熊木城1 Ⅱ区域 (石川県七尾市谷内) | えいきの修学旅行(令和編)

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 能登にみる天正期上杉の城郭普請https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496899518.html

 C地区から熊木城を選抜します。                   

熊木城 
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熊木城は、在地領主熊木(来)氏の城に、天正4・5年に侵攻した上杉勢が新城を増設した姿であると考える。
 佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』によると、永禄9年能登守護畠山義綱追放の際に義綱に従って国外に出た一族と、在地に残った一族があったようだ。天正4年、謙信の能登侵攻により熊木城は上杉方となり、斉藤帯刀・三宝寺平四郎等が置かれたとされる。翌5年、謙信の一旦帰国時には畠山方長綱連により攻略されるが、同年9月の謙信再征により、七尾城は落城、能登は上杉の支配下となった。
 
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点名称は佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』に準拠します。
 佐伯はⅠ地区を熊木氏の城郭として存在したものを16世紀後半に熊木氏により改修された城であるとし、Ⅱ地区を天正4・5年にこの地に進駐した上杉勢が山頂部の守りを手薄に感じ新たに築城したと仮説を提唱している。
 上杉による築城と考えるⅡ地区は、D単郭だが、熊木城側に馬出Eを設け、主郭Dから横矢がかかる通路を設定している。
 北東尾根方向は塁線に土塁を設け北東尾根を警戒、北切岸下に畝状空堀群(畝型阻塞)を配し、回り込み阻止、あるいは展開を阻止し通行を制限している。この畝状空堀群は、七尾城㉖尾根同様の上端・幅の揃った櫛の歯状の畝状空堀である。
 
 Ⅰ地区については記事を改めるが、Ⅰ地区郭C南東下にも畝状空堀群があることをチェックしておく。この畝状空堀群は、上端・幅が揃っておらず、上杉の畝状空堀とは様相が異なる。
 
 今月は「能登にみる天正期上杉の城郭普請」をテーマに綴っているが、熊木城は、天正期上杉の増築区域と、能登在地領主熊木氏の城の両方を併せて比較することができる格好の城郭である。
 本記事熊木城1では天正期上杉の城郭構造と考えるⅡ区域を、熊木城2では能登在地領主熊木氏の城郭と考えるⅠ区域を辿り、その特徴を表したい

 


 
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Ⅱ区域熊木城側馬出にあたる郭E
主郭D出入口前に配され、主郭出入口を守る。
喰い違いや折れの造作は見られないが、虎口前に馬出や戸張で守る構造への発達過程か。
 
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書き込み
 郭E奥は、平入で右(東)横堀線を越え、郭D壁にあたり、左に折れる。そこからスロープ状に左(西から北)に巻く通路で郭Dに入る。
右側、前横堀の城内側には土塁が沿い、二重横堀構造。
 
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前横堀

折れ歪はみられない。

 
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横堀城内側には土塁が沿う
 
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土塁の存在によって、二重横堀とみることもできそうだ。
 
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反対北西側
上の段が通路で、下は帯郭。帯郭北東部には畝状空堀群
 
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直進
 現況では郭D壁が緩く、郭Dに直接入れるが、左にスロープ状に通路が設定されており、往時は壁で直進直接出入は無理であろう。
 
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西から北へ巻くスロープ状通路
右側面高く、郭Dから横矢が掛かる。
 
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スキップしてまわります。
 
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途中、切岸下帯郭への接続口と考える窪
下の帯郭北方には畝型阻塞(後述)。
まず郭Dに入ります。
 
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スロープ通路から郭D
虎口に枡形などの造作は無い。
 
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Ⅱ区域主郭D
 
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北東尾根側北東塁線には土塁
その塁線土塁のやや左方(北)切岸下の帯郭には畝状空堀群を配している。
 
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切岸下に畝状空堀群⑨が配されている。
 切岸下の帯郭状の平地に近い緩斜面に配す構造は越後の畝型阻塞と同じ運用。その際、畝型阻塞上端切岸下の際を通すことが多い。頭上監視・迎撃が極めて有効。
 
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二か所土塁の切れがあるが、元来の構造かもしれないし、後世の破壊かもしれない。
 
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土塁の切れ
搦手虎口にも見えるが、後世の通行のための破壊かもしれない。
ここから出入りできるとすると畝状空堀群は回り込み阻止になる。
ここから出入りできなければ、畝状空堀群の機能は、上端を通す通路の限定・展開阻止になる。
 
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開口先は北東尾根へ土橋状に接続
土橋状右側(南)は堀、
土橋状左側(北から北西)には畝状空堀群⑨が配され、敵兵の侵攻は土橋幅一列直進に限定される。
横矢は掛らないが、土塁に拠った城兵の、弓・鑓による迎撃を集中することができる。
北東尾根は約40m先に堀切⑩
 
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土橋状右の堀
 
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畝状空堀群⑨
展開・回り込みを阻止。
 あるいは、この切岸下と畝上端の際を通し、帯郭から前面の郭E付近に接続した可能性もあると考える。スロープ虎口途中の窪が城兵の昇降接続口か。
畝状空堀群⑨の写真、さらに後掲します
 
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郭D北東土塁の切れ部を北東尾根側から
 塁線に折れ歪・張出構造は無く、土橋には横矢は掛からないが、土塁内からの迎撃が土橋に集中する。
搦手虎口にも見える。
ではスロープ虎口途中の窪から帯郭をまわってきましょう。
 

 
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郭Dからスロープ通路
窪が城兵用の昇降接続口か。
 
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窪から切岸下帯郭
 
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郭D切岸下を西から北に回り込み、この先に畝状空堀群
 
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うぃ
 
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上端・幅の揃った櫛の歯状畝状空堀群
上杉構築の根拠。
 
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欲しい…
 

 
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北東尾根 堀切⑩
 
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土橋が通り、完全遮断ではない
 
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土橋左(北西)堀⑩
 
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土橋右(南東)堀⑩
 
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城外北東尾根より堀切⑩線
  この折れ歪みがない防御線・横矢が掛らない土橋をみると、郭D北東土塁の切れも、搦手虎口であろうか。
つまり、熊木城Ⅱ区域を築城した上杉勢は、折れ歪構造による横矢掛けを構築する能力を持ち合わせていなかったのではないか。
  甲山城の折れ歪防御ラインとは同時代の上杉勢による構築だが、普請能力が異なるか、迎撃装備が異なっていたと考える。
 
前編Ⅱ区域まとめ
 
 熊木城のⅡ地区は、前面(熊木城側)に馬出Eを設け、主郭Dから横矢がかかる通路を設定している。喰い違いや折れの造作は見られないが、虎口前を馬出や戸張で守る構造や統率されたルート設定への発達過程であろう。
 背面(北東尾根)には塁線に土塁を設け、切岸下に畝状空堀群(畝型阻塞)を配している。七尾城㉖尾根同様の櫛の歯状の畝状空堀である。運用は、ほぼ平地の帯郭状緩斜面に施設することにより敵兵の展開・運動を制限し、回り込みを阻止、南東の堀とで敵兵の侵入を郭D土塁下の土橋に限定。あるいは郭D切岸下と畝上端の際を通行させようとする構造で、敵兵を郭D上塁線土塁に拠った城兵が迎撃するに都合のよい状況に置くことができる。弓、鑓による迎撃精度が高くなるであろう。しかし、折れ歪・張出構造は無く、土橋に横矢が掛かる構造にはなっていない。
 
 このように熊木城Ⅱ地区は、甲山城・丸山城のような折れ歪による横矢掛けはみられないが、馬出の配置・通路の設定・櫛の歯状畝状空堀群の施設など、元亀以降天正期に越中・能登に侵攻した上杉勢の匂い漂う構造を示す。
 佐伯の仮説どおり、伝承の斎藤帯刀・三宝寺平四郎等上杉方武将が築城・駐屯した城であろう。
 
 参考文献 佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』、桂書房