっている、というのはわかった上で。
でも、ノンキな私立校の一教員としては、とりあえずこう思うのだった(しみじみじみ)
卒業式の国歌斉唱で、教職員が立とうが座ろうが……
誰も見ちゃいねえぞ(真剣)
…いや。
ホント、こんなこと言っても意味はないので(汗)
でも、現場なんてそんなもんでしょう(しみじみ)
だって、教職員が立ってるとか座ってるとか、そういうことが会場で「見える」位置に座っている人はごく限られている…はず。
ってか、ほとんどの生徒・保護者・フツウに仕事をしている教職員から、そんなモノは見えない。
#ウチの場合ですが。
それが「見える」のは、いわば「神の視点」に立っているから…なのかもしれない。
そうでなくてもややこしい現場に、そんなわけのわからない「神」まで出現されちゃった日にはもう(しみじみ)
現場の教員にとって、卒業式でホントに問題なのは、非日常空間をどのようにして作ってあげるかということだ。
もちろん、生徒と保護者のために。
私は、現場の教員というのは一種の職人だと思っている。
教育を動かすものがどんな思想であろうとも、それは変わらない。
それだけで知らんぷりしていられるほどノンキな状況になっていないのが東京都をはじめとした公立の現場なのだろうけれど。
でも、それ自体がどこか病んでるよなーと思う。
現場の教員はいいかげんでいいのだ!
国歌を歌うって決めたのに、起立しない教員がいた…なんて、そんなことはしらんぷりすればいいのだ!
信念で起立しなくても居眠りしてて起立しなくても、しらんぷりだ!
だって、生徒だっていいかげんなんだもん!
「いいかげん」を黙って認めないと、みんなビョーキになっちゃうぞー(しみじみ)
そして、「いいかげん」は「黙って」しらんぷりをする、ということ。
大人なんだからさー、がんばらないと、そういうところは。
国旗・国歌のときに立ちたくないなら黙って座ってればいいのだ。
座ってることを認めろ、なんて言う必要はない。
もちろん、立たなくちゃダメだ!なんて主張する必要だってない。
そんなことは右翼とか左翼の人がやってればいいことであって、卒業式で校長や教員がすることではない。
でも、たぶん、十数年前辺りの教員&校長&教育委員会はそうやって「いいかげん」にこの問題をしのいでいたはずなのだ。
なぜそれができなくなっているのか、ということを考えると、ちょっと微妙に暗い気持ちになるのだけど。
現場の教員&校長は常にずるい大人でなければならない。
だって、美しくなければならない主役は子供なんだもん(しみじみ)
問答無用で汚れた大人でいる、ということができないなら、そんな教員&校長はなんというか、結構邪魔。
#あなたが美しい人かどうか、なんて、どうでもいいことなの。誰も気にしてなんかいないのよココでは(真剣)
もっとも、学校にはいろんな人がいていいのだから、邪魔な人だっていてもいいわけで。
その辺もいいかげんなのだった(しみじみじみ)
クラス替え
このごろなんだかクラスが落ち着かない気がするのだった(しみじみ)
落ち着かない…というのは、それほど何か困った感じではなく、なんだか落ち着かない、という程度のことで。
生徒たちがほんのちょっとずつ横着になってるというか、何かに気をとられた感じになってるというか。
特に、普段からすこし不安定な感じの生徒(人付き合いが苦手だったり、遅刻しがちだったり)がそんな感じなのだった。
どうしたのかなーと思うのだけど。
やっぱりクラス替えなのかもなーと思ったり。
一年間、まあまあ無難に過ごせたと思うのだった。
大人はそれで安心してしまうのだけど、子供達にしてみれば、4月にゼロの状態からようやくここまで安定したコミュニティを築いたのに、ソレが解体され、また一から…というのがキツイのかもしれない。
クラス替えも繰り返すうちに、ウチは小規模校ということもあり、生徒達はだんだん安定していく。
高校に上がるときは、もうあまりクラス替えについて騒ぐことはなくなる。
どのクラスになっても大丈夫♪という気分になるのだと思う。
中2から中3になるときが、一番ウルサイ。
クラス替えイヤだー!とか、早くクラス替えしたいー!とか、やかましい(嘆)
でも、いちねんせいは、そう言葉にすることもちょっと怖いと思っているのかもしれない(悩)
初めてづくめだったいちねんせいの、これが最後の「初めて」なのだった。
どうしてやることもできないのだけど、たぶん、今、見えない不安の中にいちねんせいたちはいるんだろう、と何となく考えながら仕事をするのだった。
#考えてもこれといってできることはやっぱりないわけですが(しみじみ)
コドモのブログ
この間、いちねんせいではないのだけど、中学生のブログやら掲示板書き込みやらでトラブルがあったようなのだった。
特に珍しいことではない…と思うし、ちゃんと(?)発覚しただけらっきー!ってことなのだと思う。
本音を言うと、ブログを作ったり、掲示板に書き込みしたり…というような、つまりインターネットに対して「発信」する行為は、中学生以下のコドモにやらせたくない。
もっと本音を言うと、高校生にもやらせたくない。
実際には、中学生が書くブログや掲示板というのは、そもそも中学生仲間のみのコミュニケーションである場合が多いようだし、中にはもちろん、大人と遜色ない発信ができる中学生だっているのだろうから、「中学生以下書き込み禁止!」なんて言っちゃうのは現実的とはいえない。
にも関わらず、やっぱりやめといた方がいいよなーと思う。
思春期の少年少女は、個人の能力にかかわらず、概ね言語表現が不安定になりがちだから…なのだった。
結構単純な理由だ。
なかなか難しいのかもしれないけど、親がいつでものぞくからね!ということを了解した上でのブログ・掲示板書き込みをするべきなのだった。
コドモにとって、一番切実に実感できる「他者」は親だからだ。
最低限、親に見られて困ることを、インターネットに向かって発信してはいけない(しみじみ)
交換日記みたいなレベルなら、親に対して「見ないで!(怒)」という態度に出てもやむを得ない、というかそれが自然だと思う。
でも、インターネットは、ダメ。
コドモたちに、「不特定多数のヒトが見るんだよ?」「誰が見るのかわからないんだよ?」と言ってもあまり実感はない。
多くのコドモにとって、「不特定多数のヒトたち」とは、電信柱みたいなものだからだ。
電信柱に何を見られても、それを恥ずかしいと思うことはないだろう(しみじみ)
今回、ウチでおきたトラブルというのは、ちょっとコドモたちが叱られておしまい、という程度のコトだったけれど、ひとつ間違うと、慰謝料だのなんだの、というレベルの問題になったかもしれないなーと思ったのだった。
もちろん、そういうトラブルが元で不登校だの自殺だの、ということだって、絶対にないことではないわけで。
コドモがインターネットで発信することを認めるのは、親にとって、ものすごいリスクとなるはずなのだった。
その割に、コトが起きたとき「ウチの子がそんなことしているなんて全然知らなかった!」という親がむしろ多い…みたいで、ちょっと心配なのだった。
あと何点?
今年も、大体中学入試…というものが終わったのだった!(踊)
なんだか、今年目立つなーと思ったのが、不合格だった生徒の保護者が「ウチの子は何点とれたか教えてください」と尋ねるケースで。
教えられないことはないので、それはそれでかまわないのだけど、なんだか数が多いなーという印象なのだった。
ウチのクラスの少年も、不合格だった学校に、得点を問い合わせたりしたらしい。
そんな話を4月にはよくしていたけれど、さすがに今は持ち出さない。
それはそうだよなーと思う(しみじみ)
情報開示、という観点から見ると、たしかに、受験生の成績(?)を求めがあれば(もちろん個人情報保護のための手続きは厳密にした上で)示す、というのは理に適っているのかなーと思う。
が。
不合格だったコドモのことを考えると、それはやめといた方がいい…というか、そんなことを学校にきかずにいられなくなっちゃう心理状態に親があるのはマズイような気がするのだった。
どんな入試でもそうだけど、1点たりなかろうが50点たりなかろうが、不合格に変わりはない。
ちょっとはマシな不合格と全然ダメな不合格も、どっちも存在しない。
それが入試なのだった(しみじみ)
受験生が中学生高校生で、或程度自分でその現実をのみこめる年齢ならまだしも、いたいけな小学生(涙)に、わざわざ入試をやらせるなら、親がその辺でうろたえてはいけないと思う。
不合格だったとき、泰然と…とまではいかないけれど、動揺していたら、コドモがかわいそうなのだった(しみじみ)
実のところ、不合格だったとき「あと何点で合格だったんですか?」を何のために尋ねるのか、というのが問題で。
おそらく、「あと5点でした!」だったら「惜しいねー!がんばったよね!」とコドモに言ってあげることができるのだろう。
それが慰めに…なる?
ならないのだった。
それはすごーく危険で残酷な考え方で。
だって。
それじゃ、もしも「あと30点足りなかったですよー。ってか、ビリでした」って言われたら、どうするの?ということなのだった!
コドモは、ちゃーんと親を見ている。
不合格ならなおさら、自分が親に許されているかどうかをシビアに見ているのだった。
得点を学校に問う、というのは、つまりその得点次第で「許され度」が変わる、ということで。
それは、コドモにとってあまりにキツイ…と思う。
コドモは、条件なんてつけてほしくないのだ。
不合格になったとき、お父さんやお母さんにしてほしいことは、黙って許してもらう、ということだけだと思う。
よくがんばった、何点でもかまわない、オマエががんばったこと、私だけはわかってるよ!と示すことだ。
そんな覚悟もできていないくせに、中学入試をやらせるなんて、コドモがかわいそうなのだった。
とはいえ、たーくさんの受験生の保護者のうち、そういう行動に出ちゃうヒトはごくごく少数なので、ほとんどの保護者はその辺の覚悟もしっかりできているはずなのだけど…(しみじみ)
お兄さん!
ウチのクラスは、別名「保育園」なのだった(涙)
#単純に、コドモたちがコドモだ、ということです(しみじみ)
いちねんせいの担任は久しぶりだけど、いちねんせいの授業なら何度ももったことがある。
でも、こんなにコドモたちがコドモなクラスは見たことがないような気がするのだった(しみじみじみ)
もうすぐ今年度も終わる。
なんとか無事に終わりそうなのはありがたいことなのだった(倒)
#でも来年はわからないぞ!ちょっと大人になるとコイツらってすぐ(涙)<すぐ?(汗)
保育園にも、もちろん、年齢相応の(?)生徒はいる。
#すこーしですが(涙)
そのうちの一人の少年は、学年でも明らかに精神年齢が高く、体つきも立派なのだった。
入学式の頃は、一人だけ3年生がまざってるんじゃないかというぐらいな感じで。
彼は、かなり善良な少年なのだけど、ウチでよくありがちなのが、ちょっとオトナである少年が、それゆえに、望むと望まざるとに関わらず、男子の「ボス」的な位置にもっていかれてしまって、そこでペースを崩すというかバランスを崩してつまづく…みたいな展開なのだった。
オトナっぽく見えても、やっぱりいちねんせいなので、そうなると自分もしんどいし、周囲も引っかき回されてしまったりする。
ざーっとクラスを見たところ、彼のライバル(?)になりそうな男子は皆無だった。
だいじょぶかなーと思っていたのだった。
そしたら。
あまりにも周囲がみーんなコドモであり。
そして、彼がたまたま善良な少年であり。
その二つが重なって、彼はいつのまにか、「ボス」というよりは「体操のおにいさん!」みたいになっていたのだった!!!(倒)
#というより保父さんというか(嘆)
バランスを崩すよりはずっといいのかもしれないけど。
ウチのクラスはそれでますます保育園と化し、平和そのものなのだけど。
少年のことを思うと、それはそれで不憫なのだった(涙)
集団の力というのはおそろしいというかなんというか(しみじみ)<しみじみするなっ!
もーちょっと耐えてくれ少年。
もうすぐクラス替えだし!(踊)<踊るなって(涙)