「今日は帰ってきてから、うどん(の麺)を作るから、夕飯は作らないで!」

と、何を思ったか、出がけに旦那さんが言ったので、
その日は夕飯を作らずに旦那さんの帰りを待っていた。

そして帰宅した旦那さんは早速うどん作りを始めた。
① 小麦粉に食塩水を混ぜて、こねる。
② 
1時間、寝かす。
③ 麺棒で伸ばして細く切る。
④ 茹でる。
と、何とも簡単である。

レシピにある分量よりも少し多めに作りたかった旦那さん、
私の曖昧な返事もあり、食塩水の量を
1.5倍にしてしまった。

見た目にも明らかに水分が多かった。
捏ねても捏ねてもホットケーキのタネのようにゆるい。
そこで計算ミスに気付き、オーバーした分の食塩水に相当する
小麦粉を追加投入しようとしたが、ちょうど小麦粉が切れてしまった。

旦那さん:「どうしよう」

わたし:「うどんは諦めて、お好み焼きにしたら?」

旦那さん:「えー、テンション下がる~」

わたし:「うーん・・・、あっ!シマの粉(トウモロコシ粉)あるよ?」

旦那さん:「
Good job!それ足そう♪」

そこで捏ねられる固さになるまでシマの粉を投入し続けた。
その時は少しざらざらした食感(シマの粉は粉といっても
つぶつぶしている)のうどんになるだろうぐらいにしか
思っていなかったのが、それが間違いだった。

いざ茹でてみると、追加投入したシマの粉分がすべて湯に溶けだし始めた。
(シマは湯に粉を溶かし入れ、ひたすら掻き回し水分を飛ばして作るこちらの主食)

しかしそこでどうにかできるわけでもなく、とりあえず火を通した。
10分後、ドロドロの白濁したシマ汁にちょん切れたうどん
(とも呼べない、溶けだしたシマがまとわりついたすいとん)が
鍋いっぱいに、居た。

通常のうどん作りであれば食塩水を混ぜても、湯がく際にその食塩分は
茹で汁に出てしまうので、うどん自体はしょっぱくならないのだが、
茹で汁もそのなんだかわからない物体も一体化してしまってして、
茹で汁だけこぼすことができなかったので、その鍋の中に残った
しょっぱいドロドロのものが私たちの「はじめての手作りうどん」となった。

なんとか形を留めていた、いくつかを麺つゆで食べてみたが、
「ざらざらで細切れのドロッとしたすいとん」であった。

とてもすべてを食べ続けることはできない。

かと言って食べ物を粗末にすることが殺生と同じくらいに
嫌いな旦那さんは断固として食すつもりで、
そこに玉ねぎや調味料を入れてアレンジを加えていた。

翌日から数日間はその下味のついたドロドロのうどんの
出来損ないを、さらに私がアレンジした食事が続いた。

大蒜で炒めた鶏肉とトマトペーストを入れた
「なんちゃってポルトガル風煮込み」、
カレー粉を加えて「なんちゃってカレー」と姿をかえた。
分量が少なくてできなかったが、これなら
牛乳とバターで
「なんちゃってニョッキ風ホワイトソース煮」もイケそうだ。


ようは小麦粉だから、何とでもなるわけである。
しかし完全に二人の詰めの甘さが露呈した、うどん作りだった。

大家さんの娘は15歳で学生だが、家でもまったくと言っていいほど
マクワ(モザンビーク北部で使用されているバントゥー諸語、
口承)を話さず、ポルトガル語を話す。

お父さん(大家さん)から発せられる言葉もほぼポルトガル語である。
一方、お母さんはポルトガル語も話すが、マクワ混じりで話すことも多い。
さらにお手伝いさんにおいては、マクワの方が得意そうだ。

なぜそのようなことが言えるかというと、大家さんの母屋とうちは
5mほどの中庭を挟んで建っているので、日中を玄関先や中庭で
過ごすことの多い彼らの会話は、その音量も相まって私たちの
家まで筒抜けなのだ。

マクワを含むバントゥー諸語はアフリカの広い範囲で話され、
互いに共通性のある一群の言語である。

アフリカ中南部の広い範囲で使用されており、話者数は約
31千万人以上にものぼり、
2,000年前のナイジェリア東部・カメルーンあたりから農耕民によって
広がったとの見方が有力であるらしい。
最も話者数が多いのはスワヒリ語である。

ここモザンビーク北部で広く話されているのはマクワだが、
学校で習うことはないため、その言語力は生まれてから
学校に通うまでの幼少期にどれだけ口承されるかによる。

マクワはモザンビークでも北部でしか話されないため、
もしモザンビーク南部(首都マプートは国内の南端にある)出身の人と
北部の人が結婚した場合、そのどちらかのバントゥー諸語を覚えるか、
公用語となっているポルトガル語を話すかであろうが、
その年齢で新たに他のバントゥー諸語を覚えるよりは、
学校で教育を受けている人であれば身に着いているであろう
ポルトガル語でコミュニケーションを図る方が手っ取り早そうだ。

そうすると、その間に生まれた子どもは主にポルトガル語を話し、
マクワやもう一方のバントゥー諸語を熱心にどちらかが教えるほかは、
それを習得する術がないということになる。

そこで私は、近年は仕事を求めて首都への人口流出が進んだり、
交通の便の発達により人の往来がより盛んになったりで、
それらの言語が衰退してしまうのではないかと一瞬憂いたのだが、
ポルトガル語を第一言語とする割合は未だ約
9%1997年)なので、
衰退の心配は今のところなさそうだった。

この話をポルトガル語の家庭教師
Lurdes先生と話した時、
彼女は「きっと大家さんの娘はマクワが好きじゃないのよ」と言った。

聞くと、彼女のお父さんはマクワが好きではないので、
マクワを話すこともできるが、家でもポルトガル語で話すそう。
そして先生自身も息子にはポルトガル語で話しかけるという。
ちなみに先生はマクワも話すことができ、自身の母親との
会話では
マクワを主に使うらしい。

マクワを使わずにポルトガル語を話す理由は様々だろうが、
そちらの方が教育レベルが高い証拠でもあるし、
洗練されているということなのだろうと思う。

マクワは文字を持たないが、話しているのを聞いていると
日本語とも似ているような印象があり、「ワ」や「ン」、
「モ」、「ロ」などの音を多用しているように聞こえる。

例えば、どの時間の挨拶にも使える「マシュカモーロ」、
また明日ねの「ンパカメーロ」などなど。

実はナカラという地名もマクワからきているが、
その理由についてはまた今度。

ネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領が先日、
肺感染症再発のため病院に搬送された。
94歳である。

大統領の任期は
1994年から1999年の5年間だったが、
1964年に反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕され、
45歳から27年もの間、刑務所(うち最初の18年間は凶悪犯罪者が
収監される刑務所の独房)に収容されていた。
解放された1990年にはすでに70歳を超えていた。

そのネルソン・マンデラ元大統領の
3度目の結婚のお相手で
現夫人であるグラサ・マシェル夫人は、サモラ・マシェル
モザンビーク初代大統領の未亡人であった。


2010FIFAワールドカップ南アフリカ開催時の
ネルソン・マンデラ元大統領と夫人


サモラ・マシェル初代大統領は、
1975年のモザンビーク独立と共に
42歳で大統領になった人物で、現在のモザンビークの
全メティカル紙幣に肖像が印刷されている。


写真にある500、200、20の他に1,000、100、50の紙幣があるが、
新しいものは紙ではなく、破れにくいプラスチック製


初代大統領は1986
年にザンビアでの国際会議からの帰りに
航空機墜落事故(乗員乗客
44人中、モザンビーク政府の大臣・
職員ら
34人が死亡)で53歳という若さで亡くなっている。

そのサモラ・マシェル初代大統領の一人目の妻であり、
モザンビーク内戦時に戦士として戦い、戦士を遂げたのが
ジョジナ・マシェル夫人である。


4
7日、モザンビーク女性の日はこのジョジナ・マシェル夫人の命日である。

町では今年度のモザンビーク女性の日オリジナルカプラナ
(民族衣装である女性が身に着ける腰巻布)が売り出されている。


彼らとは生まれた時代も場所もまったく異なるが、彼らのように
誇りをもって自分の人生を全うしたいと思ったのであった。

いつも町を歩くと、中国人だと思われ
ChinaChina!(中国!中国!)」と叫ばれるか、
用の有無に関わらず「
Senhora!(セニョーラ!)」と
声をかけられるのが常である。

ただ普通に挨拶をするだけの時もあれば、果物や野菜、
日用品の売り子で「買ってくれよ」という時もあれば、
ふざけて中国語のような言葉を発して楽しんでいる時もあれば、
単に「金くれよ」という時もある。

私は日本人なので、基本的に「
China!」という呼び掛けには応じない。

それでもすれ違いざまや市場の中で後ろから何度も
そのような呼びかけがある場合には、断固とした姿勢で
Não sou chinesa!(私は中国人ではありません)」
と訂正することにしている。

相手が子どもの場合は、面白がって言っているので、私の
(彼らにとっては)思いもよらない発言により、
あからさまにびっくりしてその後、黙りこくる。
(ので、してやったりと心の中でほくそ笑む)

相手が大人の場合は、「じゃあ何人なんだ?」と聞かれ、
「日本人だ」と言うと、なぜか優しく接してくれる場合が多い。

わずらわしいので全てには応答しないのだが、
先日商店街を歩いているといつものように
Senhora!(一般的に女性に用いられる呼称)」
と呼ばれたのだが、買い物帰りで荷物も重かったし、
無視して通り過ぎようとしたら
Menina!(一般的に10代ぐらいの少女に用いられる呼称)」
と呼ばれ、アラサーだというのに思わず振り向いてしまった。

別の日、(ホテルのレストランのプライベートビーチのような)
あまりひと気のない海岸を歩いていたら、
積極的に呼び止められたので立ち止まったところ
「その先は襲われるかもしれないから、危険なので行っちゃダメだ」
という何とも親切な忠告だった。

そして今日、パン屋まで買い物に行くのにたまたま頭にスカーフを巻いていた。
(髪の毛がショートから伸びかけなので、中途半端でボサボサだったため)

そうしたら、なんと誰にも声をかけられずに買い物して帰ってくることができた。
全然わずらわしさがなく気分爽快!

商店街を歩いている人たちの中には、カプラナ(腰巻布)に
レンソ(共布か別のスカーフ)を頭に巻いている人たちもいれば、
ちょっとお金持ちそうなお姉さんたちはスカーフを頭に巻いていても、
その下にカプラナ(腰巻布)を巻かずに洋服だったりするので、
その景色に馴染んだのだろうか。

兎に角、誰にも声をかけられずに外を歩けることは非常に快適。


水玉がかわいいスカーフ


先日海岸で購入したイカを捌いたとき、
中から現れたのはとても美しいブルーの内臓であった。

 
買う時も生きていたイカの皆さま
開いたら中から小魚登場


なんだこりゃあぁぁーと思い調べてみたところ、
この美しいブルーの内臓は墨袋らしいということがわかった。

てっきり墨袋は黒いものだとばかり思っていたので、
機会があればイカスミを料理に使ってみたかったのに、
素通りして捨ててしまった。

イカの血はヒトと違って青いらしい。

ヒトとイカは同じ動物界の生き物だが、ヒトが脊椎動物であるのに対し、
イカは軟体動物であり、ヒト(を含むほとんどの脊椎動物)の血に含まれる
鉄タンパク質のヘモグロビンが赤色なのに対し、イカの血に含まれる
銅タンパク質のヘモシアニンは青色なのだ。

ちなみにタコ墨よりもイカ墨の方が
30倍ものアミノ酸(うまみ成分)が
含まれているため、食材としての価値が高いそうだ。

次回はイカスミをきちんと抽出して、イカスミ料理に挑戦したいと思います。




下町にあったわりと大きめで品揃えのいい中華系商店VITÓRIAが閉店していた。

なーぜー!?
と思っていたら、家から一番近い商店街に移転していた。

近頃、家がある上町近辺はテナントが入れ替わったり、
新しい商店街ができたり、道がブロック敷に舗装されたりと、
目に見えて発展している。空港も2013年末には開港する予定だ。

新装開店したその商店を冷やかし程度にのぞいてみたところ、
レジの脇に今まではなかった中華食材(胡麻大豆油、醤油、
ウスターソース、豆板醤)が少量だがケースに並んでいた!

なーにー!!
いよいよナカラでも中華食材が手に入るようになったのかと
嬉しくなり、醤油、胡麻大豆油、豆板醤を即買い。

旦那さん曰く
「もう中国に足向けて寝られないね」

そんな気持ちです。


市場に買い物に行った際に、市場にある量り売りの
米類・粉類(小麦粉やトウモロコシ粉、塩など)が
あるところを通りながら、ふとそこにある米が目に入った。

わたし:「ん?このお米、丸っこくて日本米みたい」

旦那さん:「これ、日本米だよ!!」

わたし:「え!?なんで分かるの?」

旦那さん:「だって袋に日本からの援助でって書いてあるよ」

お米が入っているビニール紐を編んだような米袋に目をやると、
確かに日本の国旗とともに日本のお米ということが書いてある。

旦那さん:「これ、日本米だよね?」

米屋のお姉さん:「そうよ」

旦那さん:「ナカラで仕入れてるの?」

お姉さん:「そうよ、
recheioで売ってるわよ」

二人:「なにいぃぃぃー!!!」

recheio
とは下町にある、いつも買い物に行く倉庫の卸売の店である。
店内の端っこで米を大袋で売ってあったのはなんとなく知っていたが、
自家用車もなかったので、いつも家の近くでモザンビーク国産の
少し細長くパラパラとしたお米を小袋で買っていた私たちは、
その
recheioの米コーナーは素通りだった。
(というか、以前一度見たときには日本米は売ってなかった)

お米は他にもパキスタンやインドのパスタのように細長いお米
(おそらくよりパラパラしているだろう)は売ってあるのだけれど、
日本米のあのもっちりとした食感に慣れきってしまっている私たちは、
モザンビークの少し細長いお米を日々いかにふっくら炊くかに力を入れていた。

中華食材すら手に入らないこの町で日本米を発見したことは、
まさに驚き、桃の木、山椒の木な出来事だった。

さてそこで、徒歩で買い物に来ていた私たちには合計で手が
4本しかなく、すでにある程度の買い物を済ませていたので、
持てる限界が限られていたのだけれど、興奮し過ぎた旦那さんが
小声で「袋ごと(
15kgほど)買おうか…」と呟いた。
日本米を見つめる目が明らかに輝きに満ちていた。

わたし:「ええぇっ、市場の量り売り店で袋ごと買い占めたら
     顰蹙じゃない?そもそも持てないよ」

旦那さん:「俺持つよ」

わたし:「いや、ええっ!?また買いに来ればいいよ」
と旦那さんを説得し、私たちはその日本米
5kg150MT(約450円)で購入した。

旦那さんはたいそう嬉しそうに米
5kgを担いで帰った。
(その他の野菜類は私が持つことになったが…
しかも帰る途中で米を入れたビニール袋が破けて、
道に米をポロポロとこぼしながら帰った)

そしてさっそく鍋で炊いてみた。
鍋の蓋を開けた瞬間、もふぁ~っとした湯気から顔を出す
つやつやした日本米の皆さま!ようこそ!!

もっちりしていて久しぶりの日本米の食感。
二人で白米をンメェ、ンメェと食べ始めたが、なんか臭い。
んーなんか鼻に抜ける臭さがある。

このお米、実は日本の備蓄米で、国連を通じて
モザンビークに食糧援助として送られたお米である。
備蓄米だからか、輸送や保管をする中での管理でか、
どうも米袋のビニールの臭いが米に移ってしまっていたのだ。
少しビニール臭が漂うが、まぁこれも慣れるだろうということで、
これからある限りは日本米を食べて過ごすことになりました。

思いがけない出会いに感謝、感謝。



先週末、家から20分ほどのところにある岬の海岸まで行ってみた。

 


お目当ては水揚げされたばかりの魚介類。

岬にある海岸には、木を掘り出して作った手漕ぎの小舟
(乗ると沈没寸前まで沈む
1人~2人用)や材木で作った
手漕ぎの小さめ(だけれど前者より少し大きめ)の船から
水揚げされた魚をその場で直接買うことができる。

それらの魚はたらいに水揚げされたままシャッパ
(公共バスのバン)に乗せられ、市場に運ばれるものもあるが、
その場で買うこともできるのだった。

価格は市場とさして変わらないのだけれど、
照りつける陽射しと
35℃を超える気温の中、
熱気ムンムンのシャッパで運ばれるものよりは、
その場で購入する方が鮮度がいい。

この日は朝
10時前に岬に到着したのだけれど、
すでに朝市も終わりかけていて、売り子も漁師も
海岸でまったり休んでいる人が多かった。
ちなみに朝7時頃に行くと、非常に活気がある。

それでも私たちは、海岸に着いた船にいた漁師を見つけ、
アジ
5尾とダツ6尾を200MT(約600円)で、
イカ
2杯(30cm大と15cm大)を200MTで購入した。

 


家に帰ってきて、早速炭火で塩焼きにしてみた。

先日、市場で購入しておいた中古の炭用コンロの
使い方を大家さんのお手伝いさんに教えてもらいながら、
炭に火をつけることに苦労しながら、
やっとのことで火をおこし、アジとダツを
4匹の犬に狙われながら、網の上で焼いた。

 


焼き魚はあまり好きではないのだけれど、
さすがに新鮮で美味しかったです。

ちなみにこのダツという魚は、サヨリやサンマ、トビウオなどと
同様のダツ目に属し、長いくちばしに鋭い歯があり、
暖かい海の表層に群れをなして生息し、尾びれを使って高速で泳ぐらしい。

捕食の際には小魚の鱗で反射した光に敏感に反応し、
突進する性質があるとのこと。その性質上、夜間の海域に
ライトを照らすとダツが突進してくることがあるらしく、
光めがけて突進してきたダツが人体に突き刺さることもあり、
突き刺さると回転するのでさらに傷が広がり、
出血多量で死傷する事故も多数あるらしい。
沖縄の漁師によると「ダツはサメより怖い」とのことである。

万が一、ダツが体に刺さった時には抜くと出血多量に陥る
場合があるので、抜かずに病院に行くこと。と、
wikipediaにあった。
http://p.tl/Lju8

ちなみにこのダツ、大家さんのお手伝いさんに
「この魚、なんていうの?」と質問したところ、
Peixe bico.」と教えてくれた。

直訳すると「くちばしの魚」

・・・「赤のでっかいヤツ」に続き、
「くちばしのヤツ」ときたとすると、今後
「青のでっかいヤツ」や「長いヤツ」、
「しましまのヤツ」などを聞くことになるのだろう。


自家用車が手元に到着したので、ナカラ市役所に自動車税を納めに行った。

ナカラ市役所には初めて行ったのだけれど、
下町にある港から少し上がったところにある
3階建ての
こじんまり(
118世帯用アパートほど)として、
小奇麗(壁がむらなく白く塗られていて剥げていない)な
外見の建物だった。
隣には電気局が併設されていた。

さて、自動車税を納めにきたわけだが、
いつも使っているタクシー運転手の一人である
J氏が、
XX(私たち)が行くと、(外国人なので)通常よりも
多く請求されるから、俺が窓口で払ってあげるよ」
と申し出てくれたので、私たちは
J氏の後ろについて行った。

まず、申請書に氏名や住所、車のメーカーを記入して登録証と一緒に提出。
小さな小窓のついた窓口は一つで、受付のお姉さんは一人、
そこにどちゃっと群がる人々。

基本的に「並ぶ」ことや「順番を待つ」といった概念を
持ち合わせていない彼らは、申請書を持った手を我先にと
窓口の小窓に差し出す。頑張れ
J氏!

無事受け取ってもらい、受付のお姉さんに内容を確認され、
600MT(約1,800円)です」と言われた。
事前に他からそれよりも低い金額を聞いていたので少し驚いたが、
どうやら車の種類(排気量?)によって変わるらしい。

登録証にはメーカー名から車種、エンジンの種類や大きさ、
燃料の種類など様々なことが事細かに記載されているので、
それによるものなのだろう。

しかし今回
J氏に付き添ってもらわなかったら、
いったいくら払う羽目になったのだろう。

チャレンジャーがこうして無事に手元に届いた今、
あらゆる書類の日付を見ると、どういう動きだったのかが見えてくる。

まず横浜港を出港したのが
9月下旬、
その貨物船が首都マプトに入港したのが
11月初旬、
海運貨物取扱業者(乙仲)が税関に通関業務請負書を
提出・受理されたのが
11月下旬、1月下旬に登録証が発行され、
登録証が業者に届いたのが
3月初旬、その後自動車保険に加入し、
陸送、ナカラに到着したのが先週末。

ふぅ、長かったぜ。


320日と言えば「春分の日」でしたが、前々から
ことあるごとにアピールされていた、我がポルトガル語の
家庭教師
Lurdes先生の26歳の誕生日でもありました。

授業が始まる前にちょっとしたプレゼントと、
ちょっとしたメッセージカードを渡しました。

メッセージカードには
Já passou 6 meses quando tenho aprendido português com você.
という文章があり、それは
「あなたからポルトガル語を教わり、もう6か月が経ちました。」
ということが言いたかった文章。

一通りメッセージカードを読み、嬉しそうにお礼を言ってくれた先生、

「それでね、ここは
”passou”じゃなくて”passam”で、
”quando”の代わりに”desde que”ね。でも意味は分かるし、
書き出しや次の文章は間違いもないし、すごくイイわ!」
とやんわり訂正してくれました。
さすが先生、根っからの先生気質なんですね。

ちなみに正しくは、
Já passam 6 meses desde que tenho aprendido a lingua portuguesa comtigo.
でした。

ポルトガル語の授業内容が段々と難しくなってきたので、
復習の時間がしっかりと取れるように、今月から
3回(これまでは週5日)にしました。

もっとスラスラと話せるように、がんばるぞーい。