昨日と同じかもしれない今日 -9ページ目

体細胞分裂

同僚が立ち話をしていたのだった。

ちょうど休み時間で、授業の行き来ですれ違い…のついで、という感じで。

いきなり「ゾウリムシ」というコトバが耳に飛び込み、私は思わず振り返った。

生物担当の同僚(女性)なのだった。


「それで、層になってるわけ、ゾウリムシが」

「はあ」


深くうなずいているのは化学担当の同僚(女性)。

二人とも、中学では同じように理科を教えている。


「乳白色になってるのよね。ちゃんと動いてるのもわかるの」

「あーそうですか。それなら、細胞分裂してるところも見えます?」

「うーん、それはさすがに顕微鏡使わないと」

「そっかー。じゃ、コレ置いたら見に行きますー。層になってるんですか」

「なってるのよー。珍しいよね♪」


…………。


ど、どこで層になってるのか知りたいけど知りたくないのだった!(しみじみ)

…ってか。


乳白色の層になってるゾウリムシの話を聞いて、細胞分裂を見ることができるかどうかということが真っ先に気になるトコロが、さすが理科のぷろふぇっしょなるなのだった!(しみじみじみ)<???

川の名前

ちっこいいちねんせい少年と話をしたのだった。

なんとなく勉強の話になる。

彼は、地理が苦手ー。ってか大嫌いー!と言うのだった。

なんとなく気になったので尋ねてみた。


「嫌いって、どういうこと?何もかも嫌い?」

「教科書見るのもヤです」

「ってことはさ、そもそも山や川にいちいち名前がついてるコトからしてムカつく!とか?」

「そうです!」


なるほどー。と思った。

言われてみれば私にも覚えがある<え(汗)


「そうだよねー。ウチも旦那が地理得意で、ドライブに行ったりすると、あの山は○○山だよ、なんて言うのよー。で、アレは××山だっけ?なんて聞かれたりしたらもぉ、うるさいー!どーでもいいじゃねーかそんなこと!って思うわけ」


やはり地理の苦手だった私がそういうと、彼はぶんぶんうなずくのだった!


「そうなんですよ!この間も、父と電車に乗ってたら、川があって」

「うんうん」

「だから、僕はああ川だなーと思ってたら、いきなり『コレ、何川かわかるか?』なんて聞かれて」

「うんうんうん」

「答えないわけにいかないから、『○○川?』って言ってみたら、『××川だよ!(怒)』って言われてー、うるせぇこの野郎(怒)って!」


わかるわかるわかるー(倒)と、私たちはしばし大笑いした。

やがて。

話はうつり、生物は結構好きなんですよ♪と、彼は嬉しそうに言うのだった。


「あれ?でも、生き物の名前を覚えたりいろいろあるでしょう?」

「はい。でも、ソレは大丈夫なんです!」

「えー。こんな器官だの虫だのにいちいち名前つけてるんじゃねえっ!って思わないの?川みたいに?」


彼は真顔で答えた。


「それは、先生、全然違いますよ!だって、カナブンは、何十匹飛んでいても、全部同じ「カナブン」でいいじゃないですか!川は川なのにいちいち名前が違って(怒)」


…………。


烈しく納得しつつ、涙が出るほど笑ったのだった(しみじみ)

#いい年をして、涙が出るほど馬鹿笑いができるってのはなかなか幸せな職業なのではないかと改めて(しみじみじみ)

開き直り

国語表現=小論文の授業も、終わりに近づいている。

せっぱつまってきた時期だからか、さすがに、高3生がサボり始めているのだった(しみじみ)

内職も前よりはちょっと目立つようになった。


とはいえ、注意すればとりあえず引っ込めるし、課題を全然出さない…なんて生徒もほとんどいない。

が、全然いないわけではなく(倒)


中でも、ひとり、かなり開き直ってしまった少年がいるのだった。


彼は1学期かなりの点数をとっていたので、今後仮にすべての課題で最低点をとっても、通年で落第点になることはない。

さらに、教員(私)に何を言われても、穏やかに「わかりました。申し訳ありません」とだけ答えていればいいのだと心に決めているようなのだった(倒)

でもって、ウチの学校では教員が生徒に手を上げることは絶対ないので痛い思いや怪我をする心配はないし、仮に親が呼ばれたり謹慎処分になったりしても、推薦入試ではないのだからほぼ問題ない、とも決めているようなのだった。


学校はシミュレーション世界なので、こういう開き直りには弱い。


フツウの生徒は、それに耐えきれないモノなのだけど、たまーに、こういう生徒もいるのだった(汗)

それだけ強い…ってことならそれはそれでいいのだけど、そうではなく、とことん甘えようとしている場合の方が圧倒的に多い。

今回もそのケースだと思う。


なかなか難しいのだけど、苛立ってしまうと話がややこしくなる。

私の授業は役に立たないってこと?(怒)と思ってもややこしくなる。

受験勉強ばかりが学校生活ではないんだよ!(怒)といってもややこしくなる。

問題はそういうことではない。


そういう生徒は、受験を一種のゲーム、ととらえているのだ、ともいえる。

ゲームだから、手段を選ばず…ってかむしろ、他人とはひと味違う手段を探しつつただひたすら高みをめざす…ってのもおおいにアリ。


ただ、フツウの生徒は、初めて直面する自分の人生の一大事をゲームととらえることなど到底できないわけで(汗)

それができてしまう、ということは、結局のところ、すでに彼が何らかの理由で自尊心を大きく損ねてしまっている、ということなのだ。


そういう生徒をうらやましがって真似をする…という生徒は、今、そのクラスにいない。

うらやましがる理由がないし(涙)

ってことは、ある意味静かに自分の世界にこもっている彼を放っておいても、授業そのものに差し障りはない、といえばないのだけど…

彼もまた生徒であって、教育を受けるために教室にいる。本人がソレを望まないとしても。


とりあえず、声をかけるしかないのだった。

もうあまり時間はないのだけど、彼が全てを犠牲にすることもいとわないほど、その志望大学を熱望するのはどうしてなのか…ということぐらいは、聞きだせるようでないと仕事したことにならないかなー、なんて思ったりしている。


それもまた、私の仕事の問題であって、彼にとってはあずかり知らないコトなのだけど(しみじみ)

すとれすー(汗)

ストレスを抱えるヒトが、教職では、他業種に比べて、多いのだという!(驚)


そ、そうだったのか…(しみじみ)


私は…というか、ウチの職場全体でそうだと思うのだけど…ストレスという言葉からかなり遠いところにいる、と思う。

たしかに、初年度から2年ぐらいはそこそこツラかった。

担任を持っているわけではなかったけれど、それでも授業にいくのが気重…ってこともあった。

教室でべそをかいたこともあったし。


担任を初めてした年も、なんとなくホームルームに行くのが憂鬱だったことがあったかもしれない。

でも、二年目はだいじょぶだった!


ウチの職場では、初年度の教員が担任をもつことはまずない。

他校で経験がある場合や、新卒でも卒業生で、かなり担任向き♪ってことがあらかじめ予想できている場合はたまにあるけれど、めったにない。

自殺した、という若い教員の話を聞くと、初年度で担任!とかいうこともあったりするらしい。

それはキツイだろうなーと思う(しみじみ)


私はもともと教員に向いている方ではない。

でも、ウチの学校はもともとのんきで、生徒も善良で、管理体制もユルくて、しかも中高あって何かと気が紛れる(?)ので、なんとか楽しくやっているのだった。


学校は、生徒が生活し、成長する場所なのだった。それだけ。

そこにそれ以外の目的をつけることは、この社会にあるかぎりやむを得ないことだとは思うけど、でもやむを得ないからやっているだけであって、そんなに大切なことではないのだ。


イジメをなくす、という話もそれに似ている。


イジメ、というものがあって、その数を減らす、という視点は、生徒の生活や成長そのものとあまり関係のない話だ。

もちろん、イジメ、というものがあるように見えるので、その数は多いより少ない方がいい!という発想に大きな間違いはない。

問題は、イジメをなくす、というのが目的ではなく手段にすぎないということなのだった。


その辺、うまく説明することは難しい。


難しいから、ウチの学校ではみんながソレについてバックれている。

バックれることを許さないのが「管理」だと思う。


たしかに、いろいろやりにくい世の中になってきているのだ。

学校は学校であって、閉鎖的で、変な世界なのだ。

それをカンベンできないヒトが増えてしまって、学校はなんだかおかしくなってきている気がする。

なぜカンベンできないヒトが増えたのか、そこのところはよくわからない。


ウチは進学校なのに、のんびりしていて、実績もぱっとしなくて、変な学校だと評価されてるのかなーと思うことがある。

同僚にもそれを憂うヒトがそこそこいる。

でも、それでいいんじゃないかと私は思っている。

さしたる根拠はないのだけど、少なくとも今ストレスはないし、学校は楽しいと思っているし。


説明はできないけど、変な世界の中で、私はちんまりそう思っているのだった。

高校三年生

今年は高三の授業をひとつだけもっている。

当たり前だけど、彼らはいちねんせいと比べるとオトナなのだった!<比べるな!


そして、言うまでもなく、彼らは大学入試を控え、今かなりせっぱつまった時間をすごしている。

善良な生徒たちなので、授業にも全力投球なのだった(しみじみ)


その日も、彼らはものすごく熱心に課題に取り組んでいた。


私語はもちろん、鉛筆の音以外は何も聞こえない。

すごい集中力なのだった。


さすが高三だー。とぼんやり思っていた……ら。

突然、窓の外から、男の子の妙に高く澄んだ声が聞こえた。


「バーカ♪」


…………。


いちねんせいなら、途端に蜂の巣をつついたような騒ぎになる(涙)はずだが、そこはさすが高三。

彼らは、たしかにほんの少し空気を揺らした…感じにはなったのだけど、誰も声ひとつ立てず、顔も上げない。


すごいなーとぼんやり思っていると。

数秒後、不意に、一番後ろの席にいたA少年がゆっくり顔を上げた。

そして彼は、前に座っているB少年に、厳かに言ったのだった。


「B。オマエ、言われっぱなしでいいのか?」


…………。


短い沈黙の後、B少年は叫んだ。


「オレなのかっ?」


さすがの高三も限界なのだった。

クラス中が爆笑した。

そして、B少年は真顔のまま立ち上がり、窓枠に手をかけるや、「くそぉっ、オレも男だ!」と叫び(倒)


やっぱりのどかではあるのだけど。

高三となると、笑いもオトナだなーと、感心したのだった(しみじみ)

うーにゅ(悩)

いやー。(しみじみ)<いいから!


高校の単位未履修問題で、いろいろと親戚知人に控えめに気遣われているようなのだった(汗)

で、でも、ウチはだいじょうぶー(だと思う…?)<コラ!(汗)


で、現場の感覚としては、「なぜ今…?」って感じなのだった。


問題そのものについて考えるというより、なぜ今、この問題がこんなに取り上げられてるんだろう…ということの方が気になってしまう。
こういうことがあることを今まで全然知らなかった現場のヒトなんてそういないはずで。

私も、「世の中の進学校ではこうなんだよ!なのにウチでは何をチンタラ…(嘆)」というような声をきいたことがあるような気がする。


学校にはホントにいろんなヒトがいる。教員にも生徒にも保護者にも。
そしたら、もちろん、こういうことについて、義憤に燃えるヒトだっていっぱいいたはずだし、各方面(?)へのタレコミだってそれなりにあったんじゃないかなーとも思う。

そう思うと、なんだかイヤだなーと思うのだった。


たとえば、教育改革を叫ぶためには、「今の教育は駄目だ!」と言わなければならないのだと思う。
で、教育が駄目ってどういうこと?と考えると…具体的にコレとコレが駄目だ!とはっきり言うのは案外難しいのではないかと(悩)

わかりやすい「駄目なところ」がないと、国民を納得させることは難しいというか…(悩)


なんだか、ほんとーにかなりイヤなのだった(嘆)


私は、教育基本法の改正にアレルギーがある、というわけではない。

でも、今のこういう感じはイヤだなーと思う。

教育が荒廃している、と熱心に言うヒトたちがどういうヒトたちなのかをざーっと見ていくと、本当に現場のことを知っているヒトたちとは思えないのだった。


現場の教員が一番切望しているのは、実もフタもないけど、


30年前の状態に戻せ!(涙)

#ってか文科省はもう何もするな!


…なんじゃないかと思う。


国語関係の研修などなどで公立の先生たちと話をする機会がある。

最近では、エライヒトでも、いわゆる改革には疲れ切っているように見える。

よく聞くようになったのは、次のようなことで。


つまり、当たり前の授業を当たり前にすることが大切。

生徒がつまらないーと思っても、もともと勉強ってのはつまらないんだから、それが当たり前。

落ちこぼれが出るのも当たり前。問題は出たあとどうするかってことなのだ。

まず当たり前のことを当たり前にする…ってことが前提で、そこから起きてくる問題に、直接ひとつずつ対処していく。

そうするしかないんじゃないのか?


私もそう思うのだった。

でもたぶん、教育改革を言うヒトたちは、教育を通じて、教育そのものではない何か別の目標に向かっているような気がしてならないのだった(しみじみじみ)


それはそれ、ってことで、賢い対処をすることが現場には求められているのかもしれない。

でもって、今回のソレは賢い対処というにはあまりに雑なやり方だったような気もする。

それは、そうだと思う。


なんであれ、雑に簡単にすまそうとしてはまずいんだろうなーと思いつつ。

でも、ちゃんとやるには公立校の現状はなかなか厳しいんだろうなーとも思うのだった(しみじみ)

あと少し(涙)

いちねんせいとの生活も、半年がすぎたのだった(しみじみ)

#ってかあと半年で彼らはいちねんせいではなくなるのだけど(しみじみじみ)


行事にテスト~(倒)と、怒濤の日々もほぼ終わりに近づいたのだった。

すったもんんだの中で、なんとなーく当面の課題(?)も見えてきた。

課題、というか大まかな目標、というか(悩)


あらゆる面でそうなのだけど、いちねんせいたちは


最後までやる!


…ということができない(倒)

正確にいうと、たぶん「最後」を自分で決めることができないのだった(しみじみ)


彼らはとっても善良な生徒達なので、何をするにも一生懸命♪

それはもうしゃかりきになってやるのだ。

行事も部活も勉強も(しみじみ)


…が。


努力の甲斐あって、コトがぐいぐい進み、もう一歩!となるころ。

彼らはふっと、立ち止まってしまう(汗)


なんだか、かなり完成したような気がする。

…完成してるんじゃない?


そう思うと、彼らは私にきくのだ。


「せんせいー、もうおわりですよね?」


…………。


終わりではない(涙)

オトナの目から見ると、たしかに9割方は終わっているのだけど、もう一歩足りない。

それを告げると、彼らは一応「ふーん(悩)」と納得する。

が。

残っているのはほんの一割ぐらいなのだ。


別に僕がやらなくても…(汗)


…と、思ってしまうらしい(涙)


学年が進むと、こういうことはあまりないような気がする。

で、いちねんせいがこうなのは、やっぱり彼らがまだ、どこかで、


「しごと(べんきょう)」とは、「せんせい」や「おかあさん」が「命じる」ものである。


…という発想があるからなのだと思う(汗)

だから、基本的にはやりたくない。

でも、やり終えたと、命令者に認められることが嬉しいから、彼らはいろんなことをするのだ(汗)


なかなか難しい。


残った1割を、彼らが自分たちで「ここまでやらなくちゃ意味ないよね」と判断するようになってほしいのだった。

自分でここまで、と決めたことをやり通すのと、命じられたことを命じられた通りにこなすのとでは、いろんな意味で天地の違いがある。


でも、そのためには「あと1割残っているよ!」と教える…ってか見せなければならない。

それは、「命じる」ことに限りなく似ている。


そんなことを考えながら、結局、その1割の後始末をしたり、その1割が足りない結果の(涙)テスト採点をしたりしている担任なのだった(しみじみじみ)

勉強しれー!(涙)

やーーっと、二学期前半:諸行事の嵐!が終わったのだった(倒)

これから、中間テストを経て、二学期後半:面接の嵐が始まる(しみじみ)


いちねんせいたちは、みんな、どこかぼーっとしている(涙)

無理もない。


最近の小学校は、以前に比べて、イベントの類が多いと聞いているけれど、それにしても、中高一貫校での最大学校行事もろもろに比べたら、規模が小さいだろう。

#ウチは地味だから、最大学校行事といってもたかがしれているわけですが(しみじみ)


いちねんせいたちは、むやみに嬉しそうに行事に参加していたのだった。

でもって、何というか、燃え尽きているのだった(涙)


もうすぐテストなので、とにかく勉強しろ!と私たちは指導する。

が、他学年より、その指導は入りにくい。

やっぱり初めてだから、いろいろキツいんだろうなーと思う。


おそらく、テストはほぼ全員が惨敗するだろう。

たとえば、学年トップの生徒だって、総合点において惨敗を感じるに違いない。

そこですかさず、面接の11月に突入し、気を取り直して期末テストに勝負をかけるのだった。


こういうのって、回り道なのかもしれない。

1学期~夏休みに、それなりに積み上げた学習習慣が、ここで一気に取り崩されてしまう感じになるのだから。

が、特に根拠はないのだけど、そうやって何度か積み上げたものを粉砕され、また一からやり直し…(涙)の方が、粘り腰の強い(?)学習習慣になるような気もしている。


もちろん、根拠はない。

だから、進学校で、学校行事のあり方を検討するのももっともなことだとは思う。

ホントは、もっともらしい理由をつけて、行事とそのフォローを語れば、もっともらしいシラバスなりなんなりができるんだろうけど…(悩)


そういうことを考えるヒマがあるなら、今は、いちねんせいたちにちょっとでも勉強させなければならないのだった!(倒)

靴を隠す!

ウチの学校はかなりほのぼのしているのだけど、ほのぼのしているなりに騒動は起きる。

たとえば、いちねんせいだと、靴を隠されちゃったり(倒)


そもそもめったにないことなのだった。

が、特に、行事がたてこんだりして、校内がなんとなくざわざわしているときには起きやすい。


で、ウチのちっこい少年がソレをやられたのだった。


靴の場合、隠し場所は限られている。

何といっても、そんなモノをいつまでも持ち歩いてふらふらしているのは怪しすぎるし、ソレをごみばこに放り込むほどの根性(?)のある生徒もウチにはまずいない。

そんなわけで、教員が経験を生かして(?)探せば、またたく間に見つかってしまう♪

少年の靴も、私が見つけ出したのだった!

#所要時間3分!(踊)


靴を隠す、というのはイジメの定番…というか初歩(?)なのかもしれない。

小学校でもそういう経験があるらしく、やられた生徒はとても怯えるのだった。


ウチの場合、靴を隠されることがイジメにつながるケースはごく希で、ほとんどが単発で終わる事件なのだった。

なぜそんなことをするのかは実のところ、イマイチよくわからないのだけど、大抵はいちねんせいの間にぽ、と起きて、それで終わってしまう。


しつこくいやがらせが続くというわけでないなら、とりあえず靴を探し出し、後はクラス全員に「こーゆーことをするな!(怒)」と説教して、それで終わり…なのだった。

犯人捜しはやらない。


ただ、被害者にしてみれば、誰の仕業かがわかって、「ごめん」と言ってもらえるのとそうでないのとでは天地の差がある。

だから、説教のときには、とにかく謝れ!私に言わなくてもいいから本人に謝れ!とも言う。


今回は、どーも、最近ケンカした少年の仕業のようなのだった。

証拠も何もないし、当人も自分だとは言っていないから、追及はしない…のだけど。

その生徒が、やられた生徒に、いきなり「仲直りをしよう!」と言い、「靴を隠したかもしれない犯人を見た…かもしれない」とか言ったのだという。


…………。


もちろん、やられた生徒は「うそつけ(怒)」と思ったようなのだけど、仲直りをすることに特に異存はなかった…ので、とりあえずそれで落着した……らしい。


いちねんせいに、犯人捜しをするな、というのは実際難しい。当事者ならなおのことなのだった。

そして、一方で自分の過ちを認め、相手に謝れ、というのもかなり難しいはずで。


周囲の生徒の話を聞き、休み時間の様子を見て、保護者にも話を聞き…としていると、どうも、そのよくわからない和解の申し出が「ごめん」の代わりであり、一応それでやられた方も納得した…ということらしい。


突っ込んでいけば、いろいろツッコミどころはある(汗)

ホントにやったのは彼だったのか?とか、謝るってことがソレでいいのか?とか、曖昧なままにしておいていいのか?とか。

でも、やられた生徒が或程度納得でき、不安を解消することの方が大切なのだった。


やられた少年は、やっぱりしばらくの間はなんとなく不安そうで、仲良しと離れようとしないし、私にもなんとなく頻繁に話しかけてくる。

少し優しくしてあげないといけないのだった。


そして、ウチのほとんどの生徒はその辺もわかっているらしく、なんとなくクラス全体が、被害者少年に親切にしてくれる。

それで、落ち着いてくれればいいなーと思うのだった。


あと、問題は加害者(?)少年の方なのだけど…

これは、様子をみているしかない。

同時に、「アイツはそーゆーヤツだ!(怒)」と周囲が決めつけてしまうのも、新たな問題の火種となってしまう。

そんなわけで、しばらくはちょっと危ない状態が続く。


担任にできることは限られているのだけど、とにかくクラスに不安が立ちこめないように、生徒がリラックスできるような空気を作っていかなければならないのだった。

国歌斉唱・国旗掲揚

ウチはこれといった政治的主張も宗教的主張もない、ぼーっとした学校なので、折々にぼーっと国歌を斉唱し、国旗を掲揚する。
で、国旗についてはいつも掲揚しているわけではない。
#校旗は毎日掲揚しているのだけど…


ソレについても何かハッキリしたポリシーがあってしているわけではないのだと思う。


生徒たちは善良なので、国歌斉唱・国旗掲揚のときは一応厳粛な態度を保っている。
が、中にはおしゃべりしたり、ふざけあったりする生徒もいる。

厳粛な態度を保てない生徒にはちょっとキビシク指導する。
場にふさわしい言動がとれないようでは困るからだ。

…が。


それは、国歌・国旗は尊いものだから敬え!という指導ではない。
コレがややこしい。


国歌や国旗を敬う人はたくさんいる。
それはもう、世界中に山ほどいる。
だから、そういうたくさんの人たちの気持ちを尊重した言動を、必要なときにはきちんととれる、ということはとても大事なことなのだった。


が、国歌や国旗を自分が敬うかどうか、という問題は、ソレとは全く別のものだ。


実際、学校で国歌や国旗を扱うときはそれらを敬う、という場を作るときなので、この問題はごっちゃになりやすい。
国歌や国旗を敬う態度を教えるには、当然、それらを敬うべきだ、という場を作らなければならない。

しかし、教員が指導できるのは「態度」であって思想ではない。


国歌や国旗を敬う、とひと言で言っても、それらを敬う基本的な所作なり歌い方なりを知らなければ話にならない。それはきちんと教えるべきなのだった。

結果として、私たちは学校で国歌を斉唱し、国旗を掲揚し、それらを敬う態度を生徒たちに教え込む。

が、彼らがオトナになったとき、それらを使うかどうか…国歌や国旗を敬う態度をとるかどうか、は彼らが決めるべきなのだ。


だから、国歌や国旗を敬う態度を教えつつ、教員が指導しなければならないことは、もうひとつある。
生徒たちが、自分で自分の考え方を建てるために必要と思われる歴史なり思想なり…をきっちり教えることだ。
難しいけれど、指導によって彼らをある方向へ導いてしまうことがないように、細心の注意をはらいながら。


学校で、国歌や国旗を敬う態度を培え、というのはわかる。
が、それを言うなら、教師は学校がシミュレーション世界であるということを十分に自覚していなければならない。
私たちが教えることができるのは技術と、知識。
それだけだと思う。


君が代・日の丸については、そうでなくてもややこしい。
それらは国歌・国旗である…にもかかわらず、そうではないと主張する人も相当にいる。
で、どうしてそんなことになっているのか、生徒が知るきっかけは学校で作るべきなのだった。


少なくとも、それらを「日本の伝統」と雑な言い切り方をして、そっか、平安時代ぐらいからそうなのかな。じゃ、国歌・国旗になっても当然じゃん?ってかそういうのってなんかスゴイよなー♪なんてぼんやり生徒に思わせ、放置してしまうのはとてもまずい(涙)


そして、例えば、国歌・国旗に敬意を払うことは絶対にできない!という主張を持つ生徒がいた場合。
学校では、多くの人たちに受け入れられるような方法でそれを貫くことができる方法を教えるべきなのだと思う。


国歌・国旗教育(?)は必要だ、と私は思う。
が、実際にやろうとすると、かなりややこしいし、雑で能力のない管理職がソレを始めると、相当まずいことにもなるはずで。
そう思うと、教育委員会が国歌だの国旗だのと言い出すと、なんとなくウンザリする。


私立校でとりあえずよかったよなーとぼんやりした国歌斉唱・国旗掲揚のたび、ぼんやり思うのだった(しみじみ)