えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

こんにちは、新潟県上越市春日山町在住、えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。
歴史が好きで、仕事(ほたる調剤薬局)の休みに城館をまわり、 独学と実地修学、ならびに研究者を訪ね得た教示を綴っています。

 大学院の課程に専念すると宣言しておきながら、舌の根の乾かぬうちに加地城を書きます。

 

加地城

ここhttps://yahoo.jp/mRX6Yq

    この城は、2011年5月(9年前)に馬念さんとはじめて行ったお城で、私にとって記念すべき城です。思えば私をこの道に引きずりこんだのは馬念さんで、そのスタートがこの城でした。

  当時にブログを書いているのですが、その頃の私の眼など節穴で、この城の凄さに全く気が付いていませんでした。それはそれで、微笑ましいのでそのままにしておきますが、あらためて今の私が魅かれる構造を記事にします。2011年記事https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496881498.html

 加地氏は、鎌倉時代以来戦国期にかけ揚北に勢力を張った佐々木源氏の新発田、竹俣、五十公野の宗家にあたり、謙信後期の天正3年(1575)軍役帳では、鑓108、手明15、鉄砲10、大小旗10、馬上15、計158人を擁す(100石6人で計算すると2633石)有力国人です。

 

  なぜ今また私が魅かれているかというと、先の大崎城は天正8年に実戦に使用された城として構造を押さえましたが、この城はそれよりも後の天正15年10月の新発田滅亡直前(9月7日)まで新発田方として景勝に抗戦した城で、その後も文禄3年の定納員数目録では番城として記載はないものの(加地某662石と存続を許されている)、同16年以降に上杉政権が把握している越後の諸城とされる城数之覚には「かぢ 酒井」とあり、城は、天正15年実戦使用、その後文禄3年までの間に景勝政権によって使用された城(1)と位置付けることができる城だからです。同じ興味で2016年に新発田本城として浦城を書きましたが、同様の観点でこの城を観てみたいと思います。 

 (1) 遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」,pp.88-91

 浦城 序  https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496899324.html

 

加地城実測図

 (水澤幸一(2004)「越後国加地荘の城館(上)」より許可得て引用・以下測地は同書に拠る)

 

 周囲を切岸に守られた山頂➀(標高165.6m)が主郭で、、南東に高台があり、北西に堀込の出入口が設けられている。出入口から西の帯郭に降りる導線は、ほぼ直角三折を強いる強固な構造で、帯郭の折れ脇には守備スペースを有する。北東尾根郭③、西尾根郭②とは、堀切を引くが、併せて広い空間と丁寧な削平が成され、山上での居住が可能である。ただし、郭②との間の堀切は広いところで幅18mの箱堀で隔絶、強固な遮断を意図する防御ラインとしている。主郭に向かうには18mの土橋を通過しなければならず、また、城内側でほぼ直角に北に折れ、東に折れ、南北から挟まれた堀込み関門を抜け、南に折れる。掘り込みの北は土塁を備え、箱掘側と堀込み関門に対し、強固な迎撃が可能である。抜けたルートは、遊歩道の尾根伝いではなく、北東尾根郭③付け根の堀切に入ったと考えている。

 9年前に訪れた時には、馬念さんは指摘しながら観察していたが、私はその凄さに気が付かなかったのだから、我ながら間抜けである。

 大手ルートの北西尾根鞍部には、畝で仕切った二重堀切を設けている。

 上記主要構造を本記事で掲載し、他の南、北東尾根、西尾根から分派する北支尾根は、補足編で写真を掲載する。

 

主郭北東下

切岸下に付随するがあり、主郭、北東尾根、西尾根を繋ぐターミナルになる。

 大崎に比して削平はしっかりされている。

主郭切岸の鋭さに加地本城の武威と実戦の城の凄味を想う。

矢印先に一段高く主郭西下帯郭通路に繋ぐ関門があり、主郭に至る。

 

坂ストレス上に帯郭通路への関門

もちろん、この関門も帯郭通路も、主郭の頭上監視を受ける。

この関門は堀込造作であろう

 

主郭西切岸下帯郭通路

崖際を側面頭上から主郭の監視を受けつつ進む。

 奧に平場を置き、その手前で左にほぼ直角2折れのコの字ターンを強いられ、さらに主郭掘り込み前で右折れと、3折れの出入口導線が待ち構える。

 

奧に平場、その手前でターン

平場を経る導線ではなく、形状的には馬出ではない。

しかし、出入口を守る平場であり、戸張に類する空間なのだろう。

 

ここに突入することになる

 

左に一折れ

 

置かれた平場から2折れコの字ターン

 

さらに右折れ

ここにもう少しスペースがあれば馬出になる。

また先の張出しが緩く、当てきっておらず、櫓台は載らない。

折れ、堀込といった造作が上杉の限界か。

ともあれ、天正15年段階上杉圏内のハイレベルな出入口構造である。

 

主郭出入口堀込み

逆四角錐台形か。

 

加地城主郭➀

奧(南東隅)に高台。

 

主郭内から出入口

城門を彷彿。

 

堀込

 

その先

 

その先

主郭から帯郭通路奥の平場とコの字ターンを俯瞰。

 

主郭高台

幅があり、土塁というよりも櫓かなにか国人領主の象徴的な構造物を揚げた台と考える。

 

高台上

 

後背南尾根(補足編掲載)

 

 

高台から主郭➀

900㎡を越えるスペースを有する。

写真中央が出入口。

 

新潟方面眺望

新潟を手中にすれば、独立割拠、いや越後の国主をも望むことができると考えたであろう。

事実、重家は6年にわたり割拠した。

坂井川と合流した姫田川と加治川の合流点を抑え、重家が拠る浦城、道如斎が拠る五十公野城を望む

 

主郭は広く、出入口の東にも平面を有する

 

北東辺下

切岸下付随郭(三枚目写真)と東尾根の間は堀切が設けられ、区画される。

郭③も400㎡と長大なスペースを確保し城内居住が可能である。

③北西には帯郭が付随する。この城には、横堀は見られず、帯郭を使用している。

郭③・北東尾根は後編で補足する。

 

 

 この堀は通路でもあり、大手ルートの郭と北西尾根と繋ぐ②(箱堀を土橋で渡り)関門からのルートが左方に入ると私は考えている。

 

これがルートだと考える(後掲)

 

 

北西尾根

 

三枚目写真撮影地から北西尾根

遊歩道のコースとなっている。

 しかし、大手ルートは上写真のコースと考えているので、これは守備兵の通路・陣地なのではないか。

 

うねる導線に唸る

左側は箱掘。

 

9年前、私はこの凄さに気が付かなかった

箱掘(幅12m長さ50m)の城内側に帯郭が付く。

防御ラインとしての構造である。

 

稜線は土塁通路であり、兵が露出するのが疑念だが防御陣地となろうか

右に小スペースがある。

下方に土橋から入る関門。

 

堀底枡形関門

箱掘を土橋で渡り、この堀底関門が待ち構える。

土塁がつく小郭とで挟み、実城域への侵入を断固阻止する関門である。

この凄さにも気が付かなった。

 

うぃ

 

城内側

通路様に段が伸びる。

 

私はここから東尾根堀切に至るコースを大手ルートと観た。

北西尾根、上の方では主郭北東下付随郭(写真A)と東尾根郭③・帯郭からの監視・迎撃を受ける。

水澤図に紫線で加筆した

 

土塁つき小郭から関門

 

関門前で左に折れて、右に折れて、土橋へ

 関門前の折れに空間を置いてはいるが、織豊のように、この土塁つき郭を張出させてあてる、といった工夫は上杉圏ではされない。

 土橋に接続する折れの前は、削り、通路を狭めている。

 また南には帯郭が伸び、土橋への迎撃が、左右、さらに後背稜線上とで上下二段で可能である。

 私は、この重層的な迎撃射撃という迎撃構想は、御館の乱後、10年の対織田戦闘に向けて発達した構想で、10年と前後する時期に出現、以降、越後・信濃の上杉圏で採用された防御施設と考えている。

 ※遠藤(2004)と(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」のなかで、緩斜面の設けられた塹壕状遺構(2009は土塁を伴う浅い堀)と背後の切岸、切岸上に設けられた土塁を伴わない削平地がセットになったプランを天正期上杉の防御施設としている。

 

帯郭

土橋よりはやや高いが、箱掘対岸の郭②よりは低く、兵の身が晒されてしまうのが疑問。

浦城では横堀陣地としているのに、加地城では、郭③、ここと、帯郭を使用している。

 

帯郭から土橋、対岸郭②

 

土橋 

 

土橋の北 箱掘

箱底には、段差普請がされている。

この箱掘ー段差普請も重層射撃陣地と同様に、天正中期以降の上杉城郭の防御施設である。

※遠藤2004では、箱掘通路に段差と折れ歪みを関連づけた普請を指摘している。

 

段差

 

段差を下から

 

端の段

 

土橋南 箱掘

 

段差

段差

 

段差から土橋

 

渡ると郭②

左の高台は藤戸神社が所在地と伝わる。

藤戸神社跡

 

郭②から土橋

「景勝、来い!」

木が邪魔だが、加地が言っている。

右方は帯郭を下層に付けた大城壁

 

存亡を賭した籠城・抗戦とは、こういうことだ

 

 

郭②

 

大箱掘りの外だが、郭②も700㎡ほどと広く、居住、兵の収容が可能である

 

北西隅の堀込みは出入口か

遊歩道が大手筋にあたる。

 

大手筋脇には、切岸、小郭を重層に配し、強固に守る

 北西尾根筋は、郭②から約60m下方で北と北西に分派し、北は竪堀1本と堀切2本(補足掲載)、北西は大手筋で鞍部に二重堀切(畝状空堀)で守る。

 

切岸は鋭く、強固である

 

強固である

 

郭②から約130m下方鞍部に二重堀切(畝状空堀)

 

二重堀切(畝状空堀)

藤戸神社からの遊歩道が左から入る。

 

遊歩道からは、こう入る

見落とさないように。

 

 本編では、9年前の私にはその価値がわからなかった主要構造をあらためて記事にした。

 この城の城郭構造の価値を、私の成長が盛り込まれたメモリアル記事としてお楽しみいただけたら幸いである。北東尾根郭③とその先、南尾根、大手筋から分派する北支尾根は、写真集形式で補足する。

 

登り口

藤戸神社参道入口

ここhttps://yahoo.jp/LcaFi1

鞍部二重堀切まで7分、郭②まで13分

 

   大崎城後編・外郭と丸外張の可能性

 

 上杉の「とばり」 https://ameblo.jp/mei881246/entry-12582944464.html

 

   大崎城縄張図(三条市史より引用・説明のため茶加筆)

 内郭を北から西にかけて横堀エで囲う郭6、7を、外郭(三条市史では二の曲輪)とした。出入口は平入だが、7北西の張出しは、H外土橋に有効な横矢を掛ける。

 郭8は、外郭・外郭出入口Eの外に、弧状の堀カで半円形に張出して設けられた郭で、私は文字通り丸外張ではないかと考える。8の側面は、竪堀オ、キ、カ南端の掘下げ(雨烈の可能性もある・縄張図ではとられていない)を設け、横への移動を制限している。馬出としての外、内の出入口の配置は他大名権力のそれに比して稚拙で、上杉の城郭普請技術において発達途上のものと考えている。スケールも守るには大きく、機能的ではない。出入口防御、外郭と合わせて北から西にかけての防御という意味と、軍勢を収容するためのスペースの確保という意図があったと考える。

 オの北東斜面は、縄張図にはとられていないが、オの際で8段の桟敷段(下方は崩落しており、より多くの段が設けられていた可能性もある)で防備している。

  三条市史では、堀の外の土居積を、攻城軍を二段構えで射撃する備えとし、カの外の低土居も射手用としている。市史編纂時点(昭和58年)で、射撃運用を指摘されていたことに驚きを覚えた。私が踏査し、前面への見通しなど射撃の適応を確認したところ、堀エの出入口H南と、F南東が射撃適応であった。他は見通しが不可能な堀の深さであったり、見えるのは堀外0.5~2m程度であり、射撃運用には不適な構造で、遮断と伏兵・移動用途の防御施設と考える。

 堀の箱底造作は見られなかった。

 

 後編まとめ

 

 外郭は、横堀、弧状の囲い込み、張出しからの横矢掛け、低土居・横堀・後背郭による射撃陣地運用と、切岸を防御の主郭とした内郭とは異なった普請技術による城郭構造である。内郭よりも普請時期は新しく、後に増設された構造と考える。

 外郭・外郭出入口Eの外に弧状の堀カで半円形に張出して設けられた郭8は、上杉の外張であろう。増築された横堀で囲われた空間には、軍勢の収容が可能である。また張られた外郭線は西から北にかけての方面であり、それは三条城を指向した防御線である。この構造は、深さ・幅・長さから、構築にさほど労力はかからないと考えている。囲われた空間も、削平には意を用いていない。在城というより在陣の兵たちによって構築された、いわば陣城のような構造物なのではないだろうか。

 このことから、外郭は、天正8年4月以降、三条方から奪取した景勝勢による三条城に対する増築、あるいは、翌9年から15年に至る新発田重家の反抗時の三条城失陥に備えた改修を考えている。

 

 

   では、外郭写真

 

郭7

 

帯郭5から郭7

堀エは北面、折れて西面を囲う。

土橋で横堀を渡る出入口G、Hが設けられている。

 

郭7

防御陣地でもあろうが、広い空間の確保も普請意図であろう。

それは増援軍の収容と考える。

 

出入口G土橋

 

Gを外から

 

G外土橋東の横堀エ

堀底から前面斜面への見通しは効かないず、射撃には不適。

 

エ東端は崖

 

G外土橋西の横堀エ

射撃可能な深さではあるが、見通しはせいぜい2mで、堀底から射撃する効果は無い。

射撃ではなく伏兵・移動用途塹壕であり、戦闘は高位郭7と堀際とのせめぎあいと考える。

横堀前

落ち込む斜面には見通しは効かない。

 

北西張出し部

 

張出しに折れ歪む堀エ

スマホのほうがきれい

 

張出しから出入口H前土橋への横矢掛け

 

出入口H

平入城門

土橋で横堀を城外と接続。

 

H外土橋から北東張出し部からの横矢を受け

 

H外土橋の南西堀エ

外に射撃用低土居が付く。

 

場外から出入口H

平入城門で、土橋には左側面張出からの横矢を受けた。

ここに麻布ふれあいセンター南東からの参道(荒れ・急)が至る。

 

 郭7から後背

切岸上に帯郭5、切岸、主郭。

 

堀エは一部崩落個所もあるが郭6西辺を囲い南へ張り巡る

途中、竪堀オを放ち郭8の北を守る。

竪堀オの北東斜面には桟敷段が敷設されている。

 

竪堀オとの間の桟敷段

オの際で私は8段を昇降して数えた。

昇降のための階段ではなく、昇を拒む段切であり、良い(苦い)トレーニングになった。

 

 

郭6

 

郭6北部(北から撮影)

山上側は帯郭5切岸、山麓側は横堀Eが囲う。

土塁造作のある先に丸外張とした郭8との出入口Eが設けられている。

 

E脇に位置する土塁

張出し、横矢といった効果は無いが、出入口を防御する構造であろう。

 

反対(郭6南部)から

丸外張との接続E

横堀エを架橋か昇降で堀込に繋ぐ。脇は土塁囲いの郭6北部南西隅が固める。

郭8は、最重要関門E外に丸く張られた郭である。

書き込み無し

そのままスロープ状に写真右に眼前約20m登ると前編で掲載したDに至る。

 

上方D

 しかし、このE-D導線は、E突入後にすぐDに殺到できてしまうため、私はDは竪堀で、導線ではないのではないかと考えている。郭6南部から屈曲導線Cを経由する導線の方が、帯郭5の監視下を横移動するわけであり、防御には有効である。もっとも普請時期において普請者がそういったノウハウを持ち合わせていなければE-D導線設定も有りである。

私はE-6南部-C経由を推す

 

 

Eを上からみる

出入口前に張る、8の丸外張感がよくわかる。

 

E堀込

架橋部、あるいは昇降出入のための人為的堀込と考える。

架橋口か、昇降口か

 

E前北の横堀エ

堀底から前面に見通しは効かない深さであり、射撃運用は不可。

後背切岸上郭6が迎撃陣地となろう(E北には土塁が沿い、胸壁となる)。

 

北は弧状の先、竪堀オを放つ

 

竪掘オ放射(左に)部

 

竪堀オ

下方の郭8、横堀カ端を区切り降る。

 

エは郭7まで伸び写真左方斜面には7のところでも掲載したが桟敷段が8段敷設されている。

 

桟敷状の段切

 この構造を古い時期のものとする意見もあるが、春日山城の越中方面や小栗山城他、私が景勝期普請を考える城にもあり、上杉城郭景勝期の新しい時代の構造と考えている。

 オ際で私は8段を踏み降り登り数えた(下方は崩落有、もっと多い可能性もある)。

 

Eに戻る

 

郭8から出入口E

最重要城門。

E前は平入架橋か。

 

E前南の横堀エ

 

エの南端は土塁状に止まる

見えないように、その裏に屈曲導線Cを上端とする竪堀キがある。

見えないのに横移動を制限する必要があるだろうか。

私は、キを、エ前を南進し、端を回り込み、キを伝いCに至る隠し通路と考えた。

堀エ南端

とどまったその端から裏に

竪堀キ

通路と観た。

 

その上方

郭6南端・屈曲導線C(前編参照)に接続する。

私は城兵の隠し通路と観た。

 

 

丸外張郭8

 

最重要城門E前、外郭線横堀エ外に、横堀カが弧状に囲い丸く張る

 側面は左はカ南端掘下げ竪堀(雨裂か)、右(北)は竪堀オが区切り、侵入を拒む。出入口はIで、丸馬出のような側面ではなく、弧の中ほどやや北よりに平入りで設けられている。

 Eを守る郭ではあるが、増援部隊の収容という意図の方が強いのではないか。

 

中を出入口Iからの道が通る

横堀カ後背は切岸ではなく、地山の緩斜面。

 

出入口I

横堀カを土橋で城外と接続、大崎浄水場に至る。

土橋左(南)のカは前面に見通しが効き、射撃運用可能。右(北)は不適。

Iを外から

平入り土橋。

横矢を掛ける陣地などは無い。

 

土橋南の横堀カ

土橋近くは射撃運用可能。

 

カ南端は雨裂かもしれないが、竪堀状に掘下げ、側面への侵入を拒む

 

カ南端

掘下げか雨裂か。

 

 

Iへ戻ります

この射撃運用可能な横堀構造と、I北の射撃不可能な構造を比べてください

 

斜からI前土橋

 

土橋の北の横堀カ

歩いて前面への見通しを確認してみたが、見えず。

射撃不可。

後背高位からの方が射撃に適す。

カ後背高位から斜面の見通し

横堀は遮断と兵を伏せ移動する塹壕運用だろう。

 

カの北端は上方横堀エから降る竪堀オで終わる

 

オ上方

 

オ下方

 

 

 さて、前後二編でこってり書いた大崎城、如何でしたでしょうか。

 こってり読んでいただいた方はそう多くはないと思いますが、奇特な方に感謝申し上げます。

 まとめは、最後だと読んでいただけないかと思いまして、先に書きました。あらためてここではありません。

 

 この大崎城記事で書いたようなことを、佛大の大学院で研究しようとしています。

 上杉氏の権力体制と城郭構造の進化過程を、文献と城郭遺構から照合していくという壮大(できんのかい)な研究に取り組みます。

 4月4日の入学式とオリエンテーションは、新型コロナウイルスの影響で中止になってしまいましたが、4月から新しいステージがスタートしました。これからは大学院の課程に専念しますので、えいき特有の濃いブログ記事を書く機会は減ると思います。しかし、日記や報告程度の記事は投稿しますので、どうぞ『えいきの修学旅行』、これからもご覧下さい。

 

 参考文献 三条市史(呈示した箇所の他は私の考えです)

 

    おっと、大崎城の登り口

 

 南西麓大崎浄水場からが近いですが、立ち入り禁止ですので、北西麓からの登り口を掲載します。

 

 麻布ふれあいセンターから南東を見ると、要害山の北西麓に赤い鳥居が見えます。

麻布ふれあいセンターはここhttps://yahoo.jp/JXn2U8

 

 そこから郭7の社に至る荒れた道があります。けっこうきつい。

 出入口Hまで途中ロスト・直登しつつ私の足で10分。

また防御構造はほどこされていない広い平を経由します。

広い平

ここから三条、弥彦方向の眺望が開けます。

 

 大崎城は、私にとって重要な遺構なため、前編で序と山上内郭、後編では外郭(外張付随か)の二編構成にて書きます。

 

 上杉の「とばり」については福原圭一(1)、遠藤公洋(2)の研究が手元にあり、要約して前振りした。

 https://ameblo.jp/mei881246/entry-12582944464.html

 (1)福原圭一(発表年不明) 「中世考古学と文献資料1魚津城の「まるとばり」」

 (2)遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」、pp.120-3

  

  

   序

 

大崎城

五十嵐川が蒲原平野に出でだす右岸、標高141mの要害山に築かれている。

ここhttps://yahoo.jp/z-Mguf

 三条市史によると、五十嵐川水運と中下越縦貫ルートの交叉する水陸交通の要を押える上で重要な位置をしめていたとしている。また、大崎保は早くから御料所として確保されていたことから、在地領主などにゆだね得ない府中長尾氏ー山吉氏三条城管轄下にあった城と推測している。

 

 御館の乱は、天正7(1579)年3月に景虎が自害したが、その後も越後中郡では、反景勝の諸将・城が抵抗を続けていた。三条城は、同5年9月に山吉豊守が死去した後に神余親綱が城主となり、御館の乱時は景虎死後も景勝に反抗していた。同8年6月落城。

 

 下記史料は、天正8年4月、栃尾城を攻めていた(傍線1)上杉景勝が、賀茂山を攻める菅名但馬守にその労をねぎらい(2)、次の作戦は大崎に向かうと告げ、賀茂山攻略と参陣を求めている(3)書状である。 

   上杉景勝書状   天正8年

  重而飛脚到来、喜悦候、仍彼脚力如見聞、今廿二館城相破数多討捕、中城迄放火、如何ニも仕合可然候(1)、将亦、賀茂山取詰、于今張陣之由大義察之候(2)、爰元隙明候間、近日大崎口江可下馬条、参陣尤候、雖無申迄候、賀茂山可被付落居事、簡要候(3)、謹言、

     卯月廿二日        景勝

         菅名但馬守殿

    上越市史別編1954 (傍線えいき)

 

 大崎城は、天正8年時点で上杉本国越後において実戦に使用された城である。

 御館の乱後は史料に登場せず、定納員数目録にも記載はない。構造を見る限り、城内の削平は緩く、領域支配の拠点城郭としての使用は無いと私は考えている。

 天正8年時点での上杉本国における戦時要害の姿として評価できるのではないか。

 私の大学院での研究は、上杉氏の城郭構造がどのように進化していったのか、というテーマであり、このことが私の大崎城への興味である。カメラを新調し、勢い込んで挑んできた。

 しかし、勢い込み過ぎて、カメラを家に忘れ、スマホでの撮影となった…。

 約2週間後、新調の一眼を手に再訪、確かめたかった事を確認しつつ城内隈なく撮りなおすも、スマホの写真の方がきれい…。このような私が修論を書くことができるのであろうか。

 

 大崎城縄張図(三条市史より引用)

 

   構造の概要と私の視点

 

 三条市史より引用した縄張図に説明用に加筆し用いる。

 帯郭5に囲われた山上が内郭で、5とその切岸が内郭の防御線となる。後背北東と南東尾根は堀切で警戒している。横堀エで囲われた郭6・7(三条市史では二の曲輪)は外郭で、外郭線の外に張出して設けられた郭8は外張と捉えた。

 内郭は切岸を防御の主とし、外郭は横堀を主としている。防御構造の差は普請時期の差で、指向は敵対勢力の方向を想定できると考えている。横堀で囲われた外郭、外張は、軍勢収容スペースとしての要求もあったと考えている。

   前編・山上内郭 

 郭5とした帯郭の内が、内郭と考えた。5は前後の切岸が高く鋭く、5の囲いと切岸が防衛ラインとなる。

 山上、1よりも2が高いが、土塁を備えほぼ方形に区画された1が主郭であろう。北と南辺は土塁がなく、北西隅土塁の脇に井戸を穿ち通行を制限、井戸脇Aを出入口としたと考える。1西辺土塁に沿って南進、南帯郭との接続部Bには屈曲造作がされていたように見えた。南帯郭はスロープ状に下り、帯郭5にここでも屈曲造作されたCで接続する。郭4の削平は緩く、ほぼ緩斜面である。主郭の後背にあたる高所3は土橋で繋ぎ、ここにも井戸を穿っている。南東の尾根は3の切岸が主たる防御構造で、堀ア(不明瞭)、イで警戒する。北東尾根は帯郭を堀ウとして遮断している。

 内郭への出入口は、5南端で、郭6南端との接続ならびに、竪堀キ、あるいはキ西際を通って堀エ南端外(城兵用の隠し通路と考える)と繋がっていたと考える。5、6南端、キ上端の集合からスロープへは先の屈強造作されたCで接続する。Dは縄張図では城道が通る出入口としているが、郭6出入口Eからほぼ直線眼前約20mで到達してしまうため、私は堀込の出入口ではなく、竪堀と考えている。堀込(枡形)で折れる造作は上杉城郭では稀であり、この城においても他の出入口は平入で、天正8年段階では難しいのではないか。

 

   前編まとめ

 

 防御の主は切岸で、南東と北東を堀で警戒している。堀切による警戒指向は七谷・下田方向で、その先の会津蘆名氏を意識した三条城管轄下の指向であろう。城内出入口は平入の開口・堀込で、接続部に屈曲、折れの造作がみられるものの、ルート全般に対する迎撃構想は発達したものではない。 

 大崎城内郭は、御館の乱以前の上杉城郭の姿と考えた(屈曲導線、帯郭5は外郭増設時の改修、普請の可能性もある)。

 

     

では前編、写真

 

山上

 

CーBを繋ぐスロープから主郭へ向かう

左方4は緩斜面、右方は切岸下に帯郭5。

 

切岸下に帯郭5が周回

 

スロープ上部は郭1西辺土塁の南部が伸び、侵入を阻んでいたと考える。

スロープから西辺土塁に沿いに至る屈曲導線が私には見え、その造作をBとした。

 

主郭西辺土塁に沿って北へ

 

郭1北西隅井戸際を回る

井戸が通行を制限し、その北脇から郭1へ入ったと考える

郭1は手前(西)は土塁で4と、奥(東)は段差で2と区画されている。

字なし

 

上撮影地後背4

削平は甘くほぼ地山の緩斜面。

領域支配の拠点城郭ではないであろう。

雑木で見通せないが、三条城の方向。

 

4の北縁から外(後編で詳述)

 

大崎城主郭1

方形を意図した区画。

 

2と1の段差

段差上が2。

 

2から1

2の方が高いが、1を区画したための高位であり、主郭は1であろう。

土塁左(南)端にスロープが当たり、右(北)端脇に井戸出入口A。

 

土塁南端

現状では突破可能(直接入ることができるのなら無防備すぎる)…。

土塁越しにスロープを監視したと考える

 

土塁北端 

郭内からA

 

 

後背

 

土橋で後背高所3と繋ぐ

 

土橋

 

郭3

ほぼ地山だが、横生えの木の手前に井戸がある。

 

3の井戸(水溜か)

 

3北東端

切岸下は帯郭5だが、北東尾根とで堀状(ウ)に造作している。

帯郭5堀ウ

北東尾根を歩いてみたが、普請は無く、北東はここが城限となる。

 

3南東端

桟敷段造作があり、切岸となる。

 

南東端切岸

降りるのを躊躇するほどの切岸(壁面)造作である。

堀アは不明瞭であり、防御の主はこの切岸である。

南東尾根には3から70m程に明瞭な堀イが設けられている。

アとイの間には造作は無い。

 

堀アは不明瞭

 

堀イ

薬研警戒堀切

 

 

内郭防御線となる帯郭5

 

スタート地に戻り、下方。

屈曲造作C

スロープと山上を囲う内郭防御線帯郭5との接続部には屈曲造を施している。

左(南)方は下り、郭6、また竪堀キから堀エの外へ接続。右(北)方は郭5へ接続している。

スマホの方がきれい

 

 竪堀キは、竪堀ではなく、外との接続口と考えている。後編で詳述するが、キは、堀エ外・底から見えない。見えないところを制限する必要は無いであろう。用途は隠し通路で城兵が出撃、撤収する際の隠し通路、あるいはこの城の外郭が戦時増設要害であるのなら、主となる出入口であるかもしれない。

 

横移動制限するには凄味に欠ける。

通路と観た。

 

帯郭5西の南部

5の前の切岸が内郭防御線になる。

 

縄張図で城道が通過するD

堀込枡形の出入口にも見える。

 しかし、郭6出入口Eからほぼ直線眼前約20mで到達してしまうため、5を分断する竪堀の可能性もあるのではないか(後編でも触れます)。堀込(枡形)で折れる造作は上杉城郭では稀であり、ことに天正8年段階では疑念を抱いている。この城の他の出入口は平入である。後世の人が通行することにより折れ踏み跡が付いた可能性もある。

 

上から

下(郭6)から

出入口か、竪堀か。

(私は<)

 

5北部

右は主郭側切岸。

 

5北東隅堀ウ(先掲)

 

5南部3南下

内郭は切岸が防御の主である。

帯郭は、横堀、箱掘りに転用可能で、構造としては上杉城郭ではハイなほうと私は捉えている。

よって、周回する帯郭5は、後の改修の可能性も考えている。

 

後編「外郭と丸外張の可能性」に続きます。

 

 参考文献 三条市史 

        (呈示した箇所の他は私の考えです)

 

 三条市の大崎城を書いていますが、その公開の前に、上杉の城郭構造「とばり」について前振りします。

 

 上杉の「とばり」について、手元に福原圭一(1)、遠藤公洋(2)の研究があります

 (1)福原圭一(発表年不明) 「中世考古学と文献資料1魚津城の「まるとばり」」

 (2)遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」、pp.120-3

 

 ●まず福原先生の論考を要約して引用します。

 
 『日葡辞書』では、Tofari 偶像の前面とか、非常に高貴な方の御座所の全面とかに張る豪奢な幕。
             Tobari 人を通さないように戸口に座ること。

 

 天正10年4月、魚津城攻防戦の最中、城中に籠る中条景泰が国許に宛てた書状に、城の構造をあらわす語と推定される[まるとはり(丸戸張)]という語がでてくる。
 
     「わさと人して申しあけ候、いまに一くるわ(曲輪)もとられ申さす、いかにも〈けんこ(堅固)にかゝゑ申候、せつしや(拙者)事、ひかし(東)のまるとはり(丸戸張)にたてぬま(蓼沼泰重)とのとねまり申候、あまりましか(間近)くよせ申候まゝ、…中略…、六三(寺嶋長資)ハたかなし(高梨)くるわに、せつしやとうせんのうちくるわにねまり申候、六三もちくちのひくに、てつはうしゆ(衆)・やりも(鑓持)ちハ申におよはす、つき候てねまり申候間、せつしやもちくちまるとはりにて候まゝ、ついていて申、したたかおいはらい申候、(後略)」(上越市史別編2345)

 

     「(前略)七日のはん(晩)ニたてぬま(蓼沼泰重)方たんかう(談合)申、ひかしのまるとはり(東丸戸張)ついていて申し、したたかおしはら(押払)い申候、(後略)」(上越市史別編2344)
  
 中条景泰の持ち口は[ひかし(東)のまるとはり(丸戸張)]で、まるとはりから撃って出て、敵を追い払っている。丸戸張は、出撃機能を備えた郭もしくは城の出入口防御施設と推定できる。 
 
 天正11年比定される卯月16日付けの甘糟長重書状には、「仍城町表之御曲輪、今度致構を成就仕候、并林辺踞候西之円戸張、今日鍬立候」(上越市史別編2733)とある。三条城の普請のようすを伝えたもので、三条城にも円戸張があったことがわかる。

 

 
 ●次いで遠藤先生
 
 遠藤先生は、下記2点の史料から「外張」の存在を挙げ、「外張」は外郭を想起させるもの、「戸張」は出入り口を想起させるものの二種があるとしている

 

 天正6年5月29日付け上杉景虎書状
 「(前略)春日山之儀押詰不為開外張候(後略)」(上越市史別編1523)
 
 永禄12年(1569)2月5日付け多賀谷祥聯書状
 「(前略)号三村地被御陣取、宿外張迄放火、(後略)」(上越市史別編649
 
 
 魚津城、三条城とも、遺構は消滅しており、また従来の研究では、他の上杉関連城郭において上杉の「とばり」の遺構は見当たらないとされている。
 しかし、私は頸城郡茶臼山城、越中富崎城、能登枡形山城・萩城などで、該当の戸張構造をみとめている。
 そして今ブログで書いている大崎城:外郭出入口の外に横堀で弧状に囲われた郭8を、丸外張と捉えている。
 
 とりいそぎ用意できる城で例示します。
縄張図に茶丸で囲った部分が私が外張・戸張と考える構造です。

 

大崎城縄張図(三条市史より引用・説明のため茶囲い加筆)

 

外郭の外、重要関門E前に弧状の横堀が囲う郭

丸外張と捉えた。

  

 

 

越後茶臼山城現地説明板を引用加筆

  

主郭の西も箱掘りを挟んで置かれた郭2

主郭西辺土塁が切れる南西端から城門1上を架橋接続、主郭出入口前を守る(3)。

(3)前掲註2遠藤論文、pp.65-6

戸張と捉えた。

 
 
能登枡形山城
主要郭B出入口前に堀入りを挟んで置かれ、主要部出入口前を守る。
戸張と捉えた。
 
 
 
能登萩城
主郭D出入口A前に堀を挟んで置かれ、主郭出入口を守る。
戸張と捉えた。
 
 
越中富崎城現地説明板を引用加筆
主郭A出入口前に堀を挟んで置かれたB
主郭出入口前を守る。
戸張と捉えた。
yabu…
 
 
   茶臼山城3(記事わかりにくい…)https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496890945.html

       能登枡形山城https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496900098.html

    能登萩城https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496899928.html

   越中富崎城https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496897991.html

   越後大崎城 明後日前編公開。ただし外張推定部は後編で、4月3日に公開。

 

九沢砦

 主郭周囲の帯郭から竪堀を連続して放つ(放射状竪掘)縄張図から武田の築城を期待し、反射板設置からその期待を喪失していましたが、遺構、しっかりありました。

ズーム

 標高645m、けっこう高くにあるように見えるが、比高は145m程でしかない(数値、堀名は、宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』に準拠し、同書を参考に記述する)。 

 

上写真オの反対側から

北尾根から堀イ越に九沢砦            

主郭には反射板が建つ。

東帯郭からは4本の竪堀が、西帯郭からは3本の竪堀が放射する。

主郭への出入口、導線はわからない。

西帯郭と北遮断堀切イとの間に、峠から至り、主郭北下段に取りついたか。

 

北西、登り口(後掲)からの到達地点

登り口から8分30秒。

 

 

西帯郭には土塁(手前)と竪堀(倒木)が通行を遮る

西帯郭からは3本の竪堀が放射する(後写真補足)

 

ちょい上方から

土塁と竪堀が侵入を遮っている。

導線に対する構造とすれば、私が至ったルートが導線になろう。

 

 

北、堀イ方向

 

主郭北下段へ取りつく

 

北下段から主郭
 

九沢砦主郭

宮坂先生は15×10m程度と計測している。

 

反射板

 

南下方には二段置く

下段は堀アのライン。

眼下に武節。

勝頼を守ったか。

 

下段線

西(奧)に堀ア

堀ア

 

南下段から南東に降る竪堀

 

 

東帯郭

 

南限の竪堀

 

南から東帯郭

期待の喪失に反し、竪堀の放射状様相が明瞭で、歓喜。

うぃ

 

北尾根遮断堀イまで帯

 

 

西帯郭写真補足

 

竪堀3本が放射

写真奥が堀アで、アの手前の竪堀付近に南からの山道が至っている。

 

アの手前の竪堀

 

西帯郭から放射する北から一本目竪堀

 

左から竪堀(倒木)、土塁、西の峠からの入り

 

 

登り口

 

ここhttps://yahoo.jp/rtpAHm

登り口まで、月芳さんに誘導いただいた。

ありがとうございました。

 

峠で左の尾根伝いに登る

登り口から4分20秒。

 

登った先が九沢砦

登り口から西帯郭北端まで8分30秒。

 

参考文献

宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版、p.418

 天正9年、名倉奥平信光は、信長の命により三信国境の城を固守するよう命じられた(愛知県史資料編織豊11 1463 私は、立地と出入口の工夫から、小田子砦もそのうちの一つではないかと考えている前記事小田子砦参照)。

 宮坂先生は2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』(郭名を同書に準拠し、同書を参考に記述する)のなかで、この上郷城をそう比定している。

 武田勝頼滅亡によって、この砦の任務は終わるとし、極く簡単なつくりであるが街道を監視する砦として急造したことが伺え、一年もしないでその任務を終え廃城になったとしている。

 美濃、三河、信濃の境目の城として先記事で書いた小田子砦から矢作川の上流(信濃境方向)に直線約5㎞、飯田街道を眼下に見ろし、現県境迄約1.3㎞の位置にある。https://yahoo.jp/vf92Wh

 

尾根両側を急壁と沢に守られた尾根上に、高所から尾根先に郭1、2、3と置き、後背に堀切でまもる。

 

登路は郭1と2の付け根に入るが、城道であるかは不明。

 

郭2に取りついたところ

左、郭1に登る。

 

登路のとりつき

 

沢からの登路

社のための路か。

 

 

1を見上げる

 

1への登路は2折れだが、これも社の路か

 

1へ

出入口かどうか…。

 

郭1

 

後方高く社

村の産土社城山八幡と蔵王権現が祀られている。

 

社の裏は土塁様だが、社造成時の土かもしれない

 

後背は堀切で守る

上幅7m

左は沢の水場に降る。

沢の水場

 

後背尾根から上郷城

 

社から郭1

 

郭1から2を俯瞰

 

郭2から郭3

区分けする段差がある。

 

段差

西部には石積か

 

 

郭3下(尾根先)にもレを横にしたような帯郭(通路?)がある

 

崖で途絶。

降りて、もう5mほど先も見ましたが、同じような崖でした。

東の沢の、こういった工事によるものかもしれない

 

尾根先先端付近から見上げる

 

側面から先端付近

 

登り口

郭2まで12分。

 

参考文献 

宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版、p.414

 4月以降は、大学院での勉強に邁進するため、重い内容でのお城の記事は書けなくなると思います。

 今のうちに溜りたまったストックの中から、どうしても書いておきたい城に絞り、時間の許す限り書きます。

 

小田子砦

 小田子砦は、眼下に矢作川と上村川が合流し、武節と岩村を結ぶ街道から信濃根羽(信濃境まで約6㎞)へと繋がる街道が分岐する要衝を抑える。矢作川は美濃、三河の境になる。

 ここhttps://yahoo.jp/KIEkeJ  

   美濃、三河、信濃の境目に位置し、遠山氏勢力圏だが、信玄末期から天正3年設楽ヶ原あたりまでは武田勢力圏、設楽ヶ原後は、天正9年に名倉奥平信光が信長の命により三信国境の城を固守するよう命じられており(下記史料)、奥平の掌握、改修も考えられようか(これが私のどうしても)。

 

   愛知県史資料編織豊11 1463 奥平喜八郎信光御宿所宛 滝川一益書状写 武家事紀巻35

   至信州堺目御取手可被仰付旨候、(後略)

 

登り口

許可を得て通行させていただいた。

夏は無理かも

 

鉄塔背後に突き進む

 

尾根伝いに登る

 

小田子砦概要

山上2の奥に主郭1が控える。

 宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版に準拠し、堀、郭名をおおよその位置に書き込んだ。記事中測値は同書に拠る。

土橋で堀アを渡った導線は、折れて馬出郭3を経由し、3でも折れて堀込の出入口で郭2に至る。

 

堀アと土橋(よくわからん)

 

ア直上

城道両脇、上方から段が監視する

 

城内側から土橋

 

城道南西(二枚上写真左)の段

竪堀が郭と隔て、区分けする。

 

竪堀

なかなかしっかり竪掘ってある。

 

 

城道上層へ

 

 

いったん左に折れ、郭3を経て右折れし、郭2堀込枡形に入る

ここも坂虎口。

 

出入口前を守る郭3

宮坂先生は郭3を馬出と評価している。

郭を経て折れ枡形に入る高度な出入口構造である。

郭3は先に見た郭4の段、竪堀を上方から監視下に置く。

きれいな写真

 

郭2出入口への折れ

桝形を掘り込んである。

 

下方、段・郭4を俯瞰

 

桝形と郭3

 

なかなか凝った出入口構造でした。

 

 

山上

 

郭2南西隅に入る

郭2奥に主郭郭1

 

南西側面

 

北東側面

 

郭2北西鉄塔跡付近

2は38×18mとかなり広い。

奧に郭1とは段差で区画される。

 

郭1と2を区画する段差

主郭1は高位にある。

 

郭1 28×11m

北東縁近く通行可(けっこうこわい)。

 

ほっと一息

左(南西)側面に帯郭、奧西辺に土塁。

 

南西側面帯郭

 

西辺土塁

後背は堀ウ。

土塁右端(北隅)が後背堀ウに降りる出入口。

 

土塁上から掘ウ

約40m下った鞍部に堀エ

 

振り返って

土塁上から郭1

 

 

土塁脇から堀ウへ降下する通路

 

下方から土塁脇出入口

 

堀ウ底

 

掘ウの先約40m下った鞍部に堀エ

 

堀エ

 宮坂先生はすぐに西にあるお地蔵さんが享保のものであることから、山道によるものに見えるとしている。

 

堀エ南西下方

山道様

 

堀エすぐ西のお地蔵さん

 

 参考文献 

 宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版、p.147

 

 引用史料 

 愛知県史資料編織豊11 1463 滝川一益書状写 武家事紀巻35

 

麻生野城(洞の城)

江馬氏の一族麻生野氏の城と伝わる。

 この城、郭の出入口に枡形を掘り込んで造作している。

 2012、2019年と江馬の城を数々歩いたが、江馬の城は郭の出入口の造作は未発達な印象を受けた。しかし、この城は明確に枡形遺構が現存している。武田の影響であろうか。

  不思議…。

 

 江馬氏に関して2012年に書いた「戦国期の北飛騨江馬氏」から、麻生野に関する記述を以下に抜き出しました。

 

 永禄2年、7年、武田の先鋒飯富三郎兵衛昌景が信飛境安房峠から飛騨を圧迫、永禄2年は誓紙人質取替し和談、10月11日江馬一族の麻生野慶盛が甲府へ御礼に行っている。永禄7年、時盛は次男善立(円城寺で僧籍にあった)を還俗させて人質として甲府へ差し出し、武田の軍門に降った。善立は右馬允信盛と名乗り武田の旗本となった。信盛は天正9年遠江高天神で討死している。

 

 時盛は、家督を嫡子輝盛ではなく、次男信盛に継がせようとする。信盛は永禄7年に武田に人質として差しだし信玄近習として仕えている。が、信盛は輝盛の性格を恐れ固辞したため、分家麻生野直盛の子浅之進慶盛に継がせようとする。麻生野直盛は永禄2年武田との和談の際、時盛の名代として甲斐に赴き、信玄より百貫文の知行を宛がう墨付を拝領している。麻生野氏は時盛と共に武田よりの家であった。

 これを察した輝盛は、刺客を送り父時盛を殺害、江馬氏家督を我がものとする。
 この事件、「江馬後艦録」にリアルに書かれている。天正元年、6年とする説がある。ちなみに天正元年は信玄没年、6年は謙信没年である。

2012記事(懐かしい…)。

 戦国期の北飛騨江馬氏1https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885953.html

 戦国期の北飛騨江馬氏2https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885965.html

 戦国期の北飛騨江馬氏3https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496886005.html

 

麻生野城主郭1

 記事中の郭・堀名は、宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版に準拠し、同書を参考に記述する。

 前後(西東)を堀ア、イで遮断し、アの先に郭2を置く。堀イに面した東端と東南部に土塁を盛る。

 南に枡形を掘り込んだ出入口を設け、竪土塁を土橋として導線とし、帯郭から堀ア東部を架橋したか。

 また北にも帯状の通路があり、堀ア北掘下げ付け根を通り郭2に至る導線が残る(後世造作か)。

 

上写真の撮影地後背

 壁下に堀ア、郭2(後掲)

両側(左は麻生野川、右は沢)急壁で要害

 

郭2から主郭壁

 

主郭の中ほど、石の集積は神社の基壇か

 

主郭東面と東南部土塁

東面土塁下は堀イ。

東南部土塁西端に枡形出入口。

 

後背を守る堀イ

うぃ

南東掘下げは城外側(東)に土塁が沿う。

南東掘下げ

 

北西掘下げは両側に土塁が沿う。

北西掘り下げ

 

 

東土塁上から主郭

 

南に枡形に掘り込まれた出入口

江馬では特異な構造。

 

西から

不思議な想い。

石があり、石を用いた造作があったかもしれない。

 

桝形下方

竪土塁を土橋として伝ったようだ。

折れ造作は見られない。

 

下方から

竪土塁から枡形への導線

 

南斜面エリアからは帯郭から堀ア南掘下げ竪堀部から架橋、あるいは土橋まで揚がり接続か。

 

帯郭から堀ア南竪堀部

 

堀ア上方

 

 

北斜面の帯状通路

 

堀ア竪北掘下げ部付け根に降りる。

 

堀アを土橋で郭2に接続

 

郭2

左右(南北)急壁、尾根筋脇に掘り込まれた出入口。

 

南 麻生野川側急壁

 

北 沢側急壁

 

西尾根筋縁北脇に堀込出入口

 

出入口外導線

 

導線から郭2出入口

 当たって折れている(なめらかなカーブという形容が妥当か)が、張出様基部は強固にはみえず、櫓がのる構造ではあるまい。

 

出入口接近

 

堀込

主郭も、ここも、出入口は明瞭で、江馬では異様である。

 

 

尾根筋下方

ここを登ってくる。

 

尾根筋から郭2西辺縁

出入口への導線は岩の左、木の陰。

 

登り口https://yahoo.jp/x62J5f

標注は江馬氏城館跡洞城跡。

ここから郭2出入口まで私の足で7分。

 

参考文献 宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版、p.391

 

 

後編では西尾根を可能なかぎり詳述します。

 

 西尾根は三木勢力圏方向で、横堀・帯郭・堀切・壁で防備された郭2、3、4を置き、さらに土塁を組み合わせた厳重な遮断線となる堀カ、キ、クを設けている。

 ただし、荒れている。私はこちらから幾多の苦難を踏破し、主郭に至った。

 

主郭1西尾根郭2

右わきに北尾根堀イから主郭西下を巡る横堀

 

堀イから巡る横堀

 

郭2東方郭①南から東下方向

 あらためて申し上げるが、西尾根は、傘松城1で辿ったエリアとは別天地の荒れっぷりである。

 宮坂先生の縄張図をもとに踏査、写真を精査したうえで掲載したが、もしやすると比定構造に誤りがあるやもしれない。ご容赦ください。

 

2の西、掘ウ郭3を置く

堀ウは西から南に横堀となる。

堀ウは北の帯郭から横堀ー帯郭への変化付近で郭2へつながる通路として使用されたのではないか。

 

北の帯郭から堀ウ

 

南から堀ウ

横堀状。

 

堀ウ横堀東の帯郭

1で掲載した南東尾根帯郭の一段

 

郭3

 

 

堀エの先に郭4

4は側面に帯郭を付随する。左(南)の窪は出入口か。右(北)の帯郭には竪堀が有る。

 

堀エ

 

郭4窪か(写真比定怪しい)

南帯郭との出入口か。

 

郭4北下帯郭

竪堀が通行を制限。

北から西の尾根先にかけて土塁カが設けられていることにより横堀状になる。

その塁線脇下方には掘カが遮断し、傘松城域を区切る防御線となる。

 

竪堀

 

土塁線オ

塁線脇下方に堀カ

 

堀カへの降り口

屈曲造作有か。

 

堀カ 降り口下から

 

南掘下げ

 

北掘下げ

 

堀カ越に傘松城

ここが傘松城主域となる防御壁。

 

 

堀カ西

西に約80mで堀キ

倒木で通行困難な箇所が続出する。

この写真程度は易い。

 

城側に小さい堀、土塁、堀キ

 

小さい堀と土塁

 

堀キ

キは城外側にも土塁と小さい堀が付随する。

豪快な遮断要請は危機感のあらわれか。

もう一枚

 

南東掘下げ

 

北西掘下げ

 

城外側にも土塁がある

用途はよくわからないが

そのことによって落差が厳しく

敵兵に遥かな遮断を思わせる

 

土塁外に付随する小さい堀

 

堀キ西

キから約130mに堀ク

 

 

堀クと塁線

 

出入口か

 

尾根筋下方から

 

約100m下方に堀ケ(図外)

 

堀ケ

 

この先、傘松城跡遊歩道の標柱のある林道に至る。

 

林道・傘松城跡遊歩道標注

(宮坂先生が中断まで林道が登っているという北尾根の林道は、鎖が張られて進入不可)

https://yahoo.jp/qlb_Py

 

遊歩道は荒れていて(2019年6月時点)、危険かつ困難を伴う

このように、通行不可という表現が適切な箇所があり、困難を慎重に乗り越えつつ堀カまで27分。

 

苦難もあり、江馬の横堀、遮断堀切造作等、見応えのある城でした。

 

 参考文献

 宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版、pp.380-1

 

 ヤフー→アメーバへの移行に伴う記事内の写真、文字、スペースのズレは、内容多の記事で補正できなかったもの若干(高堂城など)ありますが、一通り補正が済みました。
 記事内容の精度は公開年次を確認いただき、2011年当時の「歴史好き」から、先達の影響を受けながら嵌っていく過程としてお汲み下さい。
  2014年あたりから附記しだした概念図は、愚図で、公開するレベルのものではないのですが、自己ブログ説明用途限定(転載不可)として寛容ください。
 

目次 ★は自薦の力作です

 

 
 ○新潟県頚城: https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496882242.html

  ★第一義  第一義に至る道 春日山城御屋敷郭黒金門口 春日山城御屋敷郭愛宕口 

  春日山城1-4 裏  根知城遠景 徳合城  御館と北条を米山で分断旗持城,,猿
  毛城,北条城遠景  箕冠山城、鮫ヶ尾城、鳥坂城遠景、堀之内館  
    関東遠征の道1日目 早川谷から越中口へ 越中への道能生谷 松山城   
  ★不動山城その1要害集落から三郭への城道  ★不動山城その2三郭から主郭へ  城ヶ峰砦
   大間城 その1-2 米山寺城 米山寺館 岩手城 箕冠城その1-3 国田城1-2 長峰城
  ★茶臼山城1-3 鳥坂城 ★鳥坂城新城部 ★鳥坂城畝型施設 ★赤坂城 田切城 ★黒田城1-2  
  頸城郡北東域の城序・まとめにかえて ★町田城1-2  顕法寺城 ★雁海城1-3まとめ 
  ★直嶺城1-2  ★鮫ヶ尾城1-2 ★入河沢城前1-3  まとめ ★家ノ浦城  旗持城   
 
○新潟県中越:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496881997.html

  関東遠征の道 2~4日目 廣瀬郷の御館の乱 栖吉城 古志長尾 琵琶懸城 

 栃尾城 関東遠征の道 5日目樺野沢城ー荒戸城 関東遠征の道6日目荒戸城ー浅貝寄居城 関東へ
 荒戸城 その1 搦手から主郭 荒戸城 その2 主郭から大手へ 神社の城?加茂山城塞群 加茂要害      山城 ★高柳城1、2 岳山城 ★薬師山城1,2 河田家文書展 今井城 ★雷城1-3 菅名氏 護摩堂城1-2  与板城1-2  ★本与板城1-4 見附城 ★大面城概要1-4 升形砦 ★小栗山城1-3  椿沢城1-2
  北条城1-4 上条館城 黒滝城 細越城1-4 薭生城  ★柄沢城 牧城 本堂山城
 
○新潟県下越:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496882173.html

   加治氏・中条氏 鮎川氏大場沢城 竹俣氏竹俣館・竹俣東城・要害 本庄氏1里本庄 

  2猿沢城 3村上要害館地区 大川氏1藤懸り館 2ふる城 色部氏1-3

  越後の村の城 荒川口城・大沢城 ★浦城 序・前・後編 池ノ端城

 
○ 戦国上杉圏の特徴的な普請:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496892001.html   
  畝型阻塞 畝型竪堀 畝型空堀 泥田堀 横堀1-2 堀端の普請1-2 逆四角錐台形虎口

 

○富山県 :https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496884322.html

 上熊野城 大道城1-2 ★戦国期の越中神保氏1-2 増山城1-3 松倉城塁群 ★升方城1-2

 松倉城1-3 論田山城と亀谷銀山 論田山城 中地山城 ★横尾城1-2 ★宮崎城 ★元屋敷城 
 ★白鳥城1 中村山城 海老瀬城 ★湯山城1-3 ★井田主馬ヶ城1-2 ★城生城 
 ★池田城と樫ノ木城 池田城1-2 樫ノ木城1-3  亀山城1-2 松倉城平峰砦 水尾城 
 ★唐人式部を追って ★富崎城
 
○石川県:福井県 :https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885420.html

  玄蕃尾城1-2  ★唐人式部を追って★甲山城1-2 ★能登にみる天正期上杉の城郭普請 はじめに 

  ★丸山城 ★七尾城尾根㉖・長屋敷 ★熊木城1-2  ★飯田城・追補 

 ★能登にみる天正期上杉の城郭普請 まとめ ★萩城  黒峰城   ★町屋砦 ★枡形山城 ★古府谷山支群 ★古府桝形砦 石動山城

 
○長野県北信:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496881710.html

 大倉城 戦国信濃島津氏 ★若宮城前後編 芋川領 割ヶ岳城 壁田城 替佐城 甲越最前線 

 葛山城 旭山城 森将軍塚古墳 鷲尾城  ★仙当城1-3 ★大日方館 古山城 ★山口城1-3 

  飯山城 毛見城 若槻山城 ★髻山城 120桝形城 妻女山から53天城城52鞍骨城  ★52鞍骨城1-3 

 大峰城1-2 ★葛尾城1-3  姫城 岩崎城1-2  ★雁田城1-3 三日市場城 更科峠旗塚 菅の山城 

   井上城・竹の城周辺 井上城小城 井上城大城 ★竹の城1-2   謙信道1・石動の館 真山城1-2 
 謙信道2・山田城(枡形城)1-2 謙信道3・灰野峠周辺 ★大岩城1-3 雨引城1-2 ★月生城1-3 
 ★須田城 ★越後に迫る武田の脅威 ★城坂城1-2 ★中条城・累城1-2 
 ★越後に迫る武田の脅威エピローグ(黒岩城から) 中小屋城 鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城・夜交氏山城 序 
 鴨ヶ岳城1-2 ★鎌ヶ岳城 ★夜交氏山城 大城1-2 小城 ★平沢城1-2  ★野尻湖周辺の城 蓮城 
 ★古海城 ★狢倉城 ★上境城  ★小境城1-4 ★田草城1-2 ★春山城(綿内要害)1-3 箱山城
  ★尼巌城前後編 ★寺尾城1-2  ★金井山城 ★竹山城  ★霞城1-3 小松原城 吉窪城 上尾城 
 和田城 ★城ノ入城1-2 ★蟻ヶ城 左右前山城 松原城 柏鉢城前後編 戸隠栃原城館群 福平城
 円光寺館 大昌寺山城 古城 鹿谷城 牧之島城前振り-本編  
 
○長野県東信・中信:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885704.html

  梨沢城館157・向城158(古城・依田城)   望月城126 式部城134・式部の館138 鳥屋城75その1-2  

 中山城79その1-2 有賀城  ★虚空蔵山城 ★ケムリの城    積城・亀井城 高津屋城・鳥小屋城 

 
○長野県南信:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496889614.html

 222上おかた・下おかた屋敷、223上手開土屋敷 119大島城1-3

 124一夜の城・123黒河内の城・125中島の城・126埋橋の城 ★170的場城 162藤沢城
 193塩田城 田立口 田立砦 熊の城
 
○山梨県:  https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496882247.html

 新府城 新府城の外郭遺構能見城防塁 笹尾城 白山城  要害山城

 
○群馬県:  https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496882244.html

  関東管領の府 平井城を訪ねて その1~その4 根利道 五覧田城  深沢城  

 
○東北: https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496889182.html

  山形県 ★舘山城1-2 藤沢館 小国城前後編 大浦城 高館山

  福島県 会津久川城1-3 ★向羽黒山城1-3
 
○岐阜県: https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496886150.html

 ★関東管領の府 平井城を訪ねて その5 石徹白  戦国期の北飛騨江馬氏1-3 江馬氏居館跡公園

 ★高原諏訪城1-2 ★小鷹利城 向小島城1-2 小島城 天王山砦 阿寺城  鶴ヶ城 小里城山城 

 飛騨松倉城1-2 ★広瀬城1-4 織田信長親子廟 岐阜城1-3 五郎小屋砦 刈安城 前田砦前・後編

 城山砦 久々利城 和田城 久須見城 ★中尾砦 城址山砦 猪狩山城 補足 馬隠し砦1-2  霧ヶ城

 久々野城 牛臥山城 切手城 細野城 山田砦 傘松城1-2 麻生野城 小田子砦

 
○愛知県:  https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496897269.html

 作手へ 亀山城1-2・追補  ★古宮城1-3 ★賽之神城 文殊山城(作手エピローグ) ★鍬塚城前後編

 ★寺脇城 清水城 ★日近城1-2 奥平圏の城1-4 吉田城 小田城 笠井島城 松平城山城 松平城
 和田城 菅沼城 川尻城 月ヶ谷城 五葉城 上郷城 九沢砦
        
○三重県: https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496887558.html

    田辺城 采女城 百地丹波守城 宮山城 城山城  滝之川城1-2 北畠氏城館群1-2霧山城1-2

  大河内城1-2 三瀬館 具教卿胴塚・首塚 ★田丸城1-4 北畠具親城
 
○西国  :https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496882249.html

 兵庫県 出石城 有子山城 鳥取城攻囲本陣(太閤ヶ平)1-2 上月城

 
 ○東京都・埼玉県 :https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885418.html

  滝山城1-3  勝沼城1-2 氏邦鉢形領紀行 序・一乱・終章 ★花園城1-2  天神山城1-2

  千馬山城1-★2  日尾衆と日尾城周辺     日尾城 鉢形城1-3 ★八幡山城
 
○神奈川県  :https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496883463.html

 石垣山城1、2

 
○静岡県: https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496882245.html

  深沢城  丸子城 葛山城 興国寺城  柏久保城 狩野城 鎌田城1-2 滝境城 佐久城 

  中村城山砦 ★諏訪原城

 
○滋賀県 :https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885422.html

        近江八幡城1-2 安土城1-4