スチャラカでスーダラな日々

スチャラカでスーダラな日々

故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

US 5$紙幣
US 5$紙幣

US 5$紙幣リンカーン大統領リンカーン大統領の黒い棺リンカーン大統領の髪(44)リンカーン大統領の髪と棺

リンカーン大統領暗殺事件は、南北戦争の最末期、1865年4月14日金曜日(聖金曜日)午後10時頃にワシントンD.C.で起きた暗殺事件で、最初のアメリカ大統領暗殺だった。

リンカーン大統領はフォード劇場で妻メアリー・トッド・リンカーンらと『われらのアメリカのいとこ』の観劇中にジョン・ウィルクス・ブースに1.2mの至近距離から拳銃で後頭部左耳後5cmを1発撃たれた。リンカーンは翌朝、1865年4月15日土曜日の午前7時22分にウィリアム・ピーターソン宅で死亡した。

リンカーンを殺害したブースは、俳優でアメリカ連合国のシンパであった。ブースはリンカーン暗殺には成功したが、政府に揺さぶりをかけるという彼の思惑は外れた。リンカーン大統領の葬儀は、米国初の国葬となった。防腐処理により、リンカーンの遺体はワシントン DCからイリノイ州まで葬式列車で運ばれ埋葬された。

「リンカーンの葬儀では、防腐処理や葬儀列車など、私たちの業界の多くの重要な出来事が紹介されています」とキーニー氏は言う。銀のメダルで飾られたリンカーンの黒い棺のレプリカが展示品の目玉となっている。

リンカーンの記念品を注意深く見てみると、額縁に入った髪の毛が目に入ります。リンカーン大統領が銃撃されたとき、その治療に当たった医師は、傷口をよく見るため彼の髪の毛を少し切りました。

下の展示ケースには、リンカーンの葬儀の招待状の原本だけでなく、世間の認識とは反対にジョン・ウィルクス・ブースが見つからず処刑されなかったという秘密を記したシークレットサービスの本も収められています。

【ゆっくり解説】エイブラハム・リンカーン
President Richard Nixon - Address Announcing Resignation

ニクソン大統領死亡記事 ニクソン大統領 葬儀の様子 ニクソン大統領 肖像画と大統領認証書類 (43)President Funeral

国立葬儀史博物館には、これまで活躍されたアメリカ大統領の功績を称える記事と葬儀の写真が展示されています。最初に目に入ったのがニクソン大統領が死去された記事です。ニクソンはアメリカ合衆国第37代大統領(在任:1969年1月20日 - 1974年8月9日)。外交ではベトナム戦争からのアメリカ軍の完全撤退を実現し、当時東西対立の時代にソビエト連邦とのデタント(緊張緩和)を実現。世界が驚いた中華人民共和国への訪問など積極的なニクソン外交を展開。

国内経済が高い失業率・インフレ・不況とドルの信認低下の状況の中で突然ドルと金の交換停止・輸入課徴金制導入・物価賃金凍結などの思い切った政策転換を発表して、ドルの切り下げをアメリカの強いリーダーシップで実施し新しい国際通貨体制の確立に尽力。しかし大統領再選を目指した1972年に発生したウォーターゲート事件をきっかけに、再選後の1974年に大統領辞任に追い込まれ任期中に辞職した唯一のアメリカ合衆国大統領となった。

1994年4月22日、ニクソンはニューヨーク州ニューヨークシティで脳卒中とその関連症により81歳で死去。ニクソンの遺体は1994年4月26日、生誕地のカリフォルニア州ヨーバリンダにあるリチャード・ニクソン記念図書館に運ばれて安置された。葬儀は翌4月27日から行われた。通常大統領経験者の死去の際は国葬が行われるが、ニクソンはアメリカ歴史上初となる辞任を行ったことや本人の意志などから国葬は行われず、一市民としてニクソン記念図書館の敷地内にある妻の墓の隣に埋葬された。

ニクソン大統領 肖像画と大統領認証書類
ニクソン大統領 肖像画と大統領認証書類
March 2001 | Windows On The World & Mall | World Trade Center

World Trade Center 1994.10.31World Trade Center 1994.10.31World Trade Center 1994.10.31空撮したNY市街空撮で乗ったヘリコプター(42)World Trade Center 1994.10.31

テロ以前のWorld Trade Centerには行ったことがないのですが1994.11.3チリ皆既日食ツアーのオプションでニューヨーク市街をヘリコプターに乗って遊覧するツアーに参加しました。

80ドル払えば自由の女神を周回するコースが選べたので、参加した5人全員が同じヘリコプターに乗りました。

遊覧飛行は非常に混むとの情報があったので、早朝一番の便に乗ります。ちょうど快晴で写真日和です。様々な角度から撮りたかったので真ん中の席に座ります。

エンパイアステートビルと自由の女神は今でも健在ですが、World Trade Centerがテロによって破壊されたのは驚きでした。ヘリコプターの窓から見える景色は、銀塩フィルムのカメラに収めました。

当時使用したカメラは、MINOLTA α-8700iで全て自動露出です。1994年10月31日に撮影したので、もう30年前の写真になりますが現在のようにスマホやインターネットが無かった時代なので撮影ツールが限られます。

今ならスマホの動画で撮影しているのですが、当時のビデオカメラは割高でツアー代より高かったものでした。

遊覧飛行を無事に終えてメトロポリタン美術館に行ったのですが、今ならWorld Trade Centerの内部見学に行けば良かったと思います。

掲載したYouTubeは、World Trade Centerの内部を撮影した非常に貴重な動画です。最上階はレストランで食事もできたのですね。

また屋上から眼下の景色を眺めることもできたそうです。ヘリコプター目線でニューヨーク市街を眺められるなんて素晴らしいです。今ならドローンが活躍するのでしょうか?

World Trade Center 7.21.2001
WTC 9/11 | First Plane Hit in North Tower

World Trade CenterWTC 9/11 Second Plane Hit in South TowerFdny Tower Ladder Company 18NY警察官の遺品WTC事故の説明板(41)World Trade Center 2001.9.11

世界貿易センターは、かつてアメリカ合衆国のニューヨーク市マンハッタン区のローワー・マンハッタンに位置していた高層ビルの集合体。

ツインタワーと呼ばれる2棟の110階建てオフィスビルを中核に、計7棟のビルで構成されていた。1973年4月4日にオープンし、2001年9月11日に破壊されるまで存在していた。

ツインタワーは完成時に世界一の高さを誇り、2棟の巨大な直方体が並び立つ姿はニューヨーク市やマンハッタンのシンボルとなっていた。

2001年9月11日午前8時46分、イスラム過激派テロリストにハイジャックされたアメリカン航空11便が1 WTC(北タワー)の北側外壁、93~99階に突入。その17分後の午前9時3分、同じくハイジャックされたユナイテッド航空175便が2 WTC(南タワー)の南側外壁77~85階に突入。

北タワーでは11便の衝突によってすべての非常階段が破壊されたが、南タワーでは175便が中心から逸れて衝突したため1本の非常階段が使用可能な状態で残されていた。午前9時59分、南タワーは約56分間炎上したあとに崩壊。10時28分に北タワーが約102分間炎上したあとに崩壊した。

17時21分、7 WTCビルが火災による構造ダメージによって崩壊した。3 WTCビル(マリオット・ワールドトレードセンター)はツインタワーの崩落に巻き込まれ崩壊した。

プラザ周辺の3つのビル(4-6 WTC)はツインタワーからのデブリによって甚大な被害を受け、事件後に解体された。ワールドトレードセンター跡地での救出作業や回収作業、がれきの除去が完了するまでに8か月を要した。

アメリカ国立標準技術研究所(NIST)の推定によればテロ発生時のツインタワーに17,400人がいた。ワールドトレードセンターとその周辺での民間人死者は2,192人(突入旅客機を除く)。

葬儀史博物館に展示されたのはFDNY LADDER 18の消防署のはしご車。マンハッタンのローワー イースト サイド、フォート ピット ストリートにFDNY LADDER 18の消防署がある。

消防署の警報を受けて消防士たちは、はしご車 18 号から飛び降り何百人もの勇敢な救急隊員とともにノースタワーのロビーに入りました。彼らはためらうことなく、非常階段を通って6階と7階に向かいました。はしご車18号の乗組員は、階段を下りている人々とまだ建物内にいる人々の避難を開始しました。

建物が突然揺れて激しく揺れ始めたため、乗組員は危険を恐れて階段を下りてロビーに戻りました。数分後、ノースタワーが崩壊して地面に崩れ落ちました。

巨大な白い灰と瓦礫の雲が四方八方に広がり乗組員は急いで安全な場所へ避難し始めます。ウェストストリートを逃げる途中、彼らは窒息しそうな瓦礫の雲から逃げることができない。

命の危険を感じ、彼らは別の消防車の下に避難した。午前10時28分に彼らの命は助かったが、はしご車18号はタワーの崩壊により破壊されました。

9/11 Torres Gemelas: las imagenes mas nitidas del ataque al WTC
衣装に描かれたドクロ
衣装に描かれたドクロ

呪術師の服装(40)呪術師の服装について

マルディグラはフランス語で「肥沃な火曜日」の意味で謝肉祭の最終日、灰の水曜日の前日を意味します。マルディグラの日は2月3日から3月9日の間で各年の復活祭の日に影響を受ける移動祝祭日。2024年は2月13日に行われ、2025年は3月4日に行われる予定です。

ニューオーリンズの一角にある黒人居住地区の裏通りでマルディグラインディアンが行うパレードの祝賀行事として行われます。部族のメンバーは、アフリカ系アメリカ人のカーニバルオブライフの有名人からインスピレーションを得た非常に明るい衣装を着ます。

この赤と黒の衣装は、葬儀場のアシスタントであり、バックタウンウォリアーズのメンバーであるリージョナル「レジー」ロバートソンが2022年に着用しました。スパンコールと羽で飾られた彼のメディシンマンコスチュームは手縫いで製作に最大1年かかりました。「私たちは同じ衣装を2度着ることはありません。スーパーサンデーの後は衣装を解体し、翌年のために新しい衣装を作り直します」とレジーは言う。

呪術師の服装について解説
呪術師の服装について解説
Shuttle Challenger Explosion

チャレンジャー号爆発直後チャレンジャー号 乗組員チャレンジャー号のブース(39)チャレンジャー号爆発事故

チャレンジャー号爆発事故は、1986年1月28日にアメリカ合衆国のスペースシャトル"チャレンジャー"が打ち上げから73秒後に分解し、7名の乗組員が全員死亡した事故。

北米東部標準時午前11時39分(1月29日1:39JST)にアメリカ合衆国フロリダ州中部沖の大西洋上で空中分解した。この打ち上げはチャレンジャーにとって10回目でミッション名はSTS-51-Lであったが打ち上げ直後の事故のため殆どの予定が遂行されずに終わった。機体全体の分解は、右側固体燃料補助ロケットの密閉用Oリングが発進時に破損したことから始まった。

Oリングの破損によって密閉していたSRB接続部から漏洩が生じ、固体ロケットエンジンが発生する高温・高圧の燃焼ガスが噴き出して隣接するSRB接続部材と外部燃料タンクに悪影響を与えた。この結果、右側SRBの尾部接続部分が分離して外部燃料タンクの構造破壊が生じた。空気力学的な負荷で軌道船は一瞬で破壊された。

乗員区画やその他多数の機体の破片は長期にわたる捜索・回収作業で海底から回収された。乗員が正確にいつ死亡したのかは不明だが何人かは最初の機体分解直後にも生存していたことが判っている。しかしシャトルには脱出装置が装備されておらず、乗員区画が海面に激突した際の衝撃から生き延びた飛行士はいなかった。

NASAの幹部は契約先企業であるモートン=サイオコール社が設計したSRBのOリングに致命的な欠陥があることを知っていたが、適切に対処できかった。彼らは当日朝の異常な低温が打ち上げに及ぼす危険に関する技術者たちからの警告を無視し、またこれらの技術的な懸念を上層部に満足に報告することもできなかった。

アームストロング船長サリー・ライド
アームストロング船長とサリー・ライドさん:いずれも2012年に死没
月曜ロードショー

フェス・パーカー銃を持った子供たちに囲まれたフェス・パーカーフェス・パーカーの展示物Wild Wild WestDavy Crockett in a shooting competition(38)デイビー・クロケット

TVドラマ『デイヴィ・クロケット』の主演が頭に被っているクロケット帽を知らなくてもTBS系列で放送された月曜ロードショーのエンディングで見られたイラストと言えば顔や姿が一致される方が多いと思います。

何度も映画化されたアラモ砦の戦いで戦死したデイヴィ・クロケット(1786~1836)を演じたフェス・パーカー(1924~2010)はテキサス州フォートワースで生まれたので、死没後にテキサス州の国立葬儀史博物館で展示されました。

Davy Crockettで検索するとYouTubeに短編の映画が1シーン出たので借用します。生前のFess Parkerが演じたDavy Crockettが出てきました。砲兵銃を使って的に当てるシーンです。

『デイビー・クロケット』は1954年から1955年にかけてABC-TVで1時間のエピソードで放映された5部構成のシリーズで、フェス・パーカーが実在の開拓者デイビー・クロケットを演じバディ・エブセンが彼の友人であるジョージ・ラッセルを演じました。

この番組はかなりの人気が出て当時の子供たちは皆クロケット帽を被っていたそうです。姉夫婦は還暦過ぎたのですが、当時子供だった相方の姉の旦那もクロケット帽を幼少の頃によく被っていたそうです。

クロケット帽は、アライグマの皮と毛皮から作られた帽子です。この帽子は1950年代にアメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリアの男の子の間で非常に人気があり、帽子はアライグマの頭と尻尾を含む皮膚で作られていました。

クロケット帽の新たな人気はアメリカの少年たちの間で流行を引き起こし、イギリスではデイビー・クロケットの流行を引き起こします。

流行のピーク時にクロケット帽は1日5,000個が販売されていました。1950年代の終わりまでにクロケット帽の人気は衰え、流行はゆっくりと消えました。

Davy Crockett in a shooting competition
Jazz Funerals 1

ジャズ楽団による葬儀ジャズ楽団葬儀の様子パレードの司会者葬送車(37)ジャズ楽団による葬儀形式

国立葬儀史博物館の入口で最初に目につくのがジャズ楽団による葬儀の様子です。常に2台のテレビで葬儀の様子が上映されているのでスマホで動画も撮っておきました。どなたが亡くなって葬儀をしたのか分かりません。ジャズ楽団の葬儀について説明版があったので、Google Lensで翻訳した文章をそのまま掲載します。

1800年代後半から1900年代前半までルイジアナ州ニューオーリンズでは、愛する人と別れを告げる方法としてジャズ葬儀や音楽葬儀が行われていました。ニューオーリンズ市に特有のこの賛辞は、アフリカ系アメリカ人コミュニティの間で伝統となっています。

1800年初頭フランス人、スペイン人、イギリス人が西アフリカの部族と国内奴隷貿易を興したのは、この多彩な文化によるところが大きい。20世紀の影響としてネイティブ アメリカンの影響を受けたマルデグラ インディアンのフラティヴル パフォーマーや、アフリカ系アメリカ人のプロテスタントのサンチがあります。

彼らは愛する人の死後、死者を守る精霊を喜ばせるためブラスバンドでお祝いをしました。これから新しいスタイルのjazzが生まれました。ファンキーな人々はジャズを取り入れニューオーリンズのジャズ葬儀は盛大に行われます。

パレード司会者は豪華な帯、黒い帽子、装飾的なパラノールを身に着けた正装で葬列が主要な大通りを通過してニューオーリンズの近隣の通りを進む際に葬列の先頭を歩きます。葬儀バンドは「聖者の行進」や「ディドント・ヒー・ランブル」など明るく陽気な曲を演奏します。

ジャズバンドはトランペット、トロンボーン、サクソフォン、チューバ、スーザフォン、バスドラム、ドラムで構成されます。

葬儀隊の後に加わる見物人は「第二列」と呼ばれます。2番目の列は盛り上がる興奮に参加するよう奨励され、通常はバンドのペースに合わせて参加者を前にダンスステップをします。音楽のテンポに合わせて日傘やハンカチを空中でくるくる回すこともあります。

Jazz Funerals 2

ジャズ楽団の葬儀説明版
ジャズ楽団の葬儀説明版
Riding Houston METRO Bus 99, Greenspoint Transit Center to Natl Museum of Funeral History

国立葬儀史博物館バス停近くの風景国立葬儀史博物館の外観国立葬儀史博物館の門国立葬儀史博物館の入口(36)国立葬儀史博物館で外観を撮影

RAMADAを出発して1時間半もバスの乗り継ぎで時間をかけて国立葬儀史博物館に着きます。現地は晴れて暑いのですが、湿度が低くなったのでカラッとした暑さです。もう昼食の時間ですが、RAMADAで朝食をタップリと摂ったので腹が減るのを気にすることもなく建物の外観を撮ります。建物の周りは生垣に囲まれていたので、生垣の間を縫って外観を撮りました。

バスに乗っている時間が長かったので、必然的に水を飲みます。国立葬儀史博物館に着くころには小が近くなって入口からトイレを探していたので博物館の廊下とトイレは撮っていなかったです。廊下の一角には日本と同じような水飲み場があったので少し飲みます。博物館の中では冷房が完備していて過ごしやすかったです。廊下の棚には博物館のパンフレットと周辺施設のパンフレットが置かれていました。廊下の右側に土産物屋があって、その先に国立葬儀史博物館の入場門がありました。

国立葬儀史博物館の入場料は15ドルですが、55歳以上は12ドルになるそうです。年齢を証明するのにパスポートを係員に見せなければなりませんが、見た目が若い我々はパスポートを見せないと中々信用されません。お二人とも若いですね?と係員に言われました。

こちらは暑がりなので、半袖に半ズボンと言う出で立ち。日本だと4月は寒いイメージですが、こちらヒューストンは気温が高くて結構暑いです。乗ってきたバス車内でも半袖半ズボンのヒトが多くて、こちらの服装が目立たない。

さて入場料を支払って早速博物館の中に入ります。最初は車の展示場と見間違うくらいにクラシックカーが多く設置されていました。これは葬儀に使われた車を再現したものだそうです。内装も結構凝った造りになっていて、昔ながらの装飾は飽きなかったですね。

スマホで展示物をパシャパシャ撮られている方が多かったので、こちらも躊躇なく撮影しました。結構膨大な量を撮影したのですが、多少割愛して紀行文に掲載しますね。

国立葬儀史博物館のクラシックカー
国立葬儀史博物館のクラシックカー
国立葬儀史博物館への経路図
国立葬儀史博物館への経路図

国立葬儀史博物館の駐車場今回からテーマが博物館に変わります。表題は皆既日食が付きますが、ヒューストンにある国立葬儀史博物館の写真があまりにも膨大な量なのでテーマを分けました。

日本には存在しない葬儀の歴史を扱う珍しい博物館の写真と説明をご覧ください。博物館以外の話題は皆既日食のテーマに戻ります。

Riding Houston METRO Bus 102, Downtown Houston to Greenspoint Transit Center

ヒューストン市街を走る路線バス路線バスの車内Greenspointバス停とモダンな建物(35)蛇腹バスとGreenspoint

RAMADA HOTEL向かいのバス停から102系統バスに乗ります。このバスは大きくて真ん中で折れる構造になっています。ちょうど列車の継ぎ目がバス車内にもある感じです。昨日までのどんよりとした天気とうって変わって皆既日食でも見られなかったこの旅初めての快晴です。

国立葬儀史博物館にはバスを2系統乗り継いで行きます。動画を撮っている時に対向車線の交差点から路線バスがきました。川崎を走っている臨港バスのような色をしています。

102系統のバスはGreenspoint Transit Centerから99系統のバスに乗り換えます。バス運転手の半数は女性が運転しています。運転慣れなのか結構なスピードを出して颯爽と街を駆け抜けます。大型のコンボイも普通に街で見かけるので、こちらの方の運転技術は卓越していると言うか肝が据わっていると言うか、我々の次元を超えた運転をしていると思いました。各々のバス料金は1ドルです。

4月中旬に差し掛かったばかりなのに、晴れると気温が高いです。この日は28℃を記録しました。現地では気温の数字が華氏なので、摂氏に慣れている我々は混乱します。スマホが日本仕様だと摂氏で表現されるので、気温の立ち位置が分かりやすくなりますね。

アメリカ人の半数以上が恰幅の良い方々なので、バスの座席もかなり広めに作られていました。椅子と椅子の感覚も広めで荷物が多い弊サイト管理者も移動がラクでした。

日本でバスを二台分繋げたような蛇腹のあるバスは稀にしか見ませんが、ここヒューストン市街では数台に一台の割合でお目にかかれます。ちょうど乗ったバスが真ん中に蛇腹のあるバスだったので車中を撮影しました。

Greenspointのバス停表示:102系統から99系統に乗り換えます
Greenspointのバス停表示:102系統から99系統に乗り換えます