上越の城掲載鳥坂城縄張図(植木宏作図)より主要部を引用、説明用に加筆
![イメージ 25](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/f0/cf/j/o0521022614510064927.jpg?caw=800)
○囲い、新城部を辿ります。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/b7/2c/j/o0220043314510064930.jpg?caw=800)
1でも書いたが、鳥坂城は、越後から信濃に出る街道が、飯山方面と牟礼・善光寺方面に分岐する山塊に築かれている。
新城部は、信濃から侵入する敵に備え普請されたものと思われ、主郭から信濃側約220m南西地点にL型の箱堀を構え、築かれている。堀は幅広の箱堀で、L型に折れ、さらに南東隅に折り歪を設け土塁伝いの出入り口(ピンク〇)に工夫を凝らしている。形状から、越後上杉の普請としては近代的で、景勝期の普請と思われる。
次の記事で書こうと考えているが、同山塊の鳥坂城の約2.7km南南西に、越後上杉の近代的普請と考えられる赤坂城が築かれている。鳥坂城新城部とともに、武田を滅ぼし信濃善光寺平に進出した織田信長勢の越後侵攻に対し、築かれたものであろう。
では堀ハから再開します。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/45/ec/j/o0314020914510064936.jpg?caw=800)
主郭背後畝状空堀群南西端堀ハ
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/75/05/j/o0314020914510064940.jpg?caw=800)
堀ハを越えるとほぼ自然地形の尾根を登ります。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/be/b4/j/o0314020914510064943.jpg?caw=800)
降ると堀ロが
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/46/b3/j/o0448029914510064951.jpg?caw=800)
堀ロ
主郭背後堀ニからこの堀ロまでの間は、鋭いニ、ハ、ロの堀切に、畝状空堀群と、厳重に障害され、デッドゾーンとして処理されていたのではないだろうか。新城部と主要部とは、この堀ロを左(東に)降り、東下を通り連絡していたものと思う。
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/32/e2/j/o0314020914510064956.jpg?caw=800)
堀ロを越え、登る
ここまで写真12年9月の撮影でしたが、ここから13年11月撮影の写真にします。
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/50/41/j/o0314020914510064961.jpg?caw=800)
尾根上は祠のある一郭で、新城部南東部
測量図新城部、再掲します
![イメージ 26](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/47/f4/j/o0147013614510064966.jpg?caw=800)
最高所新城部A郭を北東から
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/c1/87/j/o0448029914510064973.jpg?caw=800)
L型堀に沿って土塁が構えられている。
写真右端、土塁が切られている。
切られている部分も橋が架かる虎口かもしれないが、戦時は橋は落とされれ、この虎口は塞がれていたと思う。で、南東隅に折り歪の堀、土塁土橋、内枡形と工夫された越後上杉の近代的な虎口がある。
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/59/ee/j/o0314020914510064977.jpg?caw=800)
南東虎口
枡形に掘られている。
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/7c/91/j/o0448029914510064983.jpg?caw=800)
この内枡形には折り歪の土塁伝い土橋が入る。
ここの構造は後ほど。
北端虎口から箱堀に出て、ここに向います。
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/8f/84/j/o0448029914510064991.jpg?caw=800)
内枡形入って左にあがると、南東隅。
土塁もL型箱掘りに沿って構えられている。
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/bb/b5/j/o0448029914510064998.jpg?caw=800)
土塁北端虎口(破壊道か)
土塁、箱掘の向こうは山塊の信濃方向で、敵侵攻正面。
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/2d/c7/j/o0448029914510065004.jpg?caw=800)
北端から南西面を見る。
ここが織田勢を迎え撃つ越後上杉の銃陣前線か。
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/30/ab/j/o0448029914510065008.jpg?caw=800)
北端虎口(破壊道か)から箱掘に降ります。
右(北西端)は、堀が崖まで断ち切ってある。
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/c5/6c/j/o0448029914510065015.jpg?caw=800)
南西箱掘
大型であり、銃を打ち合う戦闘を想定したものであろう。謙信期ではなく、景勝期の、対織田勢との熾烈な戦闘が意識される。
![イメージ 16](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/e6/4d/j/o0448029914510065022.jpg?caw=800)
越後を防衛する堀!
微妙に段差が設けられているかもしれない。
![イメージ 17](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/96/82/j/o0448029914510065026.jpg?caw=800)
南東隅
Lに折れる。
折れる手前に段差がある。
また、南東面の低い土塁は、胸壁とした射撃防御線ではないか。
![イメージ 18](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/c6/47/j/o0448029914510065030.jpg?caw=800)
箱掘南東面
奥、見通せていないが、左に折れ右に折れる「折り歪」が構えられている。
また、途中に段差がある。堀底段差普請は茶臼山城でも見られたが、この時期の上杉の特徴と思われる。(遠藤公洋 戦国期越後上杉氏の城館と権力)
右側に低い土塁。射撃陣地か。
![イメージ 19](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/3e/a8/j/o0448029914510065033.jpg?caw=800)
段差付近
段差から右の土塁上にあがり土塁伝いに通ったのではないだろうか。
まず、堀底を進んでみます。
![イメージ 20](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/57/39/j/o0448029914510065041.jpg?caw=800)
突き当り、折り歪
折り歪の先に土橋
![イメージ 21](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/05/2c/j/o0448029914510065046.jpg?caw=800)
南東虎口に入る土橋
堀底を進んでも土橋には上がれない。かつ、背後から折り歪の郭内から撃たれる巧妙な仕掛け。
もちろん、土橋にも横矢が掛かっている。
![イメージ 24](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/08/8a/j/o0314020914510065055.jpg?caw=800)
折れ歪の堀底のスポットも、枡形様のキルスポットのよう。
では土塁伝いに
![イメージ 22](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/8b/99/j/o0448029914510065062.jpg?caw=800)
段差で土塁上にあがり、土塁伝いに
左に折れ
![イメージ 23](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/62/f3/j/o0448029914510065066.jpg?caw=800)
右に折れ、左に折れ、土橋で南東虎口内枡形へ
なかなか巧妙な厳重な越後上杉の近代的な虎口である。
次は同山塊の信濃寄りに築かれた赤坂城を。
赤坂城はネット初のようなので、気合を入れて!
私の壮大な妄想テーマ
![イメージ 27](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/2c/c0/j/o0314020914510065068.jpg?caw=800)
虎口前土橋に横矢を掛ける折り歪の郭内隅は、本能寺の変で信長が倒れて後、越中において佐々とせめぎ合う中で、虎口を守る櫓台へと進化していった構造の前身ではないだろうか。
越中における上杉の虎口横櫓台普請は、大道城、増山城、横尾城、井田主馬ヶ城に見ることができる。
附 天正七年正月十一日富坂之内参千疋之所申付、と、片桐善左衛門にあたえられている。(上越市史別編1737)
参考文献 上越市史中世史部会(2004)『上越の城』、みどりシステム
遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」
鳴海忠夫(2012)「上地地方西部の山城」、越後の山城を歩く会学習会資料
上越市史別編
2016.4.10 鳥坂城3畝状施設を追加しましたhttps://ameblo.jp/mei881246/entry-12496898834.html