【1855年の万国博覧会】
その頃、帝国は同時に鉄道敷設とパリ改造、つまり、戦時の仕事と平時の仕事を併行して実行していた。セバストポール包囲の期間中、第一回パリ万博が工業館で開催された。パリは、この種の催事をクリスタル宮で始めたロンドンを模倣したのである。つい最近の1849年に催行された国内工業製品の博覧会(成功だった)を拡大したことになる。技術進歩とそれらの文明への影響を示すことにより、政府は機械生産におけるフランスの製造業がいかにイギリスのそれと太刀打ちできるかを示したかったのだ。パリは全世界を招くための準備にとりかかる。工業館の巨大な温室に捨石がいっぱい詰められた。にもかかわらず、万博と称するにはほど遠かった。セーヌ河岸に沿ってギャラリーが長々とつづく。最後に、隣接の美術館の展示が半世紀を回顧する。
開会が近づくと、困難を経験したため、ストライキが頻発する。エレガントな街区の店舗家賃が法外に跳ね上がる。パリ市民は増えた田舎者と外国人による混雑に不平を鳴らした。にもかかわらず、木戸賃収入は不十分だった。「入場料が5フランの値打ちがあるのに、収入は1千フランから5千フランと変動幅があった。今のところ、20スーとして1万5千から1万6千フランになる。しかし、時おり3万フランを超えたことのあるクリスタル宮殿の収入と較べると、それはものの数にも入らない、。1か月後の7月、幸先のよくなかった博覧会は極めて有効なものとなった。住民が空っぽになったパリはイギリス人を筆頭とする外国人でいっぱいになった。これは「バベルの塔」〔多様な言葉の往行でコミュニケーションが不可の意〕である。1日1フランとして2万5千フランの収入があり、日曜日には2万5千人が入場した。5フランだったときは娼婦や5,6人の紳士淑女しか訪れなかった。最終的に博覧会はパリに割引された無限の宝庫をつくらせなかったとしても、それは確かに成功したとみてよい。500万の訪問客はロンドンほどではないが、成功裡に終わった威信の証明となった。
【メダルの裏面:物価上昇と政治的反対】
すぐにデモが起きた。パリは職を求める労働者と愉しみを求める旅行者で溢れるようになった。パリがこれほど活況を呈したことはない。外国からみると、非常に繁栄していた。共和政の4年間、人々は倹約に努めた。資本の流入が後を追い、人々は出費に浮かれるようになった。パリの労働人口に10万人がつけ加わったと考えられる。仕事口が不足したとなれば、何が起きるだろうか? 1853年以来、収穫があまり芳しくなく、パンが値上がりし、コレラが再発した。1853年の食糧情況は1847年のそれと比較しうる。事業過熱は物価上昇を伴った。なるほどパリの労働者は仕事をかかげていた。だが。1855年の夏、警視総監は住民にとっての物価騰貴の成り行きを懸念した。諮問を受けた商業会議所は答える。すなわち、賃金の上昇に ― 一般的というわけではないが、特に婦人にはそうではないが ― もかかわらず、物価騰貴は不安と窮乏の因になる、と。特に家賃が1852年以来、3分の1以上も値上がりした。そして、県はこれを次のように評価した。仕事の活力にもかかわらず、労働者は10人のうち1人の割合で失業している。対照的に1848年の惨状ののち、証券取引所の俄か成金たちが再び現れ手本を示した。「貴族的要求をすることで成金を享受する。」化粧と家具の潤沢が広告に出た。宝石商は注文に応じきれなかった。投資で得た財産および腐敗とスキャンダルで得た財産に関してはこれ以上語るまい。よい給与をもらう労働者は首都の生活を特徴づける出費のこのような趣味によって儲けを得た。
このような動きはたしかに1840年以降に始まる。革命によって中断されたが、景気回復によりいっそうひどくなった。「パリはこの新しい世のバベルであり、見物と享楽に飢えたあらゆる国の訪問者を迎え宿泊させる隊商宿であり、金、賭け事、仕事、賭金熱、享楽で染まる悪魔の集会所」である。証券取引所の貴族が演壇の貴族に取って代わった。トクヴィルはフランスの旧社会の反動を描く。「人々はしばしばわが国民的活動に代えて、投機と商業をおくようにつとめたが、これは長続きする成功をもたらさなかった。これらの財宝を急激に築いた者は幸福ではない。なぜなら、彼らはそれらを常に詐欺の疑いの眼で見るからである。財を築かんとつとめ、それに失敗した者はもっと不幸である。それを試みようと思わなかった者は妬み深く無愛想である。したがって、すべての者が不満足となる」(1856年5月20日)。皇帝自身も彼が切って下したこの熱情に驚いた。彼は自分を非難する数多くの演劇にこれ見よがしの拍手を送った。彼の政敵ヴィクトル・ユゴーは亡命中にこう書いた。
「おお! 場末の住民の資金が倍増した。日中は幸福に。1日4フランだと。だが、日曜日となると冷たい子牛、サラダ、柵の思うままになっている酒、ツルハシのように塞がっている針……四輪馬車が走る。建物が進む。…人民は幸福である。やせ細った娘を私は好む。」
物価高は繁栄の代償であった。さらに下落はつねに騰貴を追いかけていく。信用の尽きる時が到来する。1856~1858年は不景気だった。銀行家ミール(Mires)はその当時を振り返って言った。「あれほど狭かった証券取引所のこの囲いの中にやけっぱちの空気が充満した」と。第二系統の工事の開始依然に建設は1858年に明瞭な中弛みを経験した。メリメの書簡は1856年以来、公衆の不安を取り扱っている。10月19日付の書簡。「株価は常に下落し。商いは不振を極め…人々は苦しみ、冬を越すのは大変であろう。人々は食糧と特に家賃の上昇に音を上げる。これはパリで行われた取り壊しに対する大きな悲嘆である。1848年の損失を火急速やかに取り戻そうとする家主のほうに責任がある。」お節介焼きが「宮廷はフォンテーヌブロー城で秋の別荘暮らしを短縮するだろうこと保証した。なぜなら、家賃がパリでこんなにも上昇いるときに遊んだり狩りをしたりすることを多くの公衆はよい眼で見ないであろうから。労働者は食糧価格がかくも値上がりしたのは皇帝のせいと見なしている。じっさい、多くの者が零している。…人々はパリに戻りはじめている、だが、ゆっくりとである。開かれているサロンはほとんどない。フォブールには幾つかのプラカードが掲げられる。…極めて不幸な人々は事務員と、シャツ製造の婦人労働者たちである。…私に胸のうちを語ってくれた可哀そうな老人に遭ったことがある。」1857年11月、不況はアメリカに対してと同様にヨーロッパに重たく圧し掛かった。証券界は『ル・モニトゥール』紙で証券が強制通用に戻されたこと、方策はおそらく必要に迫られて注文されるであろう、と言って皇帝を非難した。
【政治的反対】
こうした環境下で1857年の選挙は悪い結果をもたらした。再建途上の共和派の努力にもかかわらず、選挙は地方において前回の立法院選挙に比較しうる結果をもたらした。パリでは結果は異なった。1852年、9つの議席のうち共和派は2つの議席を占めたが、議席に就くことを拒絶した。1857年は6議席のうち、共和派は5人を当選させ、投票のほぼ半分を占めた。14万3千の棄権 ― 356,000票の登録有権者の3分の1以上に達する ― にもかかわらず、共和派は1851年と同じく96,000人を繋ぎとめたが、11万票を得た官選候補者は8万6千票を減らした。体制派は西部の3選挙区と郊外の2選挙区で勝利したにすぎなかった。カルノーとグジョーは第1回投票で当選した。カヴェイニャック、オリヴィエ、ダリモンは決選投票で勝利した。カヴェイニャックは死亡し、前二者が議席に就くことを固辞したため、補欠選挙となり、その結果、ジュール・ファーヴルとエルネスト・ピカールが当選し、残り1議席はリオンンヴィルでギリギリの僅差で敗れた。パリは最終的に4人の共和派議員を送りだした。彼らはリオネ・エノンとともに著名な「5人衆」を形成した。
この結果はナポレオン三世に痛く影響を与えた。内務大臣ビヨー(Billault)はセーヌ県の25万の有権者は地方の900万の有権者とは分離されないと宣言した。事件が彼に打ち消しをもたらした。「各街区の多数者投票による2つのニュアンスの識別された選挙地図はパリがかのバリケード時代とほとんど同じく分割されていることを示すだろう。…」5年前から「なにも成功していない。問題は9年前とまったく同じかたちで提起されている。1848年の戦争は人々の精神においていまだに燃え立っている。…10万人が選挙投票箱の周りに認められ数えられる。彼らは常に満員の叛乱の旧軍を構成する。」
この軍隊はパリの工場とマニュファクチュアの周りにひしめきあう人々によって構成されていた。知事はこの住民を、道徳的原則がなく宗教ももたず、教育は十分で享楽心で満ち、公共慈善による家族の気遣いも感情もほとんど完全に抜け落ち、野蛮にして金銭に飢え、野心に満ち溢れた人間として描く。じじつ、皇帝と彼の側近たちは自分らの敗北を十分に予測していた。敗れた共和政がパリ市民の半分の理想となるであろう。人民階級は自律的で体制に冷淡もしくは敵対的な生活を営む。その町の批判的で反抗的な精神に沸き立つ職業的・社会的生活。官選候補の敗北 ― 彼らのうち幾人かが市議会のメンバーだったが ― は同時に知事の敗北をも意味した。
皇帝とオスマンは脆弱さの兆候としての譲歩を拒絶した。知事はこう考えた。家賃を引き下げるためには仕事を中断してはいけない、と。軍隊調の文体で彼は工事の加速化を説いた。すなわち「すぐれて戦略的に、かつ巧妙にむなしい美化の外観に隠された工事の加速化を。」しかし、彼はやりすぎてしまう。1848年のマラストと同じくオスマンは「首都たるものは工場ではなくて、贅沢な町、知性と芸術の府、金融と商業の町、同時に政府所在地でなくてはならない」と考えた。それ以来、問題の核心は懸命に安価な生活の問題を解決することではなくなった。家賃を公定価格にし、その町を各人が自己の資産に応じて宿泊するような、一重に家主の町にするよりは地方から労働者の侵入をさせないために家賃と食料を高くすることを「正当に」彼は受容することになろう。かくて、「ハンマー男たち」は柵の側に追いやられ、やがては要塞の外に追いやられるであろう。皇帝はこの報告を承認した。彼は、そのことがいかに不快であるかを承知のうえで、パリに新しい工場をつくらせることを妨害しようとした。贅沢な町の生存に必要な職人階級のグループをどのようにして製造業と区別するのか? パリの都市改造は建設労働者の軍隊を想定する。知性と芸術の府はその真只中に政治的野党の割当定員を含むことなしに繁栄することがあるのか? 外部要塞の外側に押しやられたとしても、「ハンマー男たち」は生きつづけるだろう。少なくとも重工業はパリの発展を中断するのだろうか? 職人階級は体制に傾倒するであろうか? 12月2日の政治経済は主権者における高物価生活と両立しうるだろうか? 選挙は反省と本質的決意をもたらした。今後、立法院議員として4人の共和派議員が普通選挙で選ばれた唯一の当選者であっただけに、彼らは帝政の政策に対して仮借ない批判を加えるであろう。
辞職により、また補欠選挙により、選挙生活はパリにおいて1858年4月まで追いかけっこをおこなった。1857年の選挙が終わるか終わらないうちにシャンソン作家ベランジェ(Béranger)は7月18日に死去した。共和派はデモのために彼らの世界の個性を常に利用する選挙闘争ののち、労働者たちは1848年のかの偉大な日の前夜にあるものと信じて「沸き立つだろう」と言い、最近おこなわれた万博のメダルを除去するように、主人たちに勧めた。なぜというに、それは権力との団結を説いていたからだ。ペール=ラシェーズ墓地での聖エリザベスの葬儀の日、何百という人々(おそらく2百人ほど)が街頭に出た。確かに国民的シャンソン作家の死へのはなむけに。だが、行列に加わっていたメリメが言っているように、「パリの選挙での勝利以来、元気をとり戻した民主派はデモ行進ないしはそれ以上のことをなすための機会を窺っていた。街頭でひしめきあう人物や仕事着が1848年の不快な戦闘を思いださせ、将来について考えさせた。建設の仕事場には労働者が一人もいず、夥しい数の仕事着、その大部分が一頭立て二輪馬車の中にいる―が他の者たちは空の二輪馬車を引き、行列の進む場所へ移動する。」結局、何も起きなかった。政府は葬儀を公認し、町全体に軍隊を出動させた。
【オルシーニ事件】
最後に皇帝に対する襲撃が続いた。10時ごろ、フランス人またはイタリア人の国際派により陰謀が企てられた。「もしわれわれがすべてを考慮するなら」と皇后は言う。「われわれは眠らないでしょう。最も良いことはそのことを考えないことですし、神の思し召しを信用しないことであります。」1858年1月14日、3個の爆弾がル・ペルティエ通りでオペラ座に赴く皇帝の行列に投げつけられた。皇帝は無傷だったが、156人が負傷し、8人が死亡した。未だかつて一度としてナポレオン三世が死に直面したことはなかった。イタリア人の陰謀家オルシーニとその仲間は、皇帝が死ねば革命が起きるものと確信していた。「パリの革命は即全体の革命」という心情をもっていたのは興味深いし、これはこのパリの町の優位性を信じる民主派の信念でもあった。同じく、襲撃後の帝政の反動は、パリの選挙から生じた印象と暗殺行為の告知に準備された蜂起の懸念を人々が忘れるならば、理解できないところである。1857年7月から1858年6月まで帝政の真の危機が存在した。
第一に、過酷な弾圧への誘惑。7年間に及ぶ光栄あるとともに寛大な政策が何の役にも立たなかったこと、最初の日とまったく変わっていないこと、クーデタ敢行を含め、すべてを最初からやり直さなくてはならないことが宣言された。3月26日ナポレオンはこのように宣言した。6月11日、エスピナス将軍の更迭は危機が去ったことを標した。皇帝はこう考える。自分が明らかにしている大義は社会主義者に対する単なる苔脅しではなくて、革命のあらゆる真実、誤謬、罪業の要約である。やたてこれはイタリア独立の準備となることだろう。
(途中だが、終わりとする)