熊木城2 Ⅰ区画 | えいきの修学旅行(令和編)

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熊木城2では、在地領主熊木氏の城と考えるⅠ地区を辿ります。
 
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 佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』では、熊木氏の城郭として存在したものを16世紀後半に熊木氏により改修された城としている。北は二重堀切で厳重に遮断しているのに対し、南は明瞭な遮断構造はなく、山麓との密接な関係性を伺わせ、在地領主の城の特徴を示している。
 郭C南東下に畝状空堀群が設けられているが、Ⅰ地区の畝状空堀群は、上端・幅の揃った畝状空堀ではなく、上杉の畝状空堀とは様相が異なる。
 主郭A虎口と考える虎口①、櫓台③、土塁を備えた郭B、竪堀④が連携する巧妙な防御構造は、戦国後期の改修と考える。
 
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北のⅡ区域側・二重堀切⑧から熊木城Ⅰ区域主郭A
 
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熊木城Ⅰ区域主郭郭A中心部
逃げ込み城ではない品がある。在地領主によって恒常的に維持され、手が加えられた城であろう。
 
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郭A北辺縁は、他方面よりもしっかりした土塁がコ状に備わる
土塁下が先の二重堀切。
二重堀切と合わせ、警戒した方向であろう。
 
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北西から北端へのコ
北のコ土塁は厚い。
 
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北コ先端土塁
強固。
 
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郭A北塁線土塁から二重堀切⑧
 
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北東隅下に土橋状の竪土塁があり、土塁土橋として昇降したかと考えたが、無理であろう。
下方の通行制限か。
 
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北以外の辺縁土塁は薄く低い
 
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郭A南部
 佐伯は櫓台③の左脇(北東)の土塁の開口部虎口②に入ったとし、『能登中世城郭図面集』に別添拡大図参照とあるが、その別添拡大図がみつからないので、現時点の私には詳細は不明。
 現況観察から、私は、佐伯が郭Bからの城兵の退避虎口とする①を、主要の虎口と考え記事とする。
 
概念図反転・上は南。
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ここの読み解きは私の私見。
 櫓台③は、虎口①の脇を固め、下方の郭Bを監視・支援できる。敵は概念図上方の南尾根・郭Cからあがってくると考えられ、郭Bは南尾根・郭Cに向き、虎口①前面を守る馬出に該当しよう。南から進んできた郭の迎撃を受け、敵は竪堀④でストップ、上端を通過するか郭B侵入を図る。郭Bは小さいながらも土塁を備え強固である。強襲により郭Bに侵入し得た敵は、坂虎口を登り虎口①から主郭Aへと突入することになる。この一連の敵の動きを、櫓台③は上方から監視・迎撃できるのである。
 
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虎口①から南東隅櫓台③
 
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虎口①
 
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虎口①から坂虎口下に郭B
土塁を備え、主郭A虎口①の前を守る。
視点を変え、下方から辿ります。
 
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郭Bと竪堀④の間の平地南部から郭Aを見上げる
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櫓台③の監視下にある。
 
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竪堀④(くさ、すみません)
 
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竪堀④(下方から)
 
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竪堀④上端対岸に虎口②坂下付近
佐伯は、こちらを主郭Aへのルートとしている。
こちらも櫓台③の監視下にある。
 
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左側(西)
なかなか技巧的
熊木氏による天正期の騒乱に備えた改修か。
上杉改修でなくともなかなか技巧的。能登の文化レベルの高さよ。
 
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郭B土塁東部が湾曲し、出入を郭A切岸下に限定している。頭上櫓台③の監視下、侵入は厳しいだろう。
 
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虎口①坂下前面を守る郭B
 
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坂虎口上方に虎口①
ここを駆け上がり突入するは、死を顧みない武辺の功名心が要るであろう。
天正期能登在地領主の防御施設の感動。
南尾根郭C方面に向かいます。
 

 

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B東側面から南の郭Cへ
あいだに一段ある。
郭C東塁線の土塁が見える。
郭Cは南西以外、塁線に土塁を備える。
 
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郭Bと郭Cの間の一段
郭C側にT状の土塁が設けられている。
 
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T状の土塁
機能はよくわからないが、土塁上を通行したのか?
 
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郭C
南尾根上に舌状。
 
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北西塁線土塁
 
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南塁線土塁
切岸下に畝状空堀
 
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南から南東切岸下に畝状空堀群
 
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上端・幅が揃わず、上杉規格のような櫛の歯状にはなっていない。
佐伯は上杉勢の手によるものではなく、在地勢力によって構築された畝状空堀と推定している。
 
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郭C南西
土塁がなく、山麓との関係性を伺わせる。
佐伯は「山麓と密接に繋がった在地領主の城だったことを物語る」と山麓との関係性を指摘している。
 
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南西舌端
ここから尾根下方に接続したのであろう。
 
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南西舌端下、緩い堀⑥と堡塁というほどでもない小削平地で処理は終わり、山麓へ至る。
 
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まとめ
 
  主郭Aは長い期間侍の城として手が加えられ維持された様相を示し、また、南は遮断構造がなく山麓との密接な関係性を伺わせる。
 主郭A虎口と考える虎口①、櫓台③、土塁を備えた郭B、竪堀④が連携する巧妙な防御構造、上杉とは異なる規格の畝状空堀は、在地勢力(熊木氏)により戦国後期に改修が行われたことを示している。
 佐伯はⅠ区域は天正の上杉による構築、Ⅱ区域は在地領主熊木氏の城で戦国後期にも熊木氏により手が加えられたと、あくまで仮説として提唱しているが、その説は、熊木城の真相をその縄張り研究の成果によって、見事に現代に浮かび上がらせている。
 
 Ⅰ区域とⅡ区域の構造の違いは、天正期上杉勢と在地領主熊木氏との城郭普請技術の差であり、また新築と改修の差によるものもあるであろう。そして甲山城にみる折れ歪構造は、ここ熊木城両区域においても見られない。
 また技術の差異はあるが共通の意図による構造も時代の要請をうかがわせる。
 虎口前に一郭を置く構造は、Ⅱ区域郭EとⅠ区域郭Bに共通し、出入口前の防御力を高めようとする意図であろう。また連続空堀により回り込みを阻止しようとする意図も共通のものであろうと考える。
 
 C地区を代表して熊木城を選抜したが、付近の枡形山城、町屋砦も同時期の上杉新城の様相を示している。 このことは上杉勢力が周辺一帯に進駐したことを示している。
 藪に苦闘しましたが、両城とも写真撮影できていますので続編で各城紹介します。
 お楽しみに。
 
 参考文献 佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』、桂書房

 
 アクセス
 
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南東麓 矢印から登る
 
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城戸っぽい
 
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なかから
城戸?
 
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上方から
番所か。
 
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道の存在に、ほっとするが
 
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途中、塞がれ…
(なぜか妙に一眼レフ)
 
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道は途絶える(レンズはボケる…)。
 
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藪を踏み、倒木を越え山上を目指し登ること9分、私は幸運にも竪堀④付近に至った。
藪期は困難であろう。