J. ルージュリ著「1871年」(その4) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

J. ルージュリ著「1871年」(その4)

 

p.70  更新ないしは創造にアプローチしてもよい頃合いではないか、と私は思う。私は今までどのようにして、また、なぜ創造性を見ようとしなかったかを告白してきた。1871年にそれが真に実在したが、それは伝統的過去においてのみそうではなかったか? 新しく見えるものは実は継続ではなかったのか? 歴史においては継続そのものが創造的であるということは真実である! 極めて単純に私はこのひとつのアングルからこの問題にアプローチするであろう。コミューンは社会主義的であったのか、社会主義政府または少なくとも「労働者的」であったのか?

 まず諸事実を、幾つかの事実をもち出そう。われわれはそれを考慮し、つづいてそれを論じるよう。だれもが言っているように、コミューンはさまざまな社会的施策を講じてきた。それはむろん無視すべからざるものでも、また、本質的でもなく、人のいう「新しいタイプ」の権力からみれば、さして特徴的なものではなかった。たとえば、支払猶予問題、家賃問題(サンキュロットにとってすでに問題となっていた)質担保物件払い戻し(真実をいうと、これはけっして実際的に解決されなかった)を強く主張することは、私にはさして必要なこととは思われない。なぜなら、それらは(長い籠城生活という)状況が強いた事がらであるからだ。また同じように、重要度を減じることなく、私はヴァイヤン(Vaillant)による公教育に関する業績についてふれておきたい。来るべき第三共和政によって変質させられた業績になるであろうものの予告となった1892年と1893年の政治家たちの意図は社会問題の逃げ口上でしかない。私が注視したいのは、あらゆる記憶と社会主義の持参人である伝統をもつ社会主義、その時代の社会主義、1871年の社会主義である。社会主義および社会主義的傾向! J.デュボア(Dubois)によって作成された辞典を参照しよう。この時代の社会闘争の語彙によると、(社会主義は)「階級の」敵愾心より明確ではなく、漠然とし不確かであるように思われる。もっと頻繁に用いられる用語としての労働および労働者もまた、少なくても外見上はむしろ曖昧な意味あいと中身をもっている。p.71  その同意語ないし内包は窮乏(misère)、骨折り(labeur)、貧乏(pauvres)、落伍者(deschérité)、民衆(peuple)、召使い(serf)、市民(citoyen)である。その対語は金持ち(riches)、ブルジョア(bourgeois)、もっと明確にいえば、独占者(les monopoles)と特権者(privilèges)である。「特権者」、この古い語はつねに活力に満ちており、そして今や搾取者(les exploiteurs)と同義である。伝統的語彙と新語にもかかわらず、最も明瞭な対語は何かをつくりだし、価値を生みだす労働者と、彼を妨害する寄食者、怠慢者、無為徒食の輩ないしは何もすることがなく他人の汗でもって肥え太る者を意味する。人が絶えず行き当たる、他のあらゆる語とのあいだの対照である。労働(le travail)はすべてであり、至上価値をもつ。社会、政府、官僚、ブルジョアジー、雇主らは、「真実の所産」である者から、それぞれ幾ばくかを租税、徴税 ― プルードンのいわゆる「十分の一税」のかたちで ― 先取する。いずれにせよ、新語は盗奪である。マルクスのいう剰余価値までは到達していないけれども、そこに到達する道筋にあった。細民(menu peuple)や労働者(travailleurs)は彼が真に生みだすものから許しがたい先取の犠牲者であることを感じ取り自覚する。そうした考え方はけっして目新しくはないが、それはか決定的にかつ徐々に製造所または工場で、さらに「徒刑囚」と見なされる訓練と重なりあう。殊に衣料や靴製造のような古いメティエ ― そこでは企業家と仕立て工らが何らかの正当な理由もなく、彼らが働かせる者から搾取をしていたことは多くの証拠をもって明瞭である ― でますます活発となった。1871年4月末、私が以下の引用を借用するのは仕立て工からである。

 「仕立て工のグループは国民衛兵の衣料の労働を再開する。このグループは雇主の無用さを事実によって示し、婦人諸君に労働を直接的に提供するし、大砲が少しばかり沈黙するならば、コミューンはわれわれを待たせないであろう。」

 雇主の無用さ――これこそしだいに多くの労働者が今や確信するにいたった観念であり、仕立て工がはっきり明言するように、雇主は「彼らの汗を流させる」ために存在する。これは長い歴史において取って代わるべき考え方である。

 第二帝政の末期は、1848年~1851年の経験から再生した労働結社の強度の再生を許さねばならなかった。人はそれをすでに組合と呼んでいた。p.72 体制の崩壊の前提として私はパリでおよそ結社が100件に上ると見ている。それらは不穏な結社であり、社会の転覆を目論んでおあり、直接的利害や一時的な改革だけを狙ったのではない。少なくともそのうち20社がAITの支部であり、60社が労働結社連合(Chambre fédérale des Sociétes ouvrières)に属した。これは誕生し、または再生したパリのサンディカリスムである。これらの労働者組織の目的 ― それ自身が定義しようが、あるいはAITに属しようが ― はむろん第一に「抵抗」であり、賃金の防御であり、適切な賃金表の要求であった。減じることのできない生活権、そのすぐあとにもっと野心的な計画が来る。

 「労働組合は」とマルクスは言う。「社会主義の学校である。労働者が自ら啓蒙し、社会主義者となるのは組合においてである。なぜなら、毎日がその眼前での資本との格闘であるからだ。・・・ 多数の労働者は物質的状況を改良せねばならないと理解するにいたる。ところで、一たび労働者の物質的状況が改善されるやいなや、彼は子弟に教育を施すことができるようになり、そして、妻子はもはや工場に行く必要がなくなり、彼自身が教養を深めることができるようになる。・・・ 彼はそれでまちがいなく社会主義者になる。」

 E.ヴァルラン(Varlin)も同様な考え方をもち、明らかに当時のインターナショナルのミリタンの中で最良の考え方をしていた。彼はコミューン期に命がけでその社会主義的事業のために力を注いだ。

 「同業組合結社は … われわれの奨励、われわれの共感に値する。なぜなら、未来の社会的構築物の自然的要素を形づくるのはこれらであるからだ。生産者組合に容易に姿を転じることができるのもこれらである。社会的道具と生産組織を履行できるのもこれらである。・・・」

p.73  1869年、バーゼルのAIT会議に派遣されたフランス代表パンディ(Pindy)はもっと先を行く。

 「町ごとに異なった組合のグループは未来のコミューンを形づくる。・・・ 政府は集まった同業組合(corps de métiers)に、そして、それぞれの代表委員会に取って代わられる。この委員会は政策に取って代わるところの労働関係を定める。」

 したがって、「コミューン」が宣言された。作られたコミューンは次のような意味あいにまで達しているだろうか? 要するに、その後に「事物の行政」の段階に移行するための「生産手段の組合化」の意味あいにまで!

 不幸にして帝政の追及と、そしてそれ以上に1870年の籠城生活は労働者組織を破壊した。幾つかの活動を表明した「組合委員会Chambres syndicales」のうち、10委員会が、多く見ても20委員会ぐらいしか残らなかった。コミューンは労働者、つまり労働・交換委員会を結成し、それは専らフランケル(Frankel)の指導下におけるインターナショナルのミリタンで占められ、積極的な活動を展開した。陸軍省の古文書部は十分な資料を保存しており、その活動の中身が判る。同委員会はまず第一に、町の生命をもとどおりに戻すという取るに足りない業務のために尽力し、そこからすぐさま固有の意味での労働問題に辿り着いた。労働の再開を容易にするために、そしてよく言われたことだが、雇用主と労働者のあいだを「平等化」するために、各区役所で雇用の求人と求職を集める一種の労働取引所の開設が保証された。やがて固有の意味での労働者的要求が溢れるようになった。最も本質的なことはこうだ。コミューンは特恵的・排他的に自由にしうる労働力を(その大部分が組合委員会に依存する)生産の労働組合にを与えるのだ。これこそ、製本業者、仕立て工、靴製造人、獣脂精製工、皮革業者が要求したものである。これはもはやまさしく労働の組織化である。仕立て工と靴製造人は既製品とか仲買業者なしで営業できるものと思った。そこで、同委員会は、全体的社会改造のための労働者的提案が下からなされたと受け止めた。ここでは彫刻家ブリムール(Brismeur)の計画の主だったものを挙げておこう。

 「・・・インターナショナルをパリに確立する必要があろう。必要不可欠の、そして最も数の多い一、二の組合(corporations)がひとたび設立されれば、なすべきすべての労働を独り占めにするだろう。・・・ この一ないしは二の組合は有益に働き、かつ機能するし、その労働の所産から他の組合を設立するのに役立つ10~15%の額を容易に先取することができるだろう。p.74  ・・・ 前者の行政はすべての組合が次から次へと設立されていく模範として、そして手段として役立つし、ひとたび、われわれが雇用制度の特殊なあらゆる搾取を廃止し、またわれわれ自身が労働の主人となるなら、われわれは容易に商業と資本をわれわれの法律に従わせることができるだろう。・・・」

じっさい、一つないしは複数の職種に一つないしは複数の労働組合が設立されるためには、コミューンが明瞭にそこに存在している必要があり、信用または資本の出発点があるだけで十分である。労働者自身によってその収益の全部が全部、「無用な」雇主による先取という干渉を蒙ることなく労働者に帰属するゆえに、うまく機能すれば、そうした労働組合は資本主義のままに残った企業と決定的な競争するにいたったであろうし、伝播によって拡がることにより、資本主義企業を徐々に麻痺させてしまうであろう。… 私は少なくとも委員会が参考のために仕事を与えた10の組合を調査したが、運動が継続したことに違いはなかった。

 ここに深刻な論点が、しかも重要な論点がある。女子労働力の組織化、それは古来の問題であり、常に焦眉の問題でもあった。婦女子は19世紀のパリにおいて最も恵まれない労働力であった。委員会はこれのために多くの仕事をなし、計画を立案したが、特にインターナショナルにおいて1870年に「反権威主義的」になろうとしたように、その実現はやがて婦人自体にあずけられることとなった。

 「E.ディミトリエフ(Dimitrieff)によって結成され指揮された組織としての婦人同盟は労働・交換委員会によって協同組合的アトリエ工の組織化のための予備的研究を担当した。・・・」

 ここにおいてひとつの社会主義的治績が見られる。最初の婦人協同組合的・連盟的アトリエが日の目を見たことはありうることであろう。しかし、それをきっぱり断言することは難しい。時間が不足したのだ。

 私の見立てでは、組合委員会(Chambres Syndicales)が放棄工場を接収し、「そこで雇用されていた労働者を協同組合として組織して … 迅速に経営再建を予測させることになった4月16日のコミューン法令の問題が最後に、しかも特に残っている。多くの者がこの法令を取るに足りないものと判断した。それ以来、この法令が労働組織の真只中で起こした抗しがたい熱狂をどのように正当化すべきか?

p.75  まず、仕立て工について。

 … これより有利な機会は今まで労働階級に対し与えられたことはなかった。棄権は労働の解放の本義を裏切ることになろう。

 機械工。

 … われわれ労働者にとって決定的に自立し、そして、遂に最近われわれが懸命かつ辛抱強く研究してきた事がらを実行するための絶対的な機会の一つがこれである。

 宝石細工人。

 その時まで知られていない活力をもって社会主義的とはっきりとした事実となるとき、高度な搾取と資本の影響を蒙ってきた一つの職業の労働者としてのわれわれが真正にして真に自由な政体のもとに現れる解放運動に無感動にとどまることはできない。… マルクスの賛辞をどう正当化すべきか?

 … 然り、諸君! コミューンは大多数の労働から小さいものから富をつくるこの階級の所有権を廃棄することを欲した。… 協同的生産がたとえ、見せかけや罠であったにちがいないにせよ、また、それが資本主義に取って代わるべきものであったにせよ、統合された協同組合が一つの共通点にもとづいて国民的生産を統御 ― その固有のコントロールにより資本主義生産の宿命の恒常的無政府性と周期的な痙攣に終止符を打つことにより ― すべきものであっても、諸君! これは共産主義、しごく「可能な」共産主義でないとしたら、いったい何であろうか?…

 マルクスが潤色し普遍化しているのはありうることだ。4月16日、法令が労働者にとって彼らの労働手段の返却の手始めであったことと、それを究極的目標たる生産手段の漸進的かつ平和的「組合化」の過程における一つの主要な治績として入れる必要のあることについて、私は少なからず信じるものである。組合委員会 ― 機会に恵まれれば新たなものも誕生したであろうことは ― が存続したということは、5月に席を占める労働調査組織委員会(Commission d’Enquête et d’Organisation du Travail)が急遽、組織される理由となった。派遣委員に与えられた付託事項は次のとおり。

 「奴隷制の最後の形態としての人間の人間による搾取の廃止。集合的かつ譲渡すべからざる資本での連帯責任をもつ組合による労働の組織化。」

 またもや、時間が足りなかった。10個の組合は放棄工場の調査の業務と、生産の組合化にもとづく営業とを企図した。しかし、調査、組織委員会が最終的に結成され、それが法規を与えた会議は5月18日となる! 没収され、現に実行に移されたのはたった一つの工場のみである、と私は跡づける。

p.76  以上が1871年の社会主義者の小さな治績である。しかし、その意図は広大無辺であった。革新! 私がそれを見るのは確かにそこにおいてである。にもかかわらず、人が1848年の労働者の創造的意図にどのように近接し、それからどのようにして遠ざかったかを確認しておこう。私が先ほど提起した自由人協会の宣言との距離はさほど大きくない。根底においてサンキュロットの議論は1871年の労働者のそれとほとんど同一であった。つまり、工場は企業家や仲買人なしによく機能し、より多くの利潤を挙げえたであろう。しかしながら、付加されたサンディカリスムも存在する。このサンディカリスムは1848年に最初の一歩を標し、徐々にその地歩を固めていく。伝統と創造はこのようにして交錯しあい、互いに結びあっているため、それらを分離するような遊びについて私はもはやしたくない。私は歴史は漸進的継続であるという平凡さのみを与えたい。

 私はここで国家について語らねばならない。新しい国家 ― 少なくとも1871年の労働者がそのコミューンをそれにちがいないと考えたり想像したりはしなかった ― 再生の行為、社会革命、社会主義革命の、もっと正確にいえば、おそらくこの種の非国家の行為についてはその問題は他人の判断に任そう。しかし、私は以下のことを思い浮かべる。状況が悪化したとき、公安委員会ないしは独裁の形態にもかかわらず、それらは自由にしてまったく人民主権的な政府であり、ひとつの組織 ― 敢えていえば、「絶対自由主義的な組織」― であり、これこそ1871年のコミューンが望んだものであった。周知のように、思想は社会主義運動における始原となった。この「絶対自由主義的」という用語を用いることにより、これが遡及性ある歴史を声高に肯定したことを拒絶することによって不当に打ち消すことになるだろうか。そうではない! このような遡及性、それは1871年に存在するのだ。コミュヌーは当時、直接的に自発的にサンキュロットの言葉を再生させた。これらの用語、これらの思想を体系化することが問題なのか? あるいは来るべき真の政府の新しい公式を発明することなのか? プルードンの最新の業績を実行に移すことを主張する革命家たち(特にジャーナリストたち)は確実に存在した。彼らの高尚な計画について私はインターナショナルの無名のメンバーであったガストン・リュフィエ(Gaston Ruffier)の計画がより重要で高い人気を博したと思う。それは『政治的・社会的革命』に掲載された。彼が樹立しようと願い、p.77  そして確かに首尾一貫した新しい制度は、彼が援用するところのプルードンではなくて、ルソーの『社会契約論』である。「或る国民の代表に被れるとき、もはや彼は自由ではなく自分を見失う。」コミューンの集散主義はこの根本問題に有用な解決をもたらすであろう。民主主義政体は「極小国家または人々が終結するのに容易な場合にのみ」可能なのか?

 「グループまたは共同体での集散主義の分配は完璧にこの目的で満足する。コミューンは …特殊な法律を離れて享受し、根本的な契約に従う国家を形づくるであろう。」

 労働者政府の「最後に発見された形態」(それは何度も発見されてきたが)は人民に由来し、人民の身近にある者、それは彼らがその源を探しに出かける、偉大にして遠い先祖の処にある。私はもう一つの論争に着手しつつ、伝統と刷新は分かちがたく結びついており、分離しがたく混淆していることを結論としたい。