平成28年上半期 | えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

 早いもので、今年も半分が過ぎようとしています。
 今年は、昨年に突っ込んでしまった奥三河作手と、甲山城で嵌った能登の修学を深めようと、三河・遠江・東濃と能登に狙いを定め、両方面に3度の遠征を繰り返しました。
 作手古宮城は武田の城ではないということと、賽之神城の解釈を固めようと、武田・徳川・織田の境目の城を山中深く彷徨い探し歩き、私の推論は正しいと、より強く思うに至っています。
 いつ書けるかわからないので書いてしまうと、古宮城は囲い込み構造と諏訪原城の発掘研究成果による構造の比較から、武田の構築ではなく徳川の構築であり、賽ノ神城は名倉奥平氏の寺脇城、日近奥平氏の日近城との比較検討から、作手奥平氏の本城であろうということです。
 作手奥平氏塁代の居城とされる亀山城も、構造は戦国後期の様相であり、永禄以前からの本城でないと考えています。昨年、「作手へ」から書いた内容を一部修正しつつ、パワーアップして私の考えを記事にしていきたいと考えています。これは能登が終わってから。

 能登は昨年高岡論文を基に「唐人式部を追って」から天正の上杉新城甲山城を書きました。
 甲山城は幸運にも岡本伊佐夫さんから甲山城縄張図を提供いただき、私なりの天正上杉新城としての構造を読み解き、甲山城が天正期上杉城郭の折れ歪構造の嚆矢ではいか、それを導入したのは唐人ではないか、と提起しました。越中における天正期上杉の折れ歪構造をもつ防御ラインを構える城である富崎城・大道城・横尾城は唐人に関係のある城です。唐人とは別系統の上杉進駐軍が築いた氷見中村山城には、折れ歪構造はみられません。では能登の他の上杉城郭はどうか。それを七尾城周辺・甲山城周辺・珠洲と藪深くに己の目で見て来ました。
 
  山だけでなく愛知県・滋賀県・石川県の博物館・資料館・図書館での修学にも時間を割きました。
 ある博物館で、女性の職員の方に二階の資料室へご案内いただい時「そういった御研究をご職業とされているんですか」と問われ、「いえ、職業は薬剤師なんです」と答えたら、階段の途上で、つんのめっておられました。
 お怪我されないでよかったです。
 その筋の方々と城や歴史の話をしていて、職業が薬剤師と言う機会があると、たいていの方は噴出すことが多いです。
 それが、階段でつんのめるという次元にまで引き上がったことに、私のレベルアップを感じています
 
 夏場は山も入りにくいので、7・8月は能登の記事作成に没頭しようと思っています。
 
 登り口確認のツーリングはいってもいいか。