matsui michiakiのブログ

matsui michiakiのブログ

横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

J.ブリュア著「コミューンと国家の問題」(その2)

 

 したがって、私は諸君に3つの時期分割を提案したい。

1)最初の時期は3月18日以前である。この時期は2月8日の選挙時から3月18日までとなる。2月8日選挙およびボルドーでの国民議会による行政の開始は結果として臨時政府すなわち「国防政府」の消滅をもたらした。もしこの時期にサーチライトをパリに振り向けるならば、そこに合法権力、事実上の権力、潜在権力という3つの権力が共存していることに気づかされるであろう。

 合法権力、それは2月17日にティエールを執行長官に就任させた国民議会の権力である。パリの共和派が、この選挙のおこなわれた全般的状況を問題とし、いずれにせよ議会を構成する性格に抗議することは直ちに観察できる。マクシム・ヴィヨーム(Maxime Vuillaume)が自著『私の赤いノート』の中でバスティーユ広場の国民衛兵のデモを報告したとき、ひとつの誓い「ボルドーの議会よ、恥を知れ!」がなされたのを思い起こす。3月1日、仮条約が批准されると、議会の責務は完了したかに思われた。少なくとも、パリが選出した大多数の代議士にとってはそうだった。ティエールは2月19日に組閣。3月10日、議会のヴェルサイユへの移転が賛成461、反対104で決議された。議会は3月20日にヴェルサイユで初会合をもった。この期日に着目したい。ティエールが大急ぎでパリに赴き、外務省に居を構えたのは3月15日である。したがって、「合法的」権力、執行長官その人によって示される権力はパリでは3月18日以前の3日間だけ足場をもっていた計算になる。この合法的権力によって使命を付託された人々はパリの住民に対しては何らの権威をもっていなかった。実質的権力者は3月7日、国民衛兵司令官に任命されたオーレル・ド・パラディーヌ(Aurelle de Paladine)と3月16日にパリ警視庁長官に指名されたヴァランタン(Vallantin)である。したがって、このような代表者を忌避するパリに対しては支配力をまったくもたないのが合法権力である。

 「事実上の」権力である2番目の権力がある。それはパリで選出された権力、特に首都の区長たちである。区長たちは1870年の11月5、6日の選挙により選出され、そして、周知のように、籠城の事実から彼らが一切の行政的切り盛りとイニシアティブを執ったこと認められていた。このようなことは通常時ではカルティエ(街区)の行政官に委託された権限を超えるものがあった。たとえば、補給業務がそれである。これら市行政官の構成は区々だった。しかし、全体としてみると、国民議会の構成とは大いに異なっていたのは事実である。11月選挙についてたち戻る必要があるだろうが、今の私に時間的余裕はない。

 最後に、「潜在的」な権力があった。それはパリ住民の枠内の組織にある権力である。それは枚挙できる。人は、それがどのようにして生まれたかをほぼ知っている。私の見るところ、それら組織が演じた役割については十分には考察されてこなかったように思う。それは細分された権力であるが、少なくともそのイニシアティブを協調させるための統一化に向かう傾向をもつ。このような協調は、人が特にインターナショナルに見出すところの事実によって容易化され、その中でも特に「統轄者」ヴァルランのような人物は、インターナショナルの使命が何であるかを十分に把握していたように思われる。

 これらの組織の幾つかは戦前に始まる。まず最初に私は、労働者協会連盟部(Chambre fédérale des Société ouvrière)とインターナショナル・パリ支部によって組織された「コルドリー権力」を区物する。私見によれば、いわゆる「コルドリー権力」に相当するのは1793~94年にも、1848年にも存在しなかった。明らかにこの権力は戦争、弾圧、籠城、実業危機によって弱体化させられた。それだけにかえってコルドリーの人々はこの潜在的権力の発展において本質的な役割を個別的に果たさねばならなくなった。

 そのほか、戦争から生まれた諸組織があり、まず最初は1870年9月4日夕刻に創設された20区共和主義中央委員会である。それは9月11日に初会合をもった。当初、この中央委員会が国防政府の権力と衝突するつもりはなかったことを私は承知している。p.162  J.ルージュリ氏が書いているように、「権力についてではなくて、責任についての一種の分業があった」。そのとおりだ! だからこそ私は20区中央委員会の潜在的権力の一構成物と定義するのである。最後に、特に国民衛兵中央委員会がある。それはその構成からいって統括機関あるいは少なくとも統一化への傾向をもっている。じっさい、それは大衆組織である。なぜというに、それは国民衛兵の大隊から民主的に編成されたものだったからだ。そして、最後に、この「権力」に新しい性格を与える要素、それは民衆の武装勢力に基礎を置く唯一の組織であったことだ。なるほど、国民衛兵中央委員会は最終的に3月15日になってようやく結成された。だが、それがまだ臨時の委員会にすぎなかった頃からすでに責任を帯びていた。それはプロイセン軍が首都の特定の街区を進駐した時のことである。1871年1月4日に貼りだされたポスターはもう一つの証左となる。合法権力の内務大臣ピカールの非難に応え、同委員会は断言する。「… 中央委員会は匿名の委員会ではない。これは己の義務を知り、その権限を認め、国民衛兵のすべてのメンバー間の団結を築こうとする自由人の受託者の会合である。」3月6日、国民衛兵中央委員会はコルドリー広場に移転する。3月10日、同委員会は「共和政の転覆を謀るあらゆる企図を阻止するために建てられた越えがたい柵である」と自ら宣言する。私は「柵」と「権力」を混同しない。潜在権力たる中央委員会はこの潜在性が代表するところのものを実現しない。それは明日に現実の力となりうるとは自覚していない。

 

2)2番目の時期は非常に短い。なぜなら、革命時代は事物は迅速に展開するからである。私はこの時期を3月18日からコミューン総評議会までの1週間と定める。大方の人は、この1週間が決定的画期とみなす点では意見は一致する。ところで、われわれは何を確認するのか?

 合法権力はパリにおいて事実的に消滅した。それが首都において現れる国家であるにつれて、それは色褪せて空虚となる。それは、国家が不在となったばかりか、権力の不在(Vacance)でもある。私の見るところ、今までこの空虚の重要性についてはあまり主張されてこなかった。なぜなら、コミュナールはそれで満足せねばならないと感じていたからである。ここで私はリサガレーの証言を引用するにとどめよう。彼は書く。「ヴェルサイユの合図ひとつでほとんどの行政官は持場を放棄した。入市税局、道路、照明、市場、卸市場、福祉、電信、160万をかかえるこの町の消化器官、呼吸器官のすべてを再編しなければならなかった。国軍の経理部は1スーも残すことなく病院や野戦病院に6千もの患者を置き去りにした。ティエールがめちゃめちゃにしようと思わなかったのは、墓場の仕事までではなかた。」われわれはまた、中央委員会の大きな公共サーヴィスに着手するのに、予定した人々がどんな状態にあったかを知っている。

p.163   したがって、合法権力は消失し、区長権力と中央委員会のそれが鉢合わせになるのはパリだけであった。しかし、この2つの権力から、それらが8日間という短期間に平穏無事にとどまったと考えてはいけない。2つの権力はこの短い局面において徐々に反対方向に向かいはじめる。このようにして、あらゆる妥協の試みが挫折し、最終的に両者の決裂に行き着く。

 区長の権力は急変しつつある。なぜなら、ティエールがこれを公認したからだ。3月19日、エルネスト・ピカール(Ernest Picard)は首都の臨時的行政について、これを区長に委任した。3月20日、ティエールがセッセ(Saisset)提督をパリに派遣したとき、彼は同提督に向かって区長が全権を有すると宣言した。したがって、区長の権力は公認化の途中にあった。それはその所在地がヴェルサイユにある「合法的」権力の派遣部となりつつあったことになる。

 第2の権力もそれ自身、性格を変えつつある。そのとおり! われわれも承知しているように、躊躇があった。中央委員会は国民衛兵の利害関係の防衛の組織化、共和政擁護の組織化のみを欲する。中央委員会は権力奪取のために創設されたものではなかったが、しかし、その権力は委員会が予想もせず、望みもしなかったにもかかわらず、自らの手中に落ちていく。それ以来、新しい何かが生じ、表面に現われはじめる。浮遊していくのは明白だが、そして、驚嘆すべきことはその反対である。中央委員会の矛盾葛藤を否定することはできない。前の警視庁への派遣者デュヴァル(Duval)と彼の部下6人の派遣委員により署名された3月20日付の中央委員会のポスターにはこう書かれている。「3月18日以来、パリは人民政府のほか政府をもたない…」と。「政府」という語に諸君の注意をふり向けるよう促したい。また、3月21日に委員会の別の宣言が発布された。「権利の恒常的脅威、あらゆる正当な願望の絶対的否認、祖国とあらゆる希望の消滅に直面したプロレタリアートは、その運命を支配し、権力を奪うことによりその権利を確保することが至上の義務・絶対の権利なりと理解した。」だが、私がいま一度、原文の説明にとりかかることで物知りぶりを示したくはない。しかし、権力という語はこの史料に表われている。矛盾は3月28日の原文にもあらわれる。これによって中央委員会は先だって選出されたコミューン総評議会を前に退くことを告げる。その本質的な部分は以下のとおり。「…諸君の賞賛すべき愛国心と諸君の知恵によりわれわれの任務が助けられ、われわれは暴力を用いることなく、しかも弱点をもつことなく、われわれに与えられた委任状の各条項を達成した。われわれの歩みにおいてわれわれに政府の行為をなさしめることを禁じた誠実によって妨げられ、われわれはそれにもかかわらず諸君に依拠することにより、8日間で急進的な革命を用意することができた。・・・」要するに、これらすべての原文において ― そこから多くのことを引用できるのは諸君はご存じのはず ― 中央委員会は己の矛盾を表白する。p.164  一方において中央委員会は政府であることを自ら宣言し、他方で厳格な遵法精神から政府であることを断っているのだ。しかし、事実そのものに一瞥をくれるために、少しばかりのあいだ、原文から遠ざかることにしたい。国民衛兵中央委員会は3月18日から19日にかけての夜間、事実的に権力を掌握した。同委員会が引き受けた諸決定はその当初の権限を超え、政府タイプの諸決定の性格を帯びていた。つまり、公共サービスの管理、籠城状態の解除、軍法会議の廃止、恩赦等々である。宣言にも矛盾がある。また、宣言と事実上のイニシアティブのあいだにも矛盾がある。なぜ矛盾の要素を胚胎したのか? 私は2つを推定する。変わりつつあると同時に、その変化の範囲をどこまで置くのか判らない権力の出現。なぜかくも躊躇への固執? 3月18日は準備された革命ではなかったことを思い起こさねばならない。A.ソブール氏は8月10日が準備された蜂起だったことを想起させた点では正しかった。もっと正確にいって、3月18日を1917年11月7日に時代錯誤的に比較するのは適切であるだろうか。

 マルクス主義者が濫用する時代錯誤について人々はしばしば語る。しかし、どんな点で時代錯誤であるのか? マルクス主義歴史家は言う。自分らは今まで一度だって国民衛兵中央委員会の討議(これについてわれわれは多くを知らない)を、熟知しているボルシェヴィキ党中央委員会の討議と比較するような反歴史的冒険をおこなったことがない、と。しかし、中央委員会の躊躇について考察がおそらくもう一つの革命の準備に役だった、と彼らはつけ加える。これらの躊躇についてはよく知られているし、説明も可能である。準備された社会主義的革命の一種の組み立てをモデルから出発する人々はつづいて、コミュナールに向き直ってこう言い放ったのは驚くべきことである。すなわち、「ところで、諸君! 諸君は社会主義革命のモデルを考慮しなかったのだ!」

 さて、出発点のテーマにたち返ることにして、2つの権力が実在した。国民衛兵中央委員会が代表する権力と区長の権力。その遵法主義とまではいかないまでも、少なくともその合法性が不確実なため、中央委員会は第2の権力たる区長およびパリ選出の代議士と交渉に及ぶ。J.ルージュリは『自由なパリ』中で非常に正確に両者間の交渉について考究している。したがって、私は仔細にふれない。しかし、子細な事件の向う側に、私が根本的とみなす要素が潜む。この交渉の奥深い意味は、これら2権力(公認化途中の区長権力と事実的権力になりつつある潜在的権力)のうち、どちらが勝つかを知ることのうちにある。

p.165   最終的に交渉は暗礁に乗り上げたが、ここでその要因についてふれる暇はない。それは区長側の歯切れの悪い降伏、つまり悔恨の残る降伏であった。それへの抵抗は後に表明されるであろう。しかし、最終的に降伏であったにちがいなく、コミューン総評議会の選挙の実施となる。つまり、これを以て「権力の二重構造」に終止符を打つことになった。