えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

 卒業に必要な科目履修の目途がついたので、今日から修士論文に取り掛かった。

 序章の内容は、昨年の中間発表の内容を文章化すればいいと考えているが、型の参考に、遠藤先生と竹さんの論文の序章やはじめにを読み返す。

 歴史書懇話会の春の書籍販売の案内もきていたので、15冊ほどFAXで発注。7万円を超える注文になったが、ありがたいことに年度毎に大学院支援費をいただけるので、読めそうな分量を躊躇いなく書き込んだ。

 作手の原田先生から、作手の一番なりのトマトが届いた。母も、すげえなって驚いて喜んで、4個裾分け。

 夕飯にさっそく、いただきました。熟れてリコピンステーキ。毎年美味い。

 例年5月には、作手古城まつりというイベントが開催されるのだけど、COVID-19の影響で昨年今年と二年連続で中止になっている。長い災禍ではあるが、ワクチン接種が始まったので、広まれば、来年には明かりが見えて来るのではないだろうか。作手のトマトを頬ばりつつ、明るい未来が見えた想いがした。

 修論開始日、リコピン補強のスタートダッシュになった。

                            

 作手のトマト

原田先生、ありがとうございました。

 

 

原田先生との記事

 

                                                                など

 修士課程卒業に必要な科目履修が、あと2科目となり、そのうち1科目のレポートを作成中。

 毎月7日か提出期限で、追い込めば5月7日に間に合いそうな状況なのだが、逃避する。

 

 逃避して、越中松倉城の横堀を投稿。

 

 松倉城の横堀は、佐伯哲也(2012)『越中中世城郭図面集Ⅱ』、桂書房の25ページに、松倉城唯一の横堀と記されている。

 松倉城は、私も執拗なほど繰り返し踏み歩いているが、この横堀が確認できていなかった。

 そこだけに狙いを定めて襲撃、遭遇に成功した(しつこい)。

 現地設置説明板を切り取り、オレンジで囲った。

凡そ(※)、その囲ったあたりに在る。

※二の曲輪と三の郭間の北下、林道の下方が横堀南東端で、図の囲い下方の段とは位置が合わない。

 

直上から

せっかく遭遇できたのだが、一眼カメラの調子が悪く、スマホでの撮影となった。

 

斜から

酔いそう…

 

もう妄想の世界

 緩でもないが登坂不可ほどでもない斜面に、深さ70㎝、上幅(前面土塁水平面)180㎝、長さ約60m(なかほど盛途絶あり)にわたって巡らされている。腰に満たない深さから、塹壕状射撃陣地かと思ったが、前面斜面は見通しが効かず、射撃陣地とはなり得ない。

 

なんでこういう写りかたなの?

 

中ほど、いったん盛があり途絶

畝でいいのかな。

その後背壁上には竪堀状の掘り込みがあり、連動した構造のようだ。

 

横堀後背壁

上平坦面は林道造成面。

 

後背壁上の竪堀状の堀込

ここは林道面。

 

畝の西

 

横堀西端

この先はトラバースも登坂も不可な急斜面のため、敷設不要。

 

畝の南東

 

まともな写真

松倉城横堀南東部を南東から。

松倉城に横堀は在った。

 

 

 越中と能登の城は、昨年来、再訪しつつ構造を再度考察している。

 大道城や樫ノ木城などのそれら越中の城の記事は、7~9年も前の記事なので書き直したいが、その時間がない…。 

 科目履修が済んだら(あと二科目・うち1科目はほぼ済)、自分の考えを整える意味で書いてみようか。

 

  畝状竪堀は、おおむね永禄11年以降の上杉勢力圏(越後、信濃、越中、能登)の城郭に、頻繁に見ることができる。

 近年、春日山城には畝状竪堀はなく、越中松倉城とともに、上杉直営の城には普請されなかったのではないか、という論文や報告に幾たびか沿遇した。

 しかし、2020金子拓男作図上越市春日山城跡遺構図には、山頂の裏側の井戸郭北下方に畝状竪堀がとられている。

 私も春日山城では見たことが無かったのだが、かねて、佐藤春雄さんに「井戸郭の裏にある」と聞かされていたので、残雪を衝いて(藪期は無理)、確認に行ってきた。

オレンジで囲ったところ

ブログ説明のために左(北)からア、イ、ウと命名した。

赤で加筆した竪、薬研、箱掘は、2014年「春日山の裏」に掲載。記事末に貼付。

 

春日山城

 

今日は裏

 

 

あった

雪が堀ア、手前に竪堀イとウ。

 

うりぃ

 

うりぃ

 

竪堀ウ

下から。

 

イとウを仕切る畝

 

乗り越えてイ

イ下方から

 

下方

命がけ

こんなとこ来るもんじゃない。

 

 

アとイを仕切る畝

真下からは危なくて撮れなかった。

 

ア竪堀部

 

アを登る

 

横目

春日山城に畝状竪堀は存在する

 

アを登り詰める

 

ア堀切部

 

春日山城護摩堂・諏訪堂

下方に一段有り。

ここ、2014年に裏の箱掘と薬研堀を探しに行ったときに通っている。

その時は畝状竪堀に気づかなかった。

すごい藪、かつ危険な降下だった。

 

7年前、ここを降りて行った

下の雪の右上部が箱掘。

あれから7年か…。

7年前も今も、俺って何してんだろ。

 

 

ア堀切部から竪堀部

下方左に畝が写る。

 

しつこいがもう1枚

 

イ直上から

こんなとこに要るか?

 

うぃ

 

井戸郭西の堀切

 

 

行き方は、危ないのでヒントのみ。

時期の選定と装備が必要です。

 

春日山城井戸郭

 

井戸郭北辺縁からターゲット堀ア、竪堀イ、ウ

ここから目視の時点では、イ、ウは把握できず。

 

井戸郭西の堀切

 

井戸郭西堀切北部

 

北端

危険!

 

 

とても危険!

 

 

 

 

  前振りでは、尾根道を郭1まで辿りました。

  本編では、山上に残る人の手による構造を辿ります。

  高校生(17歳)の私は、気にも留めず、見ていないエリアです。

  越中牢人衆が差置かれた郭、秋山が差置かれた実城は何処でしょうか。

 

郭1を西端祠脇から

主要な郭ではあるが城の前衛にあたり、実城とするには不向きか。

ただし、登山道を抑え、かつ越後を視認できる利点はあり、横目として秋山が入る実城には適か。後ろに土塁と堀切を配しているのも、籠城衆に対する優位性を示すものかもしれない。

 

祠の裏に堀ア

土橋で稜線に繋がる。

 稜線の北(以下海側)は急傾斜の天険利用で、南(以下谷側)はやや傾斜が緩く、稜線を風除けとして、低く削平地を設けている。

 

ア海側

 

ア谷側

やや傾斜は緩く、堀下方にスペース有。

 

ア谷側下端から稜線谷側下方のスペース

 

一旦途絶える

 

堀ア土橋

 

 

稜線

谷側に小削平2。

 

振り返る

稜線からア越に1。

 

稜線

谷側に3、4と削平あり。

 

3

牢人衆の身代に応じて駐屯していたのか。

いや、それでは反乱が起きた時に脆い。

 

次いで4

 

4

高岡先生(1)は17×8mを測り、谷側に降りる通路を記す。

 

谷側にお降りる通路?

これか

 

 

稜線上最高所(標高331m)に郭5

 

海側の削り残しは風除けと物見になる

 

削り残し

 

削り残しだが、一部叩いているか

物見台基部か。

 

削り残しから越中方向・境要害(宮崎城)を見る

軍勢、どこ通ってくるんだよ。

 

5の北は、稜線を下り、鞍部に堀ウ(後掲)

 

削り残しから5削平

高岡先生は30×12mと測る。

谷側斜面に竪堀一本。

 

谷側斜面に竪堀イ

 

ここに在んの!

竪堀イ。

下端は帯状通路で、畝型阻塞形状2基(エ)を認めた。

 

イ下端帯状通路

 

そこに畝型阻塞形状(エ)2基

これは、高岡先生も植木先生(2)も採っていない。

さいしょ、井戸かと思ったが、丸窪形状は畝の間に動物君が居着いた跡だと思う。

帯状通路は稜線谷側下を郭6に至る。

郭6側(西)から

通路を畝型阻塞と竪堀で止め、稜線上主要部郭5、1への到達を阻止する構造であろう。

ピンクリボンがあったが、両先生が採っていなければ、初出か。

 

竪堀イを下方から

 


通路を西進

堀ウ谷側下端に遭遇

なお西進すると堀オ下端を引っ掛けて、郭6へ至る。

 

稜線上、鞍部は堀ウ

 

稜線の堀切加減は、ラストにお楽しみください。

 

帯状通路をなおも西進

 

堀オに遭遇

オの谷側を引っ掛けて、同方向に下ると郭6。

 

稜線の堀切加減はラストで。

 

オを引っ掛けた下方に郭6

 

6

高岡先生は50×7.7mと測る。

谷は、水場であり、海風の心配がなく、居住には適している。

 

谷側

この上部(右)が水場。

 

水場

植木先生は、この谷筋の頭を二重集水井戸とし、水路講による仕組みを詳述している。

このあたりの記述は、日本城郭大系7(3)と同じで、大系には、茶筅・木札・木箱・からわけなど、採集した遺物の実測図を掲載している。

 

谷下方

植木先生は、この谷を伝うルートを記しているが、登り可能なのだろうか。

 

谷の対岸

勝山城の後背尾根からU字状に水場を抱くような高所

高岡先生は、堀オの先は、城外としているが、植木先生は、この尾根上も含めて遺構としている。

 私も、この尾根上には兵の駐屯が可能だと思った。しかし、籠城兵の他に、越中を伺う部隊まで、この山の上まであげるかは、疑問に思った。

 オの先は、防御を意図した構造が私には認められず(緩い削平や堀、土橋形状はある)、番外として写真を後掲する。

 

稜線の堀切へ戻ります

 

堀ウ

 

土橋を残しているようだ

天下の険・親不知を利用した土橋

 

谷側

下方に帯状通路と接続(先に通行掲歳)。

 

堀オ

 

谷・郭6側(先に徘徊掲載)

 

海側

 

防御施設は、ここまでだろう。

 

 

番外(堀オの先)

 

 

堀形状

 

土橋形状

カーブの先に動物クンの集合住宅在り。

立ち入りの際はご注意下さい。

 

落ちたらヤバい

 

水場を抱く尾根

  私も大勢の部隊を置くことができると思ったが、防御区画ではないため、増援の越中出撃部隊を、この山の上まで揚げるかな、という疑念は湧いた。

 

勝山城を後背から

 

 1を前衛に、後背に堀切を重ねて防御しているが、どうやったらこの城の後背にたどり着き、城を脅かすことができるのだろうか。子不知トンネルのネの北西に緩いイ尾根があり百mほど下ってみたが、堀切等の防御普請は無かった。下方は地図からみても緩くはなく、ここから仕寄らるれる懸念も無かったのではないか。『上越の城』(4)には、大沢に館跡が設定され、大沢から登る道があるとする。その経路が可能なのだろうか。

 

 今年一発目の本格的な登山で、勢い込んで登り、徘徊しましたが、下山して越中もう一城と下山しようと思った矢先、膝周囲に激痛がおき、それどころではなくなりました。

 生きてお馬さんの所まで降りることすらおぼつかない状況でした。

 心は17歳時とそう変わっていなくとも、身体は51歳という年齢相応なんでしょうか。

 いや、しばらくぶりの山だったから、それも天下の険・勝山だったからだ。

 登っていれば、徐々に力もついてくるさ!と現実を見ないふりしつつ、サロメグルコ(佐藤製薬のグルコサミン)を飲み始めたえいきさんでした。

 

(1)高岡徹(2019)「戦国期両越国境における上杉・佐々の攻防-越後勝山城(糸魚川新城)と「越中牢人衆」を中心に-」、富山史壇、第190号

(2)上越市史専門委員会中世史部会編(2004)『上越市史叢書9上越の城』、みどりシステム、pp.172-5

勝山城執筆者

(3)新潟県・金子拓男編(1980)『日本城郭大系第7巻』、新人物往来社、p197-9 勝山城執筆担当は上越の城と同じ植木宏

(4)前掲註2、p.172

 

 2011年のつたない記事ですが、松山城張っておきます。

私は、親不知の勝山を糸魚川というかという疑念があり、糸魚川新城は、より糸魚川に近く、上路道と北陸道双方の抑えができる松山城の可能性もあると思っています。ただし、普請は小規模で、天険かつ普請が施された勝山城の方が妥当とも思っています(勝山城>松山城)。

 

 

 

 

勝山城

落水城とも呼ばれ、越中ー越後国境、親不知の険に屹立する

ズーム

この城、高校生(17歳)の時に、青海町出身の悪友と登った。

34年ぶりの再登山。

 動機は、高岡先生が「戦国期両越国境における上杉・佐々の攻防-越後勝山城(糸魚川新城)と「越中牢人衆」を中心に-」(1)という論文を、2019年に富山史檀に発表されて、その中で、勝山城を糸魚川新城と比定したからである。

 

 糸魚川新城とは、簡単に書くと、天正11年、佐々成政が境之地岩船藤左衛門尉が構えを拵在之所(宮崎城)則追払、魚津・小出両城を請取、城主須田相模守を命を助け、舟手を以送遣候、と、越中一国を平定し、いよいよ、至于春日山可乱入鬱憤候、と越後討入を画している(上越市史別編2793以下:上番号)状況下、景勝が越中口を固める必要から取り立てた新城である。

 

 同年2月26日、景勝は、大関常陸介と秋山伊賀守に「其元普請昼夜劬労察之候、-中略-、新地之事候間、後略-」(上2672)と新地の普請に努めさせ、その苦労をねぎらっている。

 

 また4月13日には、直江兼続が、越中口と信濃根知口に近い根知城将の西方房家に「急度令啓候、仍越中牢人衆糸魚川新地ニ被差置候、依之、材木・薪以下於根知領可為執由、後略ー」(2729)と、越中牢人衆を差置きことと、また根知領の材木、薪の供出を告げている。

 

  17日には、先の秋山に、景勝が「糸魚川新地在城越中衆ニ申付候、為横目其方実城ニ可差置候条、乍太儀、早々相移、用心普請厳重ニ可相勤候、猶巨細大石可申候、謹言、」(上2734)と糸魚川新地の在城する越中衆の横目として実城に移り、普請厳重に努めるよう命じられている。

 

 こういった糸魚川新城を、高岡先生は、この勝山城に比定したのである。

 

 私の認識では、糸魚川新城は、近世清崎城の前身か、松山城だろうと思っていたので、ならば見てこようと、34年ぶりに登ることになった。


ごらんの山なので、天嶮で、北東下方⛩記号から尾根を急登する

無論、キツイ。

 尾根筋にも3か所ほど、たるみを利用して道を頭から押さえる防御点を置いている。最初のそれは、北東に竪堀を穿ち、関門造作を成している。

 

  登り口

旧ドライブイン勝山跡地に駐車スペース有

 

駐車所脇の石祠

勝山城の鎮守、または謙信さんの軍神などと俗称され、また当時の番所の存在が指摘されている(2)。

標準地図の⛩がここ

 

裏から海岸に降りることができる

 

勝山を見上げる

ここから比高約280m。

 


いざ

 

標高110m付近の関門造作

(スマートウオッチ操作不慣のため、GPS高度設定が度々狂い、本記事の高度は不正確です)

右側に回り込めないように竪堀を穿つ。

 

竪堀

 

ふたつめの押さえ

 

標高172m付近

たるみをそのまま利用したようだ。

 

道の頭をおさえる

 

190m付近、3つめの押さえの下

石積か、と胸中の虫がどよめいたが、自然石のようだ。

 

標高206m付近のおさえ

ここも自然地形。

脈拍163叩いてる

道の頭を押さえる

 

岩場をよじ登る

34年前もこれか。

北陸道を見下ろす

といっても落ちてしまう。みてるだけでは、いまいち効かない。

 

この上からいよいよ城らしくなる

 

おう、掘込み出入口か!っと驚愕。

上から

こんなので、興奮していては、先に進めない。ここまでで45分。

 

おう、段差普請か!

 

いよいよ山上

導線(直線だが…)と、掘り込み出入口にも思えるが、みんなの踏み跡かもしれない。

 

うぃ

 

山上標高328.3mの郭1

高岡先生は約30×25mと測る。

34年前の記憶がよみがえる。

 

出入口

往時の掘込か、みんなの踏み跡か。

 

越後側(糸魚川)眺望

ちょい右

焼山、火打。

 

 

海側には土塁痕か

攻め登ってくるはずは無く、風除けだろう。

 

絶対登ってこない

 

富山湾をはさんで能登が横たう

どうだらんまる!越後の海は(ほぼ富山湾だが)、きれいだろう。

 

肝腎の越中方面は、天険過ぎて、見えない…

この城は、北陸道よりも、海上交通のほうが主眼か。

 

反対、南の谷側

こっちも登っては来れない。ただし、谷底(地獄谷)の沢伝いに城の奥に至るルートがあったそうだ(3)。

 

 

西に祠と土塁か

土塁の後ろは堀切。

 

堀切

高校生の私は、ここまでで帰った。

 ふつうの高校生であれば、そうだろう。

いや、当時ここまで来るだけで、かわったやつかもしれない(だって薬学部志望の受験生)。

 

17歳の私が見た此処までは、ほとんど人の手の加わっていない天険利用だった。

ここから奥は、人の手が加わった城郭構造である。51歳えいきさんの本編で。

 

(1)高岡徹(2019)「戦国期両越国境における上杉・佐々の攻防-越後勝山城(糸魚川新城)と「越中牢人衆」を中心に-」、富山史壇、第190号

(2)上越市史専門委員会中世史部会編(2004)『上越市史叢書9上越の城』、みどりシステム、p.172

(3)前掲註2に同じ。

 雁金城保存会様の講演を無事つとめることができて、今日はオフ。

といっても、やはり時間がもったいなくて、来月5日までに仕上げたいレポートもあるので、朝一時間だけ勉強。その後、道場の除雪。

してたら、除雪機が故障…。スコップで頑張る。それから1時間だけウエイトして、銀行。

入金する現金忘れて、できず。なんか、疲れてるんか。

 昼から車で上越(関越)国境清水峠近く、直路城の冬景写真を撮りに遠出(といっても県内)。

 

 

写真中央の山が直路城

城の右後方が清水峠方向。

冬は城には居なかっただろうが、敵も、冬の清水峠を越えては来ないだろう。

 

ズーム

 

 

 21日にお話しさせていただく頸城村の山城のうち、一つだけ未踏だった。

 先日、偶然に頸城の城友達が薬局にやってきて、「一か所いってないとこあるんだよね」って話をしたら、「明日おれなにもないよ。行けるよ」ってなって、「雪もだいぶ解けて明日晴れそうだから、雪固い朝にでも挑戦してみる?全景写真だけでもいいしね」という展開になって、もう一人の頸城の同級生もOKってなって、雪山に挑むことになった。

 

 

大高坂城

雪はしみて、空は晴れて、幸運が変態に降り注ぐ

 

山城だから、天険…

 

変態1号

 

山上

 

雁金城の一郭の視認を受ける

 

ピーク

 

尾根後背に堀切あり

オレンジは2号。

 

後背尾根の堀切

 

変態3号

 

この堀切、箱掘かもしれない

上幅は簡易測量計で約10m。

 

 

帰路は尾根先を降下

一段有り。

眼下に、ほくほく線が通る。

北陸新幹線が開業する平成27年までは、金沢富山と東京を結ぶ大動脈だった。

 

その段の削り

 

もう一段造作か(1号、立しょん中ではありません)

地表面が見えないので、造作か自然か不明。

 

周辺地図

 

 2月21日、花ヶ崎会館での雁金城保存会視察研修講演会、無事つとめました。

 お招き下さいました雁金城保存会の皆様、遠方あるいは近隣よりお越しくださった皆様、私の話をお聞きくださり、ありがとうございました。

雁金城保存会視察研修講演会

「頸城村の山城」

日時:令和3年2月21日(日) 14:00~15:00 
会場:花ヶ崎会館  上越市頸城区花ヶ崎1846 tel025-530-2744           

                    永野栄樹

    

左から茶臼・花ヶ崎・大蒲生田・玄僧+町田城位置図

地理院地図に作図)

 

花ヶ崎(雁金)城

 

茶臼山城

茶臼山城の城郭構造を中心に、一時間ほどお話させていただきます。

 

 保存会外の方も参加いただけます。

※COVID-19対策のため、事前に人数を把握する必要がありますので、参加希望の方は、ほたる調剤薬局tel025-539-2146まで、お名前・連絡先をお知らせください。

※状況によって、中止、日時・会場が変更になる場合があります。

あらかじめご了承下さい。

 

 薬局(上越市頸城区ほたる調剤薬局)に泊まり込んで仕事をしている。

 あまり想定していなかった広域病院の0410対応依頼が多く舞い込む。泊まり込んででも開けて良かった。この大雪は紛れもない災害である。近隣の馴染みのお年寄りも、雪道歩くのも避けるべきで、母ジムニーを繰り出して配達も対応できた。今この時、地域の役に立つことができて、甲斐があった。

 

ほたる調剤薬局

昨夜、泊まり込むために到達したときの写真

ここまでも大変だったが、ここからも大変だった。

信濃の熊笹よりもきつかった。

大雪直撃です。

経験したことのない降り方、積もりかたで、戸惑っています。

 昨日から3日間、考古学と文献を関連づけた研究手法と地籍図からの復元を学ぼうと、75分×18コマで考古学地理分野の聴講(オンラインで)をさせていただいているのですが、たいへんなことになっています。

 

家の前

昨日は車が出せましたが、いっきに積もりました。

斜め迎えに地域の消防があるのですが、その前ですら除雪車も入ってこれません。

 

道場の前

ここも車道ですが、人がかろうじて通れる溝があるだけです。

 

 明後日、薬局に行く(辿り着く)ことができるか、行けたとしても薬が納品されるか心配です。