能登にみる天正期上杉の城郭普請 はじめに | えいきの修学旅行(令和編)

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 ツーリングの記録のつもりで書き始めた「えいきの修学旅行」の鉾先は、いつしか天正期上杉城郭における普請技術の進化過程などというテーマに向っています。
 
 越後上杉謙信は、天正4年12月に能登に侵攻、翌5年には奥能登にも兵を進め、珠洲で飯田与三右衛門尉に所領を与えています。この飯田氏は謙信本拠の頸城郡夷守郷を領有していた飯田与七郎の同族と考えられ(佐伯 2015,p2)、周辺地域では謙信軍武力侵攻による略奪も伝わります。謙信は9月15日には七尾城を攻略、23日には加賀手取川で織田の北陸派遣軍を破り、26日には七尾城にて「鍬立為可申付、令登城」(上越市史別編1349)、「越中・能州城之、何も各地共、手飼之者差置」(同)と、七尾城の普請に着手、ほぼ能登全域の領有を果たし北陸領国の仕置きを行います
 しかし、七尾城攻略から半年の間が、天正期上杉の北陸における優勢のピークであり、翌天正6年3月の謙信の死を境に、北陸情勢は上杉にとって厳しい情勢へと移ります。
 七尾城の謙信城代鰺坂長実は、天正7年9月には追放され、ほぼその時期には能登における影響力を喪失、在陣の上杉諸将は能登を退去していきます。
 つまり、能登における上杉の城郭普請は、天正4年12月から天正7年9月の間に限定することができるのです。それは、あたかも満ち潮から引き潮に移り変わるピークにおける情勢の変化の最中の普請であり、進出地に支配を拡大させる拠点としての城から、厳しい情勢下で生存を賭け拠る城へと、能登の上杉城郭の意義も変わります。
 
 新年早々高岡徹「直江兼続と鉄砲ー謎の戦国武将唐人氏を追うー」を基に、唐人の足跡を追った記事を書きました。そのなかで唐人が在城したとされる甲山城を天正の上杉新城として構造を読み解き、甲山城が天正期上杉城郭の折れ歪構造の嚆矢ではいか、それを導入したのは唐人ではないか、と提起しました。 
 水澤幸一さんが『甲信越の名城を歩く 新潟編』のなかで書くように「15世紀後半~16世紀初頭の北陸・関東各地の平地方形城館において折れを伴う虎口構造および塁線(15世紀末~)が認められる」ことは承知していますが、上杉領国において、実際に戦闘が想定される切迫した情勢下の要害で認められるのは、天正6年の御館の乱を契機としてと考えています。甲山城2のまとめの記述を参照ください。
 

 
               甲山城2まとめ
 
 甲山城は、天正5年七尾城攻略を目指す越後上杉謙信方によって築城され、唐人ら上杉方将兵が在城する。しかし同6年の謙信死後、織田の攻勢により上杉方将兵は同7年中には退去してしまう。 
 甲山城は、いわば謙信最終期の上杉城郭普請技術を検討できる貴重な遺構といえる。
 
 そこには折れ歪みを用いた堀が防御ラインとして設けられ、横矢が有効に掛かる工夫がされている。それは、弓・鉄砲による迎撃機能を主に強化する構造である。
 
 折れ歪構造は、上杉本国越後においては、天正6年3月謙信の死により勃発する御館の乱と前後して出現する。
  謙信死の直前は、越後内は戦闘の緊張はなく、ハイテク普請を用いた改修の要は無いと考える。ゆえに越後で見られる折れ歪楮は、謙信の死後に構築されたものと考える。
 
 ざっと私が考える越後の折れ歪構造(居館は除く)の編年を述べると、御館の乱時の大間城の応急改修に始り、天正10年6月に信長が本能寺の変で斃れ織田の脅威が去るまでの間に織田の侵攻に備えて頸城郡内の城(鳥坂j新城・赤坂城・黒田城・家ノ浦城等)に構築されていったものと考えている。揚北色部館の堀底通路は天正16年以降の改修(水澤幸一 1996)。
 
 越中の上杉による構築を考えることができる城のなかでは、増山城・富崎城・大道城・横尾城に見ることができるが、これらの城における折れ歪構築も、謙信死後あるいは信長死後における改修と考える。横尾城は越後に退いていた越後勢・越中浪人が越中に再来し、境要害を回復確保した天正12年~13年の改修を推定。もちろん唐人もいたであろう。
 
 近隣氷見の中村山城も甲山城とほぼ同時期の天正4年9月頃から天正7年3月(高岡徹 2001)に越後からの進駐軍が築いた上杉新城と考えられるが、中村山城の堀には折れ歪構造は無い。
  甲山城の普請も謙信死後も継続され、折れ歪構築が能登から退去するまでの間であることも考えられるが、その間に甲山城において進化したとは考えにくい。とすると、甲山城が上杉城郭の折れ歪構造の嚆矢となるのではないか。
 
 折れ歪構造は、中村山城には設けられていないことから、越後衆ではなく別の系統のプランナーを考えることができる。
  
 また甲山城は海を睨む水軍の城でもある。
 海船による戦闘も操船技術に加え、弓・鉄砲が有効であろう。
 
 伊勢長島加路戸出身・岸和田流砲術師である唐人が甲山城に在城していたということは、甲山城ひいては上杉城郭の折れ歪構造のプランナーとして、唐人を挙げることができないだろうか。
 

 では能登の他の上杉城郭はどうか。
 ちょうど佐伯先生から『能登中世城郭図面集』が刊行されたことを知らされ、同書で能登における上杉による改修を想わせる城が指摘されています。
 それを七尾城周辺・甲山城周辺・珠洲と藪深くに己の目で見て来ました。
 なかには藪が酷く、ブログで公開できない城もありますが、以下の城は記事にできそうです。
 
イメージ 1
A地区:飯田湾に臨む奥能登の珠洲。飯田城・萩城・黒峰城。
B地区:甲湾を抑える上杉の水軍城としてこってり書いた甲山城、丸山城。
C地区:横田IC周辺釶打郷。熊木城・枡形山城・町屋砦。
D:七尾城。長屋敷・尾根㉖国府谷山支群・国府枡形砦。
 
 A地区飯田城と春日山城至近の鳥ヶ首岬は直線距離約80km。 
 B地区甲山城と越中境要害は直線距離約56kmしかありません。
 謙信の能登侵攻は、海・陸双方を組み合わせた作戦だったことでしょう。あわせて、Aの珠洲地区を押えることは、能登半島以西日本海の海運に影響を及ぼすことを可能とします。
 
 上記全城記事にするつもりですが、全部一気に書いていては、甲山城との比較が彼方に行ってしまいますので、まずは以下に選りすぐって紹介します(予定)。
 
B:甲山城近くの丸山城
D:七尾城の上杉改修遺構
C:熊木城
A:飯田城
 
この4城で能登における上杉普請の特徴と甲山城との比較をまとめて、その後、せっかく藪に踏み込み遺構を撮影してきたので他の城も紹介する予定です。8月で終わるかなぁ。
 
参考文献 佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』、桂書房
       上越市史別編
       福原圭一・水澤幸一編(2016)『甲信越の名城を歩く 新潟編』、吉川弘文館