1月25日付の読売新聞夕刊で、
「野菜工場」
が紹介されています。建物の中で各種野菜を栽培することですが、もやしもこの範疇にあるでしょう。
私の持っている本でも1980年代出版のものがありますので、その概念自体は古いものです。
「野菜工場(植物工場)」の必要性について、いろいろと議論されていますが、私の意見を率直に述べてみます。
『お日さまと畑があり、畑で採れる野菜も十分にあるのだから、まだ野菜工場はいらない』
というのが現在の私の見解です。
工場で野菜を作っているもやし生産者のクセに!と非難を浴びそうですが、基本的に光を使わず水と豆(種子)の養分だけで育てるもやしと、光(自然光、蛍光灯、発光ダイオード)を調達し、液肥がないと育てることが出来ない「野菜工場産の野菜」とは大きな違いがあります。
野菜工場の野菜は
「農薬は使わないから無農薬で安全」
と言われても土の養分を頼らないなら絶対に高濃度の「液肥」は必要でしょう。その液肥についての情報は公開できるでしょうか。それは“企業秘密”ということで結局はブラックボックスになる気がします。食のブラックボックス化が広がるということです。見えない野菜が産出されるということです。
同じブラックボックスでも畑で作る野菜の方が、「公開」されているだけまだマシだと思うのです。私は深谷市の野菜産地のど真ん中に住んでいますが、知っている農家が農薬をまいているところは普通に見ています。農薬問題、行き過ぎた有機肥料による土壌汚染問題など、畑が見えるからこそ様々な問題提起にも晒されますが、その見えることが逆に抑止につながります。
「ブラックボックスを前提とした食べ物は安全と断言しきれないのです」
「じゃあ同じ建物栽培のもやしはどうなんだ?私たちはもやしがどんな風に作られるかしらないぞ。もやしだって見えない野菜だ」
と叱られるかもしれません。実はその逆で、豆と水があれば場所を選ばずどこでも栽培できる野菜であるもやしほど、見える野菜はないと思っています。
野菜工場のもう一つのウリとして、
「天候に左右されず安定した収穫が見込める」
というのがあります。安定供給という錦の御旗がはためいています。
安定供給が大事・・・・ということは、現在私たちは野菜の供給不足の危険に晒されているということ前提にあるのでしょう。
はっきり言いましょう。現在野菜は供給過多です。天候不順で品薄になっても、決して昔のように高騰しません。
もやし生産者は他の野菜の価格に敏感ですから良く分かります。この数年、「箱代にもならない」という野菜生産者の恨み節を何度聞いてきたことでしょうか。食糧自給率40%と言われる日本ですが食品廃棄量は年間で2100万トン以上と言われています。2008年度の米の生産量850万トンの倍以上です。これを供給過多といわずになんと言うでしょうか。
話はずれますが、私はこの国は少し前のように時には野菜不足に陥ったほうが良いのではないかと、思うことがあります。野菜がいつでもないからこそ、作る人に、そして目の前の野菜に敬意を払うことになるからです。そして今ある野菜、食べ物を大事に扱うことでしょう。当たり前のことです。
この慢性的な食あまりの状況下で、「安定供給の為に野菜工場が必要」というには説得力がありません。
最後に「味」についてですが、私もこういった野菜工場産の野菜を展示会などで試食しています。多くの人(生産者含む)が言うように
「(野菜工場の野菜は)シャキシャキして甘みがあって美味しい」
というのが野菜工場産野菜の最も適した味の表現でしょう。私もそう感じています。しかしその味でしかないのなら、実に薄っぺらなものです。
「自然のストレスを乗り越えた野菜の力強さ」
には到底及ばないからです。野菜の味とはそんな単純なものではありません。苦味、エグ味、渋味、酸味、青臭さ、・・・そういった雑味が絡まりそしてその中から本来の味が見えてくるのです。自然から切り離して人間が過保護に育てると味が単調になる・・・・。これは食の生産の真理ではないかと思っています。無理して高いコストをかけて、人工的なエネルギーを消費して生産した野菜が、味で劣っていたら何の為に作るのかよく分かりません。
ビジネスチャンスとしては「ブランド野菜で売れる」一つの選択肢でしょう。
ただ食の生産者、食の提供者である私が、「あるべき食の流れ」を考えた際に「日本には野菜工場はまだ必要無い」、と思うのです。