丸山城(石川県鳳至郡穴水町甲) | えいきの修学旅行(令和編)

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B地区  日本海に突き出た丸山城
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構造地点番号は佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』に準拠。
山頂を主郭とし、西の尾根頸から北西面中腹に横堀による防御ラインが構築されている。
⑤地点が突出し、横堀ラインに横矢が掛かる。北は長短の二重竪堀が区切る。
 折れ歪を伴う防御ラインの構築は、甲山城と同様のものであり、甲山城と同時期、同築城者による構築と考える。
位置関係は能登にみる天正期上杉の城郭普請 はじめに:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496899518.htmlを参照ください。
 
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 甲山城は日本海を航行する船を監視できないが、丸山城は大口の瀬戸に突出し、日本海を航行する船を監視することができる。
 阿曽良泊(泊A)を水軍基地とする甲山城と、日本海を航行する船の監視所としての丸山城とで、一体となって機能したものであろう。
 岡本伊佐夫「越後上杉謙信の水軍基地」によると、「丸山自体が古来より船舶の崇敬を受ける信仰の山でもあり、謙信の能登侵攻以前より城としての体裁を持っていたかは不明だが、この山を能登攻略の拠点として抑えることにより能登内浦の海路を遮断し、能登島を挟んで対峙する七尾城のけん制が可能であったと思われる。」としている。
 

 
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尾根頸まで車道が通る。
地図では、道が切れているが、西の林道から、小さい車ならここまで入ることができる。
写真右にも短く横堀状構造③があるようだが、確認しそびれた。
尾根頸左(北西)に横堀防御ライン。
 
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まず眺望を期待し山頂へ
途中、尾根頸横堀線の上には防御線はないようだ。
 
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夕暮れ迫り、1分42秒。
現役時代を思い出す強度↑なトレーニング。
 
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山頂Aには加夫刀比古神社が鎮座
 
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 土塁様の土盛りがあるが、参道の尾根以外は海に落ちる急崖で、土塁は不要と思う。城遺構ではないだろう。
 
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崖下周囲日本海
 
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しかし、海も空も木で眺望晴れず…。
刈ったらさぞ美しかろう。
 そして越中境要害・魚津・越後方面が手に取るように見えるはず。実際に湾口からは越中越後境が驚きの明瞭視認。
 海路での越後との連絡は、この城と甲山城の重要な機能であったと思うし、謙信死後も奥能登がしばらく維持できたのは、海路での連絡が可能であったからであろう。
 
では尾根頸横堀線へ
 

              
もういちど尾根頸部写真
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尾根頸左(北西)に横堀防御ライン。ネット初出のようだ。
(石段を登り、最初のたるみで左に入ると、藪軽く、横堀線後背の段に至ることができます2022.6.21追記)
 
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ここから入るって、年に何人人間が入るであろうか。
 
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えいきの修学旅行は、藪の写真館ではありません。
 
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信念をもって藪に踏み込み、進む
 
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横堀防御ラインだ
写真奥、突き当たりが④折れ部。
 
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突き当たり④折れ部
 
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突き当たり
 
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直角に折れ上がる
 
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折れ上がって、折れ部を振り返る
この段差にも意味がありそうだが、どういう意味か。
 写真右手から進んできた場合は、折れるだけでなく上がることにより進行が滞り、侵入者の背後から撃つ(射る)ことができる。
 写真手前から進んできた場合は、正面から先頭を狙撃され、また直角折れ降るため直接尾根筋に取り付けない。防御構造でもあるようだ。
 
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横堀線は④折れ部から北東に約66m直線に伸びる
山頂側切岸上(写真右)には帯郭状の段が並走。
山麓側(写真左)には塁線土塁を備える
 
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後背切岸上に帯郭状の段が並走
 
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横堀線後背切岸上
帯郭状の段
 
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段から横堀線を見下ろす
横堀前面に塁線土塁が盛られている様子がわかる。
相互連携できそうな高さではある。
横堀線にまで入り込まれた場合、この段から横堀線を頭上攻撃できる。
 
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もういちど横堀におりて
 
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塁線土塁上から山麓
 

 
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④折れ部から北東に約66m、横堀線の中央付近に、折れ歪により突出する⑤が在る
 
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意図をもって横堀を折り、突出させている
そして、斜面でもあり高低差(段差)が生じる。
 
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⑤西隅下横堀  
直角
では突出⑤上から横堀線を見てみましょう。
 
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突出⑤上
 
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突出⑤から南西側面横堀
横矢が掛かる。
 
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突出⑤から北西前面横堀と山麓方向斜面
 
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突出⑤から北側面横堀
 
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北東横堀底から突出部⑤
 

 
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横堀線は、突出部⑤より北東にさらに約50m伸びる
 
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横堀線北端は長短二重の畝状竪堀⑦で区切られている
 
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長短二重の畝状竪堀
 
   まとめ
 
 丸山城は、折れ歪を伴う防御ラインで囲い込む構造を持つ。一重であるため、大軍に対し徹底抗戦でき得るほどの防御施設ではないが、湾に上陸した海賊衆など、小勢による奇襲に対しては十分に有効な防御施設であろう。
 折れ歪を伴う防御ラインで囲い込む構造は、段差を用いた防御構造である可能性も含めて甲山城と同様のものであり、甲山城と同時期、同築城者による構築と考える。すなわち天正5年から7年の間に、唐人等上杉方諸将によって、奥能登領有と海上交通の掌握のため、甲山城の支城として両城一体となって構築され機能したものと考える。
 
参考文献 佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』、桂書房
                岡本伊佐夫(2004)「越後上杉謙信の水軍基地」、図説穴水町の歴史編纂委員会編『図説穴水町の歴史』、穴水町