J.メートロン著「アペール報告の批判的研究」(その1)
La Commune de 1871, Colloque de Paris, mai 1971. Le Mouvement Social No 19 (Avril-Juin 1972), Les Edition Ouvrière.
Ⅱ 史料問題
アペール報告の批判的研究;「反対報告」の試み par Jean Maitron
p.95
セーヌ・エ・オワーズ分管区総司令官のF.アペール(Appert)は1875年3月8日、「1871年蜂起に関する軍事法廷の諸活動について」と題する全報告書に署名した。続く7月20日、陸軍大臣シセー(Cissay)将軍は「フランス共和国大統領マジャンタ公マクマオン元帥の命令により」国民議会にそれを提出。私が検討を提案するのはこの報告書であり、私の研究は2つの部分から成る。
アペール報告の体裁とその性格
アペール将軍の報告は「本報告書の目的と区分」と題する4ページの序文を掲げたあと、2つの部分と一種の補遺を含んでいる。
p.96 170頁から成る第一部は「パリコミューンの主要な行動の記録およびその組織」というタイトルをもつ。それは3章で構成される。
1871年3月18日から5月28日までの中央委員会
1871年3月28日から5月2日までのパリコミューン
1871年5月2日から28日までのコミューンと公安委員会
第二部……78ページは「蜂起期間中に犯されたあらゆる性質の罪と違反の抑圧に起因する司法的活動の全体についての報告書」である。それは次のタイトルを掲げる。「蜂起期間中に犯された罪と違反を裁判するために設立された軍事法廷の司法的活動」。そして、それは以下の3章に区分される。
政府はすべての有罪者を軍事法廷に付託し、このことによってあらゆる種の例外を回避する。実行された逮捕、囚人の監禁。
1871年4月2日から1872年5月31日までに逮捕された個人に関する司法的活動(第一部)。
第一次捜索を免れるか、または逃亡者もしくは行方不明と思われる者に対して1872年5月11日以降に行われた訴追(第二部)
報告書補遺……書物のおよそ3分の1の112ページ……は統計的各表を提供する。アペール将軍は記す。「われわれにとってはそれを完成し、そこから最良の結論を得ることが義務であると信じる。」これらの表は17表あり、その幾つかは印象的なものを含む。かくて、第1表は8ページに渉り、第3表は25ページに、第11表は24ページに渉る。付加すると、それらの表は第二部に欠けているわけではない。なぜなら、第一部に53表、第二部に9表、全部で79表もあるからだ。
アペール将軍によって署名された報告書は数年間に働いた官吏または警察のフリーランサーなど数十人の集団的作品であることを確実に示している。本報告書は「人がコミューン古文書と呼びうる」25万件の書類の集積することで初めて可能となった。それらの書類は535個に分類され、「700万以上の書類、写し、抜き刷りの立証の基礎となった(p.201参照)。逮捕者に関してはアルファベット順に分類されたカードシステムに依り、このおかげで直ちに当人を特定できる。また、当人の逮捕からはp.97 彼に対して企図された訴追の末尾までを追跡できるようになった(cf. p.196)
このような豊富な資料のおかげで、先ず第一に、そこに蒐集されている分量の大きさを前にしてだれも称賛を覚える。一瞥しただけで確認できる。274大隊24,864名のコミュナール(第三表)のために50個の欄に分類されているおかげである。パリの「謀反人」の数は大隊別に区分けされている。郊外出身者、住所不定、脱走者、外国人の数の数も記載。どれだけ多くのコミュナールがかの有名な1週間に毎日毎日、大隊ごとに逮捕されたかを知ることができる。第二表はわれわれに36,309名の逮捕者の出自を細かく示している。彼らはフランス人については県別に、外国人については国別 ― アフリカ、アジア、ブラジル、ギリシアなど全部で20か国 ― に分類されている。264ページは全部で36,309名にのぼる逮捕者の個人別職業170を含む一覧表である。一方、他の諸表は軍隊別の単位を明示している。すなわち、歩兵隊、騎兵隊、砲兵隊、工兵隊、補給隊、そしてダイナマイト係までも、将校か歩兵かの区別だてをしながら示す。最後に、われわれは守備隊を知ることができる。武器類の数、臼砲、機関銃の数(p.128)も。
しかし、歴史家はそれに質問をしなければならない。これらの史料の科学的価値はどんなものなのか? それにどの程度の信頼を与えることができるか? 歴史家は、リストに収録された25万件の書類がのちに消失し、何人もその構成要素でもってこのような一覧表を再生することができないゆえに、批判的な態度を採用するであろう。
私はアペール報告を以下の2つの観点から検討するつもりでいる
(1)本文。つまり、コミューンの記録と司法的活動の仔細。
(2)表。
前者の本文に関して3つのタイプの留保に導く。
まず第一に、言葉の第一語からしてそう思われ、またページが進むにつれて追いかけあう価値判断にもとづく判決について、人は忌避するであろう。私は引用を濫用したくない。われわれはいずれにせよ、このスタイルを無視することができよう。したがって、私はそれぞれの表現が望みとあらば、問題の報告において人が見出すような参照を含むところの総合の引用をおこなうにとどめたい。
パリの住民はしたがって2つのグループに分けられる。第一の住民は委員会によって迷わされ、幾人かの策動家にせきたてられ、あらゆる出身の悪人の徒党によって導かれ蜂起に突き進む。p.98 二番目の者(ブルジョアジー)はパリからの転出によって数は極めて減っていたが、無関心であり、成り行きに身を任せた(cf. p.10)
「下層民」が着手した選挙の結果。「自由の絶対的否認。保証が全く欠如し、普通選挙の真似事である」選挙(p.38)は「虚栄と貪欲の見本市」に関連する「暴力と血の独裁」(p.67)に帰着した。やがて「コミューン官吏の罪悪的な傾向」(p.140)は彼らの「ヴァンダリズム」への進路を与えた(p.142)。そして、人々は「コミューンに責任が帰する長期の殺人行為」に遭遇することになった(p.150)。最後に、「血と酒のゾッとするような大衆」(p.154)が「恐怖のギリギリの限界にまで達する獰猛さをもって」(p.160)「残念至極な措置の執行」を要求し(p.154)、次いで「大饗宴の略奪に続いた」(p.160)。「これはもはや復讐ではなくて、恐ろしいことこの上ない狂犬病、罪悪であった」(p.148)。
「知識人たちが平然としてこれら徒党を率いるとは何たることか!」(p.148)「孤立した罪悪」「コミューンは命令によって虐殺をつけ加えた。そして、無知とか闘争への陶酔とかいう口実すらなく、その同じ人物たちが彼らの犠牲者を非難し、死刑にした」(p.158)。
最後に、「フランス軍すなわち懲罰、贖罪」が勝利をおさめた(p.138)。そして、パリからヴェルサイユまで「憔悴して色褪せた顔の囚人の長い行列」が続いた。「そののちに大酒のみと悪徳に刻まれた」(p.189)。
しかし、コミューンに関して将軍に体験された感情がわれわれにとっては重要である、と人は考えることができるだろうか! したがって、われわれの検討を追求してみよう。そうすれば、われわれは途中で著者が引用の証拠を押しつけていることを悟るであろう。しばしばそれらの引用はわれわれにとって確証できる古文書に由来する。また、別のケースでは引用文は出所を含んでいない。すなわち、p.70, p.75, p.146, p.151 の例がそれだ。そして、彼は血の一週間のある事件に関して、つまり、たとえばサント・ペラジー(Sainte-Pélagie)監獄での5月21日のギュスターヴ・ショーデ(Gustave Chaudey)の処刑を立証している(p.152)。
しかし、他の引用文はコミューンが出所である。それは当時確証することが可能である。ところで、これら引用文は大まかであるか、あるいは偽造されているかのいずれかである。
大雑把、不正確、したがって官報のp.96, p.133を参照するp.46のそれら、p.99ヴァイヤンに関するp.51のそれ、アルヌー(Alnould)の抗議に関するp.65のそれ、他例も見出されるが、私が細部に拘りすぎる、と人は見なすかもしれない。だから、それらが一括して記載され、さらに重要な与件を疑う傾向をもつゆえにのみ、それらについて述べておく。
引用の手抜きは一つの真実の偽造に代わりうる。以下に例示してみよう。アペール将軍ないしは彼の部下はこのようにして(p.28)官報の参照付きで(p.35)パリの軍事権力を行使するために国民衛兵中央委員会による3月24日に調印されたブリュネル(Brunel)、デュヴァル(Duval)、ウード(Eudes)の3将軍の宣言を再製した。すなわち、
彼らはその手段を隠すことなく社会的協調を復元することを誓った。彼らは言う。「銀行及び倉庫を隔離することによって人民を飢えさせることをわれわれは躊躇しないであろう。われわれは厳しく行動し、処罰するだろう。われわれと行動を共にしない者はすべて敵とみなす。」
ところで、これら3将軍は次のごとく表明していた。(官報3月25日号、p.35)
われわれは秩序を欲する。だが、平和を愛好する徒党を暗殺することにより、また、あらゆる濫用を容認することにより権力を失った制度を保護するような秩序は欲しない。
蜂起に立つ者は王政復古の目的を成就するために、恥ずべき手段を行使するのを躊躇しない。彼らは銀行および倉庫を隔離することによって国民衛兵を飢えさせることを躊躇しない。
時はもはや議会政治の時代ではない。厳格に行動し、共和主義の敵を厳しく処罰しなければならない。
われわれと行動を共にしない者はすべて敵である。
パリは自由であらんと欲する。反革命はパリを恐れさせないであろう。しかし、大きなシテは、人が処罰を受けることなく公秩序を脅かすことを許さない。
共和政万歳!
これらの検証は、原文の偽造すら導くような、コミュナールに対する敵意からなされているため、アペール将軍によって非常に多く提供された統計やコミュナールを定義することを望むわれわれにとって本質的な質問に対して彼がもたらす返答、p.100 すなわち、国籍、年齢、職業、家族状況、教育、倫理、政治的加盟、コミューン72日間においてなされた役割など、の価値を疑問としないわけにはいかない。
まず第一に、これら統計資料のいずれをとっても、いかなる名も向かいあって引用されていないがゆえに、確証することは不可能である。したがって、盲目的に信じる必要がある。ところで、歴史家ならばけっしてこの種のものに信用を与えてはならない。われわれが関わっているケースで他の者と同じ程度にアペール将軍に対しても。
第二に、この1870~71年という1年はパリでは戦争、体制の変化、侵入、内乱と続いたが、歴史家は首都においてモノとヒトにどんな大変動が起こったかを知っている。それゆえ、100余の大隊、100余のあらゆる型の書類、何万という男、女、子供に関する統計をつくろうとすること、それらすべてを一つの正確な単位に分類することは高度のファンタジーに彩りを添えることになり、大きな疑惑を招く。
このアペール将軍はユーモアに富む。彼は36,309名の者を(p.264)170の職業に分類する。2,901名のジャーナリスト、1,402名の召使、472名の人足、また、ごていねいにも3人の見世物師から彼が区分する97名のコメディアン、22名の巡歴音楽家とは何の関係ももたない41名の音楽家についてはいうまでもない。数に関していえば、僅かばかりの「51名の淫売婦(分類されている)」は私のみるかぎり、別の控除分、すなわち、「ほとんど放浪状態にあり、無秩序におかれ売春に身を任せているような850名の婦人」とはほとんど関係がないように思われる(cf. p.204)
他の統計資料は質問する気すら起きないばかりか、とても受容できる中身をもたない。したがって、われわれが36,309名の教育レベルに関して訊ねると、4,008名が読み書きできず、21,004
名が読み書きが不十分であり、10,551名が読み書き可能である。946名が高等教育を受けていた。だが、以下のような疑問を懐かざるをえない。つまり、だれがそうと判断したのか? どんな基準を用いたのか? そして、いま一つ、これらの数値にどんな価値があるのか?
それだけで尽きない。それらの統計が少なくとも一つの場合において議論の余地があるとするならば、それらは先験的に容認できない。したがって、第一表は「プロイセン軍へ渡った者」というタイトルでの欄を示し、625名のコミュナールがこのように分類されている。通常の場合と同じように、いかなる説明も付けられていない。はっきりしていることは、逮捕や処刑を免れんとして5月の最後の数日間にパリの城門を脱出しようと試みた―最も頻繁だったのはロマンヴィル(Romainville)門だが ― コミュナールがここで問題とされている。プロイセン軍によって捕らえられ、彼らはやがて書きつけまたは口頭の承諾書にもとづいて ― ヴェルサイユ軍に引きわたされたのである。もちろん、ティエールとビスマルクのあいだに黙契があったのである。