討論【Ⅰ】(その3) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

討論【Ⅰ】(その3)

 

J.ルージュリ

 戦争前夜ないし、やがて戦争に突入せんとするときのインターナショナル派の態度に関していうと、彼らは確かに戦争とp.89 あらゆる王朝戦争に対して尋常の共和政の名において反対の声明を出したのだが、彼らは7月の戦争反対宣言において明確に、かつ勇気を奮って言いきった。ところが、彼らは急激に「徹底抗戦を唱える」愛国者に変わった。マルクスは彼らを厳しく非難した。共和暦第2年の意味での愛国者を。インターナショナルのだれ一人としてけっしてあらゆる戦争に反対しなかったのは、私がすでに使用した公式である。

 婦人労働に関して私は確かに素通りした。しかし、あなたがふれているこの原文、もっと正確にいえば、これら原文について私は十分に存じており、『コミューン審判』と『自由なパリ』で2度ほど大いに論じた。私は論究の時間的余裕がなかった。私は原文と言った。なぜなら、一方の側にコミューン末期のエリザベート・ディミトリエフの計画があり、もう一方の側にインターナショナル派のベルタンの計画があるからだ。これらはあなたが引用する重要なものをあなたが借用したのである。私はいま一度強調するためにのみそれを想起する。すなわち、まったく反権威主義スタイルにおいて労働委員会は最終的に、E.ディミトリエフが設立を願った婦人組合部(Chambre syndicale des femmes)に委ねることを決定した。その計画は少なくとも最終的なかたちで葬り去られたのではない。なぜなら、婦人の代表たち、たとえば5月18日に設立された労働調査・組織委員会のかたちで姿を現わしているからだ。あなたがそのことを強調したのはまったく正しい。そこに新しい要素がある。特に婦人のサンディカリスムというこの思想が。ディミトリエフにとって生産組織は連合すべきものであり、そのメンバーはインターナショナルに加盟すべきものであった。にもかかわらず、これは1848年と共和暦第2年の極めて特殊な運動に非常に大きな前例を見出せるであろう。

 

R.ゴセ

 1848年には人々は計画だけで満足しなかった。行動に移り、2万人の労働者が3月末から7月の終りまでビュッシェ(Buchez)の指導のもとで区役所の婦人アトリエで働いた。それらのアトリエはパリ市役所が管理責任をもった。それがパリ市役所に取って代わったとき、区長たちは仕上げ工たちの利害を顧みず婦人の仕事を維持しようとしたが、そこで激しい論争が巻き起こった。区役所の半分に関するかぎり、婦人たちは独力でこれらアトリエを運営したと思われる。1848年、広範囲において婦人たちはストライキまたは失業でもって夫たちを支えた。なぜというに、彼女らは肌着・裁縫・シャツ製造のこれらアトリエで働いていたからである。ジャンヌ・ドロワン(Jeanne Deroin)、ウジェーヌ・ニボワイエ(Eugene Niboyet)、ポーリヌ・ロラン(Pauline Rolland)らはこの運動に密接に関わっていた。したがって、後になってひとつの実践をするために、人々は思想から出発したのではなくて、思想を発展させるために実践から出発したのであり、この実践はジャンヌ・ドロワンにより1849~1850年に創立された労働者組合連合である。

 パリの周囲の問題に関するルージュリに応えるべき機械工の場合、私は1849年以降の観察から、そして1848年7月の軍需の関係で機械工業に投げ返すことを欲したカヴェニャック(Cabaignac)のイニシアティブでおこなわれた調査資料から出発する。これは機械工業600社について調査させたものである。観察法に関していえば、それは商業会議所により1851年に公刊された「パリにおける工業統計」において、あらゆる数字が徴税請負人の壁と要塞の壁のあいだを含む領域をカバーしており、それらは「フランス総合統計」にセーヌ県として見出すであろう。そして、1860年の商業会議所の調査以降におけるp.90 パリの工業発展は徴税請負人の壁内部の実際の工業発展以上に、この領域の合併に大いに由来するものである。そして、合併地域内では、不便で不衛生な施設に関する立法措置によるにせよ、入市税に苦しめられた企業の自発的な地方への転出によるにせよ、工業責任者に拡がった反動に対応する労働者の大集中の分散化政策および六月暴動の衝撃を受けての政策によるにせよ、企業の数は減少している。権力や参謀本部に近い機械技師同盟はその当時、機械工のパリ外への追放を決議する。暴動はその分野で非常に進んでいたことを示し、鉄道の延伸によって決定的な戦略的状況になる。パリの鉄道工場での職業的形成を達成するためにフランスの金物工場、特にピカルディの金物組合から多数が来たため、彼らはひとつのエリート層を形成し、その意識は1831年のアルジェリア遠征の翌日、金具職人がラ・セイヌ(La Seyne)工場で働くためにツーロン赴いたとき、1827年以来、前のサンディカ的組織規約がパリ機械工により公刊されたとき、職人組合で生じた分裂と無縁ではない。事実の問題として労働者生活の必需品はつねにそこにあった。それらは永久に不満の種を蒔く。第一のものは毎日食べることである。それは単にルイ・シュヴァリエの「社会的地位を失った者」ついてのみでなく、すべての住民について言えることである。これら多数の人々はやがて雇主となった。すでに彼らは自分らが欲することを知っている。かれらはその生計を立てようと欲し、低賃金受給者であった。彼らの要求において彼らはすべての道を開き、国家に要求し、自身で組合において事業を興すか、あるいは雇主に給与を与え、組合(syndicat)がそれに口にする。

 このような労働者の状況は根底的に変わったのだろうか? その状況は必ずしも「銀の壁」にぶつからないのだろうか?

 

A.ソブール

 J.ガイヤール(Gaillard)によって提起された婦人労働の問題にたち戻るために、1793年のセクシオンのアトリエに非常によく似た計画を思い起こす。セクシオンのアトリエは商業資本主義構造に敵対しがちな計画となったが、特に軍隊衣料のための婦人労働の組織化を狙ったものである。思うに、1793年、1848年、1871年に進むまっすぐな線がある。1871年、このような範囲において真実の革新があるだろうか? 婦人労働者の要求のこの長い伝統と比較しての話だが。

 

J.ガイヤール

 つづいて続くであろう協同組合を結成すること問題になる。

 

A.ソブール

 この意味でじっさい、拡張がある。革新は展望の拡張にあると言っておこう。だが、それでもやはり古い伝統に基礎を置いている

 

D. ルコヴィック(Lekovic)

p.91  私が強調したい点は歴史研究における弁証法的側面である。人はあまりやたらに連続性を強調しがちだが、コミューンが代表するような歴史的不連続性に関しては十分ではない、と私は見ている。コミューンについていえば、新しい中身をその形式にあてがうのに、古い形態をとり戻したまったく純粋な例とみなさねばならない。私としては、コミューンの革新的側面を強調しておきたい。それが長くつづけば続くほど、それは古い上澄みを取り去ったであろう。私見によれば、それがなお続いたのであれば、その社会的中身、社会主義的中身をさらに展開させたであろう。

 

J.ルージュリ

 歴史を書き直さないように注意しよう! 弁証法、もちろん私はそれを望む。しかし、しばしば不幸にして歴史家は語を濫用する。ひとたびその語が発せられると、もはや分析を必要としないかの如く! あなたは未来に対して拡大適用を試みているのではないか、と私は少々懸念する。それこそ、1871年の固有の出来事の描写を誤らないように、アプリオリに私が絶ってきたことなのである。私があなたに質したい問いはそこに発する。つまり、あなたは古い形式の内部におけるこの新しい中身として何をおくのか? ついでにいうなら、私は1871年において漸次的な外被の剥離があったかどうかは分からないと思う。私がすでに引用した実例 ― それらは私にとって1871年を社会主義革命として特徴づけるに十分と思われるが ― 以外にあなたは他の実例を提供できるのか?

 

D. ルコヴィック

 様々な状況下での歴史的遺産はまちがいなく異なった意味あいをもつ。正確な例として私は革命の急進化、経済計画における要求、搾取の抑圧に関し執られた主張、生産手段の国有化の現実的計画を与える。ますます強くなる革命方向での一大発展がそこに見出される。

 

J.ルージュリ

 私は他の事がらは言っていない。クレサンド(Crescendo)についていえば、少なくとも共和暦第2年にそれは始まっているように思えるし、良い音楽でクレサンドは不連続のあらゆる考え方を排除するものだ。

 

D. ルコヴィック

 彼らの要求によってコミュナールは共和暦第2年の枠組みを大いに外れている。

 

A.ソブール

 まさしくそうだ! われわれのうち、だれ一人としてその反対のことを示そうと考えてはいない。

 

M.ジョンストン(Johnstone)

 ルージュリはわれわれにコミューンを社会主義革命と描写した。思うに、彼は1793年革命と1848年革命はそこまで行っていないと言っているようだ。しかし、彼は同時に1871年とそれより以前の革命とのあいだに根底的な差異はないと言った。これはむしろ矛盾ではないか?

 

J.ルージュリ

 あなたは私が行きもしない処まで私を遠くに連れ出している。私は「根底」の類似を強調し、力点を置き、おそらく過度にそうしたのかもしれない。私は根底の差異がないと言ったのではない。R.ゴセ氏ならば、真に社会主義的な最初の革命は1848年であると言うであろう、と私は考えている。

 

R.ゴセ

p.92 否。1848年の革命は「社会的sociale」である。「社会革命のプロローグ」― 詩人にしてギリシア学者としてのルイ・メナール(Louis Ménard)は正確にそのように定義した ― 社会主義的イデオロギーが存在するのではなく、1848年の革命には6月の弾圧までアソシアニストのイデオロギーが存在する。語彙の研究は特にミシェール・ルフェーブル(Michère Lefevbre)が労働委員会への労働者の請願をおこなった。特に民主主義者およびパリの労働者はルイ・ブランの国家主義的理論(doctrine étatiste)によって当惑させられたのである。

 

J.ルージュリ

  私は1789年のために同じく社会的革命のタイトルを要求しておきたい。階級闘争はいずれにせよ、三つ巴の戦いであるから。

 

R.ゴセ

 社会主義的自覚は弾圧のショックから生まれた。パリの労働者はこう言われた。「それにしても彼らは正当である。これら社会主義的な民主主義者に対して人々は投票したのではない。」多数の人々がボナパルト派に投票した(6月)。そして、彼らが虐殺されたとき、彼らはボナパルト派に投票し、社会主義者に投票した。彼らはもはや共和派に投票しなかった。ここにこそ、選挙民は「社会主義的」自覚をもつことになった。弾丸を食らったとき、人々はようやく理解しはじめたのだ。しかし、2月と6月のあいだに彼らは彼らの慣習に従って独力で行動した。そして、これらの慣習はすでに「社会的」なものとなっていた。ルイ・ブランやビュッシェは何処で彼らの思想を取得したか? 労働者そのものにおいてであり、特に非常に正確な2つの資料以降からである。1840年にルイ・ブランが『十年史』を著したとき、その起源をこう引用している。仕立て工と靴屋のストライキのアトリエ工体験から、と。一方、その頃、機械工のストライキのアトリエも存在した。ルイ・ブランはそこから教訓を導きだす。「これこそ労働者階級の社会的形態が遂に発見された」、と。火急なる必要に対応するストライキのアトリエでなく、社会的アトリエが創設されるに至ったのだ。労働者の登録によってそれらをつくるのは国家である。

 ビュッシェについていえば、その名うての競争的労働組合の思想は連合することを望んでいた指物師の労働者のアトリエ計画から着想を得た。そして彼らの原文の上に彼の固有の書換えが現われた。その計画を彼流に修正して、それに単純に商業的目標を与えるのだ。『ヨーロッパ人』第2号において彼はパリの工場に適用しうるのみと考えられた労働組合と商業立法の枠に入る労働組合とのあいだに差異を設ける。

 大昔に自衛のためのこれら生産者組織を人は思い出さないのであろうか?

 

M.ジョンストン

 ルージュリ氏にひとつ質問したい。パリの孤立を考慮するには理由があるのか? あなたはコミューンと他の革命の比較をなされたが、私には、1871年にはこの差異はかなり大きなものがあるように思う。パリは籠城でもってティエールの包囲によってフランスの残りから切断されていた。p.93  コミューンの諸活動に対するこうしたパリの孤立の影響を考えないわけにはいかない。

 

J.ルージュリ

 それは確かだ。パリ市民は「パリ革命」のみをおこなえただけであり、私は或る種の純真さを見出すという以上に適切な語を見出せない。私は以下の如く呼ぶ用語を用いた。彼らはパリのみを抑え、ひいて私は鉄道・鉱山・フランス銀行を思い出す。彼らはパリのためにのみ法律を制定することを要求し、敢えておこない、おこないえたのである。彼らはフランスに関する事がらにふれなかった。それで、このことが明らかに治績の範囲、特に1871年の革命の社会主義的治績の範囲を限定することになった。国家の残りの部分が首都に倣うことを彼らは期待した。過去においてはそうであったが、この度は倣うことは生じなかった。しかし、この返答で十分でないないことを許していただきたい。なぜなら、われわれがやがて地方のコミューンについて、かつパリと地方の関係を語るとき、やがてふれる領域に立ち入ることになるからだ。フランス全体に渉る運命が生じたのか、あるいは生じなかったのであろうか? しかし、私は歴史を書きなおさなくてはならない。

                      <討論、終わり>