能登にみる天正期上杉の城郭普請 飯田城追補 | えいきの修学旅行(令和編)

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昨年書いた「能登にみる天正期上杉の城郭普請」シリーズの、珠洲飯田城https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496899784.html

C谷・南尾根追補します。

 

飯田城C谷

 
飯田城縄張図(南龍男作図 能登の飯田より引用・茶加筆)
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 平成28年、能登にみる天正期上杉の城郭普請を調査すべく飯田城を徘徊した私は、段差の設けらたC谷が大手通路ではないかと考え、さらに南尾根が、その段差に相関した迎撃機能を持った普請が成されているか興味があった。しかし、藪が深く進入は無理であった。
 藪枯れと適度な雪を期待し、平成29年2月に飯田城徘徊を敢行した。
 
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飯田城全景を南西から見る
C谷、南尾根の位置を確認。
 
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C谷入り口付近
 昨年訪問時、飯田町を知る会の輪島様より、以前は堀のようだったと証言いただいていましたが、その時は藪で堀形状を確認できませんでした。
 
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8月はこの状況で進入を断念
 
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2月、躊躇いを覚えつつも、突入
 
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湿地を確認
堀のように見えますが、泥田状ではなく、掘ではなく、田中さんの下駄屋等近代の整地かもしれません。
谷奥側からの写真を後掲します。
 
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二段目の段差
谷外側から1段目、二段目と表記する。
 
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城構造か定かでないが(谷に墓が点在し近代の利用が考えられる)、昇降口がある
 
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虎口状の窪昇降口
 
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二段目段差あがると、緩く上がり、奥に三段目段差が壁状に立ちはだかる
しかし、右に折れ上がる導線が存在する。
 
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奥に壁状
しかし、右折れ、左折れの導線が存在。
 
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右側面高く南尾根
これだけ高ければ、鉄砲であっても、下からの攻撃は無効であろう。
 
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左折れし、壁上に
 
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壁上から谷外方向二段目段差を俯瞰
二段目段差下には一段目段差と湿地。
 
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俯瞰ついで
一段目段差下に湿地。
壁、段差、湿地(堀か)と谷への侵入に対し、備えを施している。
 
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谷奥へ
このあたりからは、右の南尾根のみならず、左側の主郭帯郭からも射角に入り、頭上挟撃を受ける。
 
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左方におそらく四段目の昇降口
(南図では中央付近に導線があり、ここは南図4段目でない可能性もある)
 
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6段目(おそらく)は、右方に昇降可能口
 
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谷下方
壁は、容易には登れない。
 
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側面から
城壁様加工がされている。
 
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おそらく8段目
藪が酷くなる。
しかし、ここまで来て引き返せるか。
中央突破。
 
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南図では、谷上方は竪堀とされ、もしや桝形様の虎口か、と思わせるが、もうそれどころではない。
遭難しそう。
 
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左方、佐伯③窪への導線付近
写真、わけわからん。
 
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少し引いて(南尾根から)
しかし、突入は無理。
 
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かろじて腰郭に到達
 
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C谷下方向
昇降口がなんとなくわかるであろう。
 この段差の昇降口が城構造のものかは確定できないが。C谷からの軍勢の侵入は、堀、段差、壁で防ぎ、備えつつ、昇降口を設けて通行は可能にしていたと考えることはできるであろう。
 

南尾根
 
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南尾根
付け根を小高く、尾根先を見る陣地となり、堀切が、二本構築されている
 
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腰郭から南尾根
付け根、小高い。
 
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高地から南尾根を監視
堀切が見える。
 
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ちょっとぼけてますが、掘
 
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形状は箱堀
 
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南尾根を往く
 
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もう一本、堀が構築されているが、城内側に土塁がある。
掘を前に充てた、尾根先に向かった迎撃陣地となろう。
 
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ボケてますが、土塁
防御陣地となろう。
 
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側面から
箱掘で、土橋が在る。
蔦の下が土橋部。
 
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城外に向かって左方
箱形状が明瞭。
 
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対岸、南尾根先方向
藪だが、突入を試みる。
 
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しかし、無理。
 
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止め…
 
 えいきの修学旅行は、藪の写真集ではない。
 南尾根上の普請が、C谷底の段差と相関しているか、という観点。
 
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南尾根二本目堀切土塁内からC谷を俯瞰
完全、頭上監視、頭上から横矢を撃つことができる。
 天正期上杉の築城プランに、茶臼山城等、堀底通路に段差を設け、側面城内郭に土塁を相関させて構築し、通路・出入口を堅固にするプランが見られる。
 
 天正期に、能登へ進出した上杉勢による築城と考える飯田城に、そういった築城プランが在ったか、確かめるのが狙いであった。
 
 南尾根上に構築された土塁、堀は、C谷底に備えた構築ではなく、南尾根先に備えた構造と考える。
 
 しかし、南尾根はC谷底を完全に側面頭上から監視し、C谷の壁に進攻を阻まれ、谷底に停滞する敵に、側面頭上から極めて効果的に弓・鉄砲の矢玉を浴びせることが可能である。
 飯田城においては、谷底と尾南根上との高低差が十分あり、南尾根上で谷底を迎撃する兵に対する、下からの矢玉の脅威はさほど心配ないのではないか。茶臼山城に見られるような、堀底段差と相関した迎撃兵用の土塁などは、飯田城南尾根においては不要と考える。
 
南尾根には、C谷底普請と相関した構造はないが、C谷底に対し、効果的な監視・迎撃を行うことができ、相関した防御機能を発揮でき得たものと考える。
 
 
ルートに関してまとめる。
 
○昨年記事飯田城で記述した、南図東側折り目付近を大手としているが、こちらのルートは、若山川からの物資搬入路と考える。若山川、海、越中・越後との補給・連絡を可能にしたルートであろう。
○南図では、北を搦手としているが、北は堀切で遮断しており、ルートではないのではないだろうか。
○そして、C谷。谷の入り口は、大手と伝承のある田中さんの下駄屋付近で、堀を設け防御していた可能性がある。そして、谷底には、段差、壁、を設け、軍勢による侵入を阻み、側面頭上南尾根から、効果的に矢玉を浴びせることができる。しかし、段差・壁には昇降口が有り、通行は可能である。この昇降口が城遺構であるか、確定はできないが、C谷開口先方向には、馬場と伝わ地名や、春日神社、町場があり、C谷を主要な大手通路と考えることは可能であろう。
能登に進出した越軍は、武力進駐であり、飯田城周辺も情勢は不安定で、状況によってはいつ敵に囲まれるかわからない状況である。軍勢の討ち込みに備え、厳しいC谷を大手とする考えは、能登に進駐した上杉勢の状況と一致するものと考える。
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参考文献 飯田町を知る会(2002)『能登の飯田 郷土史』、シバタ印刷
       佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』、桂書房