ロッシュとデルフォー共著「コミューンとフランスの小説」(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

ロッシュとデルフォー共著「コミューンとフランスの小説」(その2)

 

 1871年当時10才から20才であった小説家においてはp.298コミューンをテーマに選ぶ同じ熱心さが注目される。セザリーヌ(Césarine)の『リシュパン』、ジェフロワの『徒弟』、J.H. ロニー(Rosny)の『両側性』、ダリアン(Darien)の『心の底』、デカーヴ(Descaves)の『フィレモン』、G.ルナール(Renard)の『亡命』など。そして、反コミューン派ではエレミール・ブルジュ(Elémir Bourges)の『鳥』、P.ブルジェ(Bourget)の『愛の罪』『やり直し』『わが行為のツケ』など。周知のように、この2番目の波では傾向は逆転している。すなわち、コミューンは一般的に同情をもって受け止められている。たとえ小説家たちがコミューンに与えるイメージがモデルよりも劣ることが示されるにしても、そうである。

 コミューン当時50才から70才だった小説家においてはむろん事情は異なる。彼らの年齢のせいで、そして、1871年の危機を理解するのにボナパルト派の憲法による準備が整っていないため、彼らはその作品中で直接的にそれをふれることはない。ということは、作品にコミューンが不在であるということなのか? われわれはそうは思わない。状況のせいで歴史家となったマクシム・デュ・カンの論争から遠ざかろう。彼の『パリの痙攣』は1867年に発行された『失われた力』とい」う小説から当世風にされて史劇に焼き直された改作として読むことができる。だが、ユゴー、フローベル、ゴンクール、ゴビノー(Gobineau)はどうなのか? 彼らの事件後の作品にコミューンの影響を正確に測るのはもっと細かな研究を必要とするだろうが、ここではテーマから外れるため取り扱わない。そこで、道筋をつけるのに必要な幾つかの点を述べるだけで終えよう。たとえば、フローベルはその精神からして文学的創造の仲立ちによる革命的現象の思い出そのものを排除しようとつとめた作家の典型である。じっさい、1870年秋、彼はルーアンを擁護する考え方に熱中し、武器の操作の学習のため、『サン=タントワーヌの誘惑』をうっちゃらかしていたが、コミューンの樹立は彼に反対の反応を引き起こした。1871年3月31日に書いている。「私は私の可哀そうな『サン=タントワーヌ』の仕上げにたち戻り、フランスのことは忘れるつもりだ」、と。そしてまた、5月3日には「この法外な作品のために私はパリの恐怖を思いやる余裕がない」。にもかかわらず、1871年の危機は『候補者』を部分的に起筆している。この作品は民主主義を批判する。なぜというに、その作品の失敗について語るとき、彼は1874年3月12日、ジョルジュ・サンドに打ち明けているからだ。「次に私はタイトルのせいで公衆を欺いた。公衆は『荒廃』をあてにしていた。保守主義者は、私が共和派を攻撃しなかったことを怒る。p.299 同じくコミュナールは正統王朝派に対する幾つかの侮辱を期待していた。」彼はコミューンから影響を受けているようだ。ブヴァール(Bouvard)やペキュシェ(Pécuchet)の激化したペシミズムまではいっていない。ゴビノーの場合もフローベルにかなり似ている。彼もまた、3月18日事件の不意討ちのせいで社会主義に対する憎悪を募らせた。1874年に発表した『プレアデス星団』という小説は『想像への脱走』といって同じような傾向を示す。しかし、彼の『王の息子』は時代の枠をまったく外れて生きていない。ゴビノー研究者のジャン・ミステル(Jean Misther)は正当にも書く。フランス帝政の崩壊真只中(コミューン大火災の煙の中)で書かれた『プレアデス星団』のデビューはひどく悲観主義的なパンフレットである、と。じっさい、同作品の第1部で革命の恐怖が透かし越しに読み取れる。たとえば、予防的にして情け容赦ない弾圧の必要性、このような会話はラバガ(Rabagas)のテーマとまったく同じものを想起させる。

 ユゴーが残っている。コミューンで彼は動揺し、ヴェルサイユ派の弾圧は彼を憤慨させた。彼はこの時期、沈黙を守ることができなかった。『恐怖の1年』『世紀のレジェンド(第2および第3シリーズ)、そして『エスプリの80年代』などがあからさまに、あるいは隠喩的に1871年の危機について語る。だが、とりわけ1874年に発表されたヴァレスの記事が最近発見されたことはわれわれにコミューン事件の光明で『93年』を読み直すことを可能にする。次のことを肯定するのは行きすぎではない。すなわち、知られたテーマ「テロル」(暴力革命)によるのと同じ程度に発生により、ユゴーのこの作品は第二級のコミュナール小説である。

 かくて、1871年を体験した小説家に関する大急ぎの調べは次のような結論に導く。すべての、ないしはほとんどすべての、最も敬意を懐いていた者さえ、最も「離脱」した者さえ、その作品においてコミューンの影響を蒙っている、と。むろん、この現象は同じような方法では示されず、しかし、全体としてみた場合、フローベルの沈黙はユゴーの半自白と、またはコペ、ブルジェ、デュ・カンの物語のイデオロギー的冗長さと同じぐらい意味深い。さらに、少し遅れてポール・ブルジェは1871年の重力が彼の同世代に圧しかかっていることを認める。「われわれは戦争とコミューンのこの恐怖によって人生に入った。そして、この恐怖の一年はわが国の地図のみが切断を味わったのではない。それは首都の記念碑のみを燃やしたのではない。p.300 われわれにおける何かがすべての者により不如意な、われわれにとって成長させねばならない知的病気に抵抗しがたくさせる最初の中毒となった。」「デカダン」「世紀末」の特定の文学はコミューンの思い出がヴェルサイユの相続人たちにおいて捉える悔恨と恐怖にその起源を見出す。

 ひとつの歴史すなわちコミューンから着想を得たロマネスク文学の年代記の概略を述べる時がきた。主題として1871年の事件を取りあげ著名になった約25篇の物語を挙げることができる。それらをこの時代にどう位置づけるべきなのか? この年譜からどんな教訓を引きだすことができるか?

 第一の証明は以下のとおり。いかなる文学的生産も政治状況に従属しない。じっさい、1871~80年期(弾圧と「道徳秩序」の時代)はフランスにおいて半ば年代記、半ばロマネスクな原文の潤沢さにより特徴づけられる。これらはすべてコミュヌーを「賊」として、そして3月18日革命を集団的妄想の行為として描く。奇妙なことに、固有の意味での小説(マロMalot、マリクールMaricourt、ウッセイHoussayeの小説)は稀である。まるで、あまりに不公平なこれら証人には冷静な作品を仕上げることが禁じられていたかのように見える。コミューン同調者に関していえば、彼らは沈黙するか、または大赦を待望する記事を書くかで満足していた。リシュパン、クラーデル…。最後に、追放者においては同じくロマネスク風が存在しないことが確認される。彼らの存在の不安定さ。彼らの復讐への執念などが、彼らが自発的に歴史に(リサガレーLissagaray、ルフランセLefrançais、アルヌーArnould)政治的パンフレットに(ヴェルメルシュVermersch、ピヤPyat…)あるいは特にヴェルメルシュとE.シャトラン(Chatelain)に依ったことを説明する。結局、この9年間のただ一つのロマネスクはユゴーの『93年』の出版のみである。それはわれわれが先ほどみたように、1793~1871年というふうに二重に読める。

 その代わり、1880年の恩赦でもって幕を明けて1914年の戦争まで続くところの時期はコミューンに鼓吹された小説の最盛期である。ざっと数えあげられる25篇のうち15篇がこの時に出版され、そして、それらのうち最良の作品が見いだされる。ヴァレスの『叛乱者』(1886年)、ダリアンの『心の底』(1889年)、デカーヴの『フィレモン』(1913年)、そして象徴派エレミール・ブルジュの『飛び立つ鳥』(1893年)などがそれだ。p.301 これら出版の年譜をもう少し細かく見ていくと、その大部分が1885~1893年に集中していることが判る。概していえば、3月18日事件に好意的なこれら原文の隆盛をどう説明すべきなのか? 2つの歴史的要素が介在し、相互に補強しあっている。一つは、コミューンの思い出に圧しかかる出版法の廃棄と並んで、追放者が帰国したことである。これによってヴァレスが『セザリーヌ・リシュパン』を、クラーデルが『INRI』(1886~87年発表)を、彼らが1871年に温めていた作品を仕上げることを可能にした。一方、この政治的気象の急変を受けて労働階級とブルジョアジーの一派に社会主義と無政府主義が極めて急激に普及したことが重なりあう。インテリ世界だけをとってみてもこの現象について多くの徴候が表れている。『ジェルミナール』(1883~1885年)の執筆のために社会主義原理に通暁していた ― 表面的には事実である ― ゾラ、コミュナールの前歴をもち『亡命者』の著者であり、社会党の指導者の一人となったジョルジュ・ルナールがそれに該当する。さらに、もっと驚くべきことは1893年に多数の作家たちを魅了した無政府主義の流行である。ローラン・テラード(Laurent Tailhade)、オクターヴ・ミルボー(Octave Mirbeau)、P.アダム(Adam)…らがそれである。このような状況下でコミューンが流行文学のテーマとなり、かつその威信のおかげで社会主義と無政府主義が結合したのは当然の帰結となった。1887年以降、ロニー兄弟の凡庸な小説『両側性』がその代表例である。この作品は副題として「パリの革命的風習Moeurs révolutionnaires parisiennes」を掲げ、恩赦に与った追放者のほかに、極左のすべての潮流のひどいお喋りの代表たちを描く。しかし、戦闘的文学にとってこのテーマの組み合わせ、つまりコミューン、社会主義、無政府主義の組み合わせはもう一つ別の意味あいを帯びる。すなわち、1871年が不可避の参照点であり、時代のメシア的希望の保証となったことを意味する。少し時間が経つと、1871年の危機は好都合な雰囲気のなかで労働界を分断する問題、つまり組合活動の合法性と特殊性(1913年のデカーヴの『フィレモン』)に接近するために巧妙に活用されるようになる。にもかかわらず、コミューンの示唆行為のこの力は1914年の大動乱の後を生き延びなかった。平和が戻るとともにコミューンはもはやごく稀なケースとして小説家を鼓吹するだけになった。例を挙げれば、L.デフー(Deffoux)、J.カス―(Cassou)、P.ブルジェ(Bourget)が該当する。コミューンは決定的に歴史の仲間入りを果したのだ。たとえ人民戦線または1968年5月が忠実の証拠として、価値ある幾つかの作品をなお刺激したとしても、大勢は変わることはない。

 「コミュナール小説」という厳密な意味における文学的研究にアプローチする前に、1871年の危機が作家の規約を変化させ、公衆の好みに影響を与えたのがどの程度であったか。― これらの問題に回答するには多くの慎重さを要する。なぜならば、第二帝政から第三共和政の初めにかけて思潮はゴタマゼになったからである。すべての者が「1871年のコミューン」の事件により押しとどめられたり逸れたりすることができなかった。p.302 だが、集団意識から影響を受け、今日なお影をとどめている衝撃にロマネスク生産の静止した継続性が照応すると考えるのは困難である。特に意味深い一例を挙げよう。1864年以降、ジェルミニ・ラセルトゥー(Germinie Lacerteux)をもって貴族的ないしはブルジョア的世界 ― 当時まで小説が発展を見せたのはそのおかげである ― から小説を脱出させるための企みがあったのは確かである。ゴンクールは自著作品の序文で書いている。「19世紀を生き、普通選挙・民主主義・自由主義の時代を生き抜いたわれわれは『下層階級』と呼ばれる階層が小説に対して権利をもたなかったかどうか? つまり、この下層世界つまり民衆が文学的禁止の衝撃下にとどまらねばならなかったかどうかを自問してきた。」1869年に遅れて情操教育が僅かばかり小説分野を拡大し、そこに幾つかの労働階級の代表(漫画家たち)を導き入れた。コミューンの結果の一つの力をもって労働者の主題を投げかえすことであったこともそれに劣らず真実である。かくて、その当時の風土の、皮相的な、されど敏感なドーデが1875年6~10月の『モニトゥール・ユニヴェルセル』紙で『ジャック ― ある労働者の物語』と題する新聞小説を書いた。彼はその主著『ジェルミナール』という文学の魁をおこなったにすぎない。希望と復讐の同義としての3月18日革命は非常に急激に神秘をもって自任するようになった。その革命はあらゆる形の社会的要求を寄せ集め、そうすることによって革命は自然主義の従属するかたちでの人間の解放を称揚する無数の物語の嚆矢となった。

  他の実験、すなわち、人気の盛り返しまたは新たな照明もコミューンに負っている。地方ブルジョアジーの少々偏狭な風刺 ― これは第二帝政下で慣例となったが ― を引き継いだのはヴェルサイユ派の、強欲にして臆病でかつ獰猛なブルジョアジーの絵画である。すなわち、『心の底』がそれだ! コミューンをもってというよりはむしろ1870年の戦争とコミューンをもって、国民意識面で1871~1914年までつづくところの大論争、愛国主義か、さもなくんば平和主義かの論争が巻き起こった。それにより、兵士はバゼーヌ、アルジェリア狙撃兵、連盟兵というそれぞれの化身をもって、長い間、ある種のタイプのロマネスク風の英雄となった。

 コミューンによって作家と公衆の関係にもち込まれた修正は奥深いものがあったように思われる。p.303 この点に関し研究はようやく緒についたにすぎない。多くの検討が必要であろう。そして、結局のところ、単一方法の公式化も必要であろう。ここで敢えて幾つかの一般的方向を描きだしてみよう。われわれの見るところでは、1871年はフローベルに代表されるような第二帝政下の小説家の、このすばらしい孤立をうち壊すのに貢献した。以後、彼は大論争に与することを拒絶したとしても、彼はより広範囲な、より民衆的な公衆 ― ユゴーの古い夢―よりおそらくは政治性をもった公衆により見られ、判断されるのを感じるようになる。この発展から幾つかの徴候を拾いだしてみよう。出版危機のために、また道徳的秩序の犠牲のために、高名な小説家はより系統的にその作品の初版を新聞に与えることに慣れていく。すなわち、ドーデの「ジャック」は『モニトゥール・ユニヴェルセル』紙に掲載され、マロの「家無し」とヴァレスの「子供」は『ル・シエクル(世紀)』紙に、ゾラの「ナナ」は『ル・ヴォルテール』紙に掲載された。むろん、ここの発表部数は多い。ここで真に大衆をつかむ日刊紙が問題になっているのではない。だが、新聞小説のかたちでの出版は「ナナ」の出発(1879年末)が伴うスキャンダルの成功については言うに及ばず、作品に対して多数の読者を保証した。この「ナナ」は1880年にシャルパンティエ書店から単行本として出版され、本の出版記録をつくった。少々遅れて1881年の法律は出版の自由を保障したため、社会主義的・無政府主義的定期刊行物の大発展をみた。当時、『ジェルミナール』または『叛乱者』が再版されたとき、心を奪われたのは労働階級そのものであった。他のすべての新聞小説 ― 出来栄えの悪さが忘却の彼方に導くような作品の ― の目録を作成する必要もあるだろう。すなわち、コミューン以降の発表の顔は鏡を通すとどのように己を映しだしたのか。1871~85年の期間の作品についてなされた最近の研究によれば、コミューンが完全に忘却の彼方に去ったのではないことが判る。取りあげられるテーマはふつう、当時の文学がすでにステレオタイプに凝結させるような類だった。悪しき労働者、追放者、悪鬼、放火魔 … 。だが、ランデル・ジョルジュ(Landelle Georges)とかいう人物は『新刊図書』誌でもって「政治的フィクション」を試みるというようなことを始めた。この物語では3月18日のイデオロギーは馬鹿げたほどに手が込んでおり、世間の人々をHaxlayに命じた(?)。読者の政治化と結論づけなければならないのか? それを言うにはまだ早すぎる。だが、事実は注目するに値する。

 コミューンの影響が最も決定的に示されるのは文芸批評の分野においてだった。折りからの印象派(ジュール・ルメートルJules Lemaître、アナトール・フランスAnatole France)または科学者テーヌ(Taine)の傍らに、語の広い意味での政治的基準に関し本質的に深遠な批判がかたちづくられた。創始者たるヴァレスはp.304 は第二帝政以来、ユゴー、クールベ(Courbet)、ボードレール(Baudelaire)について書かれた反響を呼び起す記事を通じてこの種の判断の下ごしらえをおこなった。ロンドンに亡命中、1871年の事件により円熟し、かつ焼けるようなあらゆるテーマの検閲によって疎隔され、彼は政治的行動と言ってよいほどの一連の文学的記事を書いた。彼は『93年』を批評し、ゾラを悪口から弁護している。「ゾラ氏は文学世界のアカであり、ペンを執ったコミュナールである。臆病者は彼を攻撃する。それは当然である。」かくて、彼は審美的革命と社会革命が肩を並べて歩いていく。すでに古くなった彼の思想を再確認する。ヴァレスは1882~83年に一歩前進する。この時、コミューンの名において自然主義 ― ゾラとポール・アレクシ(Paul Alexis)にもかかわらず ― 政治に対する文書の「絶対権」の承認を拒絶する。やがて社会主義がコミューンと交代する。まず最初にポール・ラファルグ(Paul Lafargue)、つづいてジャン・ジョレス(Jean Jaurès)が形式の鋭敏さを褒めたたえることよりも、階級闘争を翻訳することのほうに注意深い文学批判のこの概念を仕上げることになろう。だが、ここまでは ― そして、あまりに明白な理由のゆえに ― 沈黙がこの大胆さに対してなされた。