討論【Ⅰ】(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

討論【Ⅰ】(その1)

 

p.79

E.ラブルース(Labreusse)

 私は大急ぎでジャック・ルージュリの報告についてコメントしたい。

 彼はわれわれに、コミューンを「フランス革命」の強いアクセントをもつ革命、つまり、伝統の強いアクセントをもつ革命として呈示した。しかし、一方では刷新についても強調している。そして、彼は結論としてわれわれに、コミューンが十分に社会主義的革命であると言った。目下のところ、そこにわれわれの問題がある。われわれは諸君がそれを望むなら ― 数語で賭けをおこなうように ― どのような範囲において、また、どのような点にまでコミューンは社会主義的革命であったのか、と自問するであろう。ニュアンスの差こそあるが、私はJ.ルージュリに賛成である。概括しての話ではあるが! 私は彼が議論のうちに少なからず私と同意見であると思っている。

 コミューンは明らかにその当時における社会主義革命でありえた。われわれはコミューンに対しては、フランスでマルクス主義理論が浸透しはじめる1878年から1890年のあいだに続く来るべき時期のフランスに対して探し求めるような、明言された教義を求めてはならない。ゲード派のプロパガンダ、そして、単純化されてはいるが、非常に直観的で非常に生産的な教育学の称賛すべき努力は理論を明確に述べており、当然のことながら、15年ほど前には見出せないような一貫性を保持している。私はいまここで、社会主義理論や当時の社会主義的モデルの再現を ― 研究の今日的状況において当時のフランスのために可能な仕事を仮定することによって、そして、とりわけ個人的諸宣言に従って、あるいは個人的業績に従っては ― おこなおうとは思わない。ここでは討議のみを、集団的治績のみを取りあげることにしよう。

 まず最初に、その会議とともにインターナショナルを、つづいてインターナショナル=フランス支部を、国民衛兵共和主義連盟の討議を、さらには、1871年の冒頭で提示され、革命的社会主義のグループによって集団的に取り決められた「綱領」を取りあげる。もしわれわれが単なる経済的社会主義の地平に位置するのであれば、断言されたものの全体は当時、公衆の前で発表された、とわれわれは言うことができる。さらに、直ちに私はこの論争について経済的社会主義に限定することを許していただきたい。なぜなら、社会主義は、それが経済第一主義にとどまるかぎりは大したものではないであろうから。なぜなら、社会主義は他の時と同じく、その当時にあっては大衆の中に浸透し、教義的・抽象的社会主義の地平にとどまらず、他の地平においても衝撃とインパクト力を保持していたからである。ストライキにおいて、そしてまた、社会的事件が発生したときには、さらにさまざまな動員に関する一大事件が生じるたびに、社会主義的理論が浸透するチャンスがうまれ、その一般的帰結としては、p.80  多かれ少なかれ、理論の一貫した団体が発展するのを可能にする。しかし、経済的社会主義と相並んで政治的社会主義もまた存在した。後者は共和主義を拡大し、共和主義のテーマを再び取りあげ、異なったアクセントをもってもう一つの力を、他の願望をもって共和主義のテーマを取りあげ、そしてまた、コミューンの過程において大衆の前にもう一つの爆発ともう一つの成功をもたらしたと言わねばならないであろう。しかし、社会主義経済の特徴的・創造的・特殊的領域にわれわれは踏み込まない。極めて大雑把に描かれた社会主義的経済から責任機関の集団的討議において私はそのことを思い出す。

 インターナショナルは1865年のロンドン会議はいうに及ばず、それまで4度の会合を開いていた。鉄道、鉱山の所有権、土地の集散主義のような一定数の大問題について、インターナショナルは態度を決めていた。インターナショナルはまた、世襲財産の問題も取りあげていた。各種の会議は大雑把に最初の3つの問題について宣言を発した。すなわち、鉄道・鉱山の国有化 ― 今日のわれわれが言うところの国有化 ― を掲げた。インターナショナルは鉱山・鉄道王の節をでたらめには唄わないであろう。これらの鉱山・鉄道王は厳かに廃棄を通告されていた。2つの重要な決議が採択され、そして、さらにフランス代表の全体を関わらせたのはこうした状況下においてだ。

 原則的に可決された土地の集散主義的所有に関してフランスの代表は同意しなかったし、世襲制に関してもそうだった。しかし、インターナショナルの教義の骨格ができはじめたのはその頃のことである。必然的にこうした会議の議論に過度の重要性を与えないようにしよう。大雑把な決議によって結論づけられた共同の考察のテーマについては、しばしば即興的に決められた短期の作業として、それのあるがままに捉えることにしよう。にもかかわらず、社会主義の歴史にとってコミューン直前の数年においてこれら幾つかの点に関し十分に注意するのは意味のないことではない。

 ところで、インターナショナル会議 ― 私はフランス支部のことを言指しているのではない、フランスでは一度として国家単位で開かれたことはないのだから ―ののちコミューン前に  パリ支部は討議した。われわれは幾つかの文章を参照できるし、これらの文章において労働問題が十分に提起されていた。私はそれが実質的に討議にかけられたと理解しているが、しかし、実を言うと、その問題はインターナショナルによる決定にもとづき主張されたわけではない。ここでいうのは集散主義化の問題ではない。たとえばここにインターナショナル=パリ支部の1870年11月の宣言がある。

 「代表は信用・交換・所有・完全教育・労働組織の問題を留保している。・・・ 利害の研究と和解は平等と正義の原理に基礎を置く平和的解決を急がせるであろうから。」

 J.ルージュリは、彼が彼の著書「自由のパリParis libre」で発表した史料をものの見事に熟知している。だが、その同じ文章の中に、一種の集散化と管理をある程度告げているような原理の宣言がある。

 「代表は信用・交換の問題を留保している。・・・」

p.81  これに引続いて結論づけるように、極めて重要な一文がくる。

 「 … 豊かな日々と同じように、危険においてすべての者が団結することをわれわれは希望する。最後にわれわれは、土地を耕作する農民には土地を、採掘する鉱夫には鉱山を、工場を繁栄させる労働者には工場を要求するものである。」

 むろん、ここでは適用に関し考えぬかれた文章が問題なのではなくて、単純に原理のみが問われている。われわれは後に公共の権利を定め、一般の秩序の決定をおこない、それに続く数週間または数か月のうちに法律のかたちをとるコミューンの諸決定においてそれを検討するであろう。にもかかわらず、1870年11月半ばにおけるこの宣言ののち、1871年2月の国民議会選挙当時の革命的社会主義者の候補者の宣言に関して一瞥しておこう。インターナショナルと労働組合連邦協議会(Chambre fédérale des Sociétés ouvrières)と20区代表の署名の入ったこの宣言は一定数の、いわゆる「革命的社会主義者」の候補者を提示している。その中にブランキ(Blanqui)、ウード(Eudes)、フランケル(Frankel)、アルフォンス・アンベール(Alphonse Humbert)、トラン(Tolain) の名が見える。お分かりのように、混沌は非常に広い範囲の和解を証拠づける。これは非常に多様な傾向、というよりも敵対的傾向のあいだの極めて折衷主義的な選択である。しかし、われわれはそこにおいて革命的社会主義者の候補が意図しているものを読み取ることができる。すなわち、

 「共和政を危うくする者から守ること、労働者の政治的出現の必要性、工業的封建制と政治的寡頭制の廃止、1792年と同じく労働者に労働手段を戻すことによって土地を農民に戻し、社会的平等による政治的自由を実現するであろう共和国の組織化を。」

 最後に、3番目と最後の文章。それは20区監視委員会の原理の宣言である。われわれは今やほとんどコミューンの前夜まで来ている。1871年2月20日と23日のこの文章において、そしてそれに先んじる文章の精神において、共和政はまず最初に多数者の権利の上に宣言される。しかし、そこで別の問題が生じる。本日、私はその問題に深入りしないつもりだ。私の主題に直接的に関連する幾つかの考察を、つまりコミューン時と3月18日の事件前に代表的グループに現れた社会主義的経済の告知をつけ加えよう。

 「可能なあらゆる手段によってブルジョアジーの特権の抑圧、指導的カーストとしてのブルジョアジーの失権、そして、労働者の政治的出現、ひと言でいうと、社会的平等、雇用主もプロレタリアートも階級も不要で社会的組織の唯一の基礎としての労働を。産物の全体が労働者に帰属するような労働を認める。」

 したがって、以上がコミューンの前とその直前における集団的断言の幾つかの例であり、当時の多種多様な前衛組織により描かれた、極めて原初的にして、極めて大雑把なデッサンで示された経済的社会主義の意図するところを明らかにしている。ところで、もしわれわれがp.82  本質的問題を問うならば ― コミューンがその当時の社会主義をどの範囲で宣言したかを知るという本質的な問題を問うならば ― 未来はだれに帰属するのか? われわれは何を見るか? コミューンはわれわれに何をもたらしたか? コミューンは最終的に何を言い、あるいは何を為したか? 断片的文章とその場かぎりの文章。明らかに特徴的原文は当時の経済社会に関しては非常に進んでいた。しかし、当時の社会主義の範囲においてさえ、たとえば十月革命時に執られたような農業的または工業的原理の一大決議に似たようなものは何一つない。インターナショナルまたはパリの代表・責任者の集会が蜂起の数か月または数日前に素描することができたようなものに類似したものも何一つ含まれない。

 したがって、われわれはいま一度くり返されたわれわれの問題にたち戻ろう。どんな範囲においてコミューンは特殊的に社会主義的であろうか? われわれは各種の原文または決議、そのうちの幾つかは非常に特徴的なそれらのみをその貸方にもってくることができるし、私は1語の標語を検討した後、またそこにたち戻るであろう。これら原文の幾つかは特徴的である、と私は言った。われわれはそれらについて十分に知っている。最もよく知られているということはおそらく、パン業労働者の夜間労働を禁止した4月27日の法律であろう。それは当然のことながら、その社会的範囲にしか関わらないことであるが、社会主義的傾向、奥深い意味あいについての価値をもっている。なぜというに、コミューンはパン屋の雇主とパン業労働者のあいだに関わる決定をしなければならなかったからである。コミューンは労働者の立場に立ったのだ。そして不承不承であったにもかかわらず、雇主の側からの抗議とデモを誘発した。

 むろん、ほかにも法律がある。「市民としての義務から免れるため、そして、労働者の利害を考慮することなく」逃亡または状況から消え失せた雇用者によって放棄されたと思われる企業を労働者の手で管理し、営業再開を謳った4月16日の法令がそれである。ここでもまた、一つの意図を読み取ることができる。だが、この法令が発布されたとき、いかなる意味でも一般的宣言が宣せられたのではなく、当時の社会主義を帯びて、コミューンが歴史の前に関わらしめる宣言を連想させるような宣言があったのでもない。

 ところで、私はこう言おうとするのか? この沈黙、この臆病さ、これらの几帳面な単なる決定は ― コミューンまたはその各委員会の活動の全般的判断において ― 社会主義を前にしての故意の言い落としとして見なされるべきである、と私が言おうとしているのではない。私は決裂の問題または修正または、われわれが前に述べた集団的宣言に表明に関して共同路線を執らないという問題を提起しようとも思わない。次のように言う必要があろう。社会主義の大問題に接した大衆と直面したコミューンは必ずしも最も効果的な語を見出さなかった、と。矛盾しており、また、出来映えの悪い社会主義が明瞭に発せられているというのに、不適切であるのに、十分なほどの万事が過ぎ去った。政府に関するかぎり、世論を前に宣言すること、その新しさ、その偉大さにおいてで十分だ! コミューンがもう少し長く続いたならば、おそらく必ず翼を拡げ、社会主義を実行する別の機会を見出したであろう。p.83  にもかかわらず、より大きな、より一貫した、より広い、固有の経済問題にもまして戦争と籠城について情熱を燃やしたパリにおいて反響することを受ける用意のある公衆に接した多くの問題を前にしてコミューンは決意を固めるのに躊躇しなかったことを付言しておかねばならない。かくて、われわれは1869年のベルヴィル綱領の幾つかの条項の採用が宣言されたのを見る。国教分離、兼職または過剰な報酬の廃止、世論が他の経済問題以上にコミューンが制定する時でさえ、これらの問題により敏感だったことは疑いを入れない。にもかかわらず、結論は依然変わらない。コミューンは当時の社会主義にまで達していない。コミューンはその経済計画に関して社会主義の手前でたち止まったままにある。インターナショナルまたはフランスの諸派により決定された諸決議が社会主義を定義したような社会主義に到達していないのだ。

 ところで、コミューンは社会主義革命であるのか? 私はこう答える。コミューンはそれでもやはり広い範囲で労働者の権力である、と。コミューンは社会主義をもたらさなかった。コミューンは歴史が集めることのできたこの宣言を厳かに為しえなかった。しかし、コミューンを構成した人々によって、それがもう少し長く生き永らえてさえいれば、必ず起きたであろう諸問題によって。一方、共和主義的かつ急進主義的政策の脈絡はそのイメージを民衆化し、私が先ほど呼び覚ました大きな教義的テーマを前にして潜在的な位置を強化した。コミューンが72日間続いたことを忘れないようにしよう。それは歴史の中の閃光でしかなかった。全体的に見て、その反響が何であり、ヨーロッパにおいて組織された、あるいは組織されるべきすべての社会主義的状況によってどれほどに歓迎されたかについて諸君はご存じのはずだ。やがて生まれるフランスの社会主義的状況により、特に歓迎されたかについても。

 だからこそ、われわれはコミューンがそれを権力の座に就けた民衆の支持によって、それがパリから生まれたという事実そのものによって、閃光がパリで生じ、全世界にそのまま行きわたったという事実によって、コミューンは4度目のフランス革命であったと言いうるであろう。