討論【Ⅰ】(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

討論【Ⅰ】(その2)

 

J.ルージュリ

 ラブルース氏の見解はニュアンスの差はあっても、主旨において同じである、と私は言いたい。単純化すれば、コミューンがその当時の社会主義の「手前にまで」達しているとの主張については私は少々肯んじがたく思う。さらに突き進み、コミューンが成し遂げたことよりもより内容的に多くを含む以前の原文は存在する。しかし、実践は言葉以上にさして重くはない。集散化、ましてや国有化は「鉱山・鉄道王」の所有権剥奪、これはコミューン宣言ではたしかに問題となっていない。先ず第一に、鉱山はパリに存在しないし、労働の組織化ないしパリの労働の復旧という差し迫った問題が提起されていた。鉄道やフランス銀行の例も同様に真実であるだろう。P.84  コミューンはパリの統治のみを自覚し、それのみを欲していたのだ。鉄道または国有財産としての銀行をどう処理するかはパリに引き続いて起こったであろう。コミューンはそのことを、コミューン化された国家が管掌しうる事がらと見なしていた。あなたが引用した原文よりももっと「曖昧」な原文においてはさらに問題ではない。つまり、ノスターク(Nostag)はその記事の中で語っている。私がフランス銀行問題を呼び覚ましたものの、私はそれを接収しなかったのは戦術的に馬鹿げたことだと認める用意がある。しかし、コミュヌーはその当時のコミュヌーであり、彼らにとって銀行はフランスのものであったのである。

 そのかわり、一つの集団的実践についてパリのメティエという特殊な雰囲気のもとで私はくり返し主張したいことがある。なぜなら、私は先ほど「生産手段の組合化」(syndicalisation des moyen de production)と言った。私は試しに、「革命的アンディカリスム」という遡及力のある性格によってのみより強烈な用語を使ってみる。

 

E.ラブルース

 私が興味を覚えるのはコミューンの文章である。ところで、コミューンは4月の法令によって制定する。そして、4月の法令によってむろん、コミューンは労働者の管理を意味する、一定数の集団的収用を認可する。しかし、これは原理の文章ではない。私の言いたいのは、コミューンは公共的権利の問題に関して革新をしなかったということである。コミューンは社会主義的な公共的権利を創造することに着手しなかった。コミューンは社会主義化しない。コミューンは労働者的・民衆的力の制度に関し一撃で解きうるものとなった政治的問題を「社会主義化」する。

 

J.ルージュリ

 コミューンはまちがっていたことを認める。労働委員会は、社会主義化を試みたとしても、けっして政治的問題ではなく、日常の労働者のつつましい要求の問題である。そして、私は主張する。労働委員会は集散化という仕事をただちに組合に託す。まず最初に託したのは、「人間による人間の搾取」の禁止を宣言した機械工の組合に対してである。あなたはまた、パン屋の夜間労働の問題を取りあげた。コミューン議会に関するかぎり、コミューンは雇主の抗議の圧力下に本文をきれいさっぱり無効にする用意ができていたと言っておこう。それを妨げたのは労働委員会であり、フランケルであった。委員会に由来する法令を削除しないようにしよう。フランケルは2つの部会で行動する。一つは夜間労働において献身し、もう一つはずっと以前からパン屋の雇主と労働者のあいだが敵対的になっていて焦眉の問題としての職業紹介所の廃止するために尽力した。そこでは何が起きていたのか? まず最初に各区役所で紹介所が開かれた。それはコミューンの治績の市行政的側面である。その区役所で雇主と労働者が求人と求職を登録した。しかし、その事実は5月の初め以降は有効となった。その実践においてサンディカリスムが主人となった。だが、1871年の社会主義としてのインターナショナルが要求したものから「手前まで達した」ように私には思えないが。

 

E.ラブルース

 この実践は非常に手前まで来ていたので、それはじっさいアンシアンレジームの形態をとり戻す。紹介所の問題は古い同業組合的性格を帯びる。p.85 いずれにせよ、久しい前から3つの可能な解決法があった。職人組合による紹介所、雇主による紹介所、市当局による紹介所の3つである。このような選択の道はコミューン当時の立法者にもまだ開かれていたはずである。

 

J.ルージュリ

 立法者は新しい形の組合を選んだ。一方、私は伝統と刷新の区別できない混淆を強調しておきたい。

 

E.ラブルース

 いかなる種類の構造の修正もこの法令によってはもたらされていない。われわれはこの新しい社会主義的権利を創造しなかったからといって、72日間のコミューンを非難しようとは思わない。コミューンはそれにふさわしい壮麗なかたちでその権利を宣言しなかったのである。

 

J.ルージュリ

 コミューンはそれを適用しはじめた。

 

E.ラブルース

 コミューンはそれもはじめなかった。サンディカによる紹介所の実践はすでに普及していた。だが、それが支配的だったと言っているのではない。サンディカによる紹介、労働取引所による紹介 ― それは15年ほど後に実現されるのだが ― 資本主義世界の構造を問わざるをえない実践である。逆に、インターナショナルの宣言はある程度それらを非難しているのだ。

 

J.ルージュリ

 私はやはりあなたにきっぱりと答えておきたい。サンディカリスム、革命的サンディカリスム、生産手段の組合主義化は着手されており、血の一週間により抑圧された。以前においては固有の意味での「サンディカ」は存在していなかった。

 

E.ラブルース

 われわれは72日間のコミューンの話にたち戻ろう。この72日間のゆえに、社会主義到来のいかなる意味での大宣言もコミューンから生じなかったのではあるまい。

 

J.ルージュリ

 原文を見出すであろう。私は労働委員会の努力においてここでそれらを引用する時間がない。人が下でこうどうするとき、上で宣言したとして何の役になろう?

 

E.ラブルース

 人権宣言なんて、何の役になろう?

 

M,モワッソニエ(Moissonier)

 今のかなり熱っぽい論争について、私は問題の他の側面について省察を要する分野を簡単に紹介させていただきたい。それはコミューンの真只中における過去と未来の逐条陳述の側面である。コミューンはまちがいなく叛徒の側面をもっている。コミューンは過去の用語を使う。しかし、それは1792年または1848年の遺言の執行であったのか。あるいはまた、これらの革命に由来する国民的敬虔の比較的明瞭な使用であったのか? 私が思うに、過去の経験から相続した形態とインターナショナルにより示唆された新しい対象のあいだの明瞭な同盟を表現するように思われる1枚のポスターの原文に解釈を委ねたいと思う。p.86 これは正義と労働に基礎を置く新秩序の構築のための政治的行動をパリ第2区の市民に呼びかけた資料である。以下、引用する。

 「政治生活に無関心であってはならない。団結し、グループをつくり、1789年の革命が部分的にその力を負うているところの、いわばディストリク、第一次集会を再建する必要がある。」

 

J.ルージュリ

 第2区のためにコミューンのメンバーがすべてインターナショナルであったことを付け加えさせていただきたい。つまり、E.ポティエ(Pottier)、セライエ(Serrailer)、J.デュラン(Durand)、ジョアナール(Johanard)らがそうだ。

 

M,モワッソニエ

 私が言いたかったのはそれだ。じっさい、そのつづきはこうだ。「各人の尽力によってこの社会的変革の大原理が実現されるであろう。すなわち、労働者自身による労働者の解放という原理が。

 AITの規約を思わせるこの文言の背景として、ラブルース氏が先ほど引用したインターナショナルの真只中に生じた議論や反省のあらゆる重みが暗黙裡に存在したことは明白である。この具体的な資料のレベルで私がいう問題というのは刷新と世襲のあいだの逐条陳述である。

 

J.ルージュリ

 インターナショナルはじっさい、その問題の中心にいる。というのは、彼らはしばしばみずから古い言葉を使い、古い用語で語るからであり、また、彼らは同時に最も革新的な要素でもあるからだ。私は、彼らが1871年の社会問題について唯一の革新派であったと言いうる。しかし、それら2つは併在していて分離しがたい。すなわち、インターナショナルにおいて「鉱山・鉄道王」があり、また「暴君」もいる。「義務なきところに権利なし」、この文言はまたAITの規約中にもある。しかし、M.ドマンジェ(Dommanget)氏はウジェーヌ・ポティエ(Eugène Pottier)に関する著作の中でわれわれに、それはまた1790年のバブーフの文言であることを思い出させた。いずれにせよ、私はラブルース氏に問いたい。「権利」に関する美しい原文がどうあれ、「労働者の解放は労働者自身の治績であるだろうか?」

 

E.ラブルース

 まったく同感である。しかし、いま一度、コミューンについて、政府について話したい。

 

J.ルージュリ

 コミューンは下において生じ実現されたこと以上に、私の注意を惹かない。しかし、そうしたことは史料不足で必ずしも十分に明らかではない。

 

E.ラブルース

 コミューン政府が己の権力がどれほどか脆弱であることを知りつつ、労働者の権利を宣言しなかったとしても、十月革命の翌日の政府がじっさい、生存機会の過小評価された思想のみをもちつづけたように、たとえ、そうであったとしても、コミューンは大きな呼びかけをすれば、反響や反応がヨーロッパや歴史に生じたはずと考えたはずである。だが、この偉大な呼びかけはなされなかった。もちろん、コミューンが内部に社会主義を胚胎する革新的政府であることをp.87 何事も妨げなかったのである。偉大な思想、偉大な炎をもたらさなかった。

 

J.ルージュリ

 ヴァイヤン(Vaillant)の言葉を取りあげれば、コミューン政府は「小ブルジョア」の集まりであった。

 

E.ラブルース

 まったくそうだ! まったく同感である!

 

J.ガイヤール

 引きつづき報告者の話を聞いていると、私は少々、それは選ばれたテーマであると思う。「過去に執着する」一つの解釈といった印象を覚える。私見によれば、私を驚かしたのはあなた方がそれぞれ呼び覚ました過去の傾向の爆発ということであろう。容器はもはや中身を示さない。過去は言葉としては残っているが、他のものとして存在する。つまり、思い出と少なくても同等に豊かである貢献というものがあるだろう。さらに、私はこれこそあなた方の考えておられることだと思う。まず最初に、私は私が言いたいところの、この修正とは少々異なる実例を取りあげたい。戦争が始まったときのインターナショナル派の態度が問題なのだ。ルージュリ氏は戦争問題について言う「1789年のアクセント」を再発見したと言ったが、そのことはまったく的確である。しかし、同様に重要な史料が存在する。それはインターナショナル派が、しかも重要なことに、マロン(Malon)、コンボー(Combault)、シャラン(Chalain)、ジョアナール(Johannard)の署名の入った1870年7月18日付の書簡である。これについて一般の説明によれば、インターナショナルは現下の愛国者の中に展開する過度の行きすぎを十分に感じ取っており、彼らの目標は常に普遍共和国であることだ。もし革命のチャンスが逃げ去るのを黙過したくなければ、流れを追い、いわば大衆が割れないようにすることが必要である、と。

 他の実例を挙げよう。その論争により近いものだが、「コミューン」という用語について。ルージュリはそう言った。J.デュボワはそれを1793年の再販と位置づけている。ここで私が強調しておきたいことはこうだ。コミュナールにおいては大革命を乗り越え、革命の模範を貫いて発見し、より深遠な国民的現実に到達する願望をもっていたことだ。コミューン官報においては中世的コミューンの閃光物を想起させるコミューンの定義を見出す。可能なかぎり多くの者がそれに同意するように、その言葉に最も広い意味を与えている。そして、このことは、コミューンがラブルース氏の言うように、当時の実在の社会主義的思潮の「レベルでの」社会主義的宣言を投げ棄てないように仕向けた理由の一つであろう。

 しかし、私が重視する一つの原文の問題に転じよう。ルージュリ氏が急いで通りすぎた問題の中に婦人労働組織があった。4月12日に検討が始まった労働委員会の計画がある。それは財政委員会に送られ、そこで1か月間とどまった。そして、その後のことは問題にならない。ところで、その事がらについて私が思うところはパン労働者のためになされた措置、いや、許していただきたい。4月16日法令 ― これらの施策について数多くの前例を見出すは簡単だが ―

より新しい、ずっと新しいものがある。婦人たちが仕事を求めに労働委員会にやってきた。そして、労働委員会は緊急の必要に応えた。企業家たちがもはや仕事をくれないし、p.88 あるいは請負仕事は非常に安値であることがその理由だ。しかし、事態はそう行かなかった。問題はより広い範囲をカバーした。2つの問題が提起された計画の未来の問題。政府の未来の政府の役割の問題の2つである。

 第一のテーマ、マレー地区の企業家とともに上着やズボンを安値で作らせるためにアトリエを単純に開設したであろうか? エリザベート・ディミトリエフ(Elisabeth Dimitrieff)の手でなされた一つの計画がある。彼女は特別のアトリエでもって根本的な再組織化を提案した。つまり、花、羽根、刺繍、子供服、要するに当時のすべての婦人の仕事、直ちに婦人労働者のために仕事を確保することが急務だったが、戦時国家の緊急の需要物資のためのみならず、商品生産のためのアトリエを準備すること、また、これらのアトリエが戦後も存続すべきことも同様に主張した。

 第二のテーマ。国家の役割とは何か? 組織化計画はここでは、たとえば国立工場でもって予定されたものは大いに異なっているように思われる。国家は共存を実現する。アトリエは協同組合的である。婦女子は独力でそれを管理―時代のかたちに添って―する。人々は分配の何らかの場所に仕事探しに行く。次いでそれを自らの家へもってくる。国家が場所を貸し、宣伝のために手を貸すことが予定されていた。すべての逐次陳述は婦人組織間に組み立てる。そして、彼らの援助の手を差し伸べる国家。その計画の全体を夢中にさせる「注目すべき」2つの原文を以下に紹介する。

 「起きたばかりの運動はあまりに突拍子もなく、かつあまりに決定的であったため、職業政策はまったく理解されなかったし、この偉大な運動において範囲と目的をもたない謀反として受け止められた。

 他の者たちは、彼らが「市自治体としての解放」と名づけるところの単純な要求にたち返らせることにより、この革命の思想そのものを限界と定めようとする。政府的化構によっても自称議会代表制によっても盲目となっていない人民はコミューンを宣言することによって平等・団結・自由の ― 協同生産の運命につながるところの ― 新秩序の創造を明確に断言したのである。ここではこの原文は数多くの訂正を含む。

 ルージュリ氏が「1871年の社会主義」と呼ぶものに相応しいように思われる計画がこれである。それはプロレタリアートの中の最も先進的部分、すなわち「新しいメティエ」から出ているのではなく、明らかに最も困難をかかえていた最も古いタイプのメティエから出ているのだ。たとえパリ市民がルージュリの言うように、1848年あるいはそれ以前にそうであったものにその「見積もられた」構成においてはほとんど等しいままであったにしても、やはりその深さにおいては幾つらか修正が必要である。この修正とは人民的条件をより困難なものにしており、とりわけ婦人労働の搾取に関してはそうである。