ロッシュとデルフォー共著「コミューンとフランスの小説」(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

ロッシュとデルフォー共著「コミューンとフランスの小説」(その1)

Anne Roche et Gérard Delfau, La Commune et le Roman français

 

p.293

 

G.デルフォー

 始める前に私は2つの注意事項を明らかにしておきたい。第一に、われわれのような文学愛好者がこの歴史討論会に参加したという喜びを表明したい。人文科学の一定の分割法は今後、過去のものとなる徴候がここに顕れている。第二に、われわれが示そうとする作業は共通の考察の成果であることだ。そうした考察の終わりに臨んで叙述を容易にするため、担当者はめいめいその質に適合した部分を担当した。だが、強調しておかねばならないことがある。これら2つの本文は、われわれが提案する結論の公然たる性格および疑問的な性格にいたるまで固く結合していることである。

 百年祭の記念事業が結果の総和の時であることが習わしとなっている。われわれはこの労苦をしないであろうし、また、ここに示された質問でもっても、すなわち、「コミューンとフランスの小説」という問題でも、そのチャンスさえももたないであろう。この主題はなおまだ新しい。「コミュナールの小説家ジュール・ヴァレス」の研究と長いあいだ混同されてきたため、それは1950年、初めて自立的方法であらわれた。それはE.シャルカインド(Schulkind)のテーゼ「1871年のコミューン文学」という大急ぎの題名としてであった。われわれはその理由を探求しなければならない。だが、驚くべき欠落があることか! もちろん、ここでは政治的と同時に歴史的かつ審美的な理由が求められている。

 したがって、革命事件、とりわけ1871年のコミューンと、多形的にして膨れたジャンルの小説とを対置してみたい。それらの関係を研究するのはそれほど単純なことではない。少なくとも2つの困難が生まれる財産目録こそが問題なのである。「小説」というラベルは何を覆い隠すのか? 周知の事実だと仮定しても、便利でしかし捉えどころのない接続詞「そして」に頼ることなくその主題を述べ、境界を定めることはどうすれば可能になるのか? p.294 したがって、反コミューン派の膨大な文書がロマネスクであって、歴史と小説の境界はほとんど判然としないと述べるのはほとんど逆説的とはいえないであろう。じっさい、1871年秋以降に現われはじめ、過ぎ去った諸事件を語ると主張するこれら無数の「覚書」「日誌」「物語」をどのように分類すべきなのか? このような思い出文学は確かに個人的体験に根ざしているが、しかし、それは総和、月並みな作品(コミュナール、質の低い労働者)小説と縁組をする幻覚(火災の執念)から栄養を横取りする。この点に関してはタイトルが暴露的である。つまり、ポール・ド・サン=ヴィクトル(Paul de Saint-Victor著『野蛮人と盗賊 ― プロイセンとコミューン』、ジョルジュ・ベル(Georges Belle)著『パリ炎上 ― 1871年のコミューンの歴史』、マルフォリオ(Marforio)著〔ルイーズ・ラクロワLouise Lacroixの偽名〕著『赤いマフラー ― コミューンの思い出』、マクシム・デュ・カン(Maxime du Camp)著『パリの痙攣』(あまりに著名で風変りさを失った作品)などの作品の中身はこの種の混乱を示している。すなわち、同じような例をまた挙げると、コミューンの最良の支持的歴史は元の小説家デュ・カンに負っているということは意味深い。その物語のホンモノの史料や3月18日の憎悪によって記述された抒情的語句と隣り合わせにされているからと言って驚くべきことであろうか? 敗者の側では事物の状態はもっと明確である。数こそ豊富にあるが誤解も多々ある追放者コミュナールの文学はヴェルメルシュ(Vermersch)と彼の小冊子、フェリックス・ピヤ(Felix Pyat)の作品など、一般に政治的パンフレットの形態をとる。それはイデオロギー面においてより大きな一貫性をもつことの証明となる。にもかかわらず、リサガレーの素晴らしい小冊子『1873年のヴェルサイユのビジョン』をどのように分類すべきなのか? 同著者はこの中で、5月に銃殺された人々が反動的議会に清算を請求しにきたことを想像する。同じく、だいぶん遅れて、レオン・ドフー(Léon Deffoux)の作品『木製パイプ ― コミューンの証人』は或るコミュナールの日誌として示された作品であり、その前書きと文献目録はモンタージュ(合成作品)であることを告白する。ところで、この作品をどう分類したらよいか?

 したがって、一定の不決断がコミューンから生まれた作品の性格を支配する。すなわち、単なる「ルポルタージュ」からよく練りあげられた作り話まで、ジャンルがはっきりしない非常に多くの作品が占めるべき位置がある。さらに選択がなされたときでさえ、なおまだ言い逃れ作品が存在する。作文の考え方を示唆する用語の絵画的語彙から借用してきたTH.ゴーティエ(Gautier)の『籠城一覧Tableaux de Siège』のタイトルのもとに諸記事の寄せ集めがある。また、敵対的な作家は小説よりもコントを好む。ドーデ、コペ、ブルジェらがそれに該当する。彼らが主張しているように、彼らにとってこれは、過去と目撃した事実に特権を与えることであった。しかし、コミューンは不安を与え、閉口させる事件であるゆえに、それはまたしばしば無能力ぶりと拒絶の標でもあった。それは直視に堪えないため、彼らは革命的現象についての彼らの解釈にとって都合のよい断片をそこから剥がすことを選ぶのだ。

p.295 同じような不決断は研究分野の境界を定めることが問題となる際に明るみに出る。「コミューンと小説」を3月18日革命から着想を得たロマネスク文学という限定的意味において理解すべきであろうか? すなわち、それが選択の余地を占め、それが不統一の背景となり、それがそれ自身として行動の推進力である作品のみを研究すべきであろうか? 私見によると、このことは国民的意識の中でのコミューンのインパクトを過小評価することになり、またそれが社会的亀裂の要因であったことや、それが無関心と中立を許さなかった事実を見落とすことに連なる。

 だからこそ、われわれはその主題に最も大きな意味を与えてきたし、少なくとも測鉛によってコミューンのロマネスク生産の全体への影響を評価しようとつとめてきた。われわれの調査の理想的ラインはフローベルから出発し、ユゴーの『93年』を通り、コミューンを主役として扱ったヴァレスの『叛乱者』に到達するであろう。道筋がはっきりすれば、われわれはむろんロマネスク調でなく、かつランボーから超現実主義まで連なるあらゆる爆発文学が何らかの方法で1870~71年の集団的・精神的トラウマにその起源を見出さなかったかどうかを問うてみた。だが、ここでわれわれは仮説の分野に入るであろう。

 われわれがそれを定義したように、その主題は予め年代記的研究を必要とする。「コミューンの事件」を前に小説家を反応の面から捉える垂直的切断と同時に、コミューンによって引き倒された作品の歴史をスケッチする水平的切断との3月18日事件から着想を得た小説の「モデル」の描写を下ごしらえするために、原文の中身そのものにアプローチが可能となるのは、この目録がなされてようやくのことである。

 したがって、考慮すべき第一の問題は革命期における小説家たちの行為である。1871年は一つの決壊点、確認、あるいは更新として受け止めてよいか? 返答のモザイクを避けるために、われわれは社会的出自による著者たちの分類を考えてきた。だが、わが作家たちはすべてブルジョア出自であることが明白であるため、われわれはこの指標を放棄し、世代による分類をとることにする[原注]。したがって、年齢計算を一列に並べることができる。内乱に対する

[原注] 我々はこの部分をポール・リドスキー(Paul Lidsky)の優れた作品の成果から借用している。『反コミューンの作家たち Les Ecrivains contre la Commune, Maspero, Paris,1970.』。もう一つ挙げておこう。クロード・ディジオン(Claude Digeon)、『フランス思想界におけるドイツ的危機 La Crise allemande de la Pensée français, P.U.F., Paris, 1959. だが、行論で明らかにするように、われわれの希望はかなり異なるが。

個人の態度の評価が問題になるとき、それは重要である。それとともに、19世紀を画するp.296 体制の継承の結果としての政治過程の素描を試みることもできるだろう。

 3世代がコミューンを生きた。最も古いのは1830年代(生まれ)のそれであって、ユゴー、サンド、ゴーティエによって代表されるであろう。前2者は1848~51年のあいだに理想主義的共和主義者、社会主義者であることを明らかにしていた。彼らの道筋はそれでも違いがある。すなわち、G.サンドは第二帝政が姦策を巡らし獲得していたのだが、彼女はいみじくも人道主義的社会主義を放棄するにいたる。一方、ユゴーは亡命により身柄を保護され、1871年5月27日、突如として犠牲者の陣営を選ぶまではニュアンスに富む態度を持してきた。彼らにとっては少なくともコミューンに対して判決を言い渡すことは良心の問題を己に課すことであった。ナポレオン三世に守られて大きくなってきた1850年世代にとって事情は異なる。フローベル(Flaubert)、エドモン・ド・ゴンクール(Edmond de Goncourt)およびマクシム・デュ・カン(Maxime des Camp)らが示した3月18日蜂起に対する敵意は彼らの財産そのものが威嚇を受けたからと見なすブルジョアジーのそれに似ている。ただ一人ゴビノー(Gobineau)伯爵だけはその非難をイデオロギー的モチーフに基礎づける。1870年代の世代は非常に雑多だが、彼らに関してわれわれが25才から40才までの者(マロMalot、ヴァレスValles、クラーデルCladel、ドーデDaudet、ゾラZola、コペCoppée、アナトール・フランスAnatole France)たちをようやく20才に達した者(リシュパンRichepin、エレミールElémir、ブルジュBourges、ユイスマナンHuysmans、ブルジェBourget)らから区別するであろう。最年長者は第二帝政下で最初の武器を執ったが、共和主義的反対体制派が労働階級とインテリ世界(ジャーナリズムの発展)においてかなり強化されたときは特にそうであった。したがって、彼らには前世代の憎悪に満ちた無理解には出くわさないであろう。ドーデ、ゾラ、コペ―、彼らのロマネスク作品はコミューンをかなり漫画的なものとして扱っているが ― その原文においては叛徒に対して比較的寛大な態度をもって追跡する(リシュパンとユイスマン)。ミシェル・マンシュイ(Michel Mansuy)の略歴によれば、ポール・ブルジェでさえ連盟兵に対してサント・バルブ(Saint-Barbe)の同窓生として尊敬を分かちあっている。1872年以降、彼の全作品により彼がこの束の間の迷いを忘れさせようとつとめた。最後にもう一群の小説家が残っている。彼らにとってコミューンは彼らの子供時分の出来事であった。G.ジュフロワ(Geffroy)、ロニー(Rosny)兄弟、ダリアン(Darien)、デカーヴ(Descaves)らが該当する。彼らのうちから、明白に親コミューン的な作品が生まれるであろう。

p.297   だが、要するに、この大急ぎの研究から出てくる驚くべきことは第二帝政がそのイデオロギーのグリザイユ(白黒画)、大勢順応主義にもかかわらず、インテリ階級に与えた魅力である。じっさい、加担は1850年代世代において一般的である。サンドが最年長であるが、彼女はこの検証を確証する。そして、1870年世代においては発案の気候にもかかわらず、手本になろうとしていることが感じられる。すなわち、ヴァレスにとってドーデであることか! それだからこれらの人々からどのようにして革命的現象を前にしての公然たる態度を期待できようか? コミューンから着想を得た文学の相対的脆弱さを説明する理由の一つをそこに認めることができる。

 だが、コミューンを前にしての小説家たちの振る舞いに関するこのような調査は文学的創造に対する1871年の諸結果の研究を紹介するためにのみ望ましい。われわれがこれから述べなければならないのはこのことだ。

 1871年に25才から40才に達していた小説家(3月18日蜂起参加者の平均年齢)においてコミューンは大事件として感じられた。小説家たちは自発的に作品を発表する。ヴァレスは『叛乱者』、クラーデルは『INRI』を発表。そして、反対陣営ではフランスが『ジャン・セルヴィアン』、ゾラは『大潰走』、マロは『テレーズ』、ドーデとコペは『コント』を発表した。ゾラの場合、小説家の作品において3月18日の侵入はきわめて有意義だった。アンリ・ミッテランはこのテーマについて次のように記している。すなわち、1871年の危機は1869年に策定された。ルーゴン・マッカール叢書を修正し、この作家をして「極めて政治的な … 2番目の労働者小説を予見させた。コミューンの蜂起労働者(革命的道具)… 1871年5月に到達せんとする」。じっさい、ルーゴン・マッカールには労働者蜂起に集中された小説というのはまったく存在しないし、この叢書計画は『ジェルミナール』と『大潰走』の生成を促しつつ、二分されることになる。しかし、ロマネスク生産の展開においてコミューンの執念を追跡することは可能である。すでに引用した2小説のほかに『パリのはらわた』は1873年に、『流刑囚』(第二帝政の追放者のこと)のテーマと亡命者(コミューンの追放者)のそれらを合成する。政治集会の描写がコミューンのクラブに非常に強く影響されているように思われる。1880年、新たな『ジャック・ダムール』は可哀そうなコミュナールの小悪鬼つまり「扇動家」の犠牲者(類型化された下書き)の流刑地からの帰還を描いている。