金山城(岐阜県可児市兼山字古城山) | えいきの修学旅行(令和編)

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天正10年、北信濃から上杉本国越後頸城郡内に討ち入った森武蔵守長可ゆかりの城
金山城
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金山城は、永禄8年に長可の父可成が信長から与えられた城(現遺構は永禄ではなく天正期の構造)である。
 
 可成は、元亀元年近江宇佐山城下において討死、長可が城主となった。長可が川中島に進駐した後、蘭丸が一時城主になったが、蘭丸も本能寺の変で討死、長可が再度城主になった。長可は鬼武蔵として高名な侍である。
天正期上杉の城郭普請をメインテーマに辿っている私にとって、同時期の上杉の敵は織田勢力であり、北陸方面は柴田勝家、佐々成政、前田利家が直接の対象である。そして信濃口では、この鬼武蔵長可が対象になる。
 長可は、武田滅亡直後天正10年4月に川中島に進駐、越後国頸城郡内にまで軍勢を打ち込み、春日山城に迫った。私が踏み歩いた頸城郡で信濃方面に備えた城である黒田城、鮫ヶ尾城、鳥坂城、赤坂城などの鬼気迫る構築は、この長可の軍勢が対象である。長可の北信進駐は、本能寺の変による信長の死により僅か3カ月であったが、長可は、私が諸々踏み歩き妄想する上杉・武田、北信越の国人達、それから私に、少なからず影響を及ぼした侍である。
 金山城は著名な城であり、私が書かなくともよさそうなものであるが、長可の城を書かないわけにはいかないであろうし、奥平圏の城や天正期上杉の城との比較するに、意味ある修学になろうと考え書くことにした。
 長可の北信での動向に関しては、平山優(2015)『天正壬午の乱 増補改訂版』、戎光祥出版株式会社がわかり易い。ともあれ城を書きたいので、詳しくは触れません。長可の動向に関しては同書を参照ください。
 
 著名な城であるため、全域の掲載ではなく、長可の気を感じつつ、まずは本丸周辺。
 次いで、虎口構造を中心に出丸から主郭へ向かって登城形式で辿ります。
 石垣の妙、虎口、郭が結節する妙をお楽しみください。
 
  なお、記事中の郭名は、可児市教育委員会教育文化課発行『史跡美濃金山城跡』リーフレットに準拠し、同リーフレット絵図をブログ説明用に加筆し引用させていただきました。
 
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本丸周辺
 
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大手ルート・南腰曲輪から本丸
本丸というより天守台の石垣であるようだ。
 
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接近
説明板では、天守台南西隅石とある。
織豊の石垣は、越後人には効く。
 
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搦手ルート・東腰曲輪から
 
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北東面
こうみると、東腰曲輪が本丸で、本丸が詰丸的な解釈でもよさそうだが。
 
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東腰曲輪北面石垣
 
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説明板、リーフレットに則って本丸東隅石垣
 
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このような大石も使用
これは、森の城という位置づけではなく、上位権力織田の城ではないか。
 
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庭の景色にしても格別な気がする
 
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搦手側から本丸へ
(大手ルートは登城形式で後掲)
 
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搦手側から本丸虎口
いや、詰丸虎口と呼びたい。
 
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桝形で折れあがる
 
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本丸内から本丸虎口
 
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北東から本丸
 
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建物の礎石
 
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眼下に城下・木曽川の河川交通を掌握
 
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に向かって折れがあり、出入口であろうか
 
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石垣、この程度でも越後人たる私にはかけがえのない写真
 
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セットバック構築か
石垣、詳しくないのであまり書かないでおこう。
 
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東下、東腰曲輪に搦手ルートが入る搦手門
主郭の統率がいい。
 
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手虎口
 大手枡形虎口には威厳で劣るが、カーブは、張って出たところに入り、搦手とはいえ上杉、奥平、武田の虎口とは形態が異なる。
 
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側面から
出入口を側面から完全監視。
 
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本丸は、南西下に、大手ルートが本城域腰曲輪へ入る枡形虎口を監視
 

 

次いで、長可の気を感じつつ、虎口構造を結節し、出丸から主郭へ向かって登城形式で辿っていきます。
 
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出丸
 
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出丸
駐車場になっています。
 
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出丸東南面石垣
 
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東隅
 
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三の丸への登り口
 
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三の丸虎口への導線
側面(右上)二の丸監視下の導線設定。
 

 
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三の丸城門礎石
塞がれた城門突破をはかる者は、側面二の丸から銃弾を浴びる。
 
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赤丸
 
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側面、二の丸が監視
あそこから銃弾を浴びる。
さっそく織豊の洗練された城郭に、ときめきを覚える。
 
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城内側から
 
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三の丸を経て二の丸へ登るが、水の手側の石垣がいいので、寄り道をする
 
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水の手方向への虎口
崩落危険のため立ち入り禁止。
 
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北西隅付近の石垣が堪らない
北西隅から北面石垣。
 
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西面
 

虎口を辿る登城形式でした。
 
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下赤丸から上赤丸へ結節します
 
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二の丸へ向かいます。
 
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一旦、壁にあたり、右折れ、二の丸城門に入り、屈曲し主郭城域腰曲輪枡形虎口
へと至る
 
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当たり、右折れ
 
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二の丸城門へ
 この回り上がり導線も、側面上から常に監視を受けているわけで、奥平圏、上杉圏とは明らかに様相が異なる。
 
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二の丸城門
 
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二の丸内から
 
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二の丸は、パス
左折れ、枡形虎口へ
 
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左折れ、桝形虎口へ
 
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うっ
信長が、直臣大名とはいえ、森に、家臣の分際でこのような構築を許したであろうか。
信長(織田)の城に森がを入れたという観念のほうが合うと思う。
 
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正面上段、本丸が、左は西腰曲輪、右は南腰曲輪が三方から監視。
桝形内で右折れ、二の門から南腰曲輪へ
 
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右折れ、二の門
南腰曲輪へ入る。
 
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犬山市瑞泉寺の表門と裏門は、この枡形の大手門と二の門を移築したと伝わる(現地説明板)
 
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本丸石垣面が威厳を放ち壁る
 
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積み方はセットバックか
あるいは破城痕か。
 

                 

本丸へ
 
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本丸へは石導線が招待する
 
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南西隅下を引っ掛けて
 
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南東面通路
途中、遊歩道が上がりますが、掲載しません。
 
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左、本丸虎口
奥、東腰曲輪。
はじめの本丸周辺と重複します。
 
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左に折れ、枡形に入り、桝形内でさらに左折れ
180°ターン。
 
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入った
 
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折れた
 
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到達
 
もうひとつ触れなけれなならない虎口がある。
 

  
北西麓米蔵跡  越後人には、嘘って程驚愕の構造
 
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北西麓 米蔵跡とされているが
 
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側から
米蔵跡とされているが、私には居館地に観える…。
喰い違い、張出構える虎口に、高石垣。米蔵にそこまでの構造が要るの?
 
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虎口
挟撃はもちろん、左が張出し、喰い違いに横矢を掛ける
 
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虎口を郭外から
嘘、ってのが私の率直な印象。
喰い違いに、張出(右側)。
左も迎撃陣地で、正面から迎え迎撃。折れ進み、突入を図る寄せ手に、左右から挟撃。
 
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塁線前面の石垣壁
 
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張出部
 
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屈曲から屈曲に、幅が狭くなる
虎口脇は、郭内に向かって右側陣地が左側陣地よりも高く、優位に横矢を掛ける。
途中からは近代の改修だが、塁線は踏襲しているのではないか。
 
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内へ
織豊圏では、あたりまえなんだろうが、凄い贅沢…。
ってか、捨てられている感すらある…。
 
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郭内から
米蔵に、こんな城門、要りますかぁぁぁ。
 
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こんな石垣壁、要りますかぁぁぁ。
 
 本記事作成にあたり、金山城について詳しく調べてはいません。
 越後に討ち入った鬼武蔵ゆかりの金山城、歩いて見たままに綴りました。
 
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大劉山可成禅寺
可隆(元亀元年敦賀手筒山合戦にて討死)、
可行、可成(元亀元年近江宇佐山合戦にて討死)、
長可(天正12年尾張長久手の合戦にて討死)、
本能寺で信長に殉じた坊丸、蘭丸、力丸の墓がある。
凄まじき侍の定め。
 
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森家廟所
 
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可成寺所蔵森長可脛当
現在、可児郷土歴史館にて展示。
 
参考文献 可児市教育委員会教育文化課発行『史跡美濃金山城跡』リーフレット
       現地説明板