富崎城(富山県富山市婦中町富崎) | えいきの修学旅行(令和編)

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 唐人を追った修学を綴っていますが、この富崎城を、唐人と同時期に越中上杉において上杉方に属して織田方と戦った城と位置付けて、その構造をみていきます。
  甲山城(前記亊)は能登に進出した上杉が新たに築城した新城と考えますが、富崎城は越中守護代神保氏の重要拠点城郭として存在していた城です。
 そこ(富崎城)に天正期上杉がどのような改修を加えたかを見ることにより、同時期における上杉方の普請技術の水準を甲山城と合わせて考えてみます。
 
 富崎城の城歴を佐伯哲也(2011)『越中中世城郭図面集Ⅰ』からまとめます。
 本記事における構造の読み解きは同書を参考に綴ります。
 
 富崎城はもともと越中守護代神保氏の城であったが、謙信が元亀3年9月、神保氏旧臣水越氏が籠もるところを攻略した。
 謙信死後の越中において、上杉方に属し小田方と戦った神保氏旧臣織小島甚助・寺島盛徳がこの富崎城に在城した。天正9年、佐々に攻められ落城した。
 富崎落城後、両将が落ちた先が大道城とされる。
                   
富崎城
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北を山田川の断崖に接し、要害である。
     
富山市教育委員会設置富崎城縄張図(ブログ説明用に白字加筆・丸数字は佐伯図準拠)
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縄張の特徴
 ○内堀ア、外堀イによる防御ラインが構想される。
 外堀ラインには折れ(白囲い)が設けられ、横矢が掛る。折れにより横矢がかかる地点は、出入口になっており、⑮は橋が架かる櫓台、堀ウが主要出出入口と考える。
ここまでいけば、南ー東ラインがわかります。http://yahoo.jp/1iCt6C 
 
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○佐伯は、ⅠおよびⅡの2ルートを推定している。
 Ⅰルートは外堀ラインに堀ウから入り、左折れ、郭C東下を通り、土橋⑪から郭C内に入る。その間、郭C・郭Dから横矢が掛かる。主郭・郭Aへは、南の土橋で接続するが、土橋前は馬出状のB(上杉の戸張か)によって守られ、平入りではなく郭Aからの横矢が掛る西側面から馬出B(佐伯D)に入り、折れ、土橋を渡る。
 外堀ライン・内堀ラインを機能的にまとめ、折れによる横矢、屈曲する馬出を設けた進化したルート設定であり、天正期上杉の改修を考える。しかも土橋の前に馬出を設け屈曲させ防御力・迎撃力を高めている点は、    
甲山城よりも進化している。佐伯は馬出Bを越後荒戸城の外枡形と同型と分類する。
 
 Ⅱルートは佐伯は「屈曲・横矢箇所が少なく、技術的にもあまり発達していないため、Ⅰルートより一世代古いルートなのかもしれない」としている。
 
 現在地から入るⅡルートは神保時代のルートで、Ⅰルートが天正期上杉による構築と考えることができそうだ。
 

 
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外堀イ南ライン
櫓台⑮に架橋し接続していたか。
外堀イラインは櫓台⑮付近で屈曲を伴い、櫓台⑮および架橋接続に対し横矢を集中することができる。
 
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櫓台⑮
 
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架橋接続部
横矢が熾烈。
 
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城内郭Cから櫓台⑮-架橋部
城内の様子は後掲します。
藪です。
 
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西ライン
堀ウから入るのが佐伯Ⅰルート。
縄張図現在地点付近から入るのがⅡルート。
 
さきに一世代古いルートとされるⅡルート出入口を見てきましょう。
 
富崎城内は藪が酷く、Ⅰ・Ⅱルート共かろうじて特徴を掴めそうな写真のみの掲載になります。
 
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Ⅱルート出入口
横堀ラインから内枡形状の虎口に入り、
 
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橋で城内に入る
 
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城内からⅡルート土橋
城内の様子は後掲。                      
 

 
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ではⅠルートを辿り、城内へ入ります。
 
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堀ウ
Ⅰルートの出入口で、堀底は城兵による妨害が左右奥三方向から集中する枡形状。
 
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堀底枡形内
先行するは馬念さん。
ふだんは、あまり藪に対し無理をしないが、今回は雄々しい。
私が躊躇する藪を、蔦を潜り、枝をかわし、訳もなく進んでいってしまう。
期する何かがあるのか。
 
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御目は隠しましたが、笑顔で私を虎口⑧へ誘います。
壁にあたり、左に折れ、虎口⑧。
虎口⑧に入る者は右の郭E突出部に後矢を射掛けられる。
 
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虎口⑧入ると、右から郭C東切岸からの横矢を掛けられながら直進する。
 
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振り返る
背は郭E突出部から狙われている。
 
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郭C東切岸下(っていうか藪)を約46m直進し、右折れ、土橋通路⑪を伝い郭Cへ。
 
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藪のむこうに土橋通路⑪
 
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土橋通路⑪
 
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土橋通路⑪を伝い城内(郭C)へ
 
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郭C東辺縁に立つ馬念さん
歩いてきた切岸下通路が面白いのか。
 
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城内郭C東部は凄い藪
 
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うっ
 じつは私、この富崎城は、あまりの藪に三度退却している…。しかし今日は馬念さんと一緒。そんな甘えは許されない。
    
藪の郭Cですが、先のⅠルート出入口を見なければなりません。
 
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郭C北東部
北東端は小高く盛られている。
隅の右は先のⅠルート出入口・堀ウ枡形から虎口⑧への屈曲部。
隅の左は堀ア(内堀)ライン。
 
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先ほどのⅠルート出入口 堀ウ枡形→虎口⑧を城内郭C北東端から。
完全監視。
 
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富崎城内堀ライン堀アを東から
奥に郭C郭B馬出と郭Aを接続する土橋
 
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内堀ラインを郭Cと郭Aを接続する土橋
この土橋前は馬出Bによって守られ防御迎撃力共に高められている。
 
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 土橋前に馬出Bが出枡形状に設けられ(上杉の戸張か)、しかも郭Aからの横矢を受けながら西側面から馬出Bに入る。馬出Bで90°左に折れ土橋を渡り、郭Aに入る。
甲山城よりも進化した構造で、佐伯は越後荒戸城と同型の外枡形と分類する。
 
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しかし、馬出Bの出枡形形状は、藪で撮影が難しい…。
 
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越後荒戸城の出枡形でイメージしてください
 
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西側面から馬出Bに入る
 
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その導線は堀ア対岸郭Aから横矢が掛かる
最後の防御ラインであるから、その射線は熾烈であろう。
 
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堀ア
 
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90度折れ、土橋で郭Aへ
 
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ちなみに馬出Bはこのような様子
 
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藪(馬出B)を背に土橋を渡る
あちらはまるで天国のよう。
 
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郭A中央付近へ
写真奥は北面で、山田側の急崖。
 

 
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郭A中央付近より西
山田川断崖と掘ア内堀ラインに囲い込まれている。
木の柵は井戸を囲う。
 
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柵は転落防止柵か
内堀は堀アのこと
 
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郭A井戸
 
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北は山田川の断崖
 
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郭A東
左は北で山田川の断崖
右は堀ア内堀ラインで、先の土橋ー馬出Bで郭Cに接続。
奥の東は一段低く佐伯は郭Bと区分けしている。
 
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山田川断崖は富崎城にとって要害の頼みであったであろう。
 
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郭A中央付近より東
馬念さんのあたりから藪と佐伯B
 
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郭A北東部(佐伯B)
 
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 この奥の北斜面に佐伯は北斜面に階段状に山田川に降りる構造を記し、渡し場の存在を指摘しているが、藪でとても踏み込むことができません。
 
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土塁状の構造
 
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馬念さんが立つところが最初のⅠルート土橋が入ったところ。
 
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Ⅰルート出入口の城外東約60mに四隅突出型古墳。
佐伯は鐘撞堂と呼ばれる伝承を記し、情報伝達手段の検討課題としている。
越中における鐘を用いた伝達手段に私も興味がある。
 
     まとめ
 
  能登甲山城と同時期(天正6年前後)における越中の上杉方城郭を検討することより、上杉方の普請技術の水準を考えてみました。
 
 甲山城は上杉の新城で、富崎城は神保時代から存在する城郭が起点ではありますが、富崎城には従来の在地城郭に天正期上杉が改修を施した時代差を見出すことができます。
 
 では両城に共通の構想・構造をまとめます。
①共通の内堀、外堀の防御ラインを構築する構想。
②堀・塁線に屈曲をもたせることにより、防御ライン・およびルートに横矢を有効に効かせる構造。
③枡形状の堀底に敵を収容し、迎撃を集中する防御施設。
 
 私は、上杉城郭における堀・塁線を屈曲させることにより折れ歪を設け横矢を有効にきかせる構造は、甲山城が嚆矢と考える。そこに砲術に熟練した唐人がいたということは、上杉城郭における折れ歪構造の導入に唐人が関わっていた可能性があると考える。
 
 次に、甲山城よりも富崎城において進化した構造をまとめます。
 これは謙信死後、上杉が劣勢となる中で進化したと考えることができる構造といえるのではないだろうか。
 
④出入口から主郭まで梯郭をまとめあげるルート設定。
⑤出入口土橋前に馬出(戸張)を設け、防御力・迎撃力を増強した構造。
⑥馬出において屈曲を強い、さらに防御力・迎撃力を増強した構造。
 
 ①~⑥までの城郭普請構想・構造は、天正の上杉景勝期の普請技術として、御館の乱の最中の越後、御館の乱終結後天正10年6月に本能寺で信長が斃れるまで織田の侵攻ならびに新発田重家・会津蘆名氏の攻勢に晒された越後の城の強化改修・築城において用いられていくと私は考えている。
 いやそれ以後の小牧長久手との連動までも含めてもいいだろう。
 境要害至近の横尾城は越後に退いていた越後勢・越中浪人が越中に再来し、境要害を回復確保した天正12年~13年に、唐人等により改修され、折れ歪構造をもつ防御ラインなどを構築されたと推定する。  ★横尾城その2 https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496893401.html

 

 そしてその普請技術の進化の蓄積は、本能寺の変後、景勝が進出した北信・中信においても用いられ、滅亡の危機を脱し大大名へと運を開く上杉景勝の領国防衛ならびに経営の拠点城郭に活かされていくと考えている。

 
 私の最終目標「上杉城郭における普請技術の進化過程」主目標に随分迫ってきている。
 
※富山市教育委員会設置看板によると、天正9年寺嶋牛之助らが火を放って落ちた後、佐々成政により城尾城斉藤氏攻略の拠点として用いられ、遅くとも成政が秀吉に降伏する天正13年頃の廃城になったとしている。
 しかし、佐伯は「佐々成政等織豊系武将が構築したことを推定させる遺構は、現縄張りから見いだすことはできない」としている。
 
参考文献 富山県教育委員会(2001)現地設置説明板
               佐伯哲也(2011)『越中中世城郭図面集Ⅰ』、桂書房