能登にみる天正期上杉の城郭普請 まとめ | えいきの修学旅行(令和編)

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 天正4年12月から天正7年9月の間(飯田城は8年か)に限定することができる天正期上杉の能登における城郭普請を、A地区から飯田城、B地区から丸山城、C地区から熊木城、D地区から長屋敷・尾根㉖を選抜し、その構造を検討しました。
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 もっとも発端は甲山城が上杉城郭の折れ歪構造の嚆矢となるのではないか、では能登の他の上杉城郭はどうか、という探求でしたので、まずは、その折れ歪み構造による横矢掛けについて結論します。
 折れ歪構造を有する城は、甲山城と、甲山城の所在するB地区の丸山城のみでした。
 よって、それは甲山城とその支城丸山城にのみに見ることができる特異な構造といえます。
 甲山城の城将と伝わるのは轡田肥後・平子和泉・唐人式部です。轡田はわかりませんが、平子氏の越後の本拠とされる薭生城には折れ歪み構造は見られません。
 代わって猛烈な畝状空堀が張り巡らされています。
 もっともこの薭生城の奇異なまでの畝状空堀群による要塞化は、御館の乱の際の緊急改修、あるいは乱後に入った景勝方城将(平子氏は景虎方について没落)によるものかもしれません。
 
 近々薭生城を書こうと思っていますので、横道にそれました。
 
 
 能登の他の城はどうかというと、折れ歪構造は用いず、弱点と思われそうな尾根や斜面、平坦面に、櫛の歯状の畝状空堀群を施設し、回り込みを阻止したり、平坦面をデッド化したりし、敵の移動・展開を制限する普請を行っています。
 七尾城長屋敷の大堀切・大土塁は、大規模普請であり、織田勢主力による攻撃を受けることが想定される方向であることから、謙信直営であった可能性があります。
 唐人が居た甲山城周辺にのみ、折れ歪構造に拠る横矢掛けの防御施設があり、唐人以外の越後侍は、自分たちが拠った城の弱点に畝状施設で補強する普請をせっせと行っていたことになります。甲山城と丸山城には、越後侍達がせっせと構築した畝状空堀は、横堀の区切り以外は認められません。 
 
 折れ歪構造を伴った横堀による防御ラインは、謙信の死を契機に劣性へとなっていく北陸の上杉方城郭のなかで、唐人の影響を考えることができる富崎城、大道城、横尾城(信長死後に景勝が宮崎城奪還した天正12~14年頃を想定)に構築されていきます。
 そこには畝状施設は在りません。このあたりは、富崎城のまとめで書きましたので参照ください。虎口の前に馬出や戸張への発達過程と思われる一郭を配す構想、堀底段差普請も発達していきます。
 富崎城
https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496897991.html

 

 では越後はどうか。
 
 天正6年の謙信の死によって引き起こる御館の乱の最中、越後国内の抗争地域においても畝状施設はっせっせと構築(中郡が突出)されます。
 しかし、御館の乱の終息後は、織田勢が越後に侵入する際に重要防御拠点となる越中方面は不動山城、信州方面は鳥坂城などに、鉄砲による戦闘を意識した防御ラインの構築と箱掘化、折れ歪構造が構築されます。                  
          
信濃からの討ち入りに備えた鳥坂城
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天正6年、御館の乱で当初景虎方であった鳥坂城は、畝型施設が、畝状空堀群、畝型竪堀群、畝型阻塞とオンパレードのように巡らされています。
天正10年まで脅威となる信濃からの織田の侵攻に備えた改修と考えられる新城部には、大型の箱掘、土塁を伴った銃撃陣地、折れ歪構造、堀底段差普請が構築されています。
 
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畝状竪堀群
 
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上から
 
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畝型阻塞
 
 鳥坂城畝状施設をもっとご覧にない方はこちらをどうぞ。
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鳥坂城新城部箱掘
信濃方向には大型の箱掘により防御ラインを構築。銃撃による戦闘を意識。
この箱掘は写真奥で左にL型に折れ、東側に低い土塁を伴いった銃撃陣地にもなりうる。また、堀底に段差普請を施している。
 
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新城部箱掘り東面は土塁を備えた銃撃陣地にもなる
 
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折れ歪構造
 
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この折れ歪構造自体が虎口の前の通路になり、新城郭内から横矢が掛かる。
 
 鳥坂新城部、もっとご覧になりたい方はこちらをどうぞ。
 御館の乱では、各国人領主・知行取の侍達が、各自の事情で己が領地を維持、あわよくば拡大させようと各自の事情で戦いました。その際の普請も、各国人領主・侍達の力量と裁量で行ったことでしょう。御館の乱の混戦地域である中郡の畝型施設が突出して多いのはそこに起因すると思います。
 しかし、対織田戦争ということになると、各国人・知行取の侍達の事情ではなく、越後上杉の存亡をかけた戦争であり、上杉の越後防衛戦略のなかで防衛拠点となる城が決められ、上杉直営の普請が行われる必要が生じます。鳥坂城、不動山城とも、御館の乱当初は景虎方の城であり、乱後は、景勝政権が直営で普請を行うことができた(国人領主・知行取城主がいては介入できない)と考えます。
 両城に、畝型施設だけではなく、防御ラインとしての堀や銃撃防御施設が構築されたのは、そういった事情によると考えます。
 そこには、戦闘様式の変化も伴い、軍編成も謙信期の各国人領主・知行取毎の集団から、景勝期の新編成へと進化する必要も生じていくものと考えます。
 
 おっと、今は能登・越中の話。
 
 能登にみる天正期上杉の城郭普請のまとめのまとめ
 
 都合7度にわたる能登修学において、甲山城ひいては上杉城郭の折れ歪構造のプランナーとして、唐人を挙げることができないだろうか、という私の妄想は、否定できませんでした。
 上杉城郭における堀・塁線を屈曲させることにより折れ歪を設け横矢を有効にきかせる構造は、甲山城が嚆矢と考えます。そこに砲術に熟練した唐人がいたということは、上杉城郭における折れ歪構造の導入に唐人が関わっていたと考えます。
 修学を重ね、唐人の存在が、上杉軍の戦闘様式や軍編成にも影響を及ぼしたのではないか、とまで妄想が大きくなってしまいました。
 

 あとがき
 
 この記事を書いている最中、水澤幸一さんより、畝型施設の築城主体は上杉ではないとの教示をいただきました。畝型施設の築城主体は、国人、もっと下の侍達であろうとのことです。天正期上杉の侍達が畝状施設を構築したことは間違いないわけですが、築城主体が上杉ではなく各侍達だという指摘が、上記の妄想の拡大を煽ったことを付記します。
 能登、とりわけ珠洲と越後との海運に関し、石川県立歴史博物館紀要を中心に調べましたが、今回は加味しませんでした。いずれ機会を改めて補強したいと思います。
 参考文献は各記事末に掲載してあります。
 アドバイスいただきました、能登のみなさん、研究者の皆さんありがとうございました。
 
 4城のみ選抜してまとめましたが、位置・方向を見失うほどの藪中踏み込み撮影したA地区の萩城、黒峰城、C地区の町屋砦、枡形山城、D地区の古府谷山支群・古府枡形砦を、続編で各個公開します。お楽しみに。