M.ルベリウー著「小説・演劇・歌謡;どんなコミューン?」(その4) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

M.ルベリウー著「小説・演劇・歌謡;どんなコミューン?」(その4)

 

 だが、たいていの場合、われわれの著者たちがコミューンの起源を位置づけるのは直接的歴史、1870年の危機・籠城・戦争である。ルイ・ガビヨー(Louis Gabillaud)は「流刑者の妻」の中で唄う。「それは血生臭い戦争の2か月後のことだった」、と。

 ストラスブールは煙り、そして霞弾は

 振り向きざまに捉える

 パリを鉄の鎖の中に

 

 ここでもまた、反コミューン的ないし控えめに中立的な小説家 ― p.289 彼らにとって1870年の出来事は愛惜の情を含んだ陰謀のふつうの装飾でしかない ― に対してマルグリット兄弟からジュフロワとデカーヴにいたるコミューンの友が対峙する。後者にとって近い過去というのは現代であり、コミューンの事実は政治的・軍事的危機から分けることができない。

 われわれはついに探究の究極的入口にまで差しかかっている。すなわち、われわれの原文がコミューンに際し展開する明瞭なイデオロギーの研究がこれである。形容詞の「明瞭な」に下線を引くことができる。じっさい、イデオロギーはいたる処にある。装飾の選択、登場人物の選択、語られる歴史は明白にイデオロギー的意味をもつ。だが、私はここでは明らかな演説のみに光を当てるだろう。他のいかなる分野にも増してこの分野こそ、原文の方向に局面が圧しかかる。われわれにとってそれを現実と対比させることが少なければ少ないほど、そこから摘出できるコミューンのイメージがどのようにして生きる者の政治的・社会的先入見に挿入されるかを理解することが問われるのである。

 大赦への闘いの年月が半ば偏ったかたちでコミューンの愛国主義を強調する方向に導く。ブルジョアジーの非難に対し歌謡は一つひとつ応える。追放者は「フランスから来る」そよ風を待つ。これは彼らの唄の名である。そして、彼らの国が彼らに与える懲罰の厳しさは「けっして彼らの側での憎悪の叫び声」を導かない。これは1879年10月に延期された唄「亡命者の帰国」のテーマである。ここでは演説は少々多くくり返される。だが、流刑者そのものは声をそろえくり返し要求する。1876年に書かれた「流刑囚の歌」においてジャン・アルマーヌ(Jean Allemane)は彼の仲間たちがフランスの息子であることを思い起こす。

 祖国の鎖に繋がれるにしても

 祖国が救われた者たちにより

 フランスが愛しむ者たちにより

 エネルギーを再び見出す

 そして、再生させられる

 彼らは汝の息子、おお、かくも愛しまれたフランスよ!

 彼らの声に耳を傾けよ、彼らの苦しみを解きたまえ

 だが、急げ、深い悲嘆に浸された大波が

 花の咲く珊瑚で死者を転がす

 

 今度は初年のあいだ、そして大赦に向けてのキャンペーンの枠内で生き生きした光が共和政への執着に対して投じられる。

 なぜというに、かくも多くのストイックな死のおかげで

 英雄的閃光で覆われた死

 そうだ、共和政は生き延びたのだ

 

 1879年、オリヴィエ・スエトル(Olivier Souëtre)がコンクールで1等賞を得た。この詩句は当時における十数個の詩歌を要約できる。だが、いかなる共和政? そしてそれをどのように獲得するのか? p.290 コミュナールの小説と演劇ではまったく混濁してしまった ― これは先ほど述べたが ― 2つの革命的伝統に対してよりも、はるかに通り道に力点が割かれる。たしかに、現実のブランキ派とサンキュロットに結びつく直接民主主義との間の論争は依然として公然たるものにとどまる。マルグリット兄弟の「コミューン」あるいはそれより数年先んじて、成功は少なかったがロニー(Rosny)の「ル・ビラテラル Le Bilatéral」がこの種のものである。また、確かにフィレモンがプルードン的・無政府主義的つながり ― 老コミュナールがギュスターヴ・フランセ(Gustave Français)がデカーヴに教えた ― を想起させる革命的サンディカリズムのもとにある。最も大きな警戒の必要性がしばしば長編詩「大虐殺のあと」 ― 以下に3行の詩句を引用しておく ― と同様、グレ(Goullé)の新聞小説の年老いたブランキストにより思い出される。

 コミューンはあまりにお人好しの欠点をかかえ

 あまりにも頻繁に雷鳴を鳴らすという

 コミューンは落してはならなかったか、あるいは外して落すべきだった

 

 だが、年月が経つにつれ、コミューンに関してのイデオロギー的論争は変わっていく。その論争は19世紀末と20世紀初頭の社会主義運動の新しい問題関心が緊密に挿入される。しだいに問題視される事がらというのは、正統性とまではいかないまでも少なくとも蜂起の有効性と効力になった。共和政が或る者にとって可能な政体に変わったように思われるのは、聖職者と軍人に対する健全な不信がその主要な敵手に対しそれを拡大するという条件で社会主義への合法化への道に連なった。私のみるところ、社会主義新聞に掲載されたコミューンに献じられた3つの新聞小説は特に意味深いものに思われる。グレが1877年に発表した「罪人の娘」、ルイ・リュメ(Louis Lumes)が1901年に発表した「混沌」の2作品は『ラ・プティト・レピュブリク(小共和国)』紙に発表された。1911年の『リュマニテ』紙に掲載されたヴィルヴァル(Villeval)の「或るコミュナールの愛」が最後の作品となった。これらの新聞は1880年以降、「壁に赴く」公衆向けの作品である。グレは年老いたバリケード戦闘員の栄誉を称える。彼は「最後にブロンズについて語られる」ことを期待する2人のうちの1人である。このことはオーブ(Aube)県のゲード派の老闘士ペドロン(Pédron)によって1906年に語られ、「1871年の敗北者」に捧げられた唄が要求する作品である。リュメ(Lumes)の小説ではグレと同じテーマを擁護する富裕なブルジョアにしてブランキストであるヴァルナン(Varnant)に対して、その物語の構成が英雄を生みだす長い対話において対置される。つまり、労働者であり社会主義者であるジャック・ランソン(Jacques Ranson)が。じっさい、彼は蜂起を非難し、普通選挙に全幅の信頼を寄せる。「5月の1週間の35,000の遺体は彼らにとって何の役に立ったか? それは無駄死にであった。投票でもって首都を踏み潰すことのほうがいとも簡単だったその時における殺戮であったのだ!」「亡命者」を通してジョルジュ・ルナール(Georges Renard)がかつて問題視に通じるものがある。ヴィルヴァルの道徳的用語を使って暴力的行使を問題視する。p.291 そして、小説は投票のこの上ない道徳を結論づけることなく、この上ない政治的曖昧さをもってくり拡げられる。そこでは、若者の凡庸な能力は明らかに幾らかの長所をもつ。だが、私の意味ではコミューンに関するこの「中身のない小説」は『リュマニテ』紙で記念祭時に書かれる稀な躊躇的な記事と何ら変わるところはない。

 最後に私は小説家・劇作家・詩人などの作家 ― 本質的に階級闘争の盛沢山なことを言いたかった者から、コミューンで歴史がそのために変わってきたし、また変わるであろう力を暴露することを求める人たちを区別しておきたい。いわゆる回顧的ビジョンといわれるものがそれだ! だが、まずこの区分は明瞭ではない。そして、そうだからこそ、このことは社会主義がしだいに輪郭を明らかにしてくる見通しの重要性を完全に減じてしまうのではない。INRIクラデル(Cladel)の小説の外に、歌謡は実際に唯一のもの、それはコミューンに味方するか、極端に反コミューン的かのいずれかに属する。こうした亀裂は決定的である。

 労働者は機械を握る

 農民よ、土を掘りたまえ!

 

 1874年にシャルル・ケレル(Charles Keller)が書いたこの歌詞は「インターナショナル」と同様に、またINRIにおけるユルベーヌ(Urbaine)と同様に、世界中のプロレタリアの団結と並んで、都市と農村の被搾取者の団結を呼びかける。クラーデルは、このようなイデオロギーが1871年時点では流布していないことを十分に承知していた。なぜなら、ユルベーヌはその小説の中で、彼女が愛情でもって愛人たる農民の成長を促すことに成功したとしても、彼女がまた非常に人気のあったベルヴィル地区のクラブを説得できなかったからである。だが、ポティエにとってと同様にクラーデルにとっては、それを超えて階級和解の企てではこのようにして新時代の到来を告げるものとなった。

 われわれはこの当初の探究の終末にきているようだ。

 1880年4月10日の『レヴェヌマン(事件)』紙においてフェリクス・ピヤ(Felix Pyat)の筆致と思われるコミューンに関する演劇案に関して或る編集委員は書いている。「文学や文学者が口を出さなかったならば、演劇検閲委員会の委員の一人アレー=ダボー(Hallays-Dabot)がコミューン事件において劇作家と新聞小説家に帰せしめた責任をコミューン後の文学作品全体に押し広げることであった。1871年以降、彼は彼らの活動を「大破局」の要因の一つとして非難した。

 諸君はお分かりのように、このような遅れ馳せに引用するのは、こうも長い報告に諸君を関わらせたことの弁明のためである。だが、この引用はそれなりに私の報告の底にある考え方を説明している。すなわち、「真実」の執筆は必ずしも現実を復元することにつながらず、嘘の執筆はまったく覆い隠すことはできない。p.292 歴史家の書きものもまた、いわゆる文学と称される表現方法もむろん、そうである。

 終わりに際し、私は明らかにこの作業の大きな欠陥を再検討しておく。この作業に興味をもつ者が有する展望を垣間見る。だが、私には歌謡・劇作・小説を通してコミューンの二重のビジョンがあるように思われる。二重のイメージとは、一方の側での大虐殺がおそらく階級の恐怖として不合理の広がりをあたえる神秘的にして黙示録的な象徴。他方の側での無名の人々、すなわちコミュナールの日常的・強烈な政治生活。二重のビジョンとはこうだ。一方の側での敗北 ―「ああ! だが、それはけっして終わらないであろう。ジャン・ミゼール(Jean Misère)はこのように歌う ― によって培われた絶望。他方の側における戦闘が発生したという単純なる事実から引きだされた闘争性と希望。

 そして私は、1887年2月21日の『La Voix du Peuple (人民の声)』紙のレオン・マイヨー(Léon Maillot)の句を引用することで結びとしよう。

 われわれに71年がいつか戻るとしたら

 労働者の日曜日はどんなにか素晴らしいことだろう!

 

【終わり】