佐竹氏太田城の守り神「八幡宮」 | 偏屈な親父による「デジタルカメラ」ぶらり日記

佐竹氏太田城の守り神「八幡宮」

常陸太田市に単に「八幡宮」と呼ばれる神社があります。JR常陸太田駅から「鯨ヶ丘」と呼ばれる太田城跡にのぼる。クランクなど不規則な道の最後に長い直線にたどり着く。つき当たりに鳥居が見え、八幡宮」の参道だと気ずかされる。
偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記

「八幡宮」は、地域から太田八幡宮とか、地区から馬場八幡宮と呼ばれる。創建は康平3年(1060年)で、京都の石清水八幡宮より分祀している。源氏中興期の源頼義・義家が前九年・後三年の役の戦勝祈願に由来する。

偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記

鎌倉の鶴岡八幡宮は、八幡宮」より創建が3年新しい。石清水八幡宮より分祀の点と、源頼義・義家の関係で全く同じです。鎌倉期の権力者・北条氏は、鶴岡八幡宮より格式のある神社「八幡宮」を佐竹氏が保有しているのに強い不快感を示した。そこで、太田城内に鶴岡八幡宮より分祀した若宮八幡宮を建立した。水戸徳川家は、佐竹氏対策で「八幡宮」より若宮八幡宮を保護した。

偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記

下記写真は、佐竹氏全盛時代の室町期に造られた【本堂】です。佐竹氏は、豊臣時代に水戸へ進出し、徳川時代に秋田へ移された。本拠が変わる度に八幡宮を造営し、八幡宮」から分祀している。
偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記

水戸黄門こと水戸徳川家2代藩主光圀の時代になっても、500年の善政をしいた佐竹氏恩顧の空気が充満していた。そこで徳川光圀は、八幡潰しという政策を打ち出し、村々の八幡神社を吉田神社などに改めたり廃棄したりした。

さすがに「八幡宮」は、歴史の重さから潰すことが出来ず、村の神社に数段階格下げを行い存続させ現在に至っている。
偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記

現在の「八幡宮」は、常陸大田市内の神社栄枯盛衰で完全に格下の若宮八幡宮に大差で負けている。「八幡宮」の復活には、宝くじ三億円では足りず、totoのビッグな六億円が必要である。