昨日と同じかもしれない今日 -6ページ目

推薦入試

国公立の推薦入試が始まりつつあるのだった。

国公立大の推薦入試というのは、どうもいまいち腑に落ちないところが多くて、生徒にはあまり勧めていない。

が、推薦入試=マジメにやってきた人がちょっとトクするかも?という印象が強いのか、なぜか志願者が多い。


ウチの場合、その合格率は異様に低い。

合格する生徒を見ると、フツーの入試でもよゆーで合格したよねたぶん(汗)という感じの生徒ばかりなのだった。

勿論、志願者はそういうことも知っている。

まさか合格するわけないよな、と思っているのが結構多い。

で、それでも志願するのだ。

なぜかというと、


せっかく、地道に努力して得たチャンスなのだから、無駄にしたくない


……から。(しみじみ)


言いたいことはわかる。なんとなくわかるのだけど……(悩)

でも、補助券がせっかく溜まってるから無駄にするよりはダメモトで!と福引きの列に並ぶのとは違うだろう、と思うのだった(しみじみじみ)


落ちるの覚悟!だから、不合格でも落ち込んだりペースを崩したりしないつもりです、と、みんな言う。

でも、覚悟とか気持ちとかいう以前の問題として、推薦入試を受けるための最低限の準備などなどで失った時間はどーやっても戻ってこない。

せこいようだけど、ウチのレベルだと、現役合格するためにはそれくらいシビアに時間を計算する必要があるのだ。


と、いうこともかなり説明するのだけど、どうも納得してもらえない。

仕方がないから、まあがんばれ、ということになるのだけど……


受けるからには絶対受かる気持ちで行け!

他の受験者を蹴落とし、自分がひときわ目立つためにはどうするか考えろ!


と叱咤しつつ、ぼーっとした「志願理由書」を書いてきた生徒に「書き直してこい!」とか繰り返しているのだった(嘆)

東大一直線(倒)<倒れるな!

ウチの学校は一応なけなしの進学校なので、東大に合格する生徒がいるといいなーと、みんな思っているのだった(しみじみ)<なんだソレ(汗)

……というぐらいの微妙な進学校ってことです(嘆)


そんなわけで、生徒達も東大に合格しなければいけない、なんて、そう簡単には思ったりしない。

かなり成績のよい生徒でも、だから自分は当然東大を目指す!とか思ったりしないのだった(嘆)


そんな中。

今年は、マジメに東大を目指すぞ!という少年少女たちがいたりする。

もちろん、目指したからといって合格するというものではないけれど(涙)志が高いのはよいのかもしれないのだった。

……だけど。

たとえば、そのうちの一人の少年の志はこういうモノらしいのだった。


彼は、中学校時代、私のクラスにいたことがある。

そのときの面接で、希望する進路の話になったとき、彼は真顔で尋ねたものだ。


「先生。僕は、ココの教員になりたいと思っています。ココの教員になるには、どうしたらいいんでしょうか?」

「……うーん(汗)」


私は考え込んだ。

そして、自分がどーやってココの教員になったか、を彼に説明すると、彼もまた考え込んだ。


「……それは僕にはムリですね(悩)」


というのは、私がココの教員になれたのは、おそらく出身大学のおかげであり、その大学は女子大だったのだ(しみじみ)

それはそれとして。

そもそも、なぜココの教員になりたいのか……と不思議に思ったので、聞いてみると、彼はこう説明したのだった。


「別に、是非教員になりたい、というわけではないんですが、先生たちを見てると、なんかシアワセそうだなーと思って。僕は、やっぱり働いていてシアワセだと思える仕事につきたいんです。だから、ココがいいんです」


……………。


これは喜ぶべきか嘆くべきなのか。

いや、とりあえず私(とかウチの教員)のことはどうでもいい。


ともかく、彼は真剣にそのように思い詰め、確実にココの教員になりたいと思っていたのだった。

そこで、そのとき私は彼にこう答えた。


「結局のところ、あなたが就職するとき、ココに教員の空きがなければそもそも話にならないはずなので、確実に、というのはムリなことです。でも、もしかしたら、ひとつだけ、かなり確実な方法があるかもしれません」


それは。

東大に入る、ということだ!


「ウチはなけなしの進学校ですから、東大を出た卒業生、しかも中学からの生え抜き、ということになったら、たぶん、かなりムリをしてでも他の学校にとられまい、ウチで教員をやってほしい、ということになるのではないでしょうか。なにしろ、そういう教員は今までいなかったし、これからも出そうにありません」


彼はなるほど!と納得してくれたのだった。

この場合、有名私大では駄目だし、国公立大でも、東大以外はたぶん駄目だろう。

東大でないと精度はかなり落ちる。


…………。


ということがあったなあ…なんて、先日、彼の質問を受けているときにふと思い出し、覚えてる?こんなこと話したりしたよねえ♪と言うと、彼は真顔で言うのだった。


「ええと。今でも、そのつもりですが」


…………。え?(汗)


「だから、僕は東大に合格しなくちゃいけないんです。ハッキリいって、人生かけてます」


…………。


人生かけて命がけ!なら、合格するかもしれないのだった(しみじみじみ)<おーい(汗)

卒業写真

卒業アルバムの写真をあれこれ撮る時期なのだった。


彼らにとっては、最後の卒業アルバムということになる。

そういうことを全然気にしない生徒ももちろんいるけれど、気にする生徒にとっては、一世一代の大問題になるらしい。

で、気にする生徒というのはたいていが女生徒なのだった。


18歳になれば、多くの生徒は、自分の容姿についてそれなりに達観するものだと思う。

少なくとも、ウチの生徒たちはそうだ。

が、そうはいってもやはりもっとどうにかならないか、理想に近づけないか、とココロを砕く生徒もいる。


そもそも、理想ってなんなんだ(悩)と思うのだけれど、もちろん、そんな疑問はココロに浮かばないからこそ彼女たちは一生懸命なのだった。


ココロを砕くといっても、しょせん制服を着るしかないのだから、実際には何も努力のしようがないに等しい。

なけなしの努力として、せめて制服を微妙に着崩そうとする生徒もいて、注意したりする。

当然だが、教員としては「卒業アルバムなんだからキチンとしなさい」というし、生徒としては「卒業アルバムなんだから少しでもキレイにうつりたい」ということになる。


とはいえ、自分の容姿に気を配る18歳の女なら、それゆえに、気づいてほしいこともある。

そこで、言うのだった。


卒業アルバムを「見る」のは結局のところ、どういう人で、いつ、何の目的で見るのかをよーく想像してみなさい。

今ここにいる友達は、みーーーんな同じモノをもっているのだから、見せ合ったりするはずありません。

あんな重くてデカイものを、気軽に持ち歩いて、誰かに見せるはずもありません。

だとすると。

もちろん、家で見るのです。

家に来る、あなたに大変興味がある人がそれを見たがります。

そして、あなたもそれに応えなければならないからわざわざ見せるわけです。

ですから、男子はまあどうでもいいとして、女子の場合、将来、お姑さんとなる自分の親と同じぐらいの年配の女性にどう見られるのか、ということが一番の問題になるでしょう。

それも、仲の良いお姑さんなら何も気にしなくてもよいはずです。非常に折り合いが悪く、結婚も反対されていて、何かアラがあったら意地悪く突っ込んでやろうと待ちかまえているクソババアが、ほら見たことか、コイツはやっぱりロクな女じゃない、フツウじゃないよ!と陰口をきく絶好の材料を与えたりしないように、と考えるべきです。


生徒たちは、この話に納得したからというより、とりあえず目の前にいるクソババア(=私)がウルサイから、しぶしぶ「いいこ」に見えるように服装を整え直すのだった。


が。

校正が届いたのを見ると、そうした生徒たちは、それでも、最後にぎりぎりの「努力」をしていたのだった。

彼女たちはみんな髪をなるべく前に垂らし、顎を引くというか首に埋めるように引っ込めて、精一杯体を縮めて、上目遣いでレンズを見つめている(倒)


なんだコレ(汗)と思いつつ、そっか「小顔美人に写るテク」なんだなーと気づいた。

要するに、上方から撮られることによって、目が少し大きめに、頬や顎の線も短く見えたりすることを狙っているらしい。プリクラで使う手なのだと思う。


が、卒業写真だから、レンズはもちろん正面にある。

しゃがんだりすると叱られるから、どうにもならないはずなのに、なぜか1センチでも、1ミリでも!という勢いで、彼女たちは抵抗しているのだった(嘆)


ほとんどの生徒達は素直に正面を向いて、フツウの目線で写っている。

その中で、ぽつん、と一人二人だけがこんな妙な(倒)写り方をしているわけで、たぶん、コレは恥ずかしいだろうと思う。なんといっても、自意識過剰の思春期がそのまま形になったような写真なのだった。

だから言ったのにー。と、しみじみ思うのだった。


そして、もちろん、アルバムを開くときには、そんな自分を笑いつつ懐かしむゆとりのある大人になっていてもらいたいのだった。

たぶんそれは大丈夫♪……だと思う(しみじみ)



振り返り<ムリだ!(汗)

で、ここで、今までどんなことがあったかと振り返ってみようとか思ったのだけど。

おそらく、一番の大事件だった、3月の震災とそれに伴う休校……さえも、日常の中に埋もれてしまっていたりするのだった(しみじみ)


でもって、いちねんせいたちはあの頃のように、でもあの頃よりももっと真剣に授業に取り組み、もっと図々しく学校内を闊歩し、もっと上手にずるがしこく(倒)教室掃除を毎日やり……を繰り返している。


高校になってから、他の中学からの生徒たちが新しく入ってきたりした。

2年生まではクラスも別で微妙に異質なコミュニティを作っていた……ようだったけど、今年、受験対策中心のシフトとなり、みんな混ざってしまうと、結局どこからどこまでがソレだっけ?とか思ってしまったりするのだ。


……というか。

そうやって、高校から入った生徒はまだしも(?)いちねんせいだった生徒については、ほとんどが一度は担任したことがあったりするこの頃、私はハッキリ言って、誰がウチの生徒だったか、いまいちわからなくなっている(涙)


もちろん、名簿を見れば、わかるのだ。

でも、廊下でぼーっとすれ違ったときとか、放課後とか、とにかく生徒たちが混ざっていると、どれがウチのクラスの子だったか怪しくなることがしばしば(涙)


私は、6年間同じ学年を通したことがない。

高3の担任だってモノスゴク久しぶり……ってか、そのときの生徒が、今ウチの職員だったりする……くらい、久しぶりなのだった。


高校に上がってしまった(倒)ときから、まさかなー(汗)と思いつつ、万一のときのための備えは怠らなかったつもりだ。

もし、最後の最後までいちねんせいたちとのおわかれを引っ張ってしまった場合、年寄りにとってソレがあまりに辛いモノにならないよう、少しずつ彼らから気持ちを離すというか、手放すというか。

体よく言えば「子離れ」とか「生徒の自立を促す」ってことになるのかもしれないけど、もちろんそんなにカッコイイ話ではない。


ともあれ、ココロの準備はしてきたはずなのだ。

たぶん、卒業学年の担任としての心構えは大丈夫!<受験学年の担任としての心構えはどーした(嘆)


とか、考えつつ、久しぶりに自分の書いた記事を見返したりしているのだった、


たいそうのお兄さんになっていた少年は、道を外れることなく友達がいっぱいできて、部活でも下級生たちに恐れられ慕われるキャプテンとなり。


地理がキライだった少年は、文系に進み世界史を選択して受験に臨み。


プリンを嬉しそうにもってあるいていた大きい少年と小さい少年は、ケンカを繰り返しつつ、今でも仲良しだしプリンが好きで。


昼休みに飲み物を混ぜ合わせ、回し飲みしていた少女たちはほとんどが理系に進み(倒)


努力のキライだった少年は、努力とは何かを考えつつ、他の高校に進学した。


そして。

ゾウリムシがキライだった少年は、やっぱり今でも虫が嫌いで、この間、久しぶりに毛虫が大発生したときには、大いに腹を立てていたのだった(しみじみじみ)

もうすぐおわります(涙)

放置しているあいだに、最後の年になっているのだった(しみじみ)


いちねんせいは、大学入試に挑む高校三年生になっていて、どこかでおわかれになるだろうと思い思いしていた私も、なぜかおわかれすることなく、まだ彼らの担任をしていたりする。


でも、もうすぐおわりなのだった。


この間、わけあって生徒たちは作文を書かなければならなかった。

それをぽてぽて読んでいると、ある男子生徒が、「中1のときの担任の先生がこんなことを言っていました」と書いていて、その後に続くコトバになんか見覚えがあるなー(悩)と思っていたら、その担任は私だったのだった(倒)


…………。


そういえば、いちねんせいの頃からどこかズレてるというか、テンポが違うというか、のんびりした子だったなー。

と思ったり。

ってか、中1の担任と高3の担任が同じって、なんかおかしくない?????

と思ったり(しみじみじみ)


なけなしの進学校なので、フツウの学校生活は2学期で終わる。

あと2ヶ月もない。

そのことに、たぶん生徒たちは気づいていないし、もちろんそれでいいのだった。

第一ステージ

もうすぐ中2が終わるのだった(しみじみ)<放置している間に♪<それはいいから(汗)


中高一貫校では、中2が終わるというのは、つまり第一ステージが終わるということ。

で、ステージは三つある♪


第一ステージは、とにかく「中学生になる」のが目標なのだった(倒)

勉強でいえば


キチンと勉強する、というのはどういうことかを体験する。


辺りが目標。

生活でいうと、


一人でいられるようになる。


のが目標かなー。

どちらも、まあまあ達成できたような気がしている。

で、第二ステージは中3・高1なのだった。

ここでの目標は、


何を勉強するべきかを自分で決めることができる。

友達ではないヒトとコミュニケーションをとれる。


みたいな感じになる。

それなりにハードルが上がるのだった。


そんなわけで、もうすぐクラス分けなのだけど、比較的うまくいった(と思う)学年なので、それほどアタマを悩ませることもない。

いちねんせいのとき、心配だなーと思った生徒も、大体ひとりだちできるようになった…という気がする。

で、もちろん、例外もいる(倒)ので、そういう生徒は担任がちょっとエネルギーを使って、相手をするのだった。


私は第一ステージが一番楽しいなー。というタイプなので、もう1年だけこの子たちと付き合ったら、あとはお別れして新しいいちねんせい♪と遊びたい(え)と思っているのだけど……


いや、それよりとりあえずそのもう1年が問題だったりするのだけど(汗)

真面目な少女

放置してましたー(汗)<パスワードまで忘れてたし!

#怪しいコメントがいくつか入っていたおかげで思い出しました(しみじみ)

#ありがとう怪しいコメント!<え



ウチの中学生たちはめったに遅刻をしない…ので、遅刻は目立つのだった。


今日、ウチのクラスの生真面目な少女が一人、ほんの少し遅れ、走って昇降口にたどりついた。

で、たまたま昇降口付近にいた同僚が、半分おどけて、一応ツッコミを入れたのだという。

彼は、真面目な顔で彼女を引き留め、


「おはよう。……ずいぶん早いな」


と低めの声を作り、威嚇的に言った。

すると、彼女は立ち止まって直立不動の姿勢をとり、彼の目を真剣に見つめると、彼の十倍は大真面目な声で、


「いいえ。全然早くありません」


と答えたのだという(倒)

笑いながら「反省させられました」と彼は私に語ったのだけど……


もちろん、私もなんとなく反省したのだった!(踊)<踊るな!


昔の小説

提出された夏休みの感想文をぽてぽて見ているのだった(ぽてぽて)


この頃、中学生への推奨図書といえば、微妙にYAっぽい感じの、新しい作者による作品が増えている。

揺れる思春期の思いを繊細かつ深みのある作品に仕上げた…というような(しみじみ)


そういう作品を中学生が読む、ということはいいことだと思う。

けど、それはそれとして、夏目漱石だとか森鴎外だとか芥川龍之介も読んでほしいよなーと思うのだった。


というのは。

「内容」(とはどういうことか説明は難しいのだけど)は古くてぱっとしないように見えても、この3人は「漢文」を教養の必修として学び、言語表現の基礎として使いこなしている最後の(涙)人たちだと思うのだった。


日本語には、漢字の使用が必須。

特に抽象的なことを表現・理解しようとするときには、どーしても必要なのだった。

が、その漢字の基礎はもちろん中国の古典=漢文にある。


現在の私たちでも、漢文の教養を身につけることは可能なのだけど、残念ながら、他に学ぶことが多すぎるので、そこまで手が回らない。

だったら、せめて、そうした教養が身についている人の言語表現に触れておくべきなのだった。


高校生になって、大学入試を迎える頃には、熟語を理解する力がないことがとてもつらくなってくるし、それを身につけるにはやはり忙しすぎてしまう。

中学生頃までに、馴染んでおくと、ずいぶん楽だろうと思うのだった。

で、その入口として何とか使えるのが、こういう昔の小説だったりする。


私自身の読書嗜好は「内容」ではなく「表現」にあるので、余計そう思うのかなーと思う。

でもって、私が中学生の頃よりも「内容」に魅力のある本がたーくさんあるので、今、中学生が読書をするとなると、どうしてもそっちに行ってしまうんだろうな、とも思う。


が。

どんな「内容」であろうと、それらは中学生たちが日常的に使っている口語言語に近い言葉で語られたモノにすぎない。

だからいけない、というわけではないのだけど、大学入試で使う「国語」の「読解力」や、小論文を書く力をつけるために本を読むのなら、それらはほとんど役に立たない。


最近、本はたくさん読むのに、国語ができない…という生徒が目立つようになった。

そうだろうなーと思う。

なのに、中学生の国語教科書からは、古い作品がばしばし削られて、新しい感性の作品が採用されるようになっている。

もちろん、子ども達の興味をひかないことにはそもそも授業にならないのだから、それも仕方ないことだとは思う。


とはいえ、私も中高生の頃は、夏目漱石よりも芥川龍之介よりも、筒井康隆や遠藤周作や北杜夫の方が好きだった。

好きだったけど、夏目漱石も読んだのだ。読まなくちゃいけないんだろうなーと思わされていたので。

そして、読んでみれば、それなりに面白かったわけで。


昔の小説は、よくイメージされる(?)ほど大したコトを言っているわけではない。

「内容」は現代の小説の方がずっと深かったり濃かったりするかもしれない。

でも、昔の小説の下地には、ものすごい量の知識と教養が蓄積されている。

その辺りを、中学生たちがちょっとでも感じ取れるといいんだけどなーと思うのだった。

熱中症対策ー。

放置もいいかげんにしなさい>自分(しみじみ)


とにかく、暑い夏なのだった!

ウチの部活は、顧問の都合で(踊)特に酷暑、だった8月前半に、まだあまり練習を入れていない。

入れてたら大変だっただろうなーと思う。


熱中症で部活動の中学生が亡くなった、というニュースも見た。

いろいろ事情はあるんだろうなーと思いつつ、もちろん他人事ではないのだった(涙)


中学生の熱中症を防ぐには、水分補給をしっかりして、休憩をとって…とか、一応対策はあるのだけど、結構大事なことは、ちょっとした不調を訴えることができる…ってか、訴えないといけない!という雰囲気を作ることだと思う。


私も熱中症になりかけたことがある…けど。

アレは、特に初めてのときはなかなか自覚症状がわかりにくい。

ちょっと頭痛がしたり。

ちょっと立ちくらみっぽい感じがしたり。


熱中症、というけれど、本人はそれほど暑い、と感じてなかったりもする。<それが危ないのだけど(涙)

汗もあまりかいた感じがなかったり。<それが危ないです(涙)


だから、おかしいな…と思いにくいのだった。

ちょっとおかしい…かも?ぐらいの所で、練習を自分で中断して、顧問に「休みたい」と訴えるのは、特に真面目な生徒だとものすごく高いハードルになってしまう。


生徒の様子をよーく観察して、昨日とちょっと違うかも…という気配が見えたら、あてずっぽうでもなんでも声をかけるのだった。

99パーセントはなんでもないのだけど、顧問がウルサク声をかけると、気を付けなければいけない雰囲気になる。


ちょっと具合が悪い、と訴える生徒がいたら、一見なんでもなさそうでも大騒ぎをしておく。

冷房のある所に連れて行き、冷たいスポーツドリンクを飲ませ、首と脇に保冷剤を当てて…とやる。

99パーセントはなんでもないのだけど、大騒ぎしておけば、それが当たり前だという雰囲気になるし、いざというときにどうすればいいのかをわかる生徒も増える。


そーやっていくと、つまり、我慢の足りない甘えた生徒が出やすくなる(倒)のだけど。

でも、死んじゃったら何もならないので、そうしておくのだった。


ってか。

そーやっていても、真面目な努力家の生徒ほど無理をする。

でも、ウルサク声をかけていれば、私だけでなく、周りの心配性な生徒達もウルサクなっていくので、状況は少しマシになるのだった。


安全、安全、安全……と考えすぎると、何もできなくなる。

でも、熱中症は、ホントに誰にでも起こりうるし、死ぬこともさほど珍しくないので、とりあえず安全第一なのだった(しみじみ)

努力…?

ウチのクラスに、努力がだいきらい!という少年がいる。

彼は、ただ努力がきらい、というわけではなく、だから、本当に、絶対に、頑なにあらゆる努力を拒否するのだった!(倒)


正確に言うと、あらゆる努力を、ではない。

彼が、「これは努力だ!」と気づいた場合に限られるのだけど(しみじみ)


なんていうと、努力ってそもそもなに?ということになる。

彼のおかげで(?)それについてちょっと考えることができたのだった。

今、私と彼が到達(?)した「努力」の定義とわ。


現在できないことを、できるようになろうとすること。


…なのだった。(しみじみ)


彼は、ソレを拒否する。


なぜなら、「現在できないこと」が「できるようになる」なんて保証はどこにもない。

だったら、そのために大変な思いをするより「現在できること」だけで生きていく算段をしたいのだ!


…というのだった。


…………。(わかるようなわからないような)


中学生は、どうにも理解できないコトにこだわり、頑なになることがある。

以前にも、そういう生徒は結構いた。

大人は、それをどうにか解きほぐそうとするのだけど、大抵うまくいかない。


で、何がどうしてそうなるのかは謎なのだけど、たいていの中学生は、それをいつの間にか自分で適当に解きほぐし、先に進んでいくのだった(しみじみ)

彼の場合もそうなのかもしれない、とは思う。


ただ、コトが「努力」なので、ちょっとやっかいなのだった。

努力を拒否すれば、当然学校生活のあらゆるコトが停滞していく。少しずつ学校に居づらくなるわけで。

もちろん、方向転換ができなければ中途退学、ということになるだろう(汗)


いつかは解きほぐすことができるはず、と思う。

でも、それはいつなのか。

学校には時間制限があるのだった(しみじみ)


彼と話をしていて、努力するためには、今見えないものを信じる気持ちが必要なんだよなーとしみじみ思う。

彼が、それを自然に信じることができないのはなぜなんだろう…とも思う。


そう考えていくと、生徒の「問題」を解決するのは、果てしなくややこしいような気もしてくるのだけど、前述のように、こちらの思惑とは無関係に、あっさりソレを乗り越えてしまうことも彼らにはままあるので、あまり心配しすぎて話をややこしくしないように、ということにも気を付けなければならないのだった(しみじみじみ)