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matsui michiakiのブログ

横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

スタンフォード・エルウィット著『団結と社会反動 ― コミューンに敵対的な共和政』

Stanford Elswit, Solidarity and social reaction; The republic against the Comune

 

p.187

 社会学者デュルケーム(Durkheime)の弟子のセレスタン・ブーグレ(Cerestin Bougle)は、団結が19世紀末フランスにおける社会の公的原理になったと書いた。彼の意図するところは、30年に及ぶ共和主義にもとづく統治は革命的左翼に由来するそのルールへの重大な挑戦なしには通過しなかったとことである。軍事的敗北の混乱の真只中で生まれた共和国は紛争の衝撃を吸収し、フランスのために予期されざる安定を享受しはじめる。社会政策のイデオロギー上の鋭利な刃として有用な団結は、より滑らかな階級闘争を導くにいたる。自由主義共和派のシャルル・ビゴー(Charles Bigot)にとって「団結の思想」は「秩序の偉大な科学的概念」形態の一つを代表した。「単一目標において総結集を図ることにより調和を創造するのはこの原理である。」しかしながら、より厳しく、より直接的な方策がしばしばとられた。コミューンの弾圧はそのような挿話の一つである。コミューン派は優越的な軍事力の前に屈したのであって、社会科学の力の前に屈したのではなかった。パリの革命派は軍事的孤立に追い込まれたのはまちがいないことだが、彼らは当初からフランス国内において政治的イデオロギーの面で孤立していたという事実を私はここで示したい。

 この孤立は、ナポレオン三世の制度の継承を組織した共和派の手中において生じた。それらの仕事は急進的政治革命の性格を帯びたが、しかし、それは意味深長にも中産階級から生起し、それ自体が特殊な社会イデオロギーをもつ革命であった。p.188 政治革命を実行することによって、共和派は社会革命を回避した。階級的利益はむろん、原理として経済的自由に貢献したナショナリストや平等主義者たちはすべてのフランス人の団結、諸階級の調和、国家統一を強化することに腐心した。彼らは社会平和を希求し団結を説き、彼らのヘゲモニーの基礎を打ち固めることに成功したのだ。

 「団結」に重点をおくことは、それをもたない共和派の運動に反作用的要素を注入することになるし、また、共和主義の指導的政治家が漸進的政治綱領を採用したことについてはおそらく異論が出るかもしれない。じじつ、そうであった。けれども、後にわれわれがみるように、彼らのプログラムや彼らの平等原則の承認と同じく強力な階級の否定という傾向を維持したままであった。その時代の流れの中ではこれらの人々は、自分自身ではけっしてそういうふうには話さなかったのだが、一種の「革命的左翼」であったとするついてはさらにいっそうの異論を呼び込むであろう。また、共和派の労働階級のミリタンの間に僅かばかりのニュアンスがあるとするについても異論が出るだろう。共和派はフランスに自由と民主主義をもたらす民衆運動に心底から打ち込んではいなかったのか? そのような闘争を彼らがどう理解していたかは行論で明らかにするつもりだ。しかし、民衆の利益とか「自由」「民主政治」についての彼らの定義は社会的重要性において企業家もしくは借地農民ではなく、労働者であるフランス人の少数派に与えられた定義に照応しない。換言すれば、共和主義運動および九月四日革命に関連する政治的急進主義は同時に骨折ってではあるが、社会的平和を維持するのに貢献した。可能な場合には法的改正を通して、そして、必要となれば、自立的な労働運動を弾圧することを通してであった。

 スダンでの帝国軍隊の降伏とナポレオン三世の退位は帝政以来の共和主義相続人にとって千載一隅のチャンスを与えると同時に重大なリスクをもたらした。彼らは帝政を打倒する政治革命のために賛同した。今や革命は彼らの手中に落ち、今度は反対派を政府および秩序の党へ振り向けるための彼らの努力に対しての挑戦を惹き起こした。その秩序の基礎の上に、彼らは広範な民衆的同盟をもくろんだ。ジョン・ウォマック(John Womack)の表現を借りれば、彼らの「法制上の革命」は社会秩序の構築に代わるものではなかった。じっさい、彼らは政治的民主主義 ― これは彼らの階級的イデオロギーだった ― を信奉していた。それは「2つの敵対的な国民」を調停することであり、「階級的敵愾心」を抹消することだった。コミューンが触発した社会的急進主義の爆発は共和主義世論がまんべんなく承認されたのではないことを明らかにした。しかしながら、コミューンは、1871年の諸事件に先んじる数年において革命のリーダシップとプログラムを引き受けた共和派の執念深い同盟に直面した。

p.189   ブルジョア共和派が帝政という共通の敵に対して、労働者と連帯したことはもはや欺瞞となった。このような協力は単に戦略的な同盟であった。このような政治的同盟は一般に、共同の敵からの防衛における最初の決定的な破れ目が昂じて長続きしなかった。こうして、共和主義者のプログラムは、その革命概念と、それが形成されつつある民衆との同盟に矛盾する。検討するためにはまさにその箇所を見なければならないであろう。共和派 ― その中の最も保守的な部分はむろんのこと ― はしばしば政治革命について、すなわち制度上の革命について声高に語るが、社会問題について発言機会を求める者を黙らせたとの強い印象がある。

 共和派がそれ自身で1860年代後半の政治討論での社会問題に直面したとき、ほとんどつねに彼らは団結という言葉で事をおこなった。その後10年間に帝政の財政政策に関する論争で勇名を馳せた急進共和派のアンリ・アラン=タルジェ(Henri Allain-Targe)は民主主義を「ブルジョアジーと民衆の同盟」と定義する。彼は民主主義を階級闘争と社会的分解作用に対する防波堤とみなした。この理由のゆえに、彼は狭い範囲の階級的利害の域を出ないブルジョア寡頭政治を攻撃した。自由、可動性、機会を窒息させた社会政策はその内部にそれ自身の分解作用、おそらくは国家的分解の要因をもつことになる、と彼は認めた。すなわち、彼曰く。

 「軍事力と大多数の人々の完全なる無視のうえに成り立つ隷属的にして傲慢な官僚のくびきによって社会を支配するブルジョアジー、このブルジョアジーはわれわれの努力を妨害する。ブルジョアジーは己の特権を失うまいとする。ブルジョアジーはその選挙上の独占を保持したがる。彼らは万人の前に開かれた自由にして「道徳的な」教育を欲しない。彼らは自由を通して力を行使することを望まず、むしろ行政的中央集権化 ― ここからあらゆる富、権力、権力間の同盟を通じて影響を引き起こす ― のもとに国民を窒息させる道を選ぶのだ。」

 ここでアラン=タルジェは、彼が大ブルジョアを帝政の専横をみなす事がらについて語る。それにもかかわらず、総体的ブルジョアの位置から語っているのだ。彼は「自由を通じての権力行使」を拒否するゆえに、ブルジョアジーを非難したが、他方においては、彼の民衆観 ― 最も寛大かつ開放的で平等主義的な側面強調しつつ ― はまさにそのことを約束する。なぜなら、彼は自由を通じる以外の階級支配を想像できなかったからである。彼の急進主義、すなわち、合法的革命の道は、団結と階級調和のゴールを求めての、社会革命なしに、つまり、社会関係の秩序を維持したまま何らの激変もなしに達成さるべき性質のものであった。p.190  彼は書いている。「等しく自由を享受する市民から成る同等者の社会」の創造は廉直な人間が「少しばかりの蓄えをもち、幾ばくかの財産を獲得する ― これこそがあらゆる労働者の願いである ― ための機会を提供することになる。」民主主義はこの宣言に引っ張られ、アラン=タルジェは「すべての背景をもつ人々、およびすべての職業人を共同の旗の下に結束させること」から成る共和国に関する破天荒な見解を企図した。

 共和派は、彼らに固有の明瞭な階級観を反映する合法的改革のコンテクストにおける社会問題を取り扱った。ジャンヌ・ガイヤール(Jeanne Gaillard)は共和主義の反対派、自由主義者、急進派らがどのようにして生産者組合と民衆銀行を後援したかについて描く。それらの一つ労働金庫(Credit au trabail)と言われるものは自由主義経済学者ジュール・シャマジュラン(Jules Chamargeran)、実業家シャルル・ドルフス(Charles Dollfus)、教育改革家ジャン・マセ(Jean Mace)、そして、農事評論家ピエール・ジョワニョー(Pierre Joigneaux)らによって設立された。この銀行の目的は労働者の工業参加を刺激することにあった。それは古典的な自由資本主義的原理にもとづいて運営される。ガイヤールがこのような企業の政治的関連に関する判断は引用するに値する。すなわち、「その構成は労働者階級の顧客よりはむしろ民衆の顧客を求める党派の政策に匹敵する」、と。民衆購読者のために共和派の政治評論家によって書かれた組合年鑑(Almanach cooperateur)において同じような性格を見ることができる。共和国の未来の傑出した政治家の一人となるアンリ・ブリゾン(Hemro Broson)は「政治を忘れぬようにしよう」と警告した。彼は社会問題を拒否するのだ。なぜというに、社会問題は政治から目を逸らし、そして、政治的不安定の真只中に社会秩序を求める道を探すことに関して「社会問題から政治問題を孤立させることによって一つの階級を他の階級から孤立させ、分割統治する願望」を満たすからである。彼は帝政の官僚統治について語る。それは「労働者のために何事かをなすための素振り」にすぎなかったのだ。ブリゾンは猫を鞄の中から放り出した。共和派の政治的成功は民衆運動の確信に満ちた先鋒として彼らの評判に依存する。彼らがなにものにも増して懼れたのは、確立された権威と労働階級の同盟だった。このような同盟は農村と都市のブルジョアジーの中産階級の犠牲においてはじめて可能だった。その次に、彼らは己自身の孤立を懼れ、究極的には彼ら自身が敗北者に転落してしまう激烈な階級闘争を懼れた。思うに、地方のブルジョアジーは支配的位置を失うことなく民衆との同盟を維持し強化すること、はどうすれば可能になるか。それこそ、団結である。

 ブリゾンはまた、共和派ブルジョアジーと自営農民の同盟を最初に呼びかけた者の一人だった。1869年の選挙戦の準備で共和派の最高指導者会議においてブリゾンの仲間は彼ら自身を「社会主義者」および「共産主義者」から分離するのに骨折った。p.191  彼らはただ一重に健全な市場と企業家的自由を実現することのみを願い、そのことのみを語りあった。それを為すに際し、急進的なエドゥアール・ロックロワ(Edouard Lockroy)と同じく、帝政の財政組織すなわち高価な信用、独占家の濫用、金融家の横暴に打撃を加えることになった。しかし、これらの急進的な攻撃は個人生産者の諸権利の願望を満たす結果となった。なぜダメなのか? 結局のところ、地方の実業家やその法律上のスポークスマン、すなわち「法制上の革命」に忠実な主張者は、その政治目標を達成するために民衆との同盟をなす以上のことはしなかった。ブルジョアジーの一分派が急進主義を信奉し、権力を掌握するために急進主義が課す同盟を信奉したのは、これが初めてのことではない。団結という旗のもとにかかるキャンペーンを彼らが実施できて、社会的防御を伴う急進的政治改革をなしえた。彼らは両分野に亘って最上のこと獲得したことになろう。

 文字どおりの体制に対する攻撃が帝政の司法の激怒の紐を外すことにつながる政治同盟の防御に専念するために共和派は明らかに労働者のストライキに対してはまったく不熱心だった。彼らは反体制の攻撃部隊の予備兵として労働者を誘導することに関心を集中する。共和派がストライキの舞台に姿を現したとき、たとえば1869年と1870年のル・クルーゾまたはサンテチェンヌにおけるように、彼らは注意深く特殊な社会問題を避けて通りつつ、民主主義者と労働者の完結および同盟のアピールを出した。独立した労働者の行動の上げ潮を前にして彼らは「資本と労働の同盟」よりも強力な相互扶助組織」の立ち上げを提唱した。彼らが主張しなければならなかった事がらのほとんどが、より保守的ブルジョアジーのジャーナリスト的弁舌家のエドモン・アブー(Edmond About)の弁論から彼らの接近を際立たせない。社会問題に関する議論への彼らの貢献は、その表題自体が表明している。広範に普及したパンフレット、すなわち「すべての者に資本を、もっと多くのプロレタリアを、3,800万のブルジョア、労働者のABC」で始まりそれで終わった。奇妙なことに、幾つかの場所でストライキは地方の共和主義の指導者である雇用主に向かってなされた。ロワール地域がその例であり、そこでは共和派の領袖ピエール・ドリアン(Pierre Dorian)が雇用主を扇動し ― 彼自身は鉄工所の所有者だった ― サンテチェンヌ盆地のストライキをうち砕く際に指導的役割を果たした。また、北アルザスをはじめとする北仏でも、第二帝政に反対する共和派の闘いの最前線に立つ人々は、同時に左翼からの社会運動に対しても闘った。オーギュスト・シュレル=ケストナー(Auguste Scheres-Kestner)は彼の自叙伝で、叔父、従兄、義兄が遂行した政治闘争のこの局面について彼ら共和政のための英雄的闘争を褒めたたえながら、一方では無視した。リールの共和派は工業の暴動を伴う社会秩序の破壊したため政府を非難した。彼らにとって「貧困の絶滅」の著者は自分らを犠牲にして彼の青年時代の寛大な感情にもとづいて行動したように思われた。p.192共和派の新聞『北仏の発展 Progres du Nord』 の編集主幹ギュスターヴ・ムジュール(Gustave Mesure)はブルジョアジーとしての責任感を奮い起こした。

 「この重大危機に臨み無関心であることは、あらゆる市民や労働者以上にボスたちが社会変化の道へのすべての曲がり角を丹念に追跡しなければならず、経済科学の入念な適用を通じてすべての利害集団間の絆をつくりあげなければならないこの工業地帯では二重の意味で危険だった。」