薭生城(新潟県小千谷市薭生字城ノ腰) | えいきの修学旅行(令和編)

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登ひと休み
 
 とはいっても、この薭生城(ひうじょう)は、唐人とともに甲山城の城将だったと伝わる平子氏の城とされ、甲山城と類似の構造があるのかという視点での観察では能登繋がりともいえる。
  今年刊行された福原圭一・水澤幸一編(2016)『甲信越の名城を歩く 新潟編』、吉川弘文館、お手元に新潟の城めぐりを楽しまれている方も多いようであるが、なかでも薭生城の縄張図(鳴海忠夫作図縄張図)が注目を浴び、話題となっているようだ。
 私も同書を手にし、まず興味を引いたのはこの薭生城であった。
 じつはその私の手元にある同書、アマゾンで注文しようとした矢先に鳴海さん御本人がほたる調剤薬局においでになり、私に下されたという栄誉の書物である。
                  
薭生城全景
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 信濃川の渡船場を扼し、水運を抑える。街道も関東からの三国街道が北条を経て柏崎へ至る街道に分岐する要衝に在る。
 平子氏が甲山城に進出したという背景には、信濃川ー日本海ー能登甲と繋がる水運に関する背景があったのだろうか。
 

 鳴海忠夫さん作図薭生城縄張図(『甲信越の名城を歩く 新潟編』より引用)

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 主郭北東は急崖、北、南西、南東の尾根三方向は堀切で遮断している。ただし、南西尾根には、堀切を挟んで郭②、③を直線ラインで配している。
 最も目を惹き話題になっているのは、ご覧のような畝状空堀によって圧倒される縄張である。しかし、北東、南は藪が酷く、常人には観察は困難である。北から西にかけては、明瞭に観察できる。
 
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北の三重堀切から郭①
遊歩道が入るが、壁が立つ。
ルートではないであろう。
 
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山上郭① 薭生城主郭
特別な造作はなく、旧態の山城。
 
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信濃川の下流越後方向 中央に弥彦山。
 
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北東に、戊辰戦争の激戦地、朝日山
 
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郭①北東斜面は急崖
 
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郭①北西低区画
 
では尾根ごとにまとめて辿ります。
 

南東尾根
 
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二重堀切により遮断
鳴海図北東斜面には畝状空堀がとられているが…。
 
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一重目堀切
 
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堀切間の尾根上
なんで私はこんなところを歩くのか…。
 
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二重目堀切
 
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左(北東)斜面の下方に畝状空堀を群で配し、回り込みを阻止しているようだ。
ここからは危険なため、尾根を30mほど東に進み挑戦した。
 
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南東尾根北斜面
おい…。
 
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あれか?
この時点では健気にも意欲有り。
 
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北東斜面を回り先の二重目堀切に戻る。
息、意欲、命絶え絶え。
 鳴海図は、鳴海さんほどの力量があって、はじめて描くことができるわけで、常人がその気になって突っ込んではえらい目に合う…。
 
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南東尾根二重堀切間の南西側にも畝状空堀群がとられているが、よくわからない。道の崖側の凹凸がそうか。
 
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二重堀切付近から南斜面
写真奥が郭②③が配される南西尾根
 ここもに畝状空堀群はとられているが、降りて確認する意欲は湧かず…。
鳴海眼力との差にやや消沈。
 
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南東一重目堀切近くの
乱穴
 

南西尾根  郭②③を配す。
 
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郭①から南西方向
緩く降る削平。
 
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南西端に虎口様の段が二段ある
郭②③方向である南西尾根接続を受ける段であろうか。
 
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下段
 
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郭②③方向の南西尾根を切る堀切
段で高さを合わせ、架橋接続であろうか。
架橋下部は堀底の城戸となりそうである。
 
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対岸 郭②
こちら(郭①)側に土塁を備えるが、郭内は藪の予感。
予感ではなく藪。
現実を見よ、えいき。
土塁は南東尾根からこの堀底を通り城内に侵入する者への備えか。
 
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堀底
幅狭く旧態の堀兼通路か。
 
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郭②
奥に堀切って、さらに郭③。
 
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堀切と郭③
郭③も東に土塁が巡っている。
 
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堀はけっこう深く広い
天正期の箱堀かもしれない。
 
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北東土塁
 
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郭③
土塁を備えているので、重要な郭だとは思うのだが、土塁の運用がわからない。
 
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南東土塁
 
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土塁湾曲部
 

では本記事メインデイッシュ
郭②③が配された南西尾根から北尾根にかけての畝状空堀群
 
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南西尾根と西尾根を根元で断つ箱堀
段差普請も見られるのではないか。
左に西尾根で西尾根上にも二重堀切が設けられ、その二重堀切は北に向かって竪堀状に降り下る。
この箱堀と西尾根一重目堀切の間の北斜面には、いよいよ明瞭な畝状空堀。
 
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箱堀で断たれた西尾根上に二重堀切一重目
この二重堀切は北に竪堀状に降り下り、間隔は広いが畝状空堀と同類であろう。
 
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竪堀状に北に降り下る
 
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二重目
 
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箱堀と西尾根一重目堀切間北斜面の畝状空堀
 
ここから北尾根までが築城者にとって主警戒面のようだ。
 
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郭②郭①間の堀切から下降ってきて
 
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割れる
どちらかが通路でもあるのか。
 
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北西斜面畝状空堀群
北尾根三重畝堀切に連なるが、エリアがわかれるので区切ります。
 

北尾根
 
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北三重畝堀切西端に繋がるあたりを遠目に
 
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北三重堀切と連動
北堀切、掘幅すべて見えているわけではない。
 城内側から一・二重目の畝が見えているだけで、二重目畝向こうに、もう一畝ある。郭①北端から約33mの底に畝を施設した大箱堀と捉えることもできる。
 
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右城内側から一重目二重目。
 
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畝一重目はさほどでもないが
 
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敵に近づく二重目は厳しいくなる
尾根上は藪化のため西斜面からの写真でいきます。
 
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二重目畝竪堀部
 
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三重目堀
 
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三重目竪堀部底
 
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城外側三重目下方から
これは侵入できまい。
 
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竪堀としても大規模であり、これは平子氏の普請というより、御館の乱後の景勝政権による普請ではないか。
 
まとめ
 
  堀底段差普請に甲山城との類似はあるが、折れ歪を伴った防御ライン構造はみられなかった。
 また、畝構造も能登・越中の上杉方城郭で見る構造とは規格・形態が異なる。
 築城主体が異なるのではないか。
 しいて言えば、志久見口、大岩郷の上杉普請に近いように感じる。
  平子氏は、謙信氏後の御館の乱で景虎方につき、没落したとされる。遺構は、御館の乱時の改修かもしれないし、乱後に入った景勝政権による改修かもしれない。
                    
登り口
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極楽寺駐車場奥に看板と遊歩道入り口
郭①北三重畝堀切まで私の足で21分。けっこう歩きます。
 
参考文献 福原圭一・水澤幸一編(2016)『甲信越の名城を歩く 新潟編』、吉川弘文館