偏屈な親父による「デジタルカメラ」ぶらり日記 -615ページ目

佐竹氏太田城の守り神「八幡宮」

常陸太田市に単に「八幡宮」と呼ばれる神社があります。JR常陸太田駅から「鯨ヶ丘」と呼ばれる太田城跡にのぼる。クランクなど不規則な道の最後に長い直線にたどり着く。つき当たりに鳥居が見え、八幡宮」の参道だと気ずかされる。
偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記

「八幡宮」は、地域から太田八幡宮とか、地区から馬場八幡宮と呼ばれる。創建は康平3年(1060年)で、京都の石清水八幡宮より分祀している。源氏中興期の源頼義・義家が前九年・後三年の役の戦勝祈願に由来する。

偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記

鎌倉の鶴岡八幡宮は、八幡宮」より創建が3年新しい。石清水八幡宮より分祀の点と、源頼義・義家の関係で全く同じです。鎌倉期の権力者・北条氏は、鶴岡八幡宮より格式のある神社「八幡宮」を佐竹氏が保有しているのに強い不快感を示した。そこで、太田城内に鶴岡八幡宮より分祀した若宮八幡宮を建立した。水戸徳川家は、佐竹氏対策で「八幡宮」より若宮八幡宮を保護した。

偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記

下記写真は、佐竹氏全盛時代の室町期に造られた【本堂】です。佐竹氏は、豊臣時代に水戸へ進出し、徳川時代に秋田へ移された。本拠が変わる度に八幡宮を造営し、八幡宮」から分祀している。
偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記

水戸黄門こと水戸徳川家2代藩主光圀の時代になっても、500年の善政をしいた佐竹氏恩顧の空気が充満していた。そこで徳川光圀は、八幡潰しという政策を打ち出し、村々の八幡神社を吉田神社などに改めたり廃棄したりした。

さすがに「八幡宮」は、歴史の重さから潰すことが出来ず、村の神社に数段階格下げを行い存続させ現在に至っている。
偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記

現在の「八幡宮」は、常陸大田市内の神社栄枯盛衰で完全に格下の若宮八幡宮に大差で負けている。「八幡宮」の復活には、宝くじ三億円では足りず、totoのビッグな六億円が必要である。

西山荘入口「西山の里」花菖蒲②

現在の源氏嫡流・佐竹氏の本拠地だった太田城跡が常陸太田市の政治・経済・教育の中心になっています。太田城跡の西にある丘陵は、西山と呼ばれています。常陸太田市が西山公園を整備し、観光地化を目指しています。徳川光圀の隠居所「西山荘」、光圀の母親の菩提寺「久昌寺」。常陸太田市は、西山全体を管理下に置きたい所である。「西山荘」は、財団法人・水府明徳会という水戸徳川家の所有である。飲食娯楽施設「桃源」は民間会社であり、駐車場も管理している。茨城のバスツアーというと「偕楽園」と「西山荘」である。微妙な良さを理解していただければ幸いである。橋本茨城県知事に成り変わって御礼申し上げます。

+――――+――――+――――+――――+――――+
色々複雑だが、TBSテレビ水戸黄門が放映されている間は安泰である。駐車場⇒「桃源」土産売り場⇒花菖蒲園⇒日本庭園⇒西山荘。これが普通の流れで、土産売り場がミソである。

偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記
偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記
偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記
偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記
偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記

西山荘入口「西山の里」の花菖蒲

水戸黄門で名高い徳川光圀の隠居所として知られる西山荘。「西山の里」は、西山荘と駐車場を橋渡しする日本庭園です。この地で、6/12(土)~30(水)花菖蒲まつりが開かれています。旧水府村にあるお世話になった方の墓参りの帰りに寄りました。快晴だったが夕方になってしまったので光線の扱いが難しかった。西山荘は、有料という事もあり入口で帰りました。

+――――+――――+――――+――――+――――+

池の名前は「不老池」。完璧に光圀かぶれです。
偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記
偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記

花菖蒲は、五分咲き位で蕾が目立ちます。
偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記
偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記

後姿の右が長女で、左が妻です。ボカシを入れる技術が無いので配慮しました。
偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記