飯田城(石川県珠洲市飯田) | えいきの修学旅行(令和編)

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  能登にみる天正期上杉の城郭普請https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496899518.html

  A地区から飯田城を選抜します。ここhttp://yahoo.jp/HreS-v

                                   飯田城
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 飯田城は、藪猛々しく、全域を踏み歩くことはきませんでした。しかし天正期上杉の特徴である鋭い切岸、畝状空堀群を備えており、周辺には飯田・嶋倉等越後侍に謙信が与えた知行地も存在します。飯田城は、武力進駐した越軍が、奥能登・飯田湾付近を押えるために改修、拠った城の様相を、その侵攻地に立つ厳しい情勢とともに示していると感じましたので、藪を顧みず選抜しました。
 
  城主は『能登の飯田』( 飯田町を知る会 2002,p.190)によると、長与一景連、飯田与三右衛門、遊佐孫六を挙げている。またP13に金沢連隊区指令金子大佐の言として左近氏を伝えている。
 佐伯哲也は『能登中世城郭図面集』のなかで城主を飯田与三右衛門長家とし、長家は在地土豪ではなく謙信本拠春日山城近くの夷守郷などを領有していた飯田与七郎の同族としている。
 
 飯田与三右衛門尉は、天正5年3月15日 謙信より 於能州出候知行之覚(上越市史別編1325)として 鈴郡蔵見之内小伯村、伏見村、細谷分を所領として与えられている。また、天正5年11月16日謙信軍役覚 飯田与三右衛門尉ニ落着知行之覚(上越市史別編1357)として鈴郡内一、細谷村八拾九貫四百五拾七文神保越中守 一、同郡内伏見村五拾七貫文上田井紀伊文  以上、「合百四拾六貫四百五拾七文」  鑓七丁.馬上弐騎、鉄砲壱丁同腰差.小籏壱本 以上とあり、飯田与三右衛門尉の在城はあったと思われる。
 しかし、飯田城の語源は、応永二十年(1413)恒俊本光寺山、田畠置文に「飯田のかう(郷)のさかいハ道を限」とあり、飯田与三右衛門に由来するものではないようだ。
 
 ところで、飯田与三右衛門尉の上記軍役では、飯田一手にてこの飯田城を改修・維持することができたであろうか。
 金沢連帯区司令金子大佐の話にある「左近氏が私の心に懸かる。
 河田長親が越後から率いて越中松倉城に在城、能登侵攻の先方となった栖吉衆のなかに、左近司氏がいる。金子大佐が伝える左近氏とは左近司のことではないだろうか。左近司伝兵衛は、後の豊臣治下越後栖吉城に在番する栖吉衆筆頭として「定納員数目録」に名を残す侍であり、栖吉衆のリーダー格と目される。しかし、河田や直江ほどの格ではない。河田・直江ほどの武将の名であれば、後世に伝承の付加価値を高める改変も考えられるが、一格下の侍の名が伝わるところに伝承の信憑性感じる。
 謙信の能登侵攻を目指す謙信軍が、氷見能越国境近くに築いた上杉新城に中村山城という城がある。
 中村山城は、栖吉衆が築いたとされ、鋭い切岸に畝状空堀を備え、飯田城に普請技術は類似する。
 上杉の在番では、旗本・越後国人・先方国人など異なる立場の武将を複数組み合わせ在城させるケースが多い。飯田城は、謙信の能登侵攻作戦の先鋒として中村山城にいた栖吉衆と、謙信近い頸城郡の侍から精鋭を選りすぐり編成した謙信軍支隊が、氷見から海路で奥能登珠洲に侵攻・進駐し、若山川河口付近の港を確保し、越中・越後との海路連絡を維持しつつ武力進駐地帯を掌握するため、飯田与三右衛門尉、左近司等栖吉衆により改修されたものではないだろうか。
 
 随分前置きが長くなりました。
 飯田城の様子に進みましょう。
 
   
飯田城縄張図(南龍男作図 能登の飯田より引用・茶加筆)
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 城内は藪が酷く、全域を踏み歩くことができなかったため、概念図を書くことができません。
南龍男作図縄張図を許可を得て『能登の飯田』より資料として引用、ブログ説明用に加筆して使用します。

 

 山上二つの高地・第一帯郭からなる中枢を主郭とし、北東切岸下ほぼ平地の緩斜面である第二帯郭に畝型阻塞を配する。これはまさに上杉による畝型阻塞の運用である。主郭へ虎口は明確ではなく、鋭い切岸壁下緩斜面(第二帯郭)で畝型阻塞に横移動を制限され停滞した敵は切岸壁頭上主郭から射られ殺傷されることになる。

 

 南図では東側折り目付近を大手としているが、私は竪堀とされている主郭と南尾根に挟まれた谷Cを、主要通路(大手)とみる。南図・佐伯図とも谷C底(竪堀底)に段差普請をとっており、天正期上杉の堀底段差通路ではないかと考えている。谷底(堀底)を侵入する敵は、段差で進行速度が落ちたところを主郭と南尾根の両側から頭上照準され挟撃を受け殺傷される。
 C谷出口付近は田中さんの下駄屋跡で、そこは城山の出入り口で、そこから春日通りに出て馬を調練したので「馬場」だと今だに言う( 飯田町を知る会 2002,p.13)という伝承は、谷Cを主要通路とする私の考えを裏付けている。
補:C谷と南尾根は藪深く確認できなかったので、冬の積雪時に調査し、己が目で確認の上で改めて記事にしたい。
 東の大手とされるルートは、中世は若山川が東直下を流れており、私は若山川からの物資搬入路と考える。
                 
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全景に概念を書き込み

 

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路右側C谷出口
城山の出入り口と伝わる田中さんの下駄屋跡付近。
C谷は私が主要な通路と観る。
 
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近年まで堀のようだったという。
主要出入口を守る堀か。
 
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C谷
南図では竪堀としているが、南図佐伯図共段差構造をとっている。
 天正期上杉の構造に、堀底段差通路がある。越後頸城郡茶臼山城などの天正期のなかでも発達した城では、堀底通路の段差と掘幅、さらに側面高所の郭の土塁をもが相関した防御施設として構築されている(遠藤 2004)。
 
 今回は、C谷ならびに南尾根とも藪酷く踏み込めなかったので、このC谷と南尾根がそこまで発達した普請であるのか確認できなかった。南尾根の郭、堀、櫓台、土塁が、C谷堀底段差と相関して構築されているのか、はたまた通路ではなく、谷底侵入を阻止するための段差構造か、冬の積雪を待って己が目で確かめに行きたい。
 
平成29年3月2日 C谷と南尾根追補しました。

能登にみる天正期上杉の城郭普請 飯田城追補:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496901363.html

 


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東第二帯郭下帯郭から山上中枢主郭を見上げる
鋭い切岸壁が武力進駐の厳しさを想わせる。
 
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主郭は猛藪
 
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櫓台様高所
佐伯は古墳の利用としている。
 
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 第一帯郭南東に窪地(佐伯③)があり、佐伯は「階段のようなものを切岸に設置してB曲輪(南図腰曲輪)から窪地③に入り、主郭Aに入ったのであろう」(括弧内引用者)としている。この窪が佐伯③であろうか。
私は未踏だが、南図南東にとる竪堀、あるいは佐伯が南西隅に推定する坂虎口⑦が逆襲出撃路か。
 
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南東窪地下に腰曲輪(佐伯B)
南図東大手とされるルートと私が主要通路と観るC谷、さらに南尾根が、この腰郭で結節する。
 
 戦闘時、階段・梯子を外せば、侵入した寄せ手は、鋭い切岸壁に遮られ、壁下で往生する。主郭へのルートが不明瞭なところに、武力進駐の厳しさを感じる。
 
 後述するが、東ルートが入ってくる第二帯郭東部には下方に腰郭が付随する。
 東ルートは物資の搬入路と考えているので、東の第二帯郭と付随する腰郭は物資を集積する機能であろうと考えている。
 
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 北隅直下、腰曲輪(佐伯B)からの大型の畝と竪堀が構築され、回り込みは可能だが壁直下に制限されている。(後掲)
 
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第一帯郭北堀切
北尾根と分断。
 
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北堀切で分断された北尾根上の郭(私は未踏)
南図では土塁と虎口がとられているが、佐伯図(⑧)では構造はとられていない。
 
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北堀切西端
                
余談
 
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北隅あたり、動物のマンションのようで、
 
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現在もお住まい。
 
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なにか飛び出してこないか心配だった。
 
余談終わり。
 
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第一帯郭北西部
この右側切岸壁下に畝型阻塞群。
 
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切岸壁下の第二帯郭(ほぼ平地の緩斜面)に畝型阻塞群が施されている。
あそこで停滞した敵を頭上から射る(撃つ)。
 

       

第二帯郭北西部畝型阻塞群
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第一帯郭北西切岸壁下の第二帯郭
ほぼ平地の緩斜面に12条の畝型阻塞群が施設されている。
 
 このほぼ緩斜面に畝型阻塞を設ける構想は、永禄後期以降の越後、越中の上杉の城に見ることができ、永禄後期以降の上杉普請の特徴である。このほぼ緩斜面も、畝型阻塞を設けるため、わざわざ造りだしていると私は考えている。
 
この緩斜面で畝型阻塞により横移動が制限され停滞した敵を頭上から射る(撃つ)。
2014作成上杉の畝型阻塞:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496891942.html
 

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切岸壁

 
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頭上鋭く高く、城兵が狙う
 
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能登飯田城の畝型阻塞
上端の切岸壁下際を通すことが多いが、飯田城ではルートは設定されていないようだ。
 
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畝型阻塞
 
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畝型阻塞の設置されたほぼ平地の緩斜面下方
 傾斜きつい斜面を這い上がってくる敵を、第二帯郭うから迎撃もするであろうが、這い上がり、あるいはルートを伝い第二帯郭へ侵入を許しても、畝型阻塞が施設されたほぼ平地に停滞するので、第一帯郭から射撃・射的の照準が合わせ易く、殺傷効率は高いであろう。
 
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アングルを変えて下方から
このあたりは、上端、幅が揃った櫛の歯状畝状空堀群の様子がわかる。
 
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鋭さに、武力進駐先に立つ厳しさを感じる。
 

   

第二帯郭東部と東の南図大手ルート
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第二帯郭東部
奥が腰曲輪(佐伯B)で、C谷竪堀と南尾根が結節する。
藪で踏み込まず。
 
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第二帯郭北東部から北堀切へ回り込むところ
大きな畝状の土塁が通行を制限。
畝むこうには竪堀が沿う。
 
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竪堀、次いで北堀切東端
 
竪堀といっても掘り下げは短く、畝一体になった構造。
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竪堀、北堀切東下方は若山川旧川筋
 
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南図で東側大手とされるルート
私は若山川からの物資搬入路と観る。
 
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東側ルート虎口付近
私には物資集積ゾーンのゲートに観える。
 
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第二帯郭東部には腰曲輪が付随し、一帯を物資集積ゾーンと考える。
 
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飯田城の目の前、南南東へ直線距離約500m、若山川河口脇に現飯田港
中世の港は、川の河口から少し上った橋の付近にあることが多い。
 
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現在の河口付近の吾妻橋
内浦街道が若山川を渡河する(橋かもしれず、渡し船かもしれない)あたりに、中世の港があり、それは飯田城に近接し、飯田城によって街道と共に掌握されていたと考える。
 
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若山川河口
飯田湾に出、七尾に氷見に富山湾沿岸の諸地域、遠くは越後に繋がっていた。
 
 天正8年に珠洲郡知行の飯田、嶋倉飯田与三右衛門尉(上越市史別編1924)、嶋倉孫左衛門尉(上越市史別編1925)に、景勝より書かれた年頭の祝に太刀が贈られたことに対する礼状が残っており、天正6年の謙信死後も奥能登地域は同8年ころまで上杉方として維持されたと考える。
 海路の連絡・補給が可能であったことがその要因であろう。
 
 

 

 

 

 

 

 まとめ
 
 飯田城は、天正5年珠洲郡に侵攻した謙信軍により、8年頃の退去までの間に上杉方城郭として改修され維持された城であり、甲山城のような折れ歪み構造は見られないが、天正期上杉の城郭普請構造である畝型阻塞、鋭い切岸壁、堀底段差が今も残る。外征地に武力進駐して立つ城であり、いつ敵に囲まれるかもわからない。情勢によっては武士のみならず能登の民衆による一揆も加われば一夜にして敵の大軍に囲まれる可能性もある。主郭を周囲する鋭い切岸壁に導線が見えないのも、情勢の厳しさを示しているように感じる。
 飯田城に、上杉方が厳しい普請を設け維持したのは、飯田城が飯田湾沿岸を通る内浦街道や奥能登山岳地帯を通る若山街道を扼すのみならず、海路で七尾・氷見・越中・越後と連絡・補給が可能であり、奥能登進駐の上杉方武士の死命を制する城であったためと考える。
  C谷堀底段差が通路であったか、南尾根構造が相関した構造であったかは、後の課題としたい。

 
 あとがき
 
 武力進駐とは武力攻撃による侵攻、制圧であり、いわば侵略である。謙信の晩年(謙信と名乗って以降)の、越中・能登に進んだ軍事行動は、若き長尾景虎が大義名分に憲政を奉じ関東管領を連呼して戦った軍事行動とは明らかに異なる。
 謙信の能登侵攻は、能登の人民にとっては、最恐の災害であったことであろう。
 能登の人民にとっての謙信の認識を伝える「森の命道」という逸話を『能登の飯田』ら引用し、飯田城のあとがきとする。
 
     昔々、森家が大変栄えた時代もありました。その時代に越後の国から上杉謙信と言う人が、珠洲郡の方がたで沢山の宝物を持っている家に来て、宝物を取って行くという評判を聞かれたので、森家の祖先の人が宝を人に取られ、その上に命まで人に取られるのは残念至極だと思って、現在の命道へ行って自殺されました。現在の命道は、昔は春日山の続きでしんしんたる平山であったのです。
 その山は森家の山であった。平生からとても稲荷様を信じて居られましたので、稲荷様と共にあすこで自殺されたのです。そこでもう死なんとする時、家の者に末の世まで大切にせよといい残されたのです。
 其の印しの切岸として、今から十年程前まで周りに二間もある大きなユノミの古木があったのですが枯れて伐ってしまったとの事です。そうして八年程以前この命道にいらっしゃる稲荷様があすこにいるのが昔と違って汚いのでいやだから私の家に入りたいとの御告げで家にお祀りしてあります、あの場所はそんなところである為に、畑にもできませんから小さい祠を建てて地蔵様をお祀りして昔のおもかげをとどめているのです。
 一説に昔の一里塚であったといふ(森下正鴻せんせいのご意見)
 
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森の命道
 
参考文献 飯田町を知る会(2002)『能登の飯田 郷土史』、シバタ印刷
       佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』、桂書房
       上越市史別編
       遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」
 
 現地修学にあたり、飯田町を知る会の輪島様、飯田町燈籠山祭り保存会の川口様、寺家の漁師さん、正院の農家さん、珠洲市役所の職員の皆様に、ひとかたならぬご厚情を頂きました。ここに感謝申し上げます。