天皇。



なぜに日本に限らず世界の中でも敬われる存在であるのか。
勿論田原氏は理解しているはず。









妥協なく、規律と格式を守ってきたからだ。

そして唯一守り続けてこられた最も古い存在こそが世界で唯一天皇であり、大きな妥協を加えたところに今と同じ意味と価値が継続されようか。









女系天皇案により危惧される視点は必ずある。

一つ。事前にそう言った妥協案を出せば人は必ず妥協案に飲まれていく。
人間とは弱い生き物。


二つ。現在の高貴である天皇の存在価値そのものが間違いなく落ちると言うこと。妥協が大きければ大きいほど、存在の価値が薄れれば薄れるほどにそうなるのは必然である。


三つ。最も危惧されるのはここだ。
女系天皇を取り入れるということは、皇室に生まれた女性の将来を大きく変えると言うこと。
今のように一般男性と簡単に結ばれるということは無くなる。一大学生となどまず許されないだろう。

男とは違う、より厳しい監視化に置かれることも間違いない。
その女性の人権や一生を考えれば我々の価値観の押し付けるだけが正義なのかと。

彼女たちも我々と同じく一人の人間。皇室とあれど相応の自由と人権は必ず保たれなくてはならない。






しかし男と女はやはり違うのだ。男女差別などではなく生物として。

女系天皇が法の元に許されるものとなれば、結びとなる相手の評価基準はとかく高いものになる。

果たして我々男性陣はその男を心から皇室の人間として受け入れることが出来るのだろうか?反対する者が多いほどに後の天皇の価値は薄れていくのだ。

どの男性であれば皇室に入る基準を満たせるのか?


その時になって問題が起きるのは凡そ推測が付くこと。
どうせ大きな問題が起きるのであれば今決めることこそ無駄に他ならない。








男と女に人としての序列は存在しない。
そういった意味では女性天皇はあって普通である。

しかし…やはり男と女は違う。これだけは何があろうとも覆せない。
性別というものが存在する限り。




後継としての可能性が高い女性であればあるほどに間違いなく窮屈な生涯を送ることになる。
一人の人権が完全に失われるくらいならば皇室など存在しない方がいい。

国民の平和と幸せを願う存在。
そこに幸せが無ければ何の説得力も生まれない。

そこにはもはや皇室の価値はない。









男系を失わせない責務を背負い、失うことなくここまで来たから今の皇室の価値がある。天皇の権威がある。

もし妥協しなければならない時。それはその答えしか無くなった時だ。その時になって変えても遅いことは無い。血を引いている者は存在するのだから。



女系天皇。
はっきり言って事前に語ることではない。

それこそ皇室にとって最も非礼となる発言だ。縁起でもなく。





そこらのルールを簡単に変えるのとは訳が違う。今あるべきを自然に身を任せどこまで守り続けられるかどうか。
そこに最もな価値があるのだ。

昭和天皇が人として未熟であれば既に皇室は失われていたかも知れない。
しかし昭和天皇は真の天皇であったからこそマッカーサー
の心を動かした。



国民のために躊躇わず命を投げうる選択をしたほどの存在。
そういった方が残したものの価値。
我々の多数決で変えられるほど浅いものではない。





唯一、生まれてすぐから人権を越えた縛りを受けた人達。それが血の濃い皇族の宿命。
宿命と縛りが強いからこそ先じてその宿命を強く背負う人を増やしてはならない。

何度も言うが、皇族の人達もただの一人の人間である。

人権よりも優先される檻が今以上に広くなっていくのであればそんなものは無い方がいい。




檻という例えは無礼かも知れない。しかし現実的に皇室の人間に求められる縛りを人権という括りだけで見れば間違いなく檻である。






女系天皇の容認は間違いなくその人権に深く関わる問題となる。強固な檻となる。
皇室と人権は別と考える者がいるならば、それはその者が勝手に思い込んでいる妄想、理想に過ぎない。

皇室の人間は生まれもってそれを選べないのだから。








皇室を深く敬うのであれば、国民が皇室の方達の人権までも深く考える。
与えられる立場であればこそ皇室方々の人権を尊重し、初めて皇室は美しい存在として居続けられる。
皇室と国民がひとつであって初めて皇室の意味がある。





皇室の人間からは決して言えないこと。
私たちの人権を尊重してくださいなどと。

言えないから先じて人権を尊重するのは我々の役目。事前に女系天皇を語るなど逆行極まりないこと。



天皇や皇太子もまた、我々国民と同じく我が子の幸せを強く願っている。当たり前のことだ。
強い宿命を背負った方達の娘にまで強い宿命を背負わせるのかと。












少なからず私は皇室にだけは生まれたくない。

皇室の方達はいつかそれが当たり前となるのかも知れないが、それはこれまでの当たり前があって受け入れることが出来ることのはず。

新たに制定されたものほど受け入れることは苦しくなる。
それを第三者達が決めたものなら尚更。







先じて苦しみの可能性とある要因になど一切触れるべきではない。

触れる者がいれば、果たしてそこに触れられるほどの存在なのかと。座って語れるような問題ではない。それこそ非礼極まりない。




皇室の基準を変えようと、そのような問題を語るならば正装直立の上で語るくらいで当然である。











纏めますと、
ただでさえ宿命を背負った方達が愛するものにまで、これ以上に縛りを与えてはいただきなたくはない。少しの縛りも。


いざそうなった時で十分。

女系などとは、事前の対策としてでも安易に語るべきことではない。
許されるのは皇族自らがそれを求めた時だ。

今生天皇の退任のように。







皇室の方達が幸せであってこそ皇室の意味がある。
幸せな方達が国民の幸せを願い初めて意味がある。


第一に日本国民の幸福を願う宿命を背負った方達の幸福と、その幸福を邪魔しない為の節度。

皇室と国民とはその与え合いによって最も継続の意味がある。









皇族を一人の人間として心から敬わない国民を見て、他国の人間はその日本人を敬うのだろうか。

皇族は敬われぬ人間の上に立つことなどに意味などあろうか?

天皇の価値を継続させるのに最も必要なのは国民の心。
天皇が男とか女とか関係なく。そこに日本人の美があるはず。

今まではそれがあったから天皇の権威は国際的に保たれて来たのではないかと、そう思う。





だから事前に語る必要などない。今は今。未来は未来。
その時に敬うべきを敬えば良い。
例え何かが失われようと、日本人だけが新たに誕生した天皇を受け入れれば良い。

天皇の権威を国際的な価値として存在しなければならないものとすればその時点で日本人は負けている。

天皇の権威に頼らなければ何も出来ないのか?
他国に脅かされるのかと。







『皇室が無くなっても我々は大丈夫ですよ陛下。』
そう気概に溢れ伝えるのも公務に奔走する天皇への恩返しでは無かろうか。








政治的観念を皇室に押し付けることだけはあってはならない。
今ではただ国民の幸せを願うが為の強い存在なのだから。










国民もまた皇族の幸福を願う宿命があるはずである。
皇族対国民である前に、人対人として。




皇室の権威を保つ為、かけがえの無い力は国民が天皇を想う心。それ以外には無い。

尊い存在の規則を変える力があるとすれば、それは等しく尊い心を示した者だけである。

見るからに主観重視と判断される中で触れることはただただ非礼である。